ひとつの感想――アスペクト変換が生じる可能性 (original) (raw)

以下、ひとりの兵庫県人として、今回の選挙の感想をいくつか述べておきたい。今回も牛の涎のように幾分かダラダラ書く。

本題へ進む前に私と兵庫県の関係にふれておこう。私は神戸育ちである。具体的には垂水区育ちであって、一九七八年生まれなので、斎藤元彦氏とはけっこう近い環境で生きていた(きた)ことになる。その後、三田市に住んだこともあり、あるいは親戚が丹波篠山市にいたり、といった具合に、兵庫県のあり方について少しは「知っている」ほうだと思う。ただしそれについてたくさん知っていたり、詳しく知っていたりするわけではない。むしろ正確に言えば、兵庫という土地に生き、同じように生きているひとといわば〈はだ感覚〉のような何かを共有している、という具合だ。それゆえ以下の議論も多分に感覚的である。

さて、今回の選挙で斎藤陣営がインターネットを活用した運動を行ない始めたころ、私は次のように感じた。《ここは田舎の多い兵庫県であるので、都市部で威力を発揮するネット戦略は無力なのではないか》――結果はそうではなかった。今回の選挙で私が学んだことのひとつは《田舎の選挙であってもインターネットを活用した運動は効果をもつ》ということだ。この告白にたいして「え?! いまさら知ったの?!」と馬鹿にするひとは、ひとを馬鹿にしているつもりで、おそらくは自分のほうが間違いに陥っている。ポイントは《何を根拠に判断するか》である。一般に世界にかんする事実は経験にもとづいて判断される。そして問題の命題をサポートする経験は今回得られたものだ。経験はときに〈かつては憶断であったもの〉を〈根拠のある知識〉に変える。そのさい、根拠が得られる前に「知っている」と嘯いていたひとが、根拠が得られた後に「前から知っていた」ことになる、ということはない。むしろたんに《根拠の無い段階でそう思い込んでいた》と言えるに過ぎない。この点に鑑みれば、今回の選挙はひとつの壮大な実験であった、と言えるかもしれない。

ここで斎藤陣営とインターネットの関係について若干の補足。前段落で《斎藤陣営の選挙運動=ネット戦略》を前提したような議論を行なったが、この前提は根拠のないことではない。じっさい、今回の選挙において斎藤元彦氏はいわゆる「四面楚歌」の状態であって、行なえることは主に〈ネットを駆使して有権者に呼びかけること〉であった(すなわち例えば政党経由の組織票を望める状態になかった)。いまだに「よくもまあこんな状態で勝てたものだ」と感じるので、今回の選挙はその点においても興味深い。

さて、今回の選挙では斎藤元彦氏が勝ったのだが、このことは次のことを意味しうる。それは、兵庫県有権者のうちの相当数が《議会の不信任によって失職した斎藤元彦氏は決して知事として不適格な人物ではなく、むしろ(他の候補者と比して)継続して知事を担うにふさわしい》と考えた、ということだ。ここで問題は《なぜそんなふうに考えうるか》である。以下、これに関連する事柄について考えてみたい。

私は、私の知っていることおよび私が関心を向けることに従って、《斎藤元彦氏は継続して知事を担うにふさわしくない》と考えている。他方で、私の知っていることとは違ったことを知っていたり、あるいは私が関心を向けることと違ったことに関心を向けたりするひとは《斎藤元彦氏は継続して知事を担うにふさわしい》と考えうるだろう。一部のひとは自分の投票行動を「正しい」と見なすが、この態度は行き過ぎれば偏狭な世界観に至る。とりわけ現在は選挙が終わった後なので〈俯瞰して理解する〉という姿勢こそが重要である。

――以上が前置きだ。いささか理屈っぽく書いたのは、理屈っぽい文章を読めるひとだけに読んでほしいからである。そして《なぜ私が今回このノートを書いたのか》の理由は、ここまでのウダウダした箇所を人目にさらしたいからではなく、以下の感想的な指摘を行ないたいからである。

さて本題へ進もう。

私にとっての疑問は《なぜ多くのひとが斎藤元彦氏は悪くないというストーリーを信じるに至ったか》である。ただちに必要な注意を加えれば(少し前に述べたことと関連するが)ひとによってはこの疑問は生じないだろうし、場合によっては《この疑問は的外れだ》と感じられるだろう。私はそう感じるひとが必ずしも間違っているとは考えない。いずれにせよ、今回の選挙の結果を受けて、私の知っていることと私が関心を向けることに従って生じてきた疑問は《なぜ多くのひとが斎藤元彦氏は悪くないというストーリーを信じるに至ったか》である。

私の答えは次だ。今回の選挙戦で斎藤元彦氏は自分の方が「被害者」だという物語の共有に成功した。斎藤元彦氏を応援する有権者の多くは《不信任で失職させられた斎藤元彦氏こそが被害を受けた側だ》と考えている(もちろんそれ以外もいるが、どちらかと言えば例外的だと思う)。とはいえなぜそう考えるに至ったのか。その理由は、斎藤氏以外の「被害者」の存在のリアリティが希薄だからだ。

有権者の多くは――私も同様だが――県民局長のことを知らない。そして斎藤元彦氏に(百条委員会で彼自身が述べていたことだが)強い言葉を投げかけられた職員のことを知らない。知っているのは〈多くのひとから袋叩きにあう斎藤元彦氏の姿〉である。連日のニュースであらゆる方角から責められるのをひたすら耐える斎藤元彦氏の姿。彼を非難する根拠の方は視聴者の目にははっきりと見えず(すなわち県民局長や職員の苦しむ姿は可視化されていない)、その一方で斎藤元彦氏の「受難」は圧倒的なリアリティをもってひとびとの前にさらされた。これはアスペクト変換が生じる可能性のある非対称性だ。すなわち、一定のストーリーの付加によって、物事の意味づけが大きく変わりうる状況である、ということ。

この状況は斎藤元彦氏にとってまさに起死回生のチャンスであった。そして彼はこの状況をうまく活用し――そして「援軍」と呼べばいいのか何だか分からないが、そういった何かの力を借りて――《自分こそが被害者だ》というイメージを多くのひとと共有するのに成功した。ここから得られる教訓は、「ひとが死んでいる」という言葉はときに、可視化された〈袋叩きにあう人間〉の姿のリアリティに負ける、ということだ。兵庫県有権者のうちの少なからぬひとびとが悔し涙を流す斎藤元彦氏の姿に自身を重ね、「見捨てるわけにはいかぬ」と感じて票を投じた。苦しめられているひとを救うために、である。

かくして私は決して「メディアの敗北」という大雑把な表現を好む者ではないが、斎藤元彦氏をめぐるメディアのあり方にも問題がなかったわけではないと考えている。じっさい――別方向のありうる事態を挙げれば――加害者のほうを不可視にしたまま被害者の訴えばかりを映像化するさい、ひとによっては被害者のほうを〈攻撃者〉と表象するに至るだろう。押さえるべきは、一方的な〈さらし方〉はアスペクト変換のリスクを招来する、という点だ。

以上が私にとっての疑問にたいする私の答えの出し方である。今回の選挙にかんしてはその他の疑問を抱くひとがいるだろうが、そうしたひとは自分で考えて自分で答えを出されたい。知っていることと関心のあり方によって取り組むべき課題は変わる。