オシラサマを辿る東北取材ノート〈7日目・中編〉 (original) (raw)

〈偶戯を巡る〉は、人形遣い・人形美術家の長井望美と戯曲作家・演出家の藤原佳奈が、人形芸能のルーツを辿り、取材とその報告、試演実践を重ねながらそれぞれの上演へ歩みを進める場として立ち上げました。

以下は、〈偶戯を巡る〉第一回目の試みとして人形操りのルーツと言われる東北の民間信仰オシラサマを取材した7日間の記録ノートです。週一回月曜更新予定です。

陸前高田市立博物館に展示されたオシラサマのレプリカ。ガラスの展示ケースの内側にクッキーがお供えされていました。

オシラサマを辿る東北取材ノート〈7日目・中編〉

2024年6月29日(土)取材 Day7.

黒森神社(岩手県宮古市)→陸前高田市立博物館(岩手県陸前高田市)→えさし郷土文化館(岩手県奥州市)→帰京

記:長井望美

黒森神社を失礼し、陸前高田市立博物館へ向かいます。陸前高田市オシラサマの保有戸数の岩手県内、そして国内でも最多記録を誇る地域。平成十九年の調査では102戸(*岩手県立博物館調査報告書第23冊)とのこと!どんなオシラサマに出会えるでしょうか。

陸前高田市は2011年の東日本大震災で17メートルの津波に襲われ、1800人以上が亡くなった地域でもあります。市の中心部の土地を10メートル以上かさ上げし、復興を目指し新たな街づくりが行われてきたそうです。博物館に向かう車窓からも新しい印象の家屋・施設が目立ちました。

Am10:25 陸前高田市立博物館

さて、陸前高田市立博物館に到着!

令和4年11月に開館した陸前高田市立博物館。

陸前高田市立博物館は2011年の東日本大震災で全壊。同じく全壊した海と貝のミュージアムと合築して新設し、発災から約11年8カ月後の2022年11月に現在の姿で開館されたそうです。

入館するとまず、被災した収蔵品の修復作業をリアルタイムで見学できるガラス張りのブースがありました。

修復作業中。扱っていらっしゃるのは古い紙の資料ですね。

…被災した資料は、陸前高田市立博物館をはじめ、4つの文化財関連施設に収蔵されていたものを合わせて約56万点であり、うち救出された資料は約46万点に上ります。これらの被災資料を再生させるための取組が、震災直後から日本博物館協会東京国立博物館国立科学博物館岩手県立博物館をはじめとする全国の専門機関や大学の支援のもと行われてきました。津波で被災した資料の再生は、国際的にみても経験がなく、その方法は未確立であることから、修復作業に取り組む多くの機関では、直面する様々な困難を克服しながらの処理作業が今も続いています。

これまで取り組んできた津波被災資料の再生については、その修復技術を館内で公開し、文化財保存の重要性を発信するとともに、近年、全国的に発生している土砂災害等の様々な自然災害によって被災した資料の再生活動の一助となるよう、努めてまいります。

ー2024年5月「館長挨拶」より引用

館長挨拶/陸前高田市ホームページ (city.rikuzentakata.iwate.jp)

展示スペース⑦「よみがえる博物館」のコーナー。被災した文化財の様子やレスキューのネットワーク、修復や安定化技術が紹介されている。

展示スペースの入り口に展示されている書き置き。「博物館資料を持ち去らないで下さい。高田の 自然 歴史 文化を復元する大事な宝です。 市教委」当時人的にも大きな被害を受けていた市の教育委員会とは別の“誰か”の機転により残されたこのメッセージは、資料の救出にあたった職員たちに大きな勇気を与えてくれたそう。博物館再生のシンボルとなり、陸前高田市アイデンティティを次世代に継承していくことの重要性を訴え続けている。

陸前高田市立博物館パンフレット」より。館内案内図

偶戯チームは入り口から入って、なぜか誤って案内図⑨の体験・学習の展示室から逆順路…未来から太古へ遡るルート…で見学してしまったのですが…(それはそれで面白かったby藤原)、正順路は①「大地の成り立ち」、②「奇跡の海 三陸」、③「海をあがめ 海にあらがわず 海と生きる」、④「資料が語る陸前高田の歴史」。⑤「博物館学の世界」、⑥「宿命とともに生きる」、⑦「よみがえる博物館」、⑧「貝たちの部屋」、⑨「発見の部屋」。

