虫と共に去りぬ (original) (raw)

2024/09/17は、たっぷり寝て14時頃に自宅を出た。

奈良県唐招提寺で、中秋の名月の日だけに行われる「観月讃仏会(かんげつさんぶつえ)」法要と、名月の下でライトアップされた仏像を拝むため。

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大阪メトロで天王寺へ、そこからJR大阪環状線鶴崎・京橋方面行き)に乗り換え鶴崎駅で降りる。ここで近鉄奈良線近鉄奈良行き)に乗って大和西大寺へ。さらに降りたホームで待っていた近鉄橿原線に乗り換えて一駅の〈西ノ京駅〉で下車。

西ノ京駅から降りてすぐ、薬師寺が見えるがここは一旦スルーしてひたすら北へ。10分ほど歩くと案内板が見える。観月讃仏会の文字あり。いいね!

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唐招提寺門前に到着。秋の気配はうっすらたなびく雲くらいで、とにかく暑い。ちなみに電車に乗る前は入道雲が見えてた。風もないが、いかにも「晩夏」で、くっきりはっきりした日差しの強さが、私は春や秋よりも大好きだ。

拝観料1000円で15:40位から境内に入る。

まず門を潜って顔を上げた先に、金堂がまっすぐ目に飛び込んできて、その堂々とした姿に思わず立ち止まる。多分誰が見ても一度は立ち止まるんじゃないかな…

青空とのコントラストが、本当に美しかった。これは、日が暮れた後も変わらず、というか、いっそう際立って美しかった。

そのまままっすぐ進み、金堂でご本尊の盧舎那仏と左手の十一面千手観世音菩薩、右手の薬師如来を参拝。十一面千手観世音菩薩の圧倒的な手の物量に圧倒された。気圧されると言うのが近いかも。こちらが思わずのけぞっちゃう感じ。それぐらい迫力を感じる観音様を見たのは初めてだった。

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※この写真は讃仏会が終わってからの撮影

その後は、ひたすら境内を巡る。講堂では弥勒如来坐像が令和8年まで続く修理の旅に出られる直前のようで、台座から降りた状態で拝見。光背も外されていたけど、そのお陰かより近くに感じられた。加えて講堂は平城宮の東朝集殿を移築された建物で【平城宮一の宮殿建築の遺構】(パンフレットより)だと聞いてじーんとしたり。(金堂も同じく奈良時代建立とのことで柱にちょっと触れてきた)

途中で金堂の仏像の顔の正面にあたる部分の戸板を外し始めていた。

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日暮れを楽しみに思えるのもちょっと楽しい。

その後は境内の北東端の鑑真和上御廟へ。お寺は基本的に静かなイメージだけど、門をくぐると苔むす中に一本道が伸びている。先ほどまでとはまた質の違う静けさの中をまっすぐ進む。

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御廟到着。妙にかしこまってご挨拶して、さぁ帰ろうとしたらヌカカに腕を刺されて反射的に殺生してしまう。その後、腫れ上がる。(讃仏会の法要中にはおでこも刺されて腫れる)

あと戒壇もたずねた。

そんなこんなで御朱印帳を預けたり、受け取ったり、売店でお線香(沈香/じんこう)を買ったりして、大体1時間半ほどでたっぷり拝観したので、17:00に一旦お寺の外へ。観月讃仏会の前は参拝者全員、寺から出される。

門の下にはこのまま会が始まる18:00まで待つ方々が既に20名ほど待機しておられ、私もならって待つことに。

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門戸も閉じられる。辛うじて通っていた風がなくなり、とにかく暑い…

私が見たわけではないけれど、拝観券販売所前を先頭に、最終的には交差点?橋?あたりまで人が並んでいるとの情報が途中聞こえたり。

結局、17:40には再び戸が開き、金堂の前までズラズラと砂利を踏んで進む。今日二回目。ちなみに観月讃仏会は拝観料なしで拝観できるのでありがたい。金堂前の階段下に鎖が掛けられていてそこまでは行ってOKの様子。金堂の扉はしまっているけど、本尊前の中央、前から2番目に立てた。なんかコンサートみたい。(あとから思えばそこまで急いで最前列に行く必要はないかもしれない。法要後に穏やかにゆっくり仏像を近くで拝見できるので)

