女の美学 ~人間観察記~ (original) (raw)

最近モヤっとした話をここに吐き出そう。

とある、その方は物事をそんなに深く考えるタイプではない。

だからいい面も沢山あるんだけど、ちょっと調子がよすぎるところが玉に瑕。

もう別の場所へ移っている人に対して、いなくなった人を懐かしむ気持ちは誰にでもある。

でも、いなくなった人(存命)に対して直接「あなたの方がよかった」と伝えるのは、ケースバイケースだけれども、あからさまなヨイショだと聞いているこっちはちょっと気持ち悪い。

それとか、現担当者に対する不満のダシにあからさまに使われた感もあんまり気持ちよくはない。

どういうシチュエーションでその言葉が放たれたか、背景も含めて考えることは大事だが、その場に居合わせたわたしとしては、いらんことしいー・・としか感じなかった。

その人のポジションにはもう別の人がいる。

そしてその人の異動は、栄転ではない。

その前任者本人もそのポジションにいた時は色々と言われていたし、そういうあなたも御多分に洩れずけっこう文句言うてたよな…

好みはあるだろうし、単純に今の人より前の人の方が好きだったなぁ、と比較対象が出来て初めて気づくのは仕方ない。

陰で好みを言っている分には問題ないんだよ。

でも、きっとそのポジションにいる人間は性格的な好き嫌いの差は多少あれど、誰かしらに何かしらを言われてしまう立場だ。

誰がやっても気に入らないことの一つや二つ、必ず出てきてしまう。

そしてそれは仕方ないことだ。

だから、もう違うところで前を向いている本人に面と向かって「あなたの方がよかった。わたしは昔からあなたを支持していた」とか言ってしまえるって、ちょいとチャッカリしすぎやないですか。

だってよ、すごく真面目に言うとさ。

その人はその時に、本人なりに精一杯やっていたはず。

じゃ、なんでその時に気づいて守ってあげられなかったん?

そう思ってんなら、本人じゃなく上層部にでも訴えてみろや。

まぁ、守ってあげることなんてそう簡単に出来んわな、ならそら仕方ないとしても、

文句タラタラ言うだけで守りもせんと不甲斐ない立場なら未練がましいこと言うなや、誰得だそれ?と、

厳しいかもしれないけどわたしは思ってしまうのだ。

言った本人は別にそこまでのつもりはないだろう。ただの軽口、終、以上。である。

まぁ、所詮は他人事っちゅーことではあんたも私も一緒だが。

言わないことが冷たいと思うタイプの人はそのリップサービスが優しさだと思っていたりもするから、どっちが正しいかなんてわからん。

どっちも正しくないし、どっちも正しい。

正解を決めるのは言われた本人。

優しさ、思いやり、に対しての考え方、表現が違うだけで、別にどっちが悪いというほどのことではない。

それにしても。

ここからは単なるわたしの気持ちの吐露だ。

まだ10代や20代の人生経験も浅い子ならばまぁ仕方ないなーと受容できるのだけど、40過ぎてそれはちょっとフォローがしんどいわ、 と内心思う。

やるならもっとスマートにやってくれたまえ。

そうやって、見たくもないしょーもない野暮な矛盾を見せつけられてしまう時、人間不信が加速しますのよ。

表と裏があるのは社会を生きる上である意味普通なことで、それ自体は何の問題もない。

ただ、自分と人を無駄に傷つけたりイラっとさせないように上手く表裏を使い分けてくれ、と思う。

TPOも野暮なら見え透いた半端なおべっかも野暮で、つまりはなんだか全体的に野暮な一言だったんとちゃいますか。

リップサービスにしても調子がよすぎる人はちょっと軽蔑の眼差しになってしまう。

まあ、人間だからそんなこともようあるわな、と生温かい目で一応受け流しはするけれども。

言われた方も似たような調子のよい人ならばさほど問題ないのだろうけど、言われた方がそうじゃないタイプだとそういう事を言われてしまう方がモヤっと微妙な気持ちになったりする。

