『真田丸』で話題のあのシーンを再現! 徳川家子孫が434年ぶりに「伊賀越え」に挑戦してみた (original) (raw)

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『真田丸』の爆笑シーンで話題を呼んだ

歴史にif(もし)はないとは言われることだが、これほどifの起こる確率が高かった事件はない。天正10年6月2日未明、織田信長が本能寺の変で落命。その時、堺で30名余りの家臣と「物見遊山」の旅の途中だった徳川家康は文字通り身一つで浜松へ逃げ帰ることを決断した。

後世でいうところの「神君伊賀越え」の始まりである。

大河ドラマ『真田丸』では、軽装の家康は、土民に襲われて、半泣きになりながら本多忠勝の助けを借りて切り抜けた。かと思えば、急峻な山道を「ここを下るのか……」と、顔をしかめながら、半ばヤケクソで駆け下りる。これらのシーンが視聴者の大爆笑を呼び、大いに話題にもなった。

劇中では、ぼろぼろの姿で「死ぬかと思った……」と、阿茶局の膝に崩れ落ちた家康。実際に、まったく死んでもおかしくない状況であったとされている。

家康という人はその生涯における「危機一髪」のエピソードが多く残されている。三方が原の大敗しかり、大坂夏の陣における本陣御旗崩れの逸話しかり。ただそれらは戦場における帰趨によるもので、平時の脱出劇である伊賀越えは、家臣たち(とりわけ随行した30数名)に、より強烈な印象を与えたのだろう。

彼ら(およびその子孫)による覚書が多数残っており、400年以上前の出来事にしては、家康の逃避行はさまざまな文書から跡をたどることができる。

そこで、徳川家康没後400年の今年、ユニークな試みが行われた。徳川家康の子孫である、徳川宗家(将軍家)19代の徳川家広氏と歴史学者の磯田道史氏が、「神君伊賀越え」のルートを再びたどってみるというものである。

企画を立案した甲賀忍びの子孫、渡辺俊経氏をはじめとする甲賀忍術研究会の面々が脇を固め、道案内をした。