第三章 美術工芸学校時代(2) (original) (raw)

明治三十一年三月父が名古屋の森村組出張所へ転勤となったので、私は下宿生活をする事となった。最初は父の知人であった六角堂前の煎豆屋の二階を、三食付き月五円五十銭で泊っていた。同級生に川端敬雄(春翠)(卒業後山元春挙先生の門下となり草笛会の同人として桜を得意としていたが惜しい事に十年位前故人となった)という私より一つ年下の友人が予備科から一緒で一番仲が良く然も金持ちの三男坊だったので遠くへ写生に行った時等は種々の費用を出しておいて呉れた。そんな仲だったので彼の家へはよく遊びにも行き御馳走にもなり時には泊ってきた事も度々あった。

私の下宿から学校迄は相当遠かったが、当時電車等の乗物が無かったので朝早くからテクッて通っていた。たまたま春翠の画室が二階で、三室も有り広いので私に来ないかと言われたので、これ幸いと同家に御厄介になる事になった。此処から学校迄は近く五分もか丶らなかった。妹に菊枝さんという人が居り背のスラッとした仲々の美人で女学校へ通っていた。我々仲間の評判娘で「曽我はうまい事をした。幸福な奴だ」とよく冷やかされた。

といってもその為に其所へ厄介になった訳では無かった。約一年位世話になったが彼の兄が大阪から帰って来るのと同家の都合で鴨川の辺り、丸太橋詰へ移転される事になったので私も近くに頼山陽の旧宅のある三本木の辺り仲町竹屋町下る井上という東京生まれの人が経営している下宿へ移る事になった。此所には同じ学校の生徒も二、三人泊っていた。私が東京生まれだというので主人とは特に別懇となり何かにつけ特別の扱いをして呉れて部屋等も八畳の一番良い所にしてくれた。

明治三十二年の秋頃から同級生で新潟生まれの豊島停雲、河内の島田海南(卒業後アメリカへ行き病気となり帰国、十五年位前に亡くなった)等と放課後、都路華香先生の私塾に通い人物画を勉強する事となった。当時富田渓仙はそこの玄関番を兼ねて弟子となっていた。

変わった人ではあったが勉強家で末頼もしい人だと思っていたが果して後年日本美術院の同人として画壇の重鎮の一人となった。惜しい事に名声半で亡くなった。又同級に江馬静山という人がいた。この人は明治の書家小野湖山と同様に名声が高かった。白鬚膝に至るという鬚の持主江馬天江老人の息子で私とは親交深く趣味も同じだった。この人とは卒業後音信は絶えていたが西陣の辺りで友禅の図案を描いて居るとの事だ。

名は履、字は士基、これは天江老人が私につけて呉れた別名だ。履は徳の基なり云々という漢書の語から引用したとの事である。豊嶋停雲は多芸多趣味で、頭が大きく髭を朝鮮人の様にチョッピリ生やした色の黒い眼の大きな肩の張った男で何時も五つ紋の黒木綿羽織に歯の付いた下駄をはいていた。

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