表向き喜ばすようなリップサービス、なんかわたしだったら微妙な気持ちになってしまってあんまり嬉しくない。

嬉しくなる人もいるのだろうけどね。

と、いちいちそんなの気にしてたら言いたい事も言えない世の中じゃ、になってまうから。

適当に受け流すのがおそらく正しい大人の対処法。

まぁ、言われた方は一枚上手で真に受けていなかった。

まぁそんなもんだよー、って大人な対応で流していたよ。

「人ってさぁ、しんじゃったりいなくなっちゃったりするとそう思ったりするじゃーんっ、ハハッ」と半笑いで言うてはりましたわ。

鋭いどす。

さすがですわ。

その飄々とした姿勢にちょいと救われましたよってな。

ちょっと物騒だが、嫌いな人が去っていくおまじない、というのがあるそうな。

ここでは具体的な方法論については触れないが、ググると掲載されているサイトが幾つかある。

そのうちの一つに「紙を人型にカットして燃やす」というのと「夜にキャンドルを灯して呪文を唱える」というのがあった。

想像するとなかなか恐ろしい姿である。

丑三つ時の藁人形に通ずる怖さがある。

言葉やデスノートに書くよりも何やら強力な感じがする。

浄化なのか、呪いなのか、願いなのかは分からないが、それほどまでに怒りに支配されて苦しいという気持ちは分かる。

人型や藁人形まではさすがに無いけれど、怒りを鎮めてスッキリしたくて「サヨナラ」の気持ちと共にその人の形跡あるモノを火にくべた経験、実はわたしにもある。

強い怒りや憎しみに近い感情の処理に戸惑っていたその時はそういう方法が波長的にも合っていたのかもしれない。

火にはそういうパワーがあるんだろう。

たしかに「火」という漢字がつく言葉は人間には刺激的であり、ちょっと付き合い方を誤るとその力がなんとなく「災い」と隣合わせな感じにもなる。

たとえば

火遊び

炎上

尻に火がつく

火中の栗を拾う

火の無いところに煙は立たぬ

飛んで火にいる夏の虫

火に油を注ぐ

嫉妬の炎を燃やす

などなど。

でもその一方で、炎にはリラックス効果もある。

キャンドルはリラックスの定番アイテムだし、キャンプファイア、焚き火のゆらゆらと揺れる炎にはざわつく心を鎮静させてくれる効果がある。

実際に「f分の一ゆらぎ」という自然界の癒し効果も検証されているのは有名な話だ。

キャンドルの炎を再現したLED照明が沢山あるように、人間の心にはそういう自然界のリズムに則った癒しが時たま必要なのだろう。

そういう効果も含めて考えてみると、呪文だとか人型だとかそういうリアルに呪い的なものは怖いけれども、炎の揺らぎと共に嫌いな人とやらを心の怒りの炎と共に昇華させていくのはそんなに悪いことでもないのかもしれない。

