『三国志』再び 横山光輝 三十巻 (original) (raw)
周瑜、超絶美形なのにあまりにも気の毒で。ほんとなぜ孔明と同じ時期に生まれてしまったの。
という感じで戻ってきました、『三国志』の旅続けましょう。
ネタバレしますのでご注意を。
さて孔明は赤壁の戦いで孤軍奮闘じゃないな、ひとりであっさり呉軍を引っ搔き回し周瑜を騙くらかして颯爽と劉備が待つ船に乗って呉を離れる。
孔明のこういう言い方が意地悪なのだ。褒めつつバカにしてるんだな。(大好き)
周瑜も陸路を取る。
しかしそこに現れたのは関羽だった。さらに黄忠、魏延が登場(魏延が出てくるたび胸が痛む。ここでやつがいなくなっていたら・・・たらればはなし)
たまらず周瑜は船に戻って逃げる。
しかし呉軍は痛めつけられ立ち上がることはできなかった。
周瑜は悔しさに喀血する。
船は呉に戻るしかなかった。
これを聞いた孫権は怒り玄徳討伐を叫ぶが諫められ逆に玄徳が荊州の太守に任じられるよう朝廷に表文をささげるよう進言される。
この役目には曹操から信用のある華歆が選ばれた。
その頃曹操は銅雀台を造り上げ連日祝賀の大宴会を催していた。
庄たちは武芸を競い文官たちは銅雀台を讃える詩を読み上げた。
曹操もまた負けじと詩を詠む。
そこに玄徳が孫権の妹を娶りその引き出物として荊州九郡が贈られたという報告を受ける。
曹操は持っていた筆を取り落とすほどの衝撃を受ける。程昱はこれを訝しんだ。
程昱は玄徳と孫権の仲を裂く策を提言した。
孫権の思惑を計り呉の大黒柱周瑜を劉備の土地である南郡の太守に任命すればふたりは前に増して憎しみあい戦うでしょう。
曹操は銅雀台の宴会も半ばにして都へと戻った。
この策は実行された。周瑜は喜ぶが朝廷と孫権の板挟みとなってしまったことを孫権に上告する。
魯粛さんに同情する。
孔明は玄徳に魯粛の前で声をあげて泣き出してくださいと申し上げる。
玄徳は言われた通り「ううう」と泣きだす。(玄徳、孔明と付き合いだしてからかなり変な人になっていく)
孔明は「蜀の劉璋も我が君と同族。攻め入るのは倫理にもとる。かといって荊州を返せば身を置く国はない。その苦しみをお察しください」と説明した。
それは「同族との戦いに抵抗のある玄徳の代わりに呉軍が蜀を奪ってあげる」というものだった。
そして「そろそろ周瑜とも決着をつける頃でございましょう」として趙雲を呼ぶ。
が、出迎えるはずの玄徳の姿は見えず城に趙雲を先頭に矢をつがえた兵士たちがならんでいるのみだった。
趙雲は「道を借りて草を枯らす」と周瑜の策は見破られたと言って周瑜軍を追い払う。
さらに玄徳軍が四方から迫ってくると報じられた。
輿で運ばれ船へ戻る。
薬湯を飲んだ周瑜は届いた孔明からの手紙を読み孔明が全てお見通しだったと悟る。
周瑜はふたたび激しく血を吐き死ぬ。三十六歳だった。
星を見て周瑜の死を知った孔明は玄徳にお悔やみに行きたいと申し出る。そこで賢者を見つけたいと言うのだ。
孔明は趙雲を護衛として引き連れた。(孔明、警護は趙雲だな。最も信頼してる)
呉の人々は偉大なる指揮官・周瑜の死を悼み悲しんでいた。そこへ仇とも思える孔明が弔問に来たと聞き怒る。
孔明は周瑜の霊前でお悔やみを述べる。それは周瑜の才能を褒め称えその名が長く残ることを伝える。これ以上の友はいないとまでも。
(「レッドクリフ」はここからきてるのかな)
これを聞いた将たちは今までの孔明への怒りを忘れむしろ周瑜の方がおかしかったのではとさえ考えたのだった。
魯粛は孔明に礼を述べ「おくつろぎくだされ」と勧めたが孔明はこれを辞して退出した。
帰途突如奇妙な男が登場し刃物を孔明に向ける。
孔明は天文で見た将星は彼であったかと玄徳に仕えぬかと勧める。
そして一筆したためて龐統に渡した。
孔明の予言はここでも当たる。
魯粛の勧めで龐統と会った孫権だが問答に失望して魯粛に「余はあんな男はいらん」とにべもなく断った。孫権は賢者を使い切れなかったのだ。
とはいえ一方の玄徳も孔明不在の時に訪れた龐統のさえない風貌を見て失望し田舎の県令においやってしまう。(それって昔自分が追いやられたやつ)
まあ少しだけましかもしれないが孔明が戻ってこなければどうなっていたのやら。
龐統は退屈な田舎暮らしで酒ばかり飲んでいた。
噂を聞いて怒った玄徳は張飛を使いにやる。
張飛もその自堕落ぶりに怒るが翌日に行った明快な裁きを見てすっかり感心してしまう。
山のように積まれていた訴訟が一日で片付いてしまったのだ。張飛は恐れ入って龐統に平伏した。(張飛のこのこだわりのなさがすてきだよ)
玄徳は張飛の報告を聞きさらに孔明から渡されたという書状を見て驚き後悔した。そこへ孔明が戻ってくる。
玄徳の気まずそうな顔。どっちが年上かわからない。
龐統は早速呼び戻されて副軍師中郎将に任じられた。総軍の司令を兼ね軍師孔明の片腕にもなる重職についたのだ。
これは曹操にとって痛手だった。玄徳の力がさらに一層強まったのだ。
ここで曹操は側近と話し合いまずは呉を討たんとした。
が、そのためには不安要素である西涼の馬騰に孫権討伐を命じて都へおびき寄せひそかに亡き者とすることで憂いをなくして南征軍を出す、と考える。
西涼の武将は多分に蒙古族の血を交え凶猛で弓槍馬技に長じていた。
馬騰はその昔は玄徳と共に曹操を討とうとしていた人間だった。玄徳が荊州を手に入れたと聞いて昔の志を果たそうと思っていたのだ。
そこへこの勅命がきた。
馬騰は長男馬超を西涼の守りとして残し次男三男と甥の馬岱を連れて都へ向かうことにした。
しかし馬騰はここで策謀に会い打ち首となってしまう。
後陣を務めていた馬岱だけが危機を斬りぬけ西涼へと逃げ戻ったのだ。
(あの馬岱が・・・よくぞ無事で)
後々の物語を知ってから読むといろいろ泣ける。