The Witness オーディオログ 全49個まとめ (original) (raw)

動画は2016年リリースのゲーム“The Witness(ザ・ウィットネス)”で各地にある音声記録を全てまとめたものです。哲学者、数学者、物理学者、科学者など学者たちの言葉を聞くことができます。ただ無意味に置かれたものではなく、ゲームの流れや景色とも関連しているので、プレイして聞くのが最適です。(プレイ動画もあります→ **The Witness 再生リスト**)

ゲーム内で字幕はついていますが、文字サイズが変わり読みにくかったのでテキストにしました。順番は動画と同じです。

ブッダ ダンマパダ

多くの誕生を通じ私は放浪を続けてきた。この家の建設者を詮無くも探し続けながら。

アーサー・エディントン 1927年

私は今、部屋に入ろうとしていますが、これは実に複雑なことであります。

まず私は、身体の表面積の1平方インチごとに6.35kgの力で空気を押して前に進まなければならない。次に太陽の周りを、秒速約32.2kmで移動して床の上にしっかり着地しなければなりません。これが1秒でも遅かったり早かったりすると床までの距離は何kmも離れてしまいます。それを頭を宇宙空間のほうに向けて丸い地球にぶら下がってやらないといかんのです。そのうえ、エーテルの風が細胞という細胞の隙間を得体の知れない速さで駆け抜けていく。

原子のレベルで考えると、床板だって隙間だらけです。床に足を踏みこむのは、ハエの群れに飛び込むようなもの。私の足は床を突き抜けてしまうでしょうか?いいえ、床に足を置けば、ハエの大群の1匹が私に当たって足は持ち上がるでしょう。また落ちそうになっても別のハエが私を上に押し上げる…と、これが続きます。最終的に足が安定状態を保っていればいいのですが、もし不運にも床を突き抜けてしまったり、天井のほうへ乱暴に押し上げられてしまったりしたら、これはもはや自然法則の侵害というより、稀な偶然の仕業でしょう。

こういった小さな困難が生じることもありますが、しかし大事なのは、私の世界の軸と床の世界の軸との交差について四次元で考えてみることです。そしてまた、私が部屋から出ようとしているのではなくて、部屋に入ろうとしていることを決定づけるために、世界のエントロピーがどちらかの方向に向かっているかも考えなければならない。

実に、科学者がドアをくぐりぬけるのは、ラクダが針の目をくぐるよりも難しいことなのであります。ドアが納屋の戸であろうと、教会の扉であろうと、科学者は科学の入り口に横たわる難問達が解決するまでじっと待つよりは、自分達もごく普通の人間なのだと納得して、ドアをひと思いに通り抜けるのが最も賢明であろうと思います。

アルベルト・アインシュタイン 1924年

参加資格のあるコミュニティは沢山ありますが、真の探究者達の集まりを除けば、私が献身したいと思うものは1つもありません。そして真の探究者とは、どの時代であれ一度に大勢生まれることはないようです。

ヴェルナー・ハイゼンベルク 1974年

かつて物理学者のヴォルフガング・パウリは2つの両極を成す概念について語った。それらはいずれも人間の思想史において並外れた成果を残してきたが、これらに対応する現実を本当の意味で体感することはできない。

1つめは、客観的世界の概念である観察者が存在していようといまいと、空間と時間において決められた経過をたどる世界だ。これは現代科学を導いてきたイメージである。

対極には、主体の概念がある。超自然的な世界の融合を経て、もはや客体や客観的世界に直面しない、そのような世界である。これはアジアの神秘主義を導いてきたイメージである。

私達の思考は、これら2つの極端な概念の中間あたりを行ったり来たりする。私達はこれら2つの正反対の概念の適切な対立を維持すべきである。

ニコラウス・クザーヌス 1453年

神よ、以前私にとって、あなたはいかなる人間にも見ることができない存在だった。なぜならあなたは、隠れた無限なる神であるから。無限とはどのような理解をもってしても理解できないものなのだ。

のちにあなたは私にとって、誰もが見ることのできる存在として顕れた。何ものもあなたが見るとおりに在り、あなたが見ることがなければ、無いものであるから。あなたの眼があなたの権化であるから。何ものも、あなたが見ることでこの世に在ることができるのだ。