直接危害を加えるとかでもないし。

自分の中で天に昇っていく炎と共に自然界の揺らぎに心を委ね、浄化を願いきっちり燃やしきってしまえば案外スッキリしそうだ。

でも、縁が切れるように、くらいの「願い」ならまだいいけど、相手の不幸を祈るような「呪い」はやめた方がいい、と思う。

人を呪わば穴二つ、という。

自分に返ってくるかどうかは天のみぞ知ることだが、現実的に考えても人を呪ったり恨みを持ち続けるような人物になってしまうこと自体がヤバイ。

近づかない方がいい俗にトラブルメーカーといわれるような人もその手のタイプである。

そういう思考に囚われだすと、自分の身の回りの気の流れや運気が滞り、澱み、厄介な疫病神に好かれてしまう気がする。

ちなみに、嫌いな人が去っていくおまじないの他の方法には「水に流す」もあった。

嫌いな人の名前をトイレットペーパーに書いて流すと。

もし、自分の名前が書かれて流されているところを想像するとなんだかゾッとする。

実害ではないにしても何となく気持ち悪い。

知らないところで嫌われていても気づかないものだし、どうやっても嫌いな人というのはいるらしいのでその辺は防ぎようがないが

そういうことを考えると、自分の制御できる範囲においては人に恨まれるような言動にはなるべく気をつけようと改めて思ふ。

人は分かり合わなくていい。

共感できなくてもいい。

分からないものを分からないこととして、認められればそれでいい。

自分には理解できないことを理解できないこととして、相手の存在を許せればそれでいい。

分からない相手を自分の基準に押し込んで無理やり理解しようとすると正義のぶつかり合いになるんだ。

正義なんて、人それぞれの正義がある。

正義と正義の戦いは終わりなきデスロード。

でも、自分に害が及ぶような嫌なやつには、時には許さない姿勢を取ってもいい。

ただ、相手を必要以上に非難する必要はない。

自分が相手を裁く必要もない。

人の運命を他人がどうこうしようとしない方がいい。

そういうものは天に任せる。知らんて放り投げる。

心を自由にして、解放する。

心を離す。

分かり合えない人とは、お互いが許せる分だけの距離を取る。

人と人は、分かり合えるから幸せなわけじゃない。

分かり合えない人とは分かり合えなくていいと認められる方がきっと幸せ度は高く、分からない人が沢山いるからこの世は面白いんだ。

今日はちょっぴりスピリチュアル的な話でっせ。

幾度も「悪口」について書いているけれど目には見えないことをつらつらと。

とっても感覚的でござんす。

と、いうか、感覚的でしかない。

理論とか根拠とかはよくわかりませぬが

生きてきた年数で実感すること。

今までも、今でも、色んな人達と接していて改めて

やっぱり人の悪口はよくないんだな、と40歳半ばにして更に思ふ。

正しいか正しくないか、とかの次元ではなく

なんとなく色々なものが狂ってくるのでござんす。

そして自分の身に降りかかる災いの確率を自分で高めておるんどす。

でもここでいう災い、とは、特別な事や見えない世界の話とかでもなくって超現実的な話でござんす。

面倒事に巻き込まれるリスク。

信用を失うリスク。

それだけでも充分なくらい、知らず知らずのうちにきっと目に見えない運気の流れのようなものも落としてる気がしますよって。

天に向かって唾を吐くって、そういう感じの事も含むのかもしれない、とふと思いまする。

緩やかに落ちていくことというのは自分では気づきにくいからこそ、気をつけようと戒めるべし。

とは言うても

思ふことは悪ではない。感じることも悪ではない。

なので、悪口を言いたくなったら人知れずデスノートへ書き殴るがよいでござんす。

人知れずこっそり思って書いているだけなら天罰はくだらないと思われまする。

むしろ人畜無害。健気でよろし。

「行動に移す」ことで良い方にも悪い方にも「運」というものは動いていくんだろうと思われまする。

だから、他人様への言動はよう気つけなあきません、と思ふのです。

そうです。裏で何思てたって、配慮は必要です。

リアルの人間関係は案外、腹黒いくらいでちょうどええんかもしれませんえ。

鬼だらけの世知辛い世を渡る掟として、特に仕事関係者の仲間内での悪口は言わないに限る。

これは道徳上ではなくリアルな世渡りの話。

当たり前な人には当たり前のことなのだが、当たり前じゃない人には当たり前じゃないことなのが厄介。

誰かの悪口にならない程度の軽い「愚痴」ならセーフだが、その辺が曖昧なものもあるので、とにかく危ういゾーンに含まれるようなことは言わないことだ。

だが自分含む色んな鬼がいる以上、合う合わないなどの相性もある。

ストレスを溜め込むのはよくない。

