羽州街道を歩く 6 天童宿〜楯岡宿 (original) (raw)

令和5年9月18日(月)敬老の日 晴れ 暑い 午後雷雨

3日目。敬老の日。最終日です。本日は、はじめは舞鶴山方面の散策を行い、それから、街道を楯岡宿まで歩き、村山駅から帰宅という計画です。今日も暑くなりそうです。

舞鶴山公園

天童温泉のホテルパールシティ出発し、小路喜太郎稲荷神社の前を通って行くとつつじ園があり、その先に建勲(たけいさお)神社があります。建勲神社は、明治になり天童藩知藩事となった織田信敏が東京の私邸の中に織田信長を「織田社」として祀っていたものに対し、1889(明治2)年に神祇官が日本を外国の侵略から守ったということで「建織田社(たけおりたしゃ)」との神号を下賜し、1870(明治3)年に舞鶴山山頂に分祀したのが始まりです。その後、京都にも分祀されました。1884(明治17)年に舞鶴山頂まで登るのが難儀だということで、現地に移されました。石段を登って行くと拝殿があります。なかなか、荘厳な神社です。

建勲神社

さらに南下して行くと右手にトイレがあり、その向こうに「文学の森」があります。ここには田山花袋の文学碑やイザベラ・バードの顕彰碑があります。その先左手の高いところには展望台があります。

その先で道路は大きくヘアピンカーブを描いて一転北へ向かいます。この右手は天童古城の跡ですが、ここからは登れそうもありません。カーブを抜けて登って行くと大きな駐車場に出ます。右手に愛宕神社へ登る道が伸びていて、ここを行くと天童古城の本廓に行けそうですが、これはパス。駐車場を抜けて将棋塔の方へ行ってみることにします。

駐車場の先は広い芝生広場となっており、ここでイベントが行われるようです。芝生広場の向こうには、人間将棋が行われる大きな将棋盤があります。その先は階段状の観客席となっており、一番上に王将駒を模った将棋塔があります。この辺りは、天童城の中央廓だったようです。

その奥に行くと「天童古城記念碑」があり、さらに奥には展望台があります。展望台では、周囲の木が高く、残念ながら展望は得られません。

来た道を戻ります。愛宕沼の方へ下りる道との分かれ道のところの東側に愛宕神社への入り口があります。そこに展望台が設置されており、ここからは天童温泉の方角を展望することができます。

芝生広場

将棋塔

人間将棋の将棋盤

天童古城記念碑

来た道をずっと戻って、文学の森の先の二股を左に入り、その先を左折して山を下ります。右手にある青年の家は、小学校の跡地のようです。左手には佛向寺の大日堂の石碑が立ち、墓地が広がっています。佛向寺は、1287(弘安10)年に一向宗を興した一向俊聖により、大清水(山形空港の南の辺り)に開山したと伝えられています。その後、里見氏の庇護により現地に移り、勢力を広げ、天童城の西の守りとして機能していたとのことです。しかし、最上義光により天童城が落城した時、堂宇も消失。現在の堂宇は、文政年間に再建したものです。

佛向寺

2 再び天童宿

佛向寺山門前から西に向かい県道22号線に出ます。ここからが、本日の街道の旅の始まりです。

左手の五日町郵便局の手前が本陣丹野伝兵衛邸跡らしいです。城下町のため、他藩の大名が天童宿に宿泊することはなかったようです。その先の建勲神社入口左手に問屋近藤新兵衛家があったようです。斜向かいの水口屋付近が江戸中期以降の本陣・竹屋栄助屋敷跡です。

その先左手、竹内王将堂前に芭蕉の句碑があり、その先の右手ファミリーマート前にも芭蕉の句碑があります。芭蕉は、「奥の細道」の旅で、旧暦の5月27日(新暦の6月21日)に尾花沢を発って天童を通過し、天童宿の南外れの追分から羽州街道を外れ、立石寺へと向かっています。また、翌日には、馬で大石田へと向かっています。イザベラ・バードは、天童で宿泊できず、楯岡まで行って宿泊しています。

本陣丹野伝兵衛邸跡付近

本陣竹屋栄助屋敷跡付近

3 老野森・久野本・乱川

駅前通りの交差点を過ぎて200mほど行くと倉津川に至ります。川に架かる多喜橋は、かつてはめがね橋で、現在は愛知の明治村に復元されているそうです。橋の袂には「橋本」という茶屋があったそうです。現在も橋の左手前に「ハシモト」という菓子屋がありますが、関係があるでしょうか。

川を渡ると老野森(おいのもり)地区。開けた街並みが続き、左手に加茂神社と交流広場があります。次第に道が狭まり、橋から500mほど行った「呉服のささき」のところから久野本地区に入ります。この辺りから前方に真新しい大きな五重塔が見えてきます。常安寺の永代供養塔です。建立は2020年で、高さは32.7m。羽黒山にある五重塔を抜いて、県内2番目の高さだそうです。近年の五重塔の建設は珍しいのではないでしょうか。