ゆえに神よ、あなたは見えない存在であり、同時に見える存在。そのままでは、人はあなたを見ることができない。だが、あなたを見ることができるのなら、人はここに在り、あなたは見ることができる存在となる。

見えない神よ、あなたはすべての人にその姿を顕している。あなたを見る人は、すべてのものにあなたを見るだろう。見えない神よ、見えるものすべてにおいて絶対不変で、無限の高みにまします。神よ、あなたは見えるものすべての内に在り、見ることすべての内に在る。

それならば、私はこの見えない眼の壁を飛び越え、あなたが見える場所に行かねばならぬ。だがこの壁はすべてであり、また何でも無い。万物で在りながら無であるかのように、この高い壁の向こう側にまします、神よ、いかなる能力を持った人も、自力ではその壁をよじ登ることさえ不可能なのだ。

永嘉大師 700年頃

完璧で遍満したある性質は、すべての性質の中に循環している。まったく包括的なある現実のうちには、すべての現実が含まれている。ただひとつの月は、ありとあらゆる水面にその姿を映し、水に映るすべての月はただひとつの月に包含される。

すべての仏陀という絶対的な存在は私自身の存在の一部となり、私の存在そのものは、彼らのそれとの調和のうちにある…。内なる光には、称賛も非難も無意味である。宇宙と同様に限りない広がりを持ち、その一方、この我々の内にもある。静寂と完全性を失うことなく。

何かを失うのは必ず、それを追い求めるときだ。手にすることもできず、手放すこともできない。あなたがどうすることもできない間に、それは自らの道を行く。あなたが黙ればそれは語り、あなたが語ればそれは応えない。慈善という大きな門は広く開いており、その前に障害は何もない。

アルベルト・アインシュタイン 1930年

私の考えでは、宇宙的宗教心こそ科学研究における最も強く気高い動機であります。理論科学で先駆的な研究をするには欠かせない、計り知れない努力と、何よりも献身を実現する人のみが、この感情の力を理解できるでしょう。人生における目の前の現実とは乖離しているようでも、その感情が与える力のみで、人は素晴らしい仕事を推進することができるのです。

この宇宙は合理的に出来ている、という深い確信、また、その道理を理解したいという熱情。それらはこの世界で、知性ある人々に啓示された根拠薄弱なアイディアにすぎなかったかもしれない。しかしそれが、ケプラーやニュートンを長年の孤独な作業に耐えさせたのです。神が創りたもうた構造の原理を紐解くという作業に!

科学研究に関する知識を主に実際的な結果から得る人は、神の存在には懐疑的な人々に囲まれているでしょう。ですからしばしばすっかり勘違いしてしまう。何世紀にもわたり、世界中に散らばる同胞らに道を示してきた人々の心構えをね。

同様の目的に人生を捧げてきた人だけが、彼等にインスピレーションを与えたものが何なのか、無数の失敗にもめげず、目標を追い続ける力を与えたものが何なのか、鮮明に認識することができるのです。人にこれほどの力を与えるのは宇宙的宗教心であります。

ある人からこう言われたことがあります。「この物質主義的な時代に、純粋な信仰心を持つ者は、真剣な科学者だけだね」と。あながち間違ってもいませんね。

ヒュー・キングスミル 1944年

人間の内なる神は捉えどころがなく、触れることもできない。ゆえに、人はそれを具現化したいという誘惑に駆られる。教会、国、社会制度、指導者などにその姿を見たいと欲する。そうすればそれほど苦労せずに神を見つけて、より多くの利益をもって奉仕できるかもしれない。だが、天国を現世に具現化しようとする試みは、必ずや大失敗に終わるだろう。

天国は、憲章や憲法によってもたらされるものでも、ましてや武力によって造られるものでもない。独りでそれを探し求める人達は、やがて見つけるだろう。大勢でそれを探し求めるなら、彼らは自ら滅びるだろう。

了然尼 1711年

この目が移りゆく秋の景色を見守ること66回、もはや月については語り尽くした。だからどうか尋ねてくれるな。風が吹きすさばぬ時に、松と杉の声にただ耳を傾けよ。

デヴィッド・ダーリング 1996年

ある意味では、西洋思想史にとっての現代物理学は東洋的世界観の発展における禅である。それは2,000年以上にわたり、熾烈な討論、議論、また、節目となる発展を経て、洗練されてきた。さらに、これら2者の違いを最も明確にすると、次のように言えるだろう。