各展示の内容、全体の構成、ともに非常に興味深く拝見しました。陸前高田市立博物館は2023グッドデザイン賞を受賞をされたとのこと。

ふるさとの宝である文化財・展示資料が被災し、無くなるということは、歴史や記憶という価値が失われることであり、陸前高田陸前高田である証が消えることを意味する。震災によって新しい街は時間の経過と共に開発され、記憶の痕跡は区画のみに宿ることも多く、その過程で失うものは数知れない。きれいな街ができたとしても文化、歴史、自然を伝え、記憶の拠り所となるモノがなければ、それは単なる新しい風景であり、心が無い。震災を経て資料を救出すること、それは新しい資料としての生命を新たに据えることであり、かつての記憶の回収であり、つまりは陸前高田の証を心と共に復興することを意味する。新たに付加された資料の意味を踏まえた展示空間の企画、これは世界中の人々がターゲットとなった未来を問う展示のデザインとなることが背景であり、意味でもある。

ー2023グッドデザイン賞陸前高田市立博物館」受賞対象の詳細 背景より

※デザインは株式会社丹青社デザインセンターによる

博物館 (g-mark.org)

私自身も、人形という「もの」を媒介とした芸術表現の従事者であり、人間とものの関係性についてよく考えることがあります。殊に「偶戯を巡る」企画では、なんらかの必然性で生まれ、時間を重ねて発達し、成熟し、しやがて変容し、失われていく人形劇文化・技芸を、現代を生きている従事者としてどう捉え、何をしていけるのかを考えてみたい、という動機もあり、取り組んでいます。陸前高田市立博物館の展示は、被災という切実なきっかけから、より強い輪郭を持って顕れた「もの」のもつ記憶の力や、その背後に息づく人々の関係性を実感させるものであり、同時代を生きる人間が「もの」の価値をどう捉え、どう選択し、どう扱い、未来へどう残していくのか、ということを非常に考えさせられる体験でした。

《発見の部屋》

真っ先に足を踏み入れた陸前高田の文化を体験・学習できる展示室。子どもさんの姿が目立ちます。

⑨「発見の部屋」手前はオシラサマにオセンダクを着せる儀式の疑似体験ができるコーナー。

や!これは!!自由に触ってアソバセて良い、オシラサマアソバセが体験できるコーナーがある!

こちらは包頭型!

貫頭型。娘と烏帽子男の対ですね。

オシラサマ関連は、オセンダクを着せ重ねる体験コーナーと、レプリカを自由に手に取ってアソバセテよいコーナー、二枠も!さすが国内最多地域!!

包頭型のオシラサマレプリカは、写真や展示を見て想像していたよりも柄が細くて驚きました。チリトリの柄のような…。形状から、ついレプリカを持ってパタパタしたくなるような、人形というより機能を持った道具を握ったときのような体感を受けました。

貫頭型のオシラサマを両手に持ってみると、ピッ!と、人形を持った際に起きる、両手に持った人形(ひとがた)を動かして物語を語りたくなる衝動の発生を感じました。「棒は人形劇の元祖である」説を実体験した思い。

学芸員さんのお話では「オシラサマを持って遊んでくれるこどもさんが、意外とまだ少ないのですよね…。」ということでした。「オシラサマはアソバセたほうがよい」と言われますから、発見の部屋のオシラサマも来館者にもっとアソバセテもらえますように…。

陸前高田オシラサマ》

進んでいくと陸前高田の歴史の展示室にオシラサマ展示が。

オシラサマ関連展示は、解説のボード一枚と二組のオシラサマ(レプリカ)でした。

陸前高田市内ではオシラサマは「オッシャサマ」と呼ばれていたようですね。解説ボード右側のオッシャサマソバセの写真は、オッシャサマを身体に当てて無病息災を祈願しているところだそうです。女性たちの笑顔から和やかな場の様子が伝わってくるようです。

こちらは二体で一対のオッシャサマ。

こちらのオッシャサマは単独。柄がみえていますね。

お忙しい学芸員さんが合間にお時間を作ってくださり、陸前高田オシラサマについてお話を聞くことができました。

陸前高田市立博物館で平成二年(1990年)に市内で行ったオシラサマ調査を纏め、図録を出版されています。この図録は現在は頒布されていませんが、館内で見せていただきました。保有する家一戸につき一頁を割り当て、オシラサマの写真と共に、保有する家の方に聞き取り調査をした項目がまとめられていました。

以下、図録やお話の中で印象に残った事柄を挙げてみます。

・この地域ではイタコに照応する民間信仰の巫女は「オガミサマ」と呼ばれていた。

・着物が多くなると古いものは脱がせて親類に分け与えるとか、子どものお手玉やオハンネリ袋(賽銭や米を入れる袋)や枕などを作ったり、あるいは焼いて灰にして川へながしたりした。 (上記図録より引用)