常安寺五重塔

その先右手には巨木が生い茂る一角がある。熊野神社天満宮があります。市指定天然記念物の大ケヤキは樹齢600年だそうです。

熊野神社の大ケヤキ

その先、豊橋で押切川を渡ると乱川(みだれかわ)地内に入ります。右手には憧れの高級家具「天童木工」の工場とショールームがあります。街路樹があるゆったりした歩道付きの道路が続き、600mほどで乱川駅入口。さらに600mほどで乱川に至ります。乱川は、宮城県境を源とするこの辺りでは比較的大きな河川で、流路が定まらなかったので「乱れ川」という名になったと推測されます。ここを万代橋で渡ります。

天童木工

東根市

東根市神町(じんまち)地区に入ります。東根市は人口約4万8千人で、県内第6位。特産物はさくらんぼと麩です。市の中心部に近いところに空港があり「おいしい山形空港」という名称です。さくらんぼを前面に押し出した市政ですね。近年は、さくらんぼ東根駅周辺の新興住宅地に人口流入が進み、元々の市街地は空洞化しつつあるようです。

さくらんぼ日本一」は、寒河江市も主張しています。が、少なくとも、生産量は東根市が優っているようです。

少し行き、「とんこつラーメンこう路」の先の右手に畑が広がります。そして、森林総合研究所の入り口があり、その東には陸上自衛隊神町駐屯地があります。

神町には、かつて神町海軍航空隊が置かれており、現在の山形空港は、神町海軍航空隊の滑走路の跡に建設されたものです。航空隊駐屯地はその後アメリカ軍に接収され、神町駅には進駐軍の鉄道運輸司令部が置かれていました。神町は、神町駅も含めて、軍事色の濃い地域となっていたようです。駐屯地の北側には若木(おさなぎ)神社があります。

この先は、歩道のない道路となり、商店と住宅が混じる神町の街並みが続きます。神町駅入り口を過ぎ、しばらく行くと村山野川を渡ります。道が次第に広くなり、かっぱ寿司がある交差点(県道122号線との交差点)を過ぎると、新興住宅地となります。その先左手に「さくらんぼ東根駅」があります。駅に立ち寄ってしばし、休憩を取りました。

さくらんぼ東根駅は、かつては「蟹沢駅」と称しており、東根駅が市の中心部より北に寄っているために1954(昭和29)年に設置されました。山形新幹線の新庄延伸に伴い1999(平成11)年に現在の駅名になりました。駅には観光物産協会やコワーキングスペースが併設されており、山形空港へのアクセスのため乗合タクシーが運行しています。現在では、東根駅よりこちらが主要駅となっているようです。

さくらんぼ東根駅

さくらんぼ東根駅の先の歩道には、東根の松並木の名残が残っています。

その先、右手にガストがある交差点を左に入っていくと與次郎稲荷神社があります。1609(慶長14)年ころ建立されたと伝えられています。與次郎稲荷には伝説があります。簡単に述べると、1604(慶長9)、佐竹義宣が久保田城(現在の秋田市)へ移って2、3日後、御座の間の庭に1匹の大狐が現れて義宣へ、「築城のため棲家が失われたので土地を賜りたい。その代わりに飛脚となって江戸まで6日で往復する。」と願い出た。義宣はこれを認め、狐に與次郎の名を与え、ことある毎に與次郎が江戸との通信を任せた。ところが、飛脚の仕事が減ったのを恨んだ六田村の間右衛門が與次郎を罠にかけて殺してしまった。義宣は、残念に思い、城内に與次郎稲荷を建立した。その後、六田村では乱心するものが続失したため、六田にも與次郎を供養する神社が建立された。というものです。與次郎稲荷には、最上三鳥居の1つに数えられる妙に高さが低く、柱の部分が太い石鳥居があります。

與次郎稲荷神社

この先は旧六田(ろくた)村です。ここと、この北にある宮崎とは、交代で宿駅を担っていたとのことです。また、ここは名水の里として知られ、焼き麩の生産が盛んとのことです。六田は、白水川と日塔川が作る扇状地の末端部にあたり、地下水が集まってくる土地と考えられます。

芭蕉立石寺への往復の際に六田で「内蔵」と会っています。「内蔵」とは六田宿で馬引きを営む高橋内蔵介のことである。芭蕉らはここで、内蔵介に麩の料理のもてなしを受けたようです。左手「精工堂時計店」の前には「六田宿蟹沢街道辻 名水だんご屋の水」の説明板とモニュメントがあります。その先左手の「大山製麩所」の赤い鳥居の前にも名水の案内板がある。その先左手の駐車場が広い民家の前には「六田宿元祖斎藤本店 名水芭蕉の水」の案内板があります。その先の交差点の右前には小さな芭蕉の像が建っています。さらにその先の左手「文四郎麩」の店の角に六田麩の説明板があります。そして、その先で白水(しろみず)川を渡ります。

