『三国志』再び 横山光輝 四十巻 (original) (raw)

私は壮年期曹操も大好きです。

ネタバレしますのでご注意を。

冒頭は表紙の曹操どおりの絶体絶命曹操が描かれる。どこへ逃げても蜀軍が迫ってくる。ついに五万の大群が見えた時に「余の運命もこれまでか」となった曹操だったがそれが次男坊曹彰だと気づき安堵した。

だがその曹彰の登場が却って蜀軍に火をつけ曹操はいっそう危機に陥っていく。

そこで描かれるのが「鶏肋」事件である。

曹操の夕食に「鶏肋」=鳥のあばら骨が入っていた。鶏肋には食べようとしても肉はない。しかし捨てるには味がある。これを見つけた曹操は「まさに今の余の心境じゃ」とつぶやく。今回の戦は進んでも勝ち目がなく引けば他人が笑うであろうという曹操の気持ちを表すようだった。

そこへ夏侯惇が入ってきて「今夜の警備の合言葉は何にいたしましょう」と問うたのだが曹操は考えに耽っていてあばら骨をねぶりながらつい「鶏肋鶏肋」とつぶやいてしまったのだった。

夏侯惇は「では陣中に布令させまする」と答え警備の者たちにその言葉を伝えた。聞いた者たちは不思議がりながらも返事をしたのだがひとり楊脩だけは帰り支度を始めたのえある。

これを聞いた夏侯惇は「魏国きっての切れ者楊脩がどういう考えなのか」と問いかけに行く。

問われた楊脩は夏侯惇曹操様の考えをずばりと言い当て「我が王は益なき苦戦は無意味と言われています」と答えたのだった。

これには夏侯惇も納得し諸将に伝えたのだ。

考えあぐねた曹操は陣を見回るとあちこちで帰り支度をしている。驚いて夏侯惇に問いただすと楊脩が我が君のお心を察して一同引き揚げの準備をしているというのだ。

「またか」と怒りを顔に出す曹操。「楊脩をここに呼べっ」と命じた。

楊脩が曹操の心を読んだのはこれが初めてではなかった。それどころか幾たびも曹操の考えを先回りして読み解いてしまうことがあった。曹操は感心しながらもその才能に嫌なものを感じていた。

そうした積み重ねがついに爆発したのだ。

曹操は楊脩の首を刎ねろと命じたのである。

「才は才に滅ぶ」それが楊脩の死であった。

だが同時にその決断は曹操をも苦しめることとなる。

楊脩の言葉が間違いであったことを示すために曹操はよりいっそう皆の戦意をかきたてたのだがその士気が空回りする。

曹操馬超に城を焼かれ皆が戦っている間に魏延に迫られ矢を射かけられるのだ。

矢は偶然にも曹操の前歯に当たり曹操は命拾いをするが顔面を血だらけにして逃げ出すこととなった。

が、孔明の策略は厳しかった。あちこちから火の手があがり蜀軍は曹操に総攻撃をかけたのだ。魏軍は命からがら逃げるだけである。

この時将兵の間に楊修の顔が浮かんだ。あの時楊脩の言葉通り益なき戦いを避けて引き揚げていればこれほどの目に遭うことはなかったのだ。

こうして漢中から魏軍を追いだした玄徳は悠々とこの地に乗り込んできた。

今まで魏のために戦っていた漢中の将もことごとく玄徳のもとに降ってきた。

これで玄徳の領有は四川漢川の広大な地域となり蜀は一大強国にのしあがったのである。

諸将たちは玄徳が皇帝になることを望む。孔明もまたそうであったが仁義を尊ぶ玄徳を説得するのは何よりも困難なことだった。

孔明は玄徳に「ご決心を願わねばなりません」と申し出た。

いきなり皇帝を名乗ることはできない玄徳にまず「漢中王」を名乗るよう説得したのだった。

さんざん悩んだあげくついに玄徳は「漢中王」を名乗ると決意する。(はああ、これが一番難しいんだよ)

建安二十四年七月玄徳は漢中王を名乗った。

「昔むしろを織っていた男がついに漢中王を名乗ったか」と怒る曹操は漢中王と雌雄を決すると立ち上がるがこれを司馬仲達がとどめた。

そして「呉と戦わせ蜀を弱らせてから」と進言する。

これに賛同した曹操は呉へと使者を向けた。

孫権は議会を開く。「荊州関羽の娘と孫権の世子との婚姻を結び関羽の力を借りて魏と一戦するか、関羽が断れば魏の申し入れを受けて魏呉で荊州を攻め取るか」という決議となる。

この使者として諸葛瑾が選ばれた。

が、関羽は「孫権の息子は犬ころだ。犬ころに虎の娘をやれるか」と答える。

孫権はこれに怒り魏軍が兵を動かすなら呉も軍を動かすと使者を出した。

その頃、漢中王玄徳は蜀の力を蓄えていた。

そこへ「呉と魏が組んで荊州を攻めようと計っている」という報が届く。

孔明は樊城の曹仁に軍勢を出させるよう仕向け関羽に樊城を攻めさせるのです、と説く。

ここであの有名な関羽に五虎大将軍筆頭の名誉を与えるが老将黄忠と一緒では不満じゃという逸話が挿入される。使者に関羽将軍と漢中王玄徳との「桃園の誓い」はそんな爵位や高禄のためではなかったはずと諭され謝罪する。

ううう。関羽ひとりぼっちでかわいそうすぎる。

ごねたくもなるだろう。

さて気分一新で樊城を攻めんとする関羽はまず襄陽城を攻め取り呉への警備として烽火台を築工させる。

その上で樊城を睨んだ。樊城は落城寸前であった。

これに曹操于禁と共に龐徳の出陣を命じる。ところが魏の将軍たちはもともと馬超の部下であった龐徳を疑っていたのである。

曹操に忠義を尽くそうと考えていた龐徳は棺を担いで戦場へ赴くと覚悟を示した。

龐徳はすぐにも関羽との一騎打ちを願う。関羽もまたその挑戦に応じた。

だが関平は父・関羽の力が昔のままではないことを心配する。

関羽龐徳が放った矢を腕に受けてしまうのだ。

が、龐徳于禁の妬みを買い思うように関羽攻略ができない。

さらに于禁は陣の配置換えをした。樊城の正面に于禁の中軍が構え七軍は樊城の北十里の地点、そして龐徳は山の後ろへと回されたのである。

この報を受け地理を知った関羽は高笑いする。