物理学の関心が、何よりも理論、概念、公式にある一方、禅が重んじるのは有形で単純なものだけである。神は「事実」を欲する。西洋的な意味合い、すなわち事象を数値によって測定したものではなく(実のところ数値は抽象的概念だが)、生きた、即時的で有形の事実を欲するのである。それを理解するためのアプローチは理論化されないであろう。なぜなら、これまでに蓄積された考えや知識…言い換えれば、あらゆる種の記憶は、現実を直接的に認識する際の邪魔になると、禅では考えられているからである。そのため禅は変わったアプローチをする。その蓄積には言語を要するが…これは仕方がないだろう。

いかなるメソッドも、実はアンチメソッドである場合を含め、まずはその背景を伝えなければ効果を発揮できない。しかし禅が言語を使う時、その指摘は常に言語を超え、概念を超えた具象に帰着する。

ウィリアム・K・クリフォード 1874年

ある船主が移民船を航海に出そうとしていた。彼はこの船が古く、作りもしっかりしていないことを知っていた。これまで多くの海を渡り荒天を乗り越えたが、修理が必要だったことも知っていた。もうこの船は航海には耐えないのではないか、そんな疑念が船主を襲った。その思いは彼を苦しめ、憂鬱にした。船に徹底的な検査と修理が必要なことは明らかであった。しかしそれには相当なお金がかかる。

だが船主は、船が航海に出る前にこの憂鬱な考えを追い払った。船はこれまでも無事に多くの航海をこなし、いくつもの嵐を乗り越えてきたではないか。次の航海から帰ってこないと思うのは無駄な心配だと自分に言い聞かせた。神の意思を信じよう。神は新天地を求めて祖国を離れる不幸な家族たちを決して見捨てはしないだろう。造船業者や請負人らの誠実さを疑ってかかるなど、狭量な人間のすることだ。

このようにして船主は、自分の船が絶対に安全で航海に耐えうると、誠実に、心の底から信じるにいたった。そして心も晴れやかに船出を見送ると移民達が新しい土地でいい人生を送れるようにと真摯に願った。結局、船は大海原のど真ん中で沈没し船主は保険金を受け取った。

この船主について我々は何が言えるだろう?移民達を死なせた罪が彼にあるのは間違いない。船主が船の安全性を心から信じたことは事実だ。だが、その思いが誠実だったからといって彼の罪が軽くなるわけではない。あれほどの不安材料を抱えながら安全だと信じ込むのは荒唐無稽だからである。

彼は自分の信念を、対象を忍耐強く検証して得たのではなく、疑念を抑え込むことによって得た。しまいにはそうとしか思えないほど、自分の考えに確信を抱いていたかもしれないが。自分の思考を意図的に自らひとつの枠にはめ込んだのだから、その責任は彼自身にあるのだ。

ウィリアム・K・クリフォード 1874年

人が幼少時に教わったり、その後の人生で説かれたりしたことを信じ、それに関して湧き上がる疑念はとにかく払いのけ、それを疑問視する本やそれについて異議を唱える人達を故意に避け、その信条を揺るがしてまで何らかの議論を提示することを不信心な行為とみなすなら、その人の人生は、人類に対する長きにわたる罪となる。

ある人がこう言ったとしよう。「だが私は忙しい。ひとつの問題について的確な判断を下したり、論点を理解したりするために、たっぷり時間をかけて学ぶ暇などない。」だとしたら、その人にはそもそも何かを信じる時間もないだろう。

ダグラス・ホフスタッター 2007年

ひどく現実的な、我々のささくれ。一方我々のほとんどにとって、英国の村ネザーウォロップやヒマラヤの高地にあるブータン、また言うまでもなくアンドロメダの、ゆっくりと旋回する渦巻銀河は、はるかに非現実的だ。しかし我々の知的自己は、こう主張したがるかもしれない。後者は、我々のささくれよりもはるかに壮大で、歴史あるものである。

したがって、それらは我々にとって、ささくれよりはるかに現実的であるに違いないと。口を酸っぱくして自分にそう言い聞かせることはできるが、それを信じているように振る舞う者は少ない。どこか遠くの国で地下の地盤が僅かにずれて2万人の命が失われた…。アマゾン流域の原生林では、昼夜を問わず略奪が行われている…。貪欲なブラックホールには、非力な星の群れが次々と呑み込まれていっている…。そしてそれぞれが一千億もの星を抱く2つの巨大な銀河の衝突…。壮大な出来事ではあるが、私達にとっては非常に抽象的で、私の左手の小指にある小さなささくれが持つ緊急性や重要性の感覚、ひいては現実感をかすりさえしない。

