藤宮史の日記 (original) (raw)
午前10時半すぎ、晴天。気温11~20度。短い秋に入っている。右籾の秋は短い。あと10日もすると、もう冬である。栗の木の葉は枯れ、柿の木の葉も枯れて、寂しくなる。鉢植えの布袋竹だけは冬でも枯れない。
鉢植えの柘植も枯れない。枯れるのはオジギソウである。黒椿も枯れないが、オジギソウは、また来年である。
竹鉢の後にあるのは、芝の上に生えるトクサである。この北海道産のトクサは生命力が強く、繁殖力が強い。4年程で、3本が300本になった。竹の繁殖力も負けてないが、トクサには敵わない。
午前11時半まえ、曇り、ときどき雨。気温20~24度。細かい雨が降っている。体感温度は20度よりも低い。10月中旬は、短い秋である。
以前印刷した木版画に手彩色をしている。
木版画「かざぐるま」「猫とリンゴ」「からかさ」である。・・・窓外は雨である。出掛けることもできないので、仕事が進んでいる。・・・それから、近頃は油絵もアトリエにしている物置小屋のなかで描いている。今は0号サイズのキャンバス10枚に下塗りをしている。下塗りは三度、四度するので、下塗りだけでひと月以上の時間が掛る。このキャンバスには「おくりもの」と同等の画想で描きたいと思っている。・・・そして、また他に、6号サイズのキャンバスに「阿佐ヶ谷・三畳ひと間(仮)」を描き始めている。この絵は発表を考えていないので、気楽に、勝手気儘に描いている。この気儘と云うのが、今の私にとって、とてもいい。しばらく味わっていなかった爽快感がある。これこそ創作活動の醍醐味だと思っている。
午前8時半まえ、曇天。本日の右籾の気温19~24度。暑くもなく、寒くもない。いい季節である。風もない。
過ぎゆく夏を思って、今の気持ちを一枚の写真におさめてみた。
今年の右籾の夏も暑かった。酷暑と言っていい暑さで、とても夏を惜しむ気持ちもおこらないが、仮想としての「夏」への思いを撮ってみた。
私たちは、夏の季節を失ったのかもしれない。50年まえの「夏」は、たしかに夏らしい夏であった。50年まえの8月の平均気温は27度強で、今は29度である。記録上では2度高いだけであるが、実感としては5、6度高い気がしている。私の子供の頃は、気温が37度になることは無かったと思う。37度は、気温の数字ではなく、体温の微熱の数字だと思っている。
もう、今の7月、8月は、50年まえの「夏」ではない。今の夏は、6月上旬、9月下旬から10月上旬に移動している。そう気温の数字が示している。今の7月、8月には新たな季節としての名前が必要になっている。
午後5時すぎ、雨天。気温15~18度。右籾もすっかり秋の気配である。昨日から冷たい雨が降りどおしである。
先日、庭の栗の木から栗の実を採った。去年も採れたが、今年は長期間の猛暑の印象がつよく、格別の感がつよい。
そして、初夏から庭に咲いているオジギソウである。このオジギソウは去年落下した種が地面に着生したものである。意図しないものだけに愛着は一層深い。それにオジギソウの葉は、私の指が触れると、感応して閉じてゆく。植物でありながら動物のように素早い反応をしめす。そこもいい。
丸い薄桃色の花をつけて、可憐な佇まいである。私は、このオジギソウの青い、整然と並んでいる葉が好みである。
午前11時すぎ、雨天。気温20~31度。湿度は高いが、気温はまだ低い。だんだん蒸し暑くなってはいる。
先日から、過去に印刷した木版画に手彩色をしている。
この風景画は、東京の杉並区を流れる河川と街並みである。河川と云っても、田舎の護岸工事の完璧でない河川とちがって都会の河川は完全管理の下水道と云う趣きである。この寒々しい風景を見ながら毎日暗澹たる思いに沈んでいたが、「押入れ頭男」の登場する風景としては適当であった。そして、
木版画「押入れ頭男」にも手彩色をした。この版画は単行本のはじめの頁に掲載した版画である。上掲の版画をならべて見ていると、まさに「暗い絵」と云う感じがする。