『史記』横山光輝 ⑭ 再読 (original) (raw)

ちょいと駆け足で参ります。

ネタバレします。

前181年に起こった日食は呂后の心に大きな不安を与えた。

呂后は灞睢のほとりに祭壇を作り厄払いを行ったその帰りに青い犬に咬まれるという奇妙な夢を見た。占い師によるとそれは如意様の祟りと出た。

如意は戚夫人の子どもであり呂后が毒殺した一人である。

青い犬に咬まれた場所には腫物ができ日ましに大きくなるとともに呂后の容態も悪化した。

呂后は趙王、梁王という呂氏一族を呼び寄せ「私が生きている間に呂氏のために手を打っておく」と告げた。呂氏一族に国政の実権を握らせてやるからあとは自分たちで繁栄をはかるがよい、と伝えたのだ。

前180年9月呂后は死去。

が、呂后の遺詔により呂産が相国となり呂禄の娘が幼帝の后となった。

右丞相陳平は相変わらず酒と女に溺れ、周勃は大尉でありながら一兵も動かせぬ立場となった。

しかし動き出す気配は密かにあった。

斉の哀王の弟劉章は妻が呂禄の娘だったが関中の実験をほとんど呂氏が握っていることに腹を立てていた。

折しも妻が呂氏一門から帝が出る、という噂を話しているのを劉章は耳にし行動を起こした。

兄・哀王に知らせ哀王は天下の諸侯に知らせたのだ。

こうして斉は長安に向かって進撃を始めた。

長安では呂氏一族がこれに穎陰侯灌嬰を向かわせた。

だが灌嬰はかつて高祖の片腕だった将軍であり一旦出陣したものの彼は「斉と組んで呂氏を討伐する」と部下に告げ部下もこれに賛同した。

斉陣にも灌嬰から報告が入る。

右丞相・陳平も悩み抜いていた。

そこに現れたのが陸賈であった。陸賈は劉邦が秦打倒のため咸陽を目指していた頃から側に仕えた説客である。

だが呂后のやり方に嫌気がさし隠居を願い出た後は楽士を連れながら旅をして子供らの家を順番に回るという気楽な生活をしていた。

使用人の目にも触れぬようにして陳平に会いに来た陸賈は陳平の悩みは解っていた。

陸賈はまず周勃との親交を深めるように勧める。

宰相と将軍が力を合わせるならば士人は皆ついてきます。士人の支持がある限り帝室の崩壊はない。いま、漢朝の運命は丞相と周勃将軍にかかっているのです。

陳平は陸賈先生から勧められた通りに宴会を開き周勃を招待した。返礼として周勃も陳平を招いて宴会を開きそうしながら二人は秘かに打ち合わせを進めていく。

陳平は陸賈に多額のお礼をし陸賈もそれを資本に屋敷をかまえて宴会を開き信頼できる人物を集めていった。

折りしも灌嬰が斉と連合軍を結成し天下諸侯もそれに参加し始める。

太后が死去してまだ一か月、それを待っていたように劉一族や群臣が動き始めたのだ。

灌嬰が斉王と組んだために呂氏が低位簒奪を早めるかもしれぬと危惧された。

周勃は陳平に案を出した。

高祖の旧臣・曲周侯酈商の息子・酈寄を利用し呂禄を領国の趙に帰らせてしまうのだ。呂禄と酈寄は酒を楽しむ仲であった。

周勃は妙案を用い父親の酈商を人質にとって応じさせる。

呂禄がいなくなれば呂産相国ひとりでは動けまいという案だった。

果たして忠義心に厚い酈商は周勃の案に乗ってくれ人質となった。

そして息子の酈寄を呼び父・酈商から事の次第を説いてもらう。

息子・酈寄は父の命を受けて呂禄を訪ね親し気に領国に戻ることが安泰につながると説得した。

呂禄もまた酈寄の言葉を受けて上将軍の印綬を返して趙に帰ると呂産に相談したがむろん呂産は快諾せず長老たちと話し合った。

が長老会議では賛否両論で答えは出なかった。

しかし灌嬰、斉、楚が連合し呂氏一族討伐の動きが慌ただしくなったという報告がなされ相国の呂産は宮中を掌握せねばと焦り出した。自分が与えられた領国に戻れなくなってしまったのだ。