そして法要が始まると、一斉に三尊を隠していた戸が音を立てて開く。みんな、おぉ!と声が漏れる。私も声に出た。薄暗くなり始めた中でも光に照らされた三尊は美しいのはもちろんだけれど、神々しいというよりも、私にはとても「生き生き」して見えた。今、この時この場にいる人が、いつもよりちょっとだけ仏の近くで、それぞれの悩みを打ち明けられる/聞いていただけるような、昼間よりもずっと心の距離が近く感じられた空間。ここだけ切り離されたような感覚。これまで千年以上ここに祈り続けた幾多の人も、似たように思ったことはあったのかも。(ライトアップは無くても)本当にお寺って、アトラクションだなぁ。

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法要自体は18:40頃に終わり、その後足止めの鎖も取り払われて、階段上まで来て三尊拝観できた。そして中秋の月は、18:30頃から金堂を正面に見て、右手斜め後ろ/ちょうど南東方向に浮かび始める。まだ低くて木々が被さっているが、くっきり。

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三尊を拝んでからは、境内北東の御影堂(みえいどう)に移動。ここには国宝・鑑真和上坐像が納められているけど、この観月讃仏会の日だけは、御影堂の前庭に入らせて頂ける。(別途拝観料500円/写真撮影一切不可)

つまり、庭側から御影堂内部にある、①鑑真和上坐像 ②〈宸殿(しんでん)の間〉東山魁夷 障壁画『濤声(とうせい)』③〈上段の間〉東山魁夷 障壁画『山雲』を見ることができる。ただその他の障壁画は拝観不可。(毎年6/5,6,7の開山忌舎利会では堂内から、和上坐像も他の障壁画ももっと近くで見られる)

私は②の和上が渡ってきた海のスケールと色合いに特に感じ入った。もう磯の香りがしそうだもん。ここにいたら波飛沫の塩っけで肌がベタつきそうだと思うほどの、リアルさ以上に迫るものを感じた。そしてその中央に何かがあると思って単眼鏡で見たら、それこそが「鑑真和上坐像」だった…失礼しました。しかし庭からだとお堂の縁側まで近づけても坐像との距離が5mはあるので肉眼では暗くてお顔はとても見えない。この時は単眼鏡があって幸運だった。

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さて、法要と同じ18:00〜御影堂で行われていた裏千家の献茶会は拝見できなかったけど、そのほかは本当に色々頂けた観月讃仏会だった。御影堂から戻るころには、その後雲に隠れていた月も顔を出していて、みんなが(私も)夜空をゆっくり仰いでいるのは不思議と良い気分。

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最後にもう一度三尊にご挨拶。金堂から離れて門に向かう時も何度も振り返ってしまった。後ろ髪引かれまくり。

本当に時間が止まっていたような、夏の終わりの一日でした。

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ちなみにこの日は奈良宿泊。

明日は朝から薬師寺予定。

2024/09/01(日)、大阪市平野区平野の大念仏寺へ向かう。
8/30,31,9/1の3日間開かれるTHE GHOST MUSEUM(幽霊博物館2024)で九想詩絵巻が展示されるからだ。

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自転車どころかジョギング並みにのろい台風10号の影響で幽霊博も中止になるのではと心配したが、大阪市内は幸い警報級の雨風にはならず、無事最終日も開催されることに。
JR阪和線天王寺へ、そこから大和路線で王寺行きに乗り換え二駅「平野駅」下車。
南口から歩いて10分ほどで大念仏寺。

本堂は改装工事中で全く見られず!残念!2025年10月頃に完成だとか。
「おねり」も2026年5月までお預けとのこと。

ここで講談二つを見て、幽霊やちょっとおどろおどろしい絵を鑑賞。
九想詩絵巻とも対面したけど、10m近くある絵巻のうち、血塗相部分のみの公開で間近に見れた嬉しさ半面、他の部分ももう少しだけ見たかったなという気持ちも。
狩野派の漢画と大和絵の融合を意識しながら拝見。色鮮やかでした。
詩が書かれた部分の背景に金泥で植物が描かれていて、それがどうも他の九想詩部分を印刷したパネル展示をみるかぎり、それぞれに違う絵柄で描かれているみたい。美しかった。

