2024/05/31 (original) (raw)
⚫︎YouTubeでたまたま見つけてしまった、BS漫画夜話の吾妻ひでお『不条理日記』の回をぼんやりとみていて、ああ、松本人志って吾妻ひでおなんだな、と思った。
BSマンガ夜話 第14弾(2000年05月01日~04日放送分)第03夜 「不条理日記」 吾妻ひでお - YouTube
くるむへとろじゃんの「へろ」など、語感まで含め、まさに松本人志的だ。吾妻ひでお的な感覚をメジャーにまで押し上げたのが松本人志ということではないか。とはいえ、おそらく松本人志は文化的な教養に興味のない素朴な人だと思うので、吾妻ひでおを読んでいるとは思えないから、これは影響関係ということではなく、資質が近似しているということなだろう。
(80年代の吾妻ひでおから90年代のダウンタウンには、連続する何ものか、とても近い質感を持った空虚のようなものがあるように思う。)
吾妻ひでおが、メジャーな少年誌から、マイナーなSF雑誌やエロ本に発表媒体を移して始めた不条理系のギャグ漫画は、革命的な発明だったと思うけど、吾妻ひでおは、不条理であることの空虚に耐えられなくなって、(失踪を繰り返したり、アルコール依存になったりで)仕事を持続的に行うことができなくなって、自分が発明したものを十分には展開させられなかったように思う。だが松本人志は、なぜか空虚に耐えることができるようで、空虚の上に空虚を、さらに二重、三重と重ねることができて、不条理を展開させ、かなりすごいものを作り出した。
(吾妻ひでおと違って、松本人志には浜田雅功をはじめ、芸人仲間がチームとしてあったことは大きいかもしれない。)
(もう一面で、松本人志には坂上二郎に通じるものがあると思われる。萩本欽一・浜田雅功から、圧をかけられ、キリキリと追い立てられ、逃げ場がないところまで詰められたところで、坂上二郎・松本人志に、ぽーんと高く飛んでいく驚くべき飛躍が訪れる。この時、追い込んでくれる他者の存在は大きい。)
(だから、浜田雅功がいないところで、自分一人で自分のセンスを追求しようとするとつまらなくなる。)
とはいえ、「松本人志の現状」を考えると、「空虚」は結局は人を蝕んでしまうということかもしれない。
(不条理が、自分自身が抱え込んでいる「空虚」に飲み込まれないためのやり方の一つとして、脱民俗化された民俗的想像力をまぶすというものがあると思う。それは「根」から切り離されているが、かつては根があったという空気を微かに纏っていることで、条理に流れることなく、ギリギリ空虚を逃れる。具体的には吉田戦車の作品から受ける民話的な手触りのことを思い浮かべているが、この感じは松本人志にも多少はある。)
⚫︎言い方は良くないかもしれないが、松本人志の、追い詰められた末に爆発する天才的なボケは、知識や教養の貧しさからきているように思われる。教養のある人ならば、常識的でありきたりな通路を通るところを(あるいは「あえて」非常識なルートを狙うところを)、教養が貧しいからこそ、経路に多くの「穴」があり、(追い詰められた時)常識的理路を一挙に飛び越すような、奇跡的な短絡的接続が可能になるのではないか。シュールというのは、つまりはそういうことなのだと思う(豊かなアーカイブから供給される狙ったシュールではなく、貧しい素材のなかでの、のるかそるかのシュールだ)。これは「貧しさ」ゆえの力であり、そこがダウンタウンのかっこよさだったと思う。タモリもたけしも結局はインテリだが(初期のビートたけしはタモリのインテリ性をけっこう激しくディスっていたが、実はたけしもインテリだ)、ダウンタウンは本物の貧しい野犬から始まった。
だけど、そこが強みであると同時に弱味でもあり、その「センス」は勉強で事後的に補強はできない。たけしが映画を作る時、映画をたくさん観て勉強したが、松本は映画をまったく知らないままで映画を作ろうとすると批判する人がいるが、松本人志の才能は勉強によって補完・補強できるものではないく(むしろ補完することで鈍ってしまう)、自分の身一つを晒して勝負するしかないもので、それを言っても仕方がないと思う。(悪い言い方だが)頭もガラも悪い不良だからこその切れ味だった。ただ、だからこそ、歳をとると(そして偉くなって権力を持つほどに)だんだん辛くなってくる。鋭さが減って、もともと潜在していたネガティブなものの方ばかりが目立ってきてしまう。そして、そのことに対する自己批判(自己吟味)が驚くほどない。
(ここでは松本人志の作家としての資質のみを問題としている。実際には、吉本の権力への擦り寄りや大崎洋、岡本昭彦との関係など、事態の内実はもっと複雑だろう。)