仕事関係者と全く違う世界の住人で聞いてくれる人がいたらその人へ愚痴って聞いてもらうのもよいだろう。

でも愚痴ばかりでは敬遠されるしそもそもそういう相手がいない人もいるかもしれない。

友達に共有するのが愚痴ばかり、という自分にもなりたくない。

ではどうやって発散するのかといえば「デスノート」だ。

自分だけが見るデスノートを作り、気が済むまで書き殴る。

鬼の形相で。

で、そんな風に鬼のわりには人畜無害な方法で健気に葬ったとて、残念ながら悪口を好む鬼に出会って捕まってしまう時もある。

現実的な対処法としては「心を鬼にして」同意はしない。

が、敵意も向けない。

心の鬼は外に出さずに福の顔して話を逸らす。

鬼は内側、福は外側、で。

いわゆるスルースキルというものを身に付ける。

そして鬼の正しい心構えとしては「自分は言われていないだろう」ではなく、「自分も言われてるんだろな」である。

適当にあしらいつつ、たとえ言われていたとて気づいても知らんぷりできる強かさは身に付けていたい。

いや、正確に表現するならば「身に付ける」というより「備わっている強かさを思い出す」の方がきっと正しい。

「したたか」ってなんとなく嫌味な響きで使われる事も多いけど、本来の意味はそこまで悪くない。

どちらかというと「狡賢い」とか「小賢しい」とかそういうネガティブなイメージと勘違いされやすいけど、

そこまで行き過ぎるしたたかさじゃなくって、力強く世渡りができる方の強かさだ。

たぶん、「狡賢い」と「強か」の境目はマナーやモラルの有無。

マナーもモラルもへったくれも無くなると、他の鬼たちに本気では遊んでもらえなくなる。

仕事ではなく雑談で、女子の会話って目的地とか解決策とかがなくフワフワゆるゆると流れていくことが多い。

それでも適当になんとなくいい感じで進んでいく、そしてそれが楽しかったりもする。

一口に女子といっても勿論人の性格にもよるけれど、大きく男女で分けるとしたらの話。

感覚とか気持ちとか感情が優先。

そんな中で最近ふと思ったこと。

同じ女子同士でも心地よく感じる会話には「相手への」否定や称賛がほぼ入らない。

相手への否定は分かりやすいから説明するまでもないとは思う。

仕事でもないのに目的もなく否定されて気分がよくなる人はあんまりいない。

でも相手への称賛というのはけっこう人によって捉え方が違うんだと思う。

私も昔意識していない頃は分かっていなかった。

たまたま学んだ心理学の中で相手に対して配慮すべき言動の項目に「称賛」が入っていた時は「そうなのー?」って驚いたことを覚えている。

でも「すごいね!」って思わず口に出ちゃうくらい感心する時って実際にはあるから、絶対ダメ!とかでもないとは思うんだけど

常用するのは確かにあんまりよくないなと思う。

口癖のように誰彼構わずやたらと本人に直接「すごいねぇ」と言う人は言われてみればちょっと付き合いづらい一面がある。

ほんとに思わず出ちゃった「すごいねー!(↑)」じゃなくって、どことなくネットリとした嫌味を孕んでいる「すごいねぇ(↓)」な感じといおうか。

まず「ヒト」にそこまでフォーカスすることがなんだかちょっと心地悪い。

フラットに横向きでゆらゆらと移ろいながら進んでいくはずが、ヒトを中心に縦の世界に分断されてしまう感じ。

楽しい雰囲気で平和に進むはずの会話も、そういった人が一人いると一気にトーンダウンしてしまったりする。

呑気で平和な晴天の空に流れていたゆるやかな雲に、暗雲が立ち込める。

その人の一言が雷が光るようにピリっと緊張感が走り、下手なことを言うと捕らえたターゲットに雷が落ちる。

女子の平和な均衡が崩れる時って、案外そういう人のところから何気なく始まってしまったりするような気がする。

あからさまな否定より分かりにくいニュアンスで徐々に空気を曇らせていくから質が悪い。

捉えどころのないのが心地よかったのに、そういう人はあらゆること、人を捕らえまくる。

表面の感情だけで処理すると、そんなに必死で他人と戦わなくても大丈夫だから、もっとお気楽にいこうよー、と思うのだけど

自分に対して不安が強い時ってそうなってしまうのかもしれない。

そして、自分と向き合う時間を作った方が、そういう暗雲は人前では見せないようにできる気がする。

人と比べることは誰にだってあるし、比べてしまうのは人間の性なのかもしれない。

それに人の心は晴天ばかりじゃないから、曇天だって雨だって雷だってぜんぶオッケーなんだけれども、

やっぱり、他愛のない女子トークをする時くらいはできるだけ晴天で大笑いできる方が面白いなーと思う。

そしてそういう時に晴天でいられる人って、きっと人の見えないところでは曇りだったり雨だったり雷だったりする心を受け入れてそんな自分とも向き合えているんじゃないかなと思う。