雨乞いの絵はちょっと異様なかんじ。
人と竜神?が合体したような。
融通年仏のご本尊が仏像ではなくて絵としていらっしゃるのも初めて知った。
十一尊天得如来(じゅういっそんてんとくにょらい)。来迎の図。
朱塗りの箱も触らせてもらい、さらに赤いお札もいただく。
拝観を終えて外に出る。総じて怖かったというよりも、子供が死んだ悲しみや、殺された恨み、この世への未練とか、非常に人間らしい「思い」が、人を震え上がらせるほどの魅力として残っているんだなと、不思議と昔から続く人間性を思って温かい気持ちに。
そんなこんなでどうしようかと境内でぶらぶらしていると12時の鐘が聞こえる。
結構大きな音で、吸い寄せられるように音の方へ。
大きな鐘楼が見えて、スマホで撮影しながら近づく間もボーンと慣らされていて、お坊さんがどんな風に突いていらっしゃるのかと鐘楼の裏側にぐるっと回ると…

誰もいない

「え?」と思っている間に、また頭上で物凄い勢いで撞木が鐘を突かれる。
ボーーーン!!!
でもやっぱり誰もいない。
正直、菅原道真の怨霊や累(かさね)の姿よりも
この全自動鐘撞きが一番ホラーだった。

その後、全興寺(せんこうじ)で地獄めぐり…は混んでいてできなかったけど、お邪魔しました。
帰りに、坂上広野麿(さかのうえのひろのまろ)の邸跡の石碑あり。なかなかこの石碑が見つからず、小雨に降られながらも見つかって嬉しかった。
えぞ地攻略を行った坂上田村麿の息子。

そして、大念仏寺に戻り、境内にある龍王殿で護摩焚きを見学。
縛嚕拏天(バロダテン)八大龍王、毎月1は初辰(はったつ)のために、また16日はバロダテンの月命日?のために、それぞれ護摩焚きがあるとのこと。この日はたまたま初辰だったので、14時〜堂内で見せていただいた。

大好きだったまゆげが死んだ。

13歳と五ヶ月だった。
2011年の夏、福生の七夕祭りで掬われた和金11匹の中のひとり。
それがまゆげだった。

どうしようもない子だった。
みんながどんどんエサを食べてぐんぐん大きくなるのに
エサを取るのが下手すぎて
見ているこっちがヤキモキするほど。
仕方ないから網の中で特別にご飯スペースを作ったり、
別のカップに移したり、特別待遇。
そんなだから体も周りより小さくて、
そのくせ病気知らずの元気者、
調子が良くて、とにかく人間のことが気になる性格。
いつも水槽の前を行き来する私たちを追いかけて、
いまだ!と思えばちゅぱちゅぱ大声でエサをねだった
どうしようもないほど、可愛い子だった。

大好きだった
そう言葉にするのがこれっぽちも恥ずかしくない
どれだけ声を大にしてもたりないくらいに
彼は特別な
魚のかたちをした家族だった

いつだったか、夢を見た
夢の中で、まゆげのいる水槽が
なぜか近所の田んぼの溜池と繋がっていて
その持ち主が間違ってまゆげの水槽を開けてしまったという
水槽の中は空っぽだった
私は大慌てで走った
きっと溜池に流れ込んだのだろうまゆげが
池の水質で死んでしまったり生き物に食べられたり
そのままどこかに流れ下って怖い思いをして
それっきりいなくなってしまうんじゃないかと
心配で心配で、何度も名前を呼んで、溜池へ走った
溜池へ着くと、
驚いたことにそこにはたくさんの小赤が泳いでいた
見渡す限り、緑水の中をたくさんの小赤が泳いでいる
きっとこの中にまゆげがいるんだと思って
そこで私は安心した
ああきっと大丈夫だと思った
だって、たとえ1000匹の中からだって
私は絶対にまゆげを見つけ出せると思ったから
そう思えたら、もう目が覚めていた
いつだかの、夏だった

