絵を描くのが上手くなる方法、その140 (original) (raw)

セザンヌの話の続き。前回の風景画でセザンヌがとった構図について、絵画教室ではダメ出しをされるような不可解な構図だなあと書いたけれども、上に掲載した人物画は一層不可解である。なぜ人物をあからさまに斜めに傾けて描いてあるのか。

この作品は1890年から94年頃に描かれたもので、メトロポリタン美術館蔵の「赤い服を着たセザンヌ夫人」として知られている。岩波の世界の巨匠「セザンヌ」に載っているこの作品の解説を引用してみよう。

「画家は、モデルの上半身を絵の中心軸よりも右に軽く傾け動きを引き起こす。そして、両腕の位置でつくられる卵形は、回転運動を強調する。空間全体が、その求心的な動きに引きこまれ、ついには、刳り形とそこに重ねられた赤紫色の帯が、構図のなかにつくる斜線をきっかけにして完全に傾く」

回転運動を強調するかどうかは疑問に思うが、「完全に傾く」状態であるのは確かだ。それで、なぜ傾いた画面を描いたかについては、「一連のセザンヌ夫人のうちでも、またそれまで描いたすべての人物画のうちでも、もっとも動きのある空間のひとつをつくりだすにいたっている」とあり、そういう意図がセザンヌにはあったらしい。しかし、動きのある空間をつくろうとするなら、例えば静物画なら布のシワの形を工夫したり、果物や器物の配置を考慮したりして動きを出そうするのが自然なように思う。動きを出すために、卓上のワインビンを傾けて描くのには抵抗を感じるのではないか。

ビンを傾けて描いたら倒れてしまうじゃないか、現実ではありえないと思ってしまう。しかし、そもそも紙やキャンバスに描かれた絵の世界は現実とは別物だから、現実と違うところがあってむしろ当然というか、何の不思議もないと考え始めたら、セザンヌ夫人が傾いていても、あながち不自然とか変な絵とはいえないだろう。

ところで、セザンヌはいつ頃から傾いた人物画のような不可解な絵を描くようになったのだろうか。もちろん最初からではない。絵の修業の初めの頃はリアリズムだったのである。セザンヌは裕福な家庭の子息だったから、当時の普通の方途で画家になろうとした。1861年4月、22歳のときにパリに行く。まず出入りの自由なアトリエの一つに登録し、国立美術学校の入試に備えるのだ。ところが、なかなか進歩しない自分に失望して同年9月には実家に戻ってしまう。1862年11月に再びパリに出て入試の準備をするのだが、結局、入試には失敗する。国立美術学校は、芸術家育生を一手に引き受けていたから、そこから拒絶されたセザンヌは自然と独学の道に進むことになった。

独学の道に入ったのはよいけれど、遅々として進まず、サロンに作品を送るも落選を繰り返すだけで埒が明かない。本当にセザンヌらしい絵の修業を始める契機になったのは、1872年から74年の2年間、ピサロと制作を共にしたことだ。セザンヌは後年、「いつまでもボヘミアン流で青年期を浪費してしまった。ピサロを知るようになって、やっと仕事に興味がのってきた」と語っている。

自分の絵の方向を確信したセザンヌは、1874年9月の母への手紙で次のように書いている。「セザンヌの手紙」(筑摩叢書)から引用しよう。

「(前略)周囲の人々すべてよりも自分が優れているのだと思いはじめました。しかし、私が自分を高く買うのは意識的にあえてそうしているのだということを、あなたはご存知ですね。私は常に仕事をせなばなりません。しかしながら、それは世の馬鹿者どもの讃嘆の的となるあの仕上げに到達するためではありません。これは俗世間ではあれほど賞賛しますが、実は職人的メティエの問題にすぎず、あらゆる作品を非芸術的かつ平板にしてしまうだけです。私が完成を心がけるのは、より真実でより造詣の深い作品を生む喜びのためでなければなりません。世に認められる時が必ずあり、もののうわべのみを喜んでいる人々以上に熱心で確実な讃嘆者を獲得できる日も来るのだと信じてください。(後略)」

自分の進むべき道が見えてきたセザンヌの確固たる自信がうかがわれる手紙である。この続きは次回に。