Misakiの曼荼羅ブログ (original) (raw)

最初に松岡正剛先生の名前を知ったのは、昭和62年5月、今から37年前のことである。父が出版していたブックレット『G-TEN』にエッセイを寄稿してくださり、それを拝読したのがきっかけであった。少数しか発行されていないブックレットであったが、松岡先生は3回も寄稿してくださった。

松岡先生のエッセイは「難しい」というのが当時の私の率直な感想であった。松岡先生の記事だけでなく、他の著者の記事もすべて難解であった。そんなブックレットであった。「分かってくれる少数の人だけに読んでもらえればいい」というのが父の口癖であり、その割に理解できない私にせっせと送ってくれた。定価250円から350円で少数部数の発行、謝礼は気持ちばかりのもの。しかし、他の執筆陣は豪華であった。梅原猛、梅棹忠夫、中村雄二郎、岩田慶治、荒俣宏、村上陽一郎、河井隼雄、三木成夫、鶴見和子、松長有慶、笠原芳光、鎌田東二、山折哲雄、木幡和江、田中優子、秋山さと子など。こうしてみると、お金では代えがたい価値がこの世に存在するように思える。誰とやるかが大事であるということなのだ。

「遊ぶ自己と遊ばない自己」

『G-TEN』第19号に掲載された「遊ぶ自己と遊ばない自己」という松岡先生のエッセイを読んだ時、私が理解できたのは、先生が京都の子ども時代に熱中していた遊びが実況中継であったということである。カイヨワやホイジンガの話は理解できなかったが、雪見障子の向こう側に座布団をうずたかく積んで陣取り、自分が好きな場面を実況放送するというものであった。雪見障子の四角いガラス部分を放送席やサテライト・スタジオに見立てていたのである。

実況には、最初は菓子箱を裏返した紙相撲をトントコやりながらの取組実況や、サイコロを振って投打を一つずつ進める野球ゲームの実況放送などのスポーツゲーム実況があった。やがてこれに飽きると、月面旅行、鉱物化石探検、ライオンとの一騎打ち、海水浴の思い出、植物の一生、飛行機のサーカスなどとレパートリーを広げていったらしい。鉱物探検というのは、一個の黄鉄鉱などの鉱物を机の上に置き、虫眼鏡で細かく見て実況放送するというものであった。

なぜこのような実況放送に夢中になられたのか、松岡先生ご自身も覚えていらっしゃらないらしい。しかしながら、これはただの「フリ」のような代償行為とは違い、「世界の進行」に関わる遊びであるとおっしゃる。これを読みながら、私も自分のままごとに夢中になったことを思い出した。奈良の田舎で育ったので、近所の空き地に流れる小川の近くに基地を作り、友達と自分だけのキッチンを作った子供時代を思い出した。

「遊ぶ自己と遊ばない自己」松岡正剛
『G-TEN』第19号 「特集 陽気・遊び」昭和62年5月26日発行

「限界の自由をめぐって」

「限界」とは何か。松岡先生は『G-TEN』第35号で以下のように定義している。

界を限るということ、すなわち「限界」ということは、ふつうは何かを狭めているばあいにつかわれる。ところが界を限ることがかえって界を広げることにもなるもので、もし限界という観念をつかうことなく世界にあたろうとすれば逆に何もはじまらないということになりかねない。何もはじまらないというだけではない。無限とか無際限という観念は、下手をすればとたんに恐怖にすら転位する。・・・限界することこそが、神秘に近づく最短距離だったのである。ついでながらわが国では、すでに道元の「有事」の概念によって、空間の側からではなく時間の側からの無際限の批判が行われている。

しかし、私が「限界の自由」について最初に気がついたのは、そんな大それたことを考えているときではなく、絵画作品にタブロー(枠)があるということが、すべての絵画の自由を支えているということに思いあたったときだった。・・・

限界の手法とは、「あえて狭めてかえって広くする」という方法である。節穴から大空を見る方法だ。(『G-TEN』 No.35 特集自由・自在 P36)

かつて、松岡先生は「数学的自由」という言葉を創られたことがある。数学史および数学者の存在学的研究をしていた頃に用いられた言葉である。その意図を一般化して言うと、松岡先生によれば、