私が数年間、鬱になって家にいたとき
毎日金魚たちの様子を見て、
そのひとりひとりを目を合わせるのが好きだった
眠れなくて早朝にもういいやと起きてしまった朝
階段を降りて、ドアを開けた先
まだ家族が寝静まった静けさの中で
エアーの音が実験室のように響いている
カーテンの向こうから微かに朝日の気配がする
まだ薄暗い部屋で目を凝らすと
水槽の中のまゆげが、私の登場に狂喜乱舞しているのが
多動性の彼のシルエットの動きですぐにわかる
何度見ても笑ってしまう

うちわのように優しい丸形をした胸びれをはためかせて
臀びれと尾ひれが別々の生き物のようにバタついて、
水槽のガラスなど無いように
こちらをまっすぐ見つめて
その口元ははくはくと何かをしゃべっている、必死に。
近づくと今度は本当に音を出してしゃべる
ジュ!とかチュ!とか、とにかく「ねえ!」という勢いで。
反応しないともうずっとしゃべっている
それで、エサをやる
夢中になって口に含んだまゆげは、
必ず「美味しいな踊り」をした
エサを咀嚼するまゆげの顔は
はっきり言って不細工で
突然泳ぎ方まで不恰好になる
カタカタとブリキのおもちゃみたいに
左右に頭を振りながら、
円を描くようにゆたゆたと泳いで飲み込み終わると
またエサをとりに行く
この繰り返し
エサをやる前は手を振ると犬みたいにチュ!と
こちらの動きに合わせて声を出したくせに
エサがもらえたとなると一切サービスがなくなるところも
現金魚という感じで素敵だった
とにかく、どうしようもないほど
強烈な男の子だった

そういうまゆげと私の朝が来るたびに
灰色しかない私の中を
あの小さくて真っ赤な体のまゆげが
縦横無尽に駆けめぐって波立てる
底に積もっていた塵を
彼の尾ひれがもうもうと舞い上げて
私は今しか見えなくなる
それが、心地よかった
助けられていた

黒目がちで、どこか不服そうな大きな目と見つめ合える時間
意思を声にして知らせるあのおちょぼ口
そこから出る空気を頬に感じた一瞬
どうしようもなく愛しくて嬉しくて
気づいたらこんなに時間が経っていた
でももっと一緒にいたかった

父も、母も、兄も、義妹も
まゆげのことを「金魚」とか「魚」ではなく
ちゃんと名前で呼んでくれることが
なぜが私には誇らしかった
まゆげくんはちょっと変わった家族なんだと
みんなも思っているのかなと思えて

備忘として。
まゆげとは色々あったのです
私たちが映画を見ているとテレビのほうを向いてじっと見ていたり、
それまで静かだったのに私たちの会話の絶妙な間で突然返事をしたり
…@@だと思わない?ジュ!
…うん、それでいいんじゃない?チュ!ほら、まゆげもそうだって。
水槽の掃除中に手を追いかけてきて邪魔をしたり
同じく掃除のことだと、私の掌に砂利をペッと吐いて去って行ったり
父のかくれんぼに付き合ってくれたり
私の歌に付き合ってくれたり
…ある日?チュ!森の中?ジュ!熊さんに?チュ!出会った?ジュ!!
部屋を掃除していてふと水槽を見ると、どうもずっとこっちを見ていた様子だったり
数日旅行で家を開けていて、帰宅すると30分くらいは頭がぼんやりして反応が鈍かったり
スマホの光が苦手だったり
水槽の壁面をにゅにゅっとジャンプしたり
写真を撮ると正面顔ばっかりになったり
家族でご飯を食べ始めると不服そうに大声出し始めたり
父が新聞を見せると数秒は新聞を見つめてから、わからなそうな顔で父の顔に寄ってきたり

多分まゆげは、自分のことを魚と思っていないから
意思疎通がとれているはずだと
ガラスの向こうに行けるはずだと
いつもそんな顔とそぶりをしていた

今度こそ自由だと
まゆげも思っているだろうか
いま君はもう空も飛べると
わかっているだろうか
水槽なんか抜け出して
一緒に朝ごはんも食べたいし
一度も見たことのない場所に
たくさん連れて行きたいし
私たちの知らないところを
心置きなく探検していいし
先になくなった仲間たちのもとで
遊んでもいい
もう私たちの元から
離れてしまっても、いいんだよ
まゆげ

