宣教って何なのか ド・ロ神父の生涯に考えさせられる (original) (raw)
台風21号の接近で、福岡は昨日から大雨に見舞われています。
特に今日の未明は滝のような雨で、4年前の人吉の大水害の時とそっくりの雨音のせいで眠れませんでした。
雨はようやく昼頃に止みましたが、24時間雨量は200ミリを大きく超えました。11月としては観測史上最大とのことです。
そもそも、11月に台風が来ること自体が考えられないのですが…
さて先月は所用で長崎に行ったついでに、一日かけて外海地区を見てきました。長崎市の中心部から車で1時間ほど行ったところです。
外海地区
外海はかつてキリシタン大名だった大村氏の所領で、陸路からは行けない辺境の地でした。
キリシタン禁制後、大村氏がカトリック信仰を捨ててキリシタンの領民への迫害を始め、多くの信徒が外海に逃れました。この結果、外海は潜伏キリシタンの中心地となりました。
一昨年、五島に現地の教会や潜伏キリシタンの遺構を見に行きましたが、離島である五島の潜伏キリシタン自体が、新天地を求めて移住した外海の人々の子孫です。
遠藤周作の有名な小説『沈黙』では、この外海を舞台に、捕らえられたキリシタンの命を救うため、葛藤の末に踏絵を踏んだ外国人宣教師が主人公になっています。
開国後の1864年暮れ、長崎に大浦天主堂が建立され、カトリック・パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師らによる日本での活動が本格化しました。
日本宣教団の代表だったプティジャン司教が、印刷技術を持つ宣教師を求め、それに応じて1868年に来日したのがマルク・マリー・ド・ロ神父(1840-1914)です。
ちなみに日本正教会の創設者・ニコライ大主教は生年が1836年、来日が1861年、没年が1912年ですので、二人は日本でほぼ全く同時代を生きたことになります。
晩年のド・ロ神父(1840-1914)
大浦天主堂付の司祭となったド・ロ神父は、日本初の石版印刷の事業を始め、日本語訳の要理書や祈祷書などを次々と出版しました。
彼には建築設計の技術もあり、1875年に天主堂の隣に神学校の校舎を建てました。これは現在も「キリシタン博物館」として現存しています。
ド・ロ神父設計の旧羅典神学校(現キリシタン博物館・重要文化財)
1878年、ド・ロ神父は潜伏キリシタンの地である外海での司牧を命じられて赴任。出津集落で村人と共に生活し、自らの設計で聖堂を建立しました。
素朴ながら堅牢な造りで、内装もなかなか立派です。
出津はとても小さい集落ですが、案内の信徒の方に伺うと、教会には今でも司祭が常駐して毎週末にミサが行われており、コンスタントに100人以上参祷者がいるそうです。こちらは都会の福岡でやっているのに、最高でも30人しか人が来たことがなくて…まだまだ頑張らなくてはなりません。
カトリック出津教会(1882年建立)
1893年には隣の大野集落に、自らの手で聖堂を建てています。
これは石を積み上げて、セメントの代わりに砂と漆喰を練り合わせて接着した独自の工法で造られており、地元では「ドロさま壁」と呼ばれています。
聖堂は一見、粗末な小屋のように見え、また海からの強風に吹きさらされる場所にあるにもかかわらず、130年も壊れずに建っているのに驚きました。
こちらでは年に一回、教会の記念日である「ロザリオの聖母の日」(10月7日)に出津から司祭が巡回してミサが行われているとのこと。所属信徒は7世帯11人しかいませんが、普段は毎週出津教会に通っているそうです。
ここの信者さんも皆さん毎週教会に行ってらっしゃるんですね…と、また一層こちらも頑張らねばと思わされました。
独自の工法「ドロさま壁」
しかし、神父が赴任先で聖堂を建てただけでは、ただの当たり前な話です。
ド・ロ神父が偉大なのは、外海の人々の生活支援を実行したことです。
キリシタンが潜伏していた僻地だけあって、外海は稲作ができない貧しい土地でした。人々は芋を栽培して食べ、海で魚を捕って細々と生活していました。
しかし海難事故で死ぬ漁師が多く、男手を失ってさらに生活が困窮している女性たちがたくさんいたのです。
ド・ロ神父はその実態を見て、そういう女性たちが自力で生活できるような場を造ることを考えました。
彼は米よりも水が少なくて済む小麦の栽培を指導し、さらにフランスから製麺機を取り寄せて、採れた小麦を原料にしたマカロニと素麺の生産を始めました。
また、さらにフランスからメリヤスの織機も取り寄せ、日本ではまだ作られていなかったニット製品の生産も始めました。
そして、身寄りのない女性たちにこれらの製造作業を仕事として提供したのです。
出津集落の「救助院」は、その作業場として造られたものです。
出津救助院(素麺と織物の作業場)
また仕事と育児の両立をサポートするため、イワシ漁の網工場として1885年に建てた建物を託児所に転用しました。これは日本初の保育所といわれています。
この建物は現在、「ド・ロ神父記念館」になっています。修復されて綺麗になっていますが、内部の柱や床は当時のままだそうです。
ド・ロ神父が来た当時の外海の人々は、第一次産業しか知らなかった訳ですが、それでは農作物や捕った魚を食べるだけがやっとであり、しかも働き手が死んでいなくなるとただでさえ貧しい生活がさらに苦しくなるという悪循環の繰り返しだったのです。
ド・ロ神父はそこに初めて「手工業」という概念をもらたし、しかも「小麦製品」「ニット織物」という他所にない「売れる付加価値」のあるものを紹介しました。
さらに、生活に苦しむ女性たちに「働く場」を提供することで、彼女たちがただ食べるだけではなく、生産品を販売することで安定的に現金収入を得られる「生活支援のシステム」を構築したのです。つまり「新規事業と雇用の創出」です。
単にどこかから義援金を募って現地にばら撒くだけでは、貰った側がそのお金を使い果たしてしまえば元の木阿弥です。それに対して、ちゃんと当事者自らが働いて生活を再建できるような仕組みを作ったことが、ド・ロ神父のすごいところです。
彼はただの宗教者にとどまらず、印刷技術者であり建築家であり農業技術者であり、さらには経営者としてあまりにも卓越しています。
ちなみに上記の素麺は、ド・ロ神父がパスタをモデルに開発したもので、今でも「ドロさまそうめん」というネーミングで現地の道の駅で販売されています。
私たちは宣教について「教えを伝える」「お祈りをする」ことだけに甘んじて、いかにも頑張っているような「気持ち」に自己満足していないか、そして教えを聴く側に教えを聴けるだけの「余裕」があるかどうかの配慮はできているのか等々、本当に考えさせられることばかりでした。
1910年、ド・ロ神父は大浦天主堂の隣に大司教館を建設するため、長崎に赴いてプロジェクトに従事しました。
しかし、竣工目前の1914年11月7日、ド・ロ神父は前日に建設現場の足場から転落したことがもとで永眠しました。
74歳になっても、しかも大工でなく神父である彼が工事現場の足場に立って率先して働く…最後まで現役を貫いたのです。
ド・ロ神父の「最後の建築作品」である旧長崎大司教館は、前述の旧羅典神学校とともに、大浦天主堂のキリシタン博物館として今も現存しています。
旧長崎大司教館(1915年竣工)
ド・ロ神父のようなマルチな才能を私は持ち合わせていませんが、彼の生涯に学んで自分自身の宣教を考えていきたいと思っています。