学究組織から巨大新宗教団体へ…池田大作お隠れ後の創価学会・公明党幹部の官僚化 (original) (raw)

巷のワイドショーやインターネットは、飢えたピラニアのように「事件」という生肉へ喰らいつくが、「歴史」という骨までは語りたがらない。そんな芸能ゴシップ&サブカルチャーの「歴史」を、〈元〉批評家でコラムニストの時代観察者が斜め読む!

(写真:編集部)

少年雑誌編集長時代の池田大作は何を目指していた?

前回の記事では『人間革命』(聖教新聞社)の歴史を取り上げたが、連載開始以前の聖教新聞の連載小説は山岡荘八『高杉晋作』だった。これは池田が編集長を務めていた『冒険少年』と『少年日本』(共に日本正学館)で執筆していた旧縁によるものだ。

その『冒険少年』創刊号の執筆陣を見ると、椛島勝一、南洋一郎&山川惣治、海野十三&小松崎茂、山岡荘八、野村胡堂などの名前があり、後の号では山手樹一郎、香山滋、島田啓三、森下雨村、鈴木惣太郎、宮尾しげを、城昌幸、阪本牙城、山田克郎、伊藤幾久造、横山泰三、横井福次郎、倉金良行、杉浦茂などが執筆していた。若干の古臭さは感じるが、執筆陣は充実していたのだ。

海野十三は1949年5月に逝去しているので、全15回の『怪星ガン』の次に連載した『大地獄旅行』は絶筆となったが、8月号の第5回まで掲載されている。

版元の日本正学館が通信教育や学参系の出版社だったこともあるが、当時の目次やいくつかの記事を読む限りでは、戦前の月刊少年誌のフォーマットに忠実で良心的な作りの雑誌だったようだ。プロ野球の記事が多いのは当時、空前の野球ブームだったからだが、科学系の記事が多いのも特徴だった。工業学校系の教材を扱っていた関係だろうか。

そのためか、大阪時代の手塚治虫も上京したら描きたい雑誌として『漫画少年』と並んで『冒険少年』を挙げていた。あと1年長く続いていたら、上京した手塚治虫が長編SF漫画を描いていたのかも知れない。なお、手塚は1972年から『希望の友』(潮出版社)で『ブッダ』を連載し、絶筆となった『ルードウィヒ・B』に至るまでの長い付き合いとなる。