13年も私たちといることを
強いてしまったけど
親指くらいの大きさから
手のひら以上に大きくなって
水槽もたくさん変わって
何度も水替えして
たまに病気になって
青い水や黄色い水を泳いで
ココアも食べて
たくさん糞して
たまに歯も落ちて
なんだかんだ
楽しかったと思ってもらえたら
まぁ悪くはなかったよと
ヒレをあげてもらえたら
私は
涙が止まらないくらい
嬉しいよ

実家に戻ったとき
私はいつものように君の水槽を見てしまう
そこに私を見つめ返してくれる
まゆげの小さな赤い姿がないことを
この13年の時間が違和感に変えてしまう
食事の最中に、君の声がしない静けさも
この13年の時間が寂しさに変えてしまう
朝起きて、薄暗い部屋の中で
乱舞する君のシルエットを
私はきっと探してしまう
でもそれはこの13年の時間で
まゆげが確かに私にくれた
今も瞼に焼きつくほどの幸福だった

最期、水槽の底で
横になったまゆげの胸ビレが
こちらにそっと手を振るように
二、三度、静かにたゆたった
お別れだと私は勝手に捉えたよ
魚の形をしていたけど
妙に人間くさい
君らしいお別れだと思ったよ

また会おうね
大好き
聞こえたかな

シロちゃんも、パクパクも、残りのオスも
みんながいる場所で
まゆげとさよならをした
畑にはトンボが飛んでいた
暑さの中に涼しさが薫った
2024年8月23日

月に一度数日だけ実家に帰る私が

本当は帰る予定がなかったのに
急遽帰宅していた最終日
家を出るまでの時間で
私と母の見つめる中で
わたしの

大好きだったまゆげは死んだ。

父は、幸せな金魚だったと思うよ
母と兄は、あなた(私)が来るのを待っていたみたい
そんなことを言うものだから
私はまた泣いた
今も泣いている

全部、まゆげのせいだからね

2024/08/16は、朝6:30頃の電車に乗って、滋賀県大津の衆生来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の「虫干し」に向かった。

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9:00に間に合うように8:15には比叡山坂本駅へ。そこから徒歩10分ほど。酷暑猛暑ですでに汗だく。8:45到着で2.3人の男性客がおられた。檀家さん数人で本堂の扉を外していらしたけれど、そこから現れた六道絵の鮮やかさと存在感には驚いた。本堂のしたから数メートル離れて作業を見ていたが、六道絵、かなり大きい…。15幅揃い踏みとなると屏風絵が鎮座しているようなどっしりとした六道の世界の広がり、奥行きを感じた。拝観料と御朱印料と、冊子2種購入で3000円弱。ありがたい。

国宝の六道絵15幅、中でも12幅ある人道を表した絵のうち「不浄相(人道不浄相)」を特にしっかり見てきた。江戸作の複製画というけれどとにかく鮮やか。事前に『九相図を読む』の該当章を読んできてよかった。無常相の幅も印象的。本殿奥の客殿には、鎌倉時代の原作である3幅(人道無常相、閻魔王庁、人道苦相I(生老病苦))も拝見できた。

そもそもこれらの原画は鎌倉時代のある程度位の高い人々のための絵説図であり、広く一般の人へ向けたものになるまでにはだいぶ時代を下るのだとか。聖衆来迎寺への寄付金集めに奔走した時代もあったそうで(江戸年間らしい)、その頃には鎌倉期よりも幅広くこの六道絵が寺の主要寺宝として多くの人々に見てもらっていたのだそう。有り難がってもらって一杯寄付してねってやつ。

途中、大津歴史博物館?の研究員で、尚且つ聖衆来迎寺の檀家さんでもあるW氏の解説を聞けるタイミングで大変ありがたかった。元々この六道絵は比叡山延暦寺の横川にあったものが、焼き討ちの影響でこちらの来迎寺へ辿り着いたのだそう。