これを知った陳平・周勃は軍隊を押さえようと急いだ。

まず酈寄から呂禄に上将軍の印綬を返上しすぐに趙へ帰国したほうがいいと進言した。

呂禄は趙へと急ぎ帰国する。

北軍の指揮権を手に入れた周勃は次に呂産が持つ南軍に布令を出した。

「呂氏につくものは右袒(右肩を脱ぐ)せよ、劉氏につくものは左袒(左肩を脱ぐ)せよ」

この時、北軍将兵全員が左肩を脱いだ。

味方することを「左袒する」というのはこの故事からである。

周勃が北軍も掌握したと知ると陳平は級内護衛に「呂産を宮殿に入れるな」と伝えさせた。

使者は走った。

風の強い日だった。

呂産はついにクーデターを決意した。

「関中を呂氏の手に握り呂朝を作る。まずは帝位を奪うことである」

呂産は家臣を引き連れ未央宮に向かった。が、呂産は北軍がすでに周勃の手に握られ呂禄が帰国したことを知らずにいた。

未央宮はかつて蕭何が皇帝の権威を示すために建てた広大な宮殿で武器庫から兵糧庫まで備えられていた。

呂産は「相国だ。開けよ」と呼ばわったが「相国様といえどそれだけの兵を引き連れ武装しての参内は解せませぬ」と固く門を閉めたままだった。

別の門からと呂産は移動したがどこも閉じられたままである。

やむなく呂産は強行突破を命じた。

ここで北軍本営にいた周勃に報が入る。

「呂産は兵を引き連れて参りました。未央宮に援軍を求める」

周勃は南軍の動きがつかめず動けない。劉章に二千の兵を預け未央宮へ馳せ参じ帝を守るよう命じた。

劉章が到着した時にはすでに呂産軍が宮廷になだれ込んでいた。

「急げ。謀反人を見つけ出しその首を刎ねよ」

宮中護衛兵も援軍の到着に力を盛り返す。

「呂産はどこだ」

劉章たちは広大な宮廷を探し回った。

そして便所に身を隠している呂産を見つけたのである。

劉章らの剣を受け呂産は倒れた。

呂氏一族のクーデターは失敗した。

呂氏一族はことごとく捕らえられ処刑された。

趙王・呂禄も燕王・呂通も呂后の妹も同じ運命であった。

ひとりの独裁者・呂后が死んでわずか二か月後に呂氏一族は誅殺された。

ここに漢朝は新しい時代を迎えていく。

呂氏一族のクーデターは食い止められたがそれと同時に今まで息をひそめていた大臣たちが頭をもたげて勝手に命令を下し始めていた。

早く帝を定めねばならん、と陳平は周勃にこぼした。

「少帝がおられるではないか」という周勃に陳平は「少帝は恵帝の本当のお子ではないのだ」と答える。呂后がある日突然後宮に連れてきた子なのだという。

すべてが漢朝を乗っ取るためだった。

そこで劉氏の中からもっとも帝にふさわしい人物として群臣らの話し合いで浮かび上がったのが代の恒王だった。

代王は人柄もおだやかで情け深く母方の薄氏一族もつつましやかな一族でもっとも帝にふさわしい人物だという意見で一致した。

ところが代王は控えめで「とても天下を治める器量などない」と三度断り四度目でやっと長安へ向かった。

代王は即位し文帝となった。

文帝は周勃将軍を父のように敬い信頼を持っていた。

これを見た陳平は安心して引退を考え周勃を丞相としてほしいと進言した。

が、文帝はまだ教えて欲しいことが多くあるとして周勃を右丞相(第一位)陳平を左丞相(第二位)としてくれと願った。

陳平はこれを受けた。

そして周勃は受けた恩賞を文帝の母の弟にそっくり贈ったのだった。

文帝はより周勃に丁重に接し続けた。

ところが周勃はとある賢者に「上り詰めたものは罪を作られ誅殺される恐れがある」という忠告をされ不安になった。

一か月後文帝は周勃に「一年間で裁判は何件ある?国庫の収支は年間どのくらいなのか」と問うた。いきなりの質問に周勃は慌て答えられない。

文帝が陳平に問い直すと陳平は淀みなく「それはそれぞれの責任者にお尋ねください」と答える。文帝がでは丞相の仕事とはなんなのだ、と聞き返すとこれにも淀みなくすらすらと答えたのである。

これに周勃は陳平に愚痴をこぼすが陳平は「国全体を見て方針を誤らぬようにすればいいのだ。答え方などそのうちなれるさ」と気軽である。

周勃は「わしの能力は陳平に遠く及ばぬ」と身を引くことを願い出たのだ。

これは文帝に認められ再び陳平が丞相になったのだが翌年彼は病で死去した。

このため周勃はまたも丞相として迎えられた。文帝は相変わらず周勃を丁重に扱った。

ここに袁盎が登場する。

袁盎は文帝の周勃への態度が君臣の礼に欠けていると進言したのである。

文帝に威厳を保ってくださりますようと申し上げたのだ。

それ以後、文帝は周勃に対し君主の態度を取った。

ところが周勃は文帝から辞職勧告を受けて以来誅殺の恐怖にとり憑かれそれがもとで謀反を企んでいるとあらぬ疑惑をかけられ投獄されてしまうのである。

周勃は息子に助けを求めたがそれとは別に袁盎もまた周勃を助けようと動いていた。

結果周勃は潔白だと認められようやく静かに隠居生活をはじめた。

助命嘆願に奔走してくれた袁盎とは友好を結んだ。

これで劉邦時代の最後の功臣・周勃も引退となったのである。

(何なのか?周勃?恐れるあまりに逆に疑いをかけられてしまうという。そんなものなのかもしれない)