我々は皆、自己中心的であり、結局我々にとって最も現実的なのは我々自身である。何よりも現実的なのは、私の膝、鼻、怒り、空腹、歯や脇腹の痛み、悲しみ、喜び、数学への傾倒、私が持てる抽象概念の限界、等々で、これらすべてに共通し、これらを結び付けるのは「私」という概念から生じる「私の」という概念である。それ故に、それは鼻や虫歯ほど確固たるものではないにせよ、結局はこの「私」というものが我々にとって何よりも明確で、疑いの余地がないもののように思われる。

それが幻影ということはあり得るだろうか?まったくの幻影でなくとも、我々が思うより現実的でも堅固でもないということはあるだろうか?「私」が虹を見上げる有形の実体でなく、見上げている虹そのもののように揺らめき、儚いものとなることはあるのだろうか?

ラビンドラナート・タゴール 1910年

私は人々に、あなたを知っていると自慢した。人々は私のあらゆる作品にあなたの姿を見る人々がやって来て「この人は誰か」と尋ねる。私は何と答えてよいか分からない。「実は言えないのだ」と言うと人々は私を非難し、嘲笑して去って行く。

あなたは微笑みながらそこに座っておられる。私はあなたの物語を、長く残る歌にする。秘密が私の胸からほとばしり出る。人々はやって来て尋ねる。「その歌の意味は?」私は何と答えてよいか分からない。「誰にも意味などわかりはしない!」彼は微笑と、心底の軽蔑と共に去る。あなたは微笑みながらそこに座っておられる。

B・F・スキナー 1971年

人間は自由な存在だと昔から考えられてきた。人には自律性があり、行動を縛るような要因はないと…。だがそのような考え方や、それに基づいて実践されていることは、科学的分析によって、行動と環境の意外な因果関係が明らかになれば再考を強いられることになるだろう…。人間は自分の意思で動くという定説を疑問視し、環境によって制御される例を示せば、行動科学は、ヒトの尊厳や価値についても見直さなくてはならなくなるだろう。

人が自らの行動の責任を負わなければならないのは、悪いことをすると相応の非難や罰を受けたりするからだけでなく、成し遂げたことに対して信頼や称賛を得られるからでもある。科学的分析では、非難だけでなく賞賛も環境要因だという見解にシフトしてきている。従来実践されていたことの正当性が危ぶまれているのである。これはこれまでの研究を徹底的に覆すものなので、従来の学説と実践を信頼しきっている人達は当然ながら反発するが…環境の重要性が強く認識され出すと、個々人は新たな危機にさらされることになる。

誰が、何の目的で制御するための環境を作るのか?自律的な人間なら、おそらく自分自身の価値観にもとづいて自分を制御するだろう。すなわち、自分がいいと思ったことをするのだ。しかし、制御する側とされる側が分かれる場合はどうだろう?制御者と被制御者のメリットは一致するのだろうか?このような疑問に答えるには、価値判断そのものについて掘り下げるしかない。

ルパート・ブルック 1914年

歓びと優しさで紡がれた、こころがあった。哀しみで洗われたこころは、いつでも歓喜を迎え入れた。年月は慈しみをはぐくみ、夜明けも、黄昏も、この地にあるどんな色合いも、彼らのものだった。彼らは活動し、音楽を聴いた。休息しては、また目覚め、そして愛した。友を持ち、それを誇りにおもった。ときに、感嘆に胸をつまらせ、ときに、ひとり座り、花や動物、人々の頬に親しげに触れた。

今やすべてが終わってしまった。風向きが変わり、水面がさわさわと笑う。色鮮やかな空に日がな一日照らされ輝いている。霜が降り、踊っていた波に静寂が訪れる。愛らしいざわめきがしずまる霜は、白く完全なる栄光。凝縮された輝き、開けた空間、平穏の光を、夜空の下に残していく。

ガンガジ 2009年

沈黙を選ぶ時、私達は愛という動機を放棄します。愛という動機は、戦争に行くこと、戦争を続けること、別離すること、被害者になること、正しくあることの動機にもなります。