・古い時代はお寺が少なく、人や馬が死亡した際に、オッシャサマが引導に使われたといわれています。即ち男性が死んだ場合は男神を、女性の場合は女神を、侍が死亡した場合は烏帽子を、馬が死んだ場合は馬頭神を、それぞれ使い分けたという伝承が残されています。 つまり、オッシャサマは、神の使いであり、仏の使いでもあったのではないだろうかという説もあります。 (上記図録より引用)

・ほとんどの場合、貫頭型のオシラサマのオセンダクは断ちっぱなしの一枚布を被せるように着せ、家によっては帯や紐で結わえたものもある、という認識だったのですが、人形の着物のように小さな着物を縫製(あるいは断ちかたを工夫しているのか)して羽織のようなものを着せている写真があったのが印象的でした。

また調査で子持ちのオシラサマも見つかっているとか。

陸前高田オシラサマ」図録、陸前高田市立博物館発行。表紙

同上、裏表紙。オシラサマに、先祖の写真、仏壇に神棚に戎さんに…。人も、死者も、神も、仏も賑やかに一堂に会している、陸前高田の信仰観が伺える写真。

オシラサマを博物館で展示した際、オガミサマを呼んだところ、「もとは家にいて人に会うことも少なかったが、博物館に展示されて毎日たくさんの人が訪なってくれ嬉しい。ただひとつ、誰もお供え物を持ってきてくれないことが不満だ。」とオシラサマがおっしゃった、とのこと。以降、博物館でオシラサマを展示する際にはお菓子などをお供えするようになったそうです。現在展示されている二対のオシラサマは、被災後に製作されたレプリカですが、展示ケースの中に学芸員さんがお供えした個包装のクッキーも置かれています。

陸前高田の絵馬もご紹介。

《猫絵馬》

地域の祈りと動物の関係性が気になる絵馬。絵馬に描かれる動物は、馬、牛、と来て…、陸前高田ではついに猫が登場!

矢作町(やはぎちょう)にある猫淵神社は、養蚕農家が厚く信仰した神社です。祠の中には猫の木像とともに、500枚を超える猫絵馬が奉納されています。養蚕農家にとって、蚕の繭を食い荒らすネズミは害獣で、それを駆除してくれる猫は蚕の守護神と考えられていました。

猫が育たない家では絵馬を一枚借りて家に掛けておき、猫が無事に成長したら、借りた絵馬に新しい絵馬を添えてお礼参りをしました。

養蚕農家の信仰を集めた神社も、市内の養蚕業が衰退したあとは、飼い猫の守護神として信仰されました。

ー猫と人間をつなぐ 猫渕神社(陸前高田市立博物館キャプションより引用)

蚕の守護神としての猫!!オシラサマは養蚕の神でもありますから、猫とオシラサマには意外な共通点があったことに???

この絵は、猫の飼い主が描いたのでしょうか?何とも言えない良い味を出していますね…。

《失せ物絵馬》

そして、海辺の地域独特?!動物以外が描かれたこんな絵馬も展示されていました。

失せ物絵馬ー海の神 龍神を鎮める紙の絵馬

漁をしていて海中に誤って刃物などを落としてしまったときは、海の神が機嫌を損ねて不漁にしてしまうとか、竜神が恐れて不漁になってしまうなどと伝えられています。これを避けるため、漁師は浜に戻ると、すぐに紙に失くしたものの絵を描いて神社に奉納しました。これを失せ物絵馬といいます。

陸前高田市立博物館キャプションより引用)

失せもの絵馬。これは包丁でしょうか??

錨が落ちてしまったのですね。大変!!

これは、SUZUKIの…電動の櫓的なものでは??落としても大丈夫だったのでしょうか💦

海に大切なものを落とすのは大変な事態だったのでしょうけれど、漁師さんの手描きの絵に素朴で大らかな美意識が顕れているなぁ、と興味深く拝見しました…。文字で大雑把な絵の情報を補っているのも面白いですね。

《震災後のオシラサマの企画展、coming soon....!!!!》

平成二年以降、オシラサマについての大々的な調査や展示は行われて来なかったそうですが、東日本震災で気仙町など保有していた家がほぼ被災した地域もあり、震災を経て現在、陸前高田オシラサマや信仰は今どうなっているのか、目下調査を進めており、来年初旬に企画展示を行う予定だそうです。

現在進行形の実態調査、企画展の計画…!

取材旅行の最終日にホットなオシラサマニュースに遭遇です!!

来年の特別展示への再訪をお約束して、お昼休みを返上して対応してくださった学芸員さんにご挨拶をし、博物館を失礼しました。ありがとうございました!!!

取材旅行の最後の訪問先は、「まじないと地域史」展を開催中のえさし郷土文化館(岩手県奥州市。七日目後編に続きます!

「発見の部屋」で取材最終日に出会ったオシラサマ解説…。いつ、だれが、何のために始めたのか、全くわかっていません!!