源信の往生要集について全然知らないのでもう少し勉強したい気持ちに。

昼は近くのファミレスで。

その後、盆の送り鐘をつきに、京都は寺町通りの矢田寺(やたじ)へ。地下鉄の京都市役所前駅から地上へあがり、本能寺を左手に通り過ぎてしばらく行くと、左手に大きな「送り鐘」の文字を掲げた寺に着く。閻魔様に仕えに夜な夜な六道珍皇寺から井戸つたいに地獄に勤務した小野篁(おののたかむら)と、満けい上人とのエピソードが有名。御住職方々が寺の前にでて机で水塔婆を書いている。私はこのお盆は、六道珍皇寺で迎え鐘をついたので、両祖父母と先祖代々の霊を迷わずあの世へのお送りするために、やっぱりここに来て、送り鐘で手を振りたかった。用紙に◯◯家先祖代々…と施主名(私の名前)を記入してお渡しする。御朱印もせっかくなので書き置きではなく、手書きのものを頂く。渡された水塔婆を煙で清め、本殿前に進んで塔婆を置き、高野槙で軽く払って再び清める。そして頭上の送り鐘を突いた。

トーーーーン、周りの音が一瞬消えるような、少し高めの澄んだ音。手を合わせて、ありがとうまた来年と、一言で送り出す。

行き着いて、さぁ帰ろうとしたら、KBS京都の方にお声がけ頂いてなぜかインタビューに答えて終了。インタビューにびっくりしすぎて、諸々お寺内部の写真を撮るのを忘れてしまった。まぁいいか。

2024/08/07(水)に六道まいりへ
六道珍皇寺でのお参り自体は8/7(水)-10(土)朝6:00-22:00まで。

御堂筋線と京阪を乗り継いで祇園四条駅1番出口を目指す。朝10:30頃現着。
そこから10分ほど歩き、途中建仁寺を過ぎて、
右手に現れた西福寺にて檀林九相図[ダンリンクソウズ]と熊野観心十界図[クマノカンジンジッカイズ]を見る。
ここの檀林九相図については複製画とのこと。
原画(展示公開なし)は血の色などもっと赤黒くリアルで、檀林皇后本人の遺体ではなくとも、絵師は実物の死体を目前にして、この九相を描いたことはその克明さからしても明らかだとか。
当日はおおよそ30分に1度の絵解き(解説)を行なってくださっており、上記のほか檀林皇后の木像も。本尊の安置された堂内には色とりどりの花天井が迎えてくれる。
絵解きの前に、人生初の六道まいり。
お声がけくださった副住職(?)の女性に、お参りは初めてだと正直にお伝えして、やり方と順を伺う。
ご先祖の戒名または俗名をその方へお伝えして、水塔婆へ名を書いていただく。
今回は「@@家先祖代々」としていただけた。
手渡された水塔婆を持ち、その場で蝋燭と線香を購入。線香に火をつけ置き、先ほどの水塔婆の”先祖の名が書かれた側”に煙が当たるように燻らせる。
蝋燭は女性が堂内で立ててくださっていた。
そしてお賽銭を入れ、ご本尊へお参り。一礼。そこで女性が「@@家先祖、追善菩提〜」というようなことを読み上げてくださる。
次いですぐ横に吊られた「お精霊 迎え鐘」を突く
この音で持って、極楽ないし地獄の蓋が開いて先祖に「戻っておいで」の声が届き、あの世からこの世へ、夏のひととき帰れるようになるのだそう。
ここまで終えたら、持ち続けていた水塔婆を後ろに造られた水場(正式な名称がわからず)へお預けする。そこには高野槙[コウヤマキ]の小枝が置かれており、それを持って先ほどの水塔婆を清めるように水掛けする。なんだか涼しげでご先祖も喜びそう。
お盆を終えてから、お預けした塔婆たちは西福寺さんで納めて供養して下さる。
このお参りの仕方、最初はその理由も順もなじみなく、戸惑ったが、今思うと一つ一つの作業に大切だった人への想いを込めることができて、堅苦しくもなく、どこか優しく清々しい印象を受けた。たまたま私の前に並んでいたご家族は、子供さんと一緒に来ていて、束ねられて数センチに分厚くなった何枚もの水塔婆を手に持って、お参りしていらした。この厚さに支えらて、今日、この家族はここにいるんだなと想像した。どんな人たちだったのか、どんな思い出があるのかな。猛暑の日差しが西福寺のこじんまりした境内に差し込んでいて、対照に影の暗さに目が眩む。線香の香りと迎え鐘の響き。この暑さの中で、ここの皆があの世と、もういなくなった人のことを考えているのが不思議。
若いのに偉いねぇと80代ほどの女性が声をかけてくださった。もう亡くなったお母さんと子供の頃からお盆になると3寺をお参りしていたから、いつものように、今年も来たのだそう。一年に今だけは亡くなった人のことを考えるのもいいよね、と笑っている。額に汗が光っている。あなたももっとこっちでみなさいよと、一緒に絵解きを聞いて、熊野観心十界図の前にずずいと手招いてくださった方。「あなた子供さんはいるの?ご結婚してるの?」「いや、まだですねぇ。」「今はしてもしなくてもどちらでもいいからね」「できたらいいんですけどね、タイミングですかね?」「そうよ、いつか見つかる。大丈夫よ」縁結びみたいになってきた。ここは子守地蔵さま、子安の祈願寺だから聞いてくださったのかも。もし私に必要なら、良縁に恵まれますように。

