祈ってもリターンなどないに付いて (original) (raw)

病気を患ったり事故に遭ったり、一度日常を喪失するような経験をした後で周りを改めてみると、たった一人でまた世界に立たされてるような気持ちになった。例えば明日も明後日も,別に欲しくなくても誰かが持ってくる仕事があるとか、当たり前に自分で起きて家族と話して洗濯物をしてとか、何も考えずにしてたことが=自分の当たり前だったんだなと思い,だから自分をこれまで包んでいたのは世界の舞台とかでなくてそういう、また明日が来る」ていう連続性の方だったんだなと思い、ただそれが他人の手でいじくられただけで自分ていうのがなんなのか一瞬で分からなくなった。死を経験した人が人生を考え直すのはそういう風に自分が現生と結びつくためのいろんな要件をそういう事故ですべて外されてしまうからだと思う。自分も、何のためにここにいるのかを世の中からくってかかられて剥奪されていたんだと思う。日常や周りの人達からスポイルされるのは言葉で言うと単純だけどそういう意味だった。けど自分はまた、いつもみたいにそれを自分でゼロから考え直すことになる…そうやって、今までごく当たり前に摂取してたものを全て失った後で見るもの,聞くこと,当たり前にどれも前のように信じられなくなっていた。自分はいちいち立ち止まってはやっぱりそこに沢山ある偽物の要件ばかり聞かされていて、でも色んな人と会ってるうちになんとなく日常も戻ってきて,また人と話したり遊んだり、本を読んでみても良いかなと思ったりした。その度に何度かまた、同じような振り出しに戻る。あれもこれも全部自分のためのものじゃなくなってしまっていて、誰かの思想や嘘を吹き込むためだけに色んな人が自分のところへ毎日来る。戦争っていうのはそういうものなんだと思った。世界の方が外側からまるきり変えられてしまったあとで、自分はそれでも自分のためにあるものじゃない物語を、接種し続けて良いのかという葛藤がずっとあった。自分が祈ることについて書いたのはそういう時で,僕はあの時からこれまで、周りの何もかもを信じちゃいけなかった。けどゼロからまた自分を再構築するためには、身の回りのものをそれでも全て信じ込むことでしかもう一度立て直すことなんてできなかった。だから僕は周りにいる悪意を持っているかもしれない人の偽物かもしれない優しさ,親切、そういうものを、それが嘘だとしても自分はいつか何処かにある本当に向かってそれが繋がっていると信じてても良いんだと思い込んだ。僕は人間として生まれて,やっぱりどこかの山とかにこもって暮らしていたとしても「誰か」そういう在り方でしか人は居られないんだと思った。まだそこに、周りに家族以外の誰もいなくても、僕はそうしていれば、良いことを見失わないでいればきっとどこかに行き当たると思い込まなきゃ生きていけなかった。自分の考えや、身体を、それから他人てものをこのままずっと否定するよう強いられてたとしても、そうやって新しい宗教があるんだと信じ込むみたいに受け入れるしかなかった。それは盲目のままで悪い人、ものも全て合わせた明日や人の意味を自分のためのものと信じることみたいに馬鹿げて見えるかもしれない。周りからは「祈ること」がいけないことのようにずっと言われ続けていたのは、それが戦ったり糾弾するよりもずっと軟弱で安易な考えに思われたからだと思う。そういうことがまだ分からない人も世の中にはいて,その人達がただ見てるだけで状況は変わる、批判するだけで相手はひるむ、そう思ってて未だそのごく当たり前の中で生きているなら、それは確かにそうやってても周りが全く変わらない世界の中にいる人に生きるための心がまえとかを子どもに諭したって分かるわけがないみたいな部分と同じなんだろうなと思う。そうやって【強い人】は自分よりずっと色んなことを考えてきた人たちの、小さな希望さえも言葉足らずとして踏み躙っては未だそれらも、自分のためにあると思っていいと感じて笑っているんだろう。