漢朝は文帝を迎え新しい時代に進む。と同時に新官僚も育ち始めた。
袁盎もその一人である。

袁盎は宮中護衛長官として仕えていた。

袁盎は前の物語でわかるように誠実で物事をはっきり言う人物であった。

ここで文帝の弟・淮南王が審食其侯を自ら斬り殺すという事件が起こる。

袁盎は文帝に「たとえ文帝の弟であっても審食其侯に罪があっても勝手に罪を裁くことは許されません」と訴え処罰をお与えくださいと進言した。

しかし心優しい文帝は弟を処罰することなどできないと困惑した。

袁盎がさらに「これを放置すれば後々必ず禍の元になります」と言い述べるのを見た側近が袁盎を叱りその場は収まった。

それから数年後、袁盎の諫言は現実となった。

ある男が謀叛の疑いをかけられ拷問によって自供したのが淮南王の存在だった。

今度はやむなく文帝も淮南王を取り調べると素直に謀叛を認めたのである。

淮南王は蜀へと流刑に決まった。

ここで袁盎はまたも文帝に進言した。

「以前は処分をなさらなかったのにここにきて急に厳しい御成敗はいかがと思います。淮南王は自決の道を選ばれるかもしれません。弟殺しの汚名をかぶってしまうのです」

しかし今度も文帝は袁盎の言葉を聞かず流刑を執行した。

淮南王は途中で病死してしまう。

これを聞いた文帝は「酷い兄よと恨んだことであろう」と泣き伏した。

袁盎は「あまりご自分をお責めさなれますな。陛下は優れた三つの行いがございます」と声をかけた。

「母君への孝、代から都へ駆けつけた勇、そして繰り返し天子の座を辞退された謙虚さ。この度の弟君へのご処置は過ちを改めさせようというお心からでした」と言って文帝を慰めたのである。

そして淮南王の三人の子どもたちに王位を与えるのを良しとした。

またある年、文帝は皇后と寵愛する側室慎夫人をつれて上林苑(狩場)行幸をした。

中郎将として袁盎は警備の配置に目を配っていた。

その時皇帝と皇后の座る席のすぐそばに慎夫人の席が置かれていた。

袁盎はその席を後に下げさせた。

それを知らされた慎夫人は怒って帰ってしまう。皇帝も帰館し袁盎に小言を言うと袁盎は「身分のけじめはつけるべきです。陛下が良かれと思っても却って恨みを買うこともあります。呂后の人ブタ事件をもうお忘れですか」と答えた。

文帝は袁盎に礼を言い、慎夫人にも話した。

慎夫人もその話を聞いて納得し袁盎に謝罪して贈り物をしたのである。

しばらくすると文帝はため息をつくようになった。

また袁盎に諫められ反論もできなかったのだ。息が詰まるが漢朝に必要だとはわかっている。

それを聞いた慎夫人は「ならば栄転させては」と言い文帝は同意した。

袁盎は隴西の都尉に任じられた。

匈奴の侵攻を防ぐ仕事である。

赴任した袁盎は部下を可愛がり面倒をよく見た。

部下たちも袁盎のために命を惜しまず戦った。

その後、袁盎は斉の宰相に封じられたのである。

文帝は袁盎の噂を聞き思い出し笑いをした。

斉王が悲鳴を上げているというのである。

袁盎が宰相となり斉王も散々諫められているのだ。

間もなく袁盎は呉の宰相に任命された。

しかし今度は甥っ子から進言されてしまう。

呉王はかねてより傲慢であり周りは奸臣でいっぱいだという。そんな連中を糾弾したり正道に戻そうとしたら暗殺されてしまいましょう。

「では何をすればよい?」と聞く袁盎に甥は酒でも飲んで「謀叛はなさらぬように」とだけ言ってればいいでしょう。

袁盎は呉に赴任し甥の言葉通りに生活した。

中央から寄こされた宰相だが余計なことを言わなかったので呉王に厚遇されたのである。

前157年文帝は崩御し、太子が即位した。景帝である。

帝が変わると側近も変わった。

その中に袁盎と犬猿の仲の晁錯がいた。

晁錯は恵帝の太子時代の侍従剣教育係でもあった。

晁錯は法を厳しくし違反する諸王の領土を削りその力を弱め中央の権威を強くしようとしていた。

袁盎はその方法は劉氏の輪を乱すもので却って危険であると反対していた。

袁盎は突然都に召喚された。晁錯はこの機にうるさい袁盎を罪に落とし自分の政策を押し通そうと考えたのである。

袁盎は「呉王から賄賂を受けていた」という嫌疑で投獄された。晁錯は「死刑か流刑がふさわしいと思います」と進言する。

これを聞いた景帝は父・文帝が「あの男は正直で信頼できる」と言っていたのを思い出した。

そこで「官位を剥奪し隠居させよ」とした。

袁盎は政治から離れのんびりと隠居暮らしを始めた。

この時、呉楚七か国の劉氏が反乱を起こす。

晁楚の厳しい法に反発したのだ。

景帝は袁盎を召し出した。

景帝は呉楚七か国の反乱に悩んでいた。

袁盎は人払いをしてもらい「この乱の原因は晁錯殿の厳しい領地削減政策である」と進言した。

諸侯の大義名分は「晁錯を討つ」ということなので晁錯がいなくなればすぐにでも鎮圧できましょう、と申し上げた。

翌日晁錯は参内の途中で殺された。