限定的思考の自由は、無限定的な思考の自由を超えることがある

というところにあると述べておられる。限界があった方が自由になれるのか、30数年前のエッセイだが、今改めて拝読してみて新鮮に感じる。

「限界の自由をめぐって」松岡正剛
『G-TEN』第35号 「特集 自由・自在」 昭和63年10月26日発行

松岡先生は、家で二匹の犬を飼っていらっしゃったらしい。甲斐犬とシーズー犬で、その名前はオモチャとリボンである。オモチャは弱虫の気配り犬、リボンは可憐だが勝気な小型犬である。松岡先生が寺田寅彦になったつもりで彼らを観察していると、さまざまな「発見」があったらしい。そのオモチャとリボンが教えてくれたことの大半が、考えれば考えるほどに「自由」と結びついていたとおっしゃる。さらに、猫も七匹から八匹いたそうである。寅彦や漱石のように観察を続けていても、「自由」を語るには残念ながら役に立たない。猫は極端に「不自由」を嫌うからだ。先生の観察によると、飼い主が行く先々にオモチャとリボンも自分も同じように行けるということが最大の「自由」になっているようだということである。

「神秘と恋情」

『G-TEN』第50号「特集『神秘』考」でも、松岡先生の犬が登場する。先生の飼っている犬のオモチャとリボンは、先生の動作の意味の大半を理解していたらしい。犬に何かを伝えようとするときや外出しようとするときはもちろん、先生の気分や健康状態なども察知していたとのこと。

これと同じようなことが恋人のあいだにもおこっているのだとおっしゃる。とくに互いの恋情が芽生えたころが興味深いとのことだ。

きっと恋情は最も日常化された”神秘”なのである。しかも、人生のわずかな時期に急激に到達する”神秘”なのだ。もしそうであるとするなら、われわれはあえてマンチャイルド化(童子化)することにより、失われた”伝達の神秘”をくりかえし履修しているのかもしれないといえるわけだった。(「神秘と恋情」松岡正剛

『G-TEN』 第50号 「特集「神秘」考」平成2年4月10日発行)

「神秘と恋情」松岡正剛
『G-TEN』 第50号 「特集「神秘」考」平成2年4月10日発行

憂うつの対極とまでとはいわないが、憂うつとはかなり違う感情の恋情。なぜ恋情がわいてくるのか、ほとんど研究されていないのではないか。なにしろ誰も説明がつかない。なぜそのような恋情が湧いてくるのか。恋人同士二人だけのコミュニケーションシステムこそ、もっとも人生のわずかな時期に急激に到来する神秘と仰る松岡先生の事に共感する。

『遊』「昭和が終わっちまう前に」

父が米国に留学中の私にせっせと送ってくれた『G-TEN』の全巻は重すぎて、帰国の際に日本人の友人にプレゼントした。読書が好きな友人は喜んでくれたのが何よりであった。帰国後、東京で仕事を始めてからしばらくは仕事漬けの日々となり、松岡正剛の世界から遠ざかっていた。結婚して子育てが落ち着いた頃、父から松岡正剛の雑誌『遊』と吉本隆明との対談「昭和が終わっちまう前に」をもらうことになった。「松岡さん、この人はすごいから、読んでみて」と父は薦めてくれた。

印象的だったのは、吉本隆明が選んだ日本を読むための25篇の中に、世阿弥の『花伝書』や折口信夫、柳田国男、そして中山みきの「みかぐらうた」が含まれていたことである。松岡正剛が選んだ日本を知るための35冊の中で意外だったのは『ペルシア文化渡来考』である。日本人だからこそ知っておかなければならないこと、どうしても話しておきたかったことなどが詰まっており、非常に興味深い一冊である。

『遊』「特集 日本する」 1982年9月

日本人なのに、日本のことを知らないのは恥ずかしいと思った。グッときたのはそのなかでキャッチは「最大のエディターは天皇だった」である。

イシス編集学校の校長先生

2年半くらい前にイシス編集学校の講座を受講し始めた。なにかエコノミカルでない視点で文章を編んでみたい、物語を書いてみたいという欲求が自分の中から湧いてきたからだ。いろんな小説塾などもあったが、たまたまフェイスブックの広告でイシス編集学校の広告を目にした。あの松岡さんが編集学校をされているとは、と驚いたことを覚えている。締切ギリギリに申し込んだ。講座は【守】【破】【遊 物語講座】【花伝所】を受講した。もちろん、松岡校長は、雲の上の存在でいらっしゃるので、直接話をする機会などあまりなかったが、校長先生のエッセイである【校長方庵】を愛読していたので、いつも寄り添っていただいていたように感じる。

どうも、何をするのも人の何倍も時間がかかり、要領が悪いのかもしれない。それでも、花伝所で一生懸命お題に取り組んだ経験は、自分にとって貴重なものであった。指南を渡すような人間かどうかという違和感は残るが、まずは自己回復に専念し、自分と向き合って対話することが重要だと感じている。松岡先生に教わった数々のことを、これからの人生の糧として大切にし、自分らしく前進していきたい。