コラムトエ (original) (raw)

セザンヌの話の続き。前回の風景画でセザンヌがとった構図について、絵画教室ではダメ出しをされるような不可解な構図だなあと書いたけれども、上に掲載した人物画は一層不可解である。なぜ人物をあからさまに斜めに傾けて描いてあるのか。

この作品は1890年から94年頃に描かれたもので、メトロポリタン美術館蔵の「赤い服を着たセザンヌ夫人」として知られている。岩波の世界の巨匠「セザンヌ」に載っているこの作品の解説を引用してみよう。

「画家は、モデルの上半身を絵の中心軸よりも右に軽く傾け動きを引き起こす。そして、両腕の位置でつくられる卵形は、回転運動を強調する。空間全体が、その求心的な動きに引きこまれ、ついには、刳り形とそこに重ねられた赤紫色の帯が、構図のなかにつくる斜線をきっかけにして完全に傾く」

回転運動を強調するかどうかは疑問に思うが、「完全に傾く」状態であるのは確かだ。それで、なぜ傾いた画面を描いたかについては、「一連のセザンヌ夫人のうちでも、またそれまで描いたすべての人物画のうちでも、もっとも動きのある空間のひとつをつくりだすにいたっている」とあり、そういう意図がセザンヌにはあったらしい。しかし、動きのある空間をつくろうとするなら、例えば静物画なら布のシワの形を工夫したり、果物や器物の配置を考慮したりして動きを出そうするのが自然なように思う。動きを出すために、卓上のワインビンを傾けて描くのには抵抗を感じるのではないか。

ビンを傾けて描いたら倒れてしまうじゃないか、現実ではありえないと思ってしまう。しかし、そもそも紙やキャンバスに描かれた絵の世界は現実とは別物だから、現実と違うところがあってむしろ当然というか、何の不思議もないと考え始めたら、セザンヌ夫人が傾いていても、あながち不自然とか変な絵とはいえないだろう。

ところで、セザンヌはいつ頃から傾いた人物画のような不可解な絵を描くようになったのだろうか。もちろん最初からではない。絵の修業の初めの頃はリアリズムだったのである。セザンヌは裕福な家庭の子息だったから、当時の普通の方途で画家になろうとした。1861年4月、22歳のときにパリに行く。まず出入りの自由なアトリエの一つに登録し、国立美術学校の入試に備えるのだ。ところが、なかなか進歩しない自分に失望して同年9月には実家に戻ってしまう。1862年11月に再びパリに出て入試の準備をするのだが、結局、入試には失敗する。国立美術学校は、芸術家育生を一手に引き受けていたから、そこから拒絶されたセザンヌは自然と独学の道に進むことになった。

独学の道に入ったのはよいけれど、遅々として進まず、サロンに作品を送るも落選を繰り返すだけで埒が明かない。本当にセザンヌらしい絵の修業を始める契機になったのは、1872年から74年の2年間、ピサロと制作を共にしたことだ。セザンヌは後年、「いつまでもボヘミアン流で青年期を浪費してしまった。ピサロを知るようになって、やっと仕事に興味がのってきた」と語っている。

自分の絵の方向を確信したセザンヌは、1874年9月の母への手紙で次のように書いている。「セザンヌの手紙」(筑摩叢書)から引用しよう。

「(前略)周囲の人々すべてよりも自分が優れているのだと思いはじめました。しかし、私が自分を高く買うのは意識的にあえてそうしているのだということを、あなたはご存知ですね。私は常に仕事をせなばなりません。しかしながら、それは世の馬鹿者どもの讃嘆の的となるあの仕上げに到達するためではありません。これは俗世間ではあれほど賞賛しますが、実は職人的メティエの問題にすぎず、あらゆる作品を非芸術的かつ平板にしてしまうだけです。私が完成を心がけるのは、より真実でより造詣の深い作品を生む喜びのためでなければなりません。世に認められる時が必ずあり、もののうわべのみを喜んでいる人々以上に熱心で確実な讃嘆者を獲得できる日も来るのだと信じてください。(後略)」