大山製麩所

水芭蕉の水

ここから、東の方へ1.5kmほど行くと天然記念物の「東根の大ケヤキ」があります。

さらに北へ進むと東根温泉がある。開かれたのは明治末期で、現在は「さくらんぼ東根温泉」と称し、18軒ほどの旅館があるということです。温泉の東方に「さくらん佐藤錦発祥の地」の碑があります。

東根市は、もとの市の中心は白水川の北岸地区だったと思います。現在、東根小学校がある場所が東根城の跡です。近年は、さくらんぼ東根駅の東側に新興住宅地ができて、市の中心がこちらに移ってきているようです。北岸地区には行っていないのですが、どんな状況になっているのでしょうか。(「新興住宅地を開発するのではなく、もともとの市街地に住み続けられるようにすべき」というのがごまめの基本的な主張です。)

5 楯岡宿

600mほど先に進むと「六歌仙」の酒造所があります。その先から村山市に入ります。村山市は人口約2万1千人、1954(昭和29)年に楯岡町を中心に周辺の村が合併して村山市が誕生しました。名産品はそば。また「ひっぱりうどん」の発祥地とされています。「居合道発祥の地」ともうたっています。楯岡は、中世から江戸初期まで楯岡城があり、この辺りの中心地だったとみられます。楯岡城廃城後は宿場町として栄えました。楯岡宿は高級な旅館も多く、人気があったようです。イザベラ・バードは、天童で、宿泊できず、三里半進んで楯岡で宿泊しています。

800mほど進んだ村山駅入口より先が楯岡五日町。この辺りが市の中心街のようです。

駅前から先に進むと、昭和期に建ったと思われる古い家屋もあり、寂れ感がある街並みが続きます。

駅前の早川食堂は、営業しているようです。左手のバルコニーのある洋館風の建物は、「丸藤」(大山呉服店)という洋服店の跡のようです。

少し行くと左手に入母屋造の重厚な建物があります。看板を見ると「やまか呉服店」とあります。手前の駐車場が脇本陣・江戸屋旅館跡のようです。向かいの村山郵便局は楯岡本陣・笠原茂右衛門家の跡とのことです。

ここから西、線路の方へ行くと、「甑葉(しょうよう)プラザ」という大きな現代風の建物があります。甑葉プラザは2010(平成22)年5月に開館した市民の交流や学習活動の拠点施設です。愛称の「甑葉」は、村山市を代表する2つの山「東の甑岳(こしきだけ)、西の葉山(はやま)」に由来しているそうであす。

ここに市立図書館が入っていますが、村山市の図書館は、地元の大地主だった喜早家(きそうけ)が1920(大正9)年に屋敷内に作った私立楯岡図書館が前身です。旧図書館は2010年まで開館していましたが、機能を解かれた後、取り壊されたとのことです。楯岡図書館は、旧街道より東に入ったところにある本覚寺の脇、現在の喜早公園のところに建っていたようです。村山市は「読書シティむらやま」を宣言し、読書を奨励しています。

楯岡は、この地域では大きな宿場で、立派な旅館が多かったと聞いています。現在は、地域の人には申し訳ないですが、寂れ感が大きいように見えます。天童や東根に移り住んでいるのでしょうか。あるいは仙台、東京でしょうか。村山駅前地区のような場所こそ、栄えてほしい地域です。天童市の一日町、五日町のようになるといいと思いますが。(ごまめの勝手な見解です。)

楯岡五日町

丸藤跡

やまか呉服店 手前の駐車場が脇本陣

本陣跡 村山郵便局

甑葉プラザ

村山駅 そして帰路に着く

楯岡宿の散策は、次回に回すことにして、村山駅に向かいます。計画を立てているときに「村山駅なんてあったっけ?」と思ったのですが、調べてみると、1999(平成11)年の山形新幹線新庄延伸に合わせて「楯岡」から「村山」に改称したのだそうです。(さくらんぼ東根駅も同様ですが、こちらは、認識していました。「さくらんぼ」の名称にインパクトがあったのだと思います。「読書シティ村山駅」なんてどうですか。)

駅は現代的な建物で、2階に行くと、待合室と売店を兼ねたスペースがあって、蕎麦等を食べることができます。暑かったので、冷たい蕎麦を注文したら、かけそばの汁が冷たいものが出てきました。昨日の「冷やしラーメン」と同じです。面白いですね。関東では冷たい蕎麦は「もり」か「ざる」ですよね。汁が冷たいかけそばは初めて食べました。

そして、14:23の山形新幹線で帰路に着きました。

JR村山駅

旅の記録

スタート 天童市本町 8:30

ゴール 村山市楯岡五日町 12:30

約13km 4時間(休憩を含む)