人に気を遣わせない、大人女子。

自分もそういう人であれるように、自分自身の曇天や雷模様の心も受け入れて、イヤな自分ともたまには向き合っていこう。

忍の者シリーズ第二弾。

これはけっこう難易度が高い術だ。

わたしも現在まだ修行中の身でマスターするに至っていないのだが、だいぶ前から意識して術を鍛錬しているので少しここで語ってみることにする。

高度な術を使える気遣い忍者たちは、相手に「気づかせない、そして気を遣わせない気遣い」という術を操れる。

それはそれは、変幻自在に。

相手によって、時と場合によって、何がベストかその都度答えが違う。

その時の相手にとってベストな術を探る眼力と、空気を操れる力も持っている。

相手に応じてオーダーメイドな気遣いができる。

決して気づかれることのないような、あくまで自然体な言動を装いながら

時に敬語、時にタメ口を使い分けてみたり、時に冗談を言い、時に真面目な話もしてみたり、時にアホかのように見えたりもするが、

相手は知らぬうちにリラックスし、心がほぐれていたりする。

ただ、いきなり初心者がそこを目指すのは無理なので少しずつ鍛錬を重ねて術を身に付けるしかない。

相手によってその都度答えが違う術を見てそこを真似ようとしても「型」が無いと、単なる天才かのように惑わされるので、いきなりは難易度が高すぎる。

鍛錬のまず第一歩は自分の気配を消すことからだ。

そして相手を観察すること。

自分を消すと自ずと相手が見えてくる。

「自分が」の「我」を消す。

「自分は」こうしたい

「自分が」こう思われたらどうしよう

「自分が」イラっとくる

「自分が」困る

から

「相手が」何を言おうとしているのか。

「相手は」何が嬉しいのか。

「相手は」何に困っているのか。

「相手は」何がイラつくのか。

「相手は」どんなものが好みなのか。

に意識を向ける。

自分を極力ゼロに近づけて相手に意識を100向けるよう鍛錬。

但し、相手にキモイと思われるような観察の仕方をしてしまった時点で忍び失格。

気づかれないようにするのが忍びである。

そしてそれができるようになったら次なる段階は、自分も相手も疲れないようにその場をうまく収めることが出来るかどうか、の鍛錬だ。

相手の観察をして相手の要望を汲み取れるようになったとて、相手に振り回されて疲弊しているようではまだまだ、だ。

予め自分の着地すべきところを決めておける余裕が出てきたらなかなかだ。

ここで突然自分の話になるが、昔社会人になったばかりの頃にお客様相手に前に出る仕事だったこともあって、ひたすらに気を遣いまくる日々でやや疲弊していた。

その時の上司に「頑張って気を遣っているんです」みたいな話をした際に返ってきた言葉が秀逸で、未だに覚えている。

「気を遣う」のと「気を利かせる」のは違うことなんだよ、と。

確かに当時のわたしはなかなかに頑張って気を遣ってはいたが、気を利かせることはおそらく出来ていなかった。

年上の人生経験豊富のお金持ちの方達を相手に「気を利かせる」とはどういうことなのか、それこそ上司の背中を見て、自分の失敗も沢山経て、学んできたように思う。

そうしていくうちに分かってきた。

「気を遣う」のは自分本位。

「気を利かせる」は相手主体なんだと。

分かりやすく言葉を変えてはいるが、同じ「気を遣う」でも、どこに意識が向いている気遣いなのかによって、その後のコミュニケーションの取りやすさ、相手の心の開き方もだいぶ変わってくるのだと思う。

もちろん時と場合によるけれど

「気を遣う」というのは相手に対してシタテに出て謙虚に立ち振る舞えばいいというわけでもなく、むしろそれがかえって相手に気を遣わせてしまうこともある。

そして「気を遣っている」という事が相手に伝わってしまう時点で、相手にも同じく気を遣わせてしまう。

そしてお互いになんだかぎこちない空気の中頑張ってコミュニケーションを取ろうとするから、お互いに疲弊する。

一応それも含めてその人なりに頑張って相手を思いやっている結果の気遣いなわけだから、それも決して間違いでもないのだけれども。

でもやっぱりスマートにできるに越したことはない。

自分も疲れない、相手も疲れさせない、お互い楽になるのならそれが一番だ。

上級の忍の者たちの変幻自在な術はぜひとも見習いたい。

段階も沢山ある難易度高めの術であるが、身に着けていた方がコミュニケーションがスムーズに進むだろう。

気遣いで疲れてしまう健気な者たちが少しでも楽に生き延びるための忍びの術である。