自分の進むべき道が見えてきたセザンヌの確固たる自信がうかがわれる手紙である。この続きは次回に。

セザンヌの話の続き。

セザンヌの作品を正しく理解するのは、ほぼ不可能に思える。だから、セザンヌの作品を見ながら熟考するだけで十分とし、「セザンヌは何をしたかったのだろうか」という問いの解答を求めることには拘らない。セザンヌの制作の本心を理解するのがいかに困難かは、ゴーギャンの例を見ても明らかだろう。ゴーギャンセザンヌの影響を「正しく」受けたと考えていたようだが、セザンヌはそれを完全否定している。前回で触れたエミール・ベルナールの「回想のセザンヌ」の中に、ほぼ以下のようなエピソードが載っている。

ベルナールがセザンヌに向かって、「ゴーギャンは、あなたの絵を大変愛し努めて傚おうとしていました」と話すと、「そうかね、では、まったく私を理解していなかったのだ。彼は無視覚の男だ。手に油絵の筆を持っている画家ではない。中国式の絵を描いただけだ」とセザンヌは言ったという。これはセザンヌが、ゴーギャンの平塗りで立体感の乏しい平面的な表現を嫌っていて、それが自分からの影響とはお笑い草だという意味だろう。

セザンヌの作品は素晴らしいと思うが、一般に理解はされないだろうと考えていた同時代の画家もいて、ピサロがそうだった。ピサロはいくつかの手紙でそのことに言及している。1895年11月から12月にかけてパリのヴォラールの画廊でセザンヌの個展があり、それを見たピサロは息子の嫁への手紙で、「ヴォラールのところで、とても完全なセザンヌの展覧会が開かれている。驚くほどよく仕上げられた静物画、未完成だが実に異常な野性と性質をもつ作品が並んでいる。これはほとんど理解されないだろうと私は思う」と書いている。また1895年12月の息子への手紙で、「印象派の愛好家や友人たちにセザンヌのたぐい稀な特質を理解させるのがどんなにむずかしいことか、お前にはわからないだろう。人々が正当に彼を評価するまでに幾世紀もかかるのではないかと思う」とあるのだ。ピサロの危惧は当たっていた。なお、これらの手紙は、筑摩叢書のジョン・リウォルド編・池上忠治訳「セザンヌの手紙」に収められている。まだまだ興味深い手紙があるので、随時引用して紹介したい。

セザンヌの作品を数多く見ていくと、時折、不可解な構図の絵に出会う。例えば上に掲載した作品で、セザンヌの40歳頃に描かれたものだ。画面中央に1本の樹木が配置され、画面を真っ二つに分割している。「なぜここに木を描くのかなあ」と疑問をもつ人が多いのではないか。絵画教室で習っている人なら、これは先生からダメ出しをされる構図じゃないかと訝しく思うだろう。セザンヌには他にも画面中央に樹木を描いている絵があるから、たまたまではなくて何らの明確な意図があり、それを考えてみるのは構図を学ぶ上でとてもプラスになりそうだ。

実は、モネなど他の画家の風景画でも樹木を画面中央に配置している絵は結構あるのだが、それらは画面が2つに分割されたように見えない工夫が考慮されているのだ。だから画面中央に描かれた樹木は、見る側の視覚に強くうったえてこない。ところが上の絵では見る人に、「樹木による画面を2分割する中央の縦のライン」を強く意識させている。そして、画面下側3分の1くらいにある池の縁のラインが画面の左右の辺から辺への水平線をつくっていて、それとがっちり組み合わさった感じだ。結果として、中央の樹木をはっきりと意識させられるが、そのことで画面が分断された不自然な絵に見えてしまうのではなく、堅固な統一感のある空間が自然な感じで見えてくるのである。不思議な作品なのか偉大な作品なのか、謎が解けないような気持ちになるのは私だけだろうか。