ちなみに私のお参り順は、シンプルに祇園四条駅から近い順に、

西福寺→六波羅蜜寺六道珍皇寺→(檀林皇后像のお顔をもう一度拝みに)西福寺

の順で回った。
御朱印帳を買ったことがなかったので、事前に調べて素敵だと思った六波羅蜜寺で購入。

祖母が亡くなった。

2022年3月24日の午前11時頃だったらしい。母が叔父から電話で連絡を受けて、それで私も知った。96歳だった。怪我を元に急に弱ってしまった感はあったけど、最終的な死因は老衰。大往生だったと私は思っている。

それから7日後の3月31日に葬式に出た。子供の頃、春や夏の休みが来るたびに遊んでいた従兄弟たちと十数年ぶりに会う。一人は子供がいて、一人は店長で、一人は自分の店を持って、一人は先日結婚して、一人は本家の跡取りで、それぞれの時間があったことを当たり前ながら実感した。私だけが、現状維持のままなんとなくここまで来てしまったような気もするけど、もしかしたらみんな内心では案外似たようなことを考えていたりするのかなと適当に丸をつけて、それ以上は結局考えるのをやめた。圧倒的に他人の人生すぎて、考えるエネルギーも式の最後には尽きていた。

坊主の長すぎる読経を聞きながらスーツの埃を払ったりして、そういえば祖父の葬式の時もこんな同じだったなと思い出した。祖父が亡くなったのは2005年で、実に17年ぶりの感覚。線香の匂いと居並ぶ親戚の黒い背中と、遺影を囲んでいる仏花。明るくて綺麗なのに全然温度を感じないやつ。しかも大量の。それをぼんやり見てるとなんとなく家系図みたいなものを想像し出して、そうか亡くなったのはここのおばあちゃんで、従兄弟はここで、私はここで、と普段は考えもしない血筋を意識する。自分がそのピースの一つに張り付けられている感覚がしてくる。別にそれが嫌というわけではないけど、独特の奇妙な感じは17年前も感じていた。この日も、やっぱり変な感じだった。「@@さんの孫」だとか「@@さんの娘」とかが、こういう場で私の肩書きとして引っ張られてくるからだと思う。母方の「孫」という肩書きは、残念ながらこの度、祖母と共に消えてしまったけど。

当時中学生だった私は、祖父の死に目に会うことができなかった。病院に着いた時にはすでに祖父は事切れていて、しかし「ほんの数分前だったんだよ」と先に来ていた叔母が泣きながら私たち家族に言っていた。それで「おじいちゃんまだあったかいよ、行ってあげて」と促されて、私はおずおず祖父のベッドに向かった。ただ、おじいちゃん声を掛けることも、その体に触れることもできなかった。これは祖父ではなくもはや遺体で、だから穢れていると強烈に感じたことを今も覚えている。でも、目の前の遺体はもう祖父ではないから、その体に泣いて縋らないことを、きっと祖父も悲しんではいないだろうという論理も同時に頭の中にあった。私はおじいちゃん子だったので、裂けるくらい悲しくてボロボロ泣いていたけど、それとこれとは全く別の処理が精神的にも論理的にもされていたみたいだった。それじゃあ、祖父の存在はこの体に宿っていないのだから、荼毘に伏す時も辛くなかったのかと言われれば、それがそうでもなくて、祖父の棺が火葬炉に消えてしまう前にはぐしゃぐしゃになるまで泣いて棺に縋っていた。そこで従兄弟に「…おじいちゃん、もうそこにいないからさ」と言われて、あのとき病室で直感的に降ってきた感覚を思い出して、(そうだ、そう言えばそうだったんだ)と私はやっとその場を離れることができた。しかし死の理解とそれに対する自分の納得の仕方がごちゃ混ぜになっていた当時を思うと、まだその答えを出せたとは言えないまま迎えてしまった今回、実際に祖母の遺体を前にして自分がどうなってしまうのかは正直未知数で、それが実のところ少し怖かった。

