第四章 京都下宿時代(2) (original) (raw)

主な事は万事女将が切り回していたが下宿代の事等はあまり督促がましい事を聞いた事が無かった。下宿人は全部で十二、三人は居た様だ。私は始め二階の三畳七分五厘という四畳に足りない隅の室で半年許り辛抱していた。下宿代も安かったが三畳七分五厘舎の主人と自称していたのも、この時だ。

その後、下の八畳の部屋へ移ったが初めは彫刻家の先輩で国安稲香という人と同宿していた。彼の兄さんが京都森村組出張所の会計係の小滝さんと言って父も私も、そこで知り合いであった関係から国安君の話が出て同君も私を知る様になった。科は違っていても先輩なので何となく心強く兄貴の様に思って交際していた。国安君と小滝さんは性格が全く異なり小滝さんはクリスチャンで(同志社出)宗教型の人、国安君は磊落な明けっ放しの好男子で酒も飲めば相当遊びもする。北垣確(元京都府知事の息子)とは無二の飲み仲間であった。私がこの下宿へ来てから学校関係及び画塾関係の同好の士が集り次の様な人々が泊っていた。

国安稲香(美工、彫) 清水古関(美工、絵) 戸田天羽(美工、絵)

山脇謙次郎(美工、絵) 小村大雲(景年塾) 井村方外(景年塾)

谷上広晁(景年塾) 大北淡斎(景年塾)

小村大雲 ー 後年大家になって名を残したこの人は、浄瑠璃が得意で夕食後私の部屋へ皆が集まった時等「オィ小村、一段語れっ」と言われると御本人は少し、はにかみ乍ら、それでも枕屏風を立て丶「半七っあん今頃は、、、」等と柄に似合わぬ声を張り上げて語り出す。

素人離れしていて本人も得意であったのであろう。

大北淡斎 ー この人は伊勢の皇学館を出て塾へ通っていた。国学者で和歌等は万葉調の良い歌を詠み、書も上手であった。

この他、谷上広晁、清水古関等という人は勉強家で中々真似は出来なかった。

然し勉強する割には筆の方は、それ程でもなく絵画等というものは形の上の勉強許りでは駄目だと私は何時も主張していた。古関等はそれで何時も胃が悪く常に「苦味チンキ」許り飲んでいた。

戸田天羽 ー この人は出雲の産で小柄で風采の上がらない田舎じみていた人だが愛嬌者で雀の絵が得意だったので「紙上殆どチュンチュンの声を聞く」等からかわれていた。

この頃月琴という楽器が大流行で書生と言えば月琴、月琴といえば書生を連想する様に至る所で弾かれていた。私も遂に江馬静山君の手ほどきで「九連環」とか何々とかいう楽譜を覚えて清水古関なども引っぱりこんで盛に合奏や独奏会等を催して楽しんだものだ。誰でも簡単に覚えられるので、この様に流行したのであろう。流行の俗曲等、容易に弾く事ができた。

私の部屋は皆の集会所の様で何時も一人や二人は遊びに来ていた。人が集まると始まるのが阿弥陀籤だ。一円位の菓子はペロリと食べて終わった。

又その頃盛り場の新京極に娘軽業師の興行が人気を呼んでいた。十四、五才のお玉という娘が座頭格で五人の娘と共に大きな玉の上に乗って自由自在に走り回る姿が可愛らしく愛嬌に色気が伴って人気を呼んでいた。私等の中でも夫それぞれ心を寄せて贔気というよりは寧ろ感情的に毎晩出かけて行く常連さえ居た。A君やS氏の如きは其の熱狂振りが学校でも評判になった位だ。私もその一人に数えられていた。私は其の当時「娘軽業師」という短編を綴って軽業師の境遇に同情したものだ。又此の他に剣舞や詩吟も流行した。之も同じく新京極に何々剣舞団という興行があって之も非常な人気で私等は殆ど毎晩の様に出かけ、その型を覚えては宿で練習をしてみたりした。

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