次回もセザンヌの話の続きを書く予定。

ゴーギャンゴッホと画家仲間であったエミール・ベルナール(1868~1941年)は文筆家でもあった。彼は早くからセザンヌを崇拝していて、自分にとっての唯一の先達と思いつつ、20年もたってからようやく1904年2月にエジプト旅行の帰途にエクスのセザンヌを訪ねた。その折の思い出を後にまとめたのが「回想のセザンヌ」であり、1912年にパリで出版された。これを有島生馬が翻訳して、1913年(大正2年)の「白樺」11月号から連載した。これが昭和3年に岩波文庫から出版されたが、その後絶版となり1953年に改版上梓して再出版された。有島生馬の訳文は昔の言い回しだし漢字が旧字体なので読むのが少々面倒だが、とても興味深い内容で、セザンヌと直に会話したことを書いているのだから信頼してよい話だろう。この本には、前回取り上げたレオン・ヴェルトの「セザンヌ賛評」も収められている。今回は、「回想のセザンヌ」の内容を紹介しながら前回の続きを書こう。

ベルナールはエクスに仮住まいをして、セザンヌと1ヶ月間日常を共にした。セザンヌと一緒に写生に出掛け、セザンヌのアトリエの一室で制作した。また、セザンヌ静物画のモチーフを組んでもらったり、作品の手直しを受けたりしている。セザンヌ家を最初に訪問したときベルナールが自己紹介をしたら、「君は絵描き仲間なのか」と聞かれたが畏れ多くてすぐにはハイと返事できなかった。それからすぐに一緒に外出するのだが、道中、村の子供たちがセザンヌに石を投げつけてからかうので叱り飛ばしたと書いている。エクスではセザンヌはまったく無名で山賊みたいな風采のジイさんに過ぎず、子供らが度々セザンヌに悪戯をするのにベルナールはウンザリさせられたらしい。

セザンヌの日常は、朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作して、それから自宅に戻っての昼食後は風景写生に出掛け、5時頃帰って来て夕食後はすぐに就寝してしまうという生活であったという。家族とは別居していたから、このように独りで制作のみに集中する晩年だったわけだ。セザンヌの晩年には素晴らしい傑作がゴロゴロしているように思うが、こういう生活のせいかも知れない。

上に掲載したのはセザンヌ最晩年の水彩画で、「庭師ヴァリエの肖像」である。私はこの作品を「ピカソとその時代展」で実際に見て、非常に美しいと感じかなり長い間作品の前で佇んでいた。ところで、前回に掲載した水彩画の左上隅の三角形は気になる存在だったが、上の絵を見ると、画面左側の背景に楕円形を半分にしたような形の白いところ(塗り残しのように見える部分)があり、これも大変気になる。この部分はしっかりと着色した方が人物の形が浮き立つのではないかと思われる。ということは、逆の見方をするなら、人物の形が強く見え過ぎない工夫とも言える。人物画なのだから人物の形が明確になって悪かろうはずがないとは、セザンヌは考えていなかったと想像できる。

また、「楕円形を半分にしたような形」であることも気になる。なぜなら、人物の左右の両肩から前腕までのアウトラインが、左側の半楕円形と相似の円弧を描くからだ。この肩から前腕までの2本の円弧はそれとなく注意を引くので、左側の半楕円形のアウトラインと呼応して心地よいリズムが生まれている。それが美しさになっていると結論してしまうとデザインの話になるわけで、セザンヌの絵の本質については何ら語ったことにならない。つまり、「リズムが生まれているだって?美しい画面だと?それがどうしたというのだ?」となる。セザンヌが表現したかったことは別にあると考えるのが妥当だろう。

左側の半楕円形の円弧、人物の両肩から前腕までのアウトラインが描く円弧、これら3本の円弧のラインはお互いに呼応してリズムを生み出している。それによって人物や画面全体にどのような影響を及ぼしているのか?そして、セザンヌが意図していることの正体は何だ?これらのことを考える必要があるけれども、いくら考えてもセザンヌの本心に迫っているのかどうか怪しいものだから、私の思考はしばしばここで停止してしまうのである。

セザンヌの話はまだまだ続く・・・・。