葬式の前、祖母が亡くなって2日後の3月26日に納棺の儀を祖母宅で行った。祖母家族を中心に濃い親戚だけが10人ほど集まった。死化粧は、祖母の死に際に居合わせた叔母たちが行っていたので、その他儀式的な死装束の準備やら家を出る準備やらを納棺の前に諸々行った。頼んであったらしい農協の職員が先導したおかげで滞りなく進んだ。途中、祖母の思い出の品を棺に収める機会が設けられていて、まず私の母は着物を入れた。淡い黄色の祖母の姉が着ていたという着物で、祖父が亡くなってすぐくらいの時期(そのあたりで祖母の姉が亡くなった)に「私が死んだら姉さんの着物を一緒に入れてくれ」と、母が祖母から直接頼まれていたものらしい。不仲だった下二人の姉妹と実家の跡をとった弟にはそのことは告げていなかった。約束を果たしたのが、実の母(私の祖母)の無理解に苦しみ続けた母の最後の孝行だったのかもしれないけれど、他者の私がそういう綺麗な形に納めて良いはずがないなとこの日を思い出す度に思う。情の厚い母が、親の死に涙を落とせなくさせたのは祖母自身だったと、母の「娘」である私は今感じている。「孫」として祖母を慕うのとは全く別の思考で。その後、叔母たちは、祖母の好きだった紫色の着物を入れた。二人で事前に決めていたようだった。

最後に私は手紙を入れた。蓮の花の便箋と封筒。何年も使う機会がなかったのに、今回のことを考えた途端に頭に浮かんで、数分もせず部屋の中から探し出せた蓮の花のレターセット。最初から考えていたわけではなく、たまたまTwitterで亡き祖母に手紙を書いたという呟きを見たからだ。私が中学生、高校生、大学生、社会人になって、子供の頃のように「孫」としての言葉を祖母に渡せていなかったことへの、償いと赤裸々に言えば私の気持ちの整理として、この手紙は書くべきだと直感していた。書こうと決めてから納棺の日まで時間がなく、私は考えた末に「おばあちゃんごめん!」と思いつつ、ペンと便箋ではなくパソコンとキーボードに向き合った。ただただ祖母と話しているように、文章の順序とか構成とかは気にもしないでとにかくたくさん書こうと思った。祖父の葬儀で泣き通した17年前みたいに、今回私は自室で丸1日で泣いていた。涙が乾いたと思ったらまたぼろぼろと目元がふやけてきて、目の腫れが治る暇がないくらい、それ位もうずっと泣いていた。書き上がった手紙は7ページになって、普通に印刷すると折っても蓮の花の封筒に入らないことに気づいた。それでまた「おばあちゃんごめん!」と言って文字サイズを小さくし、二段組にし、両面印刷にしてやっと封筒に収まった。使っていないけど綺麗だったので蓮模様の便箋もなんとか数枚入れた。指で抑えながら最後に液体のりで閉じた封筒は、パンパンにはち切れそうなっていた。祖母に伝える言葉を書き切れたはずがないけれど、それでもこの封筒の重さが、祖母の死への覚悟を決めさせてくれたような気がした。納棺の日、祖母の棺に進み出てその傍に手紙を置いた私に、叔母たちが微かに目線をくれたものの、そこでそれに動じるような感覚には不思議とならなかった。祖母の死を受け入れる決心がついたんだなぁと私はその時に自覚した。