沈黙の時の中で、何も考えず、何も気にせず、それらを放棄するのです。これは私の師が説いてくれたことです。ただ沈黙を選びなさい。愛さえも選ばずに沈黙を選ぶのです。愛はそこにあります。愛を選ぶ時、私達は愛とはこうあるものだという考えに縛られています。

でも沈黙を選ぶなら、それ以上の考えは浮かびません。何も考えない道を選ぶことで、何も考えない時にそこにあるもの、あったもの、これから来るものを受け入れるのです。愛も、真実も、あなた自身も、私のことも、考えないのです。愛はそこにあるのですから。

ニファリ 970年頃

神は私に海を見よと命じられた。私は船が沈み板切れが浮かぶさまを見た。そして板切れもまた水に呑まれた。そして神は私に言われた。「航海する者は救われない。」またこう言われた。「航海する代わりに海に身を投げる者は危険を冒している。」またこうも言われた。「航海をして危険を冒さぬものは滅ぶべきである。」またこうも言われた。「危険を冒すことは救いの一部である。」

波が訪れ、海中にあったものをも落ち上げて、海岸を呑み込んだ。またこうも言われた。「海面は手の届かない微かな光である。そして海底は人を拒む暗闇である。これらの間には恐るべき巨大な魚達がいる。」

── 何?

ウィリアム・ワーズワース 1888年

音もない湖に力いっぱいオールを入れた。ひとかき、ひとかき、船は波に持ち上げられながら、水面を白鳥のように進んでいく。その時、それまで地平線になっていたごつごつした丘陵の背後から、真っ黒で巨大な山がまるで自分の意思と本能でやってきたかのように、おもむろに頭をのぞかせた。私は懸命に漕いでみるが、黒く恐ろしい山影は徐々に大きくなって、私と星々の間に立ちはだかった。

あの巨大で恐ろしいものを見て以来、私は何日もの間、我知らず。自分が知らないものの存在について思いを巡らすようになった。孤独とも茫然自失ともいえる、暗く大きな何かが私の精神に覆いかぶさっているようだった。

リチャード・ファインマン 1963年

かつて、ある詩人が言った。「グラス一杯のワインに全宇宙がある。」詩人は理解されるために書くのでないから、彼がそう言った意図を我々は知るよしもないだろう。

しかしグラスに入ったワインをよく見れば、宇宙全体が見えるというのは真実だ。物理学の視点で見れば、風や天候に応じて蒸発するこの渦巻く液体、ガラスの中の反射、そして原子をも想像することができる。ガラスは地球の岩石から生成され、その組成の内には宇宙の年齢や星々の進化の秘密を見てとれる。

ワインにはどんな化学物質の配合の妙があり、それらはどのように起きたのか?発酵物、酸素、基質、生成物質。ワイン以外についても言えるひとつ大きな事実がある…。生命というのは発酵だ。ワインの化学的性質を解明すれば、ルイ・パスツールのように、病気の原因を発見することにもつながるだろう。見る者の意識にその存在を主張する、ワインの赤のいかに鮮明なこと!

我々の限られた知性で理解できるよう、グラス一杯のワイン、すなわちこの宇宙を細分しよう…。物理学、生物学、地質学、天文学、心理学などが関わるが…自然にとっては知ったこっちゃない!

細分化をやめてワインに戻ろう。ワインはこういう話のためにあるんじゃない。とっておきの楽しみを僕らに与えるためにある。さあ飲み干してすべてを忘れよう!

アーサー・エディントン 1927年

知識には2種類あり、私はそれらを「記号的知識」と「親密な知識」と呼んでいます。論理的思考が通用するのは記号的知識のみ、と言い切るのは正しくないかもしれませんが、慣習として、論理的思考が記号的知識のためだけに発展してきたことは事実です。

親密な知識は、成文化や分析の対象にはなりえません。むしろ分析しようとするやいなや親密性は消え去り、その知識は記号によるものになってしまいます。

例として「ユーモア」について考えてみましょう。ユーモアはある程度までは分析して、面白味の主要素を分類することができると思います。「これは冗談」とされる話を聞いたとします。それを調査対象の化学塩を分析するように、科学的に考察してみたとしましょう。慎重に分析した結果、その話が本当に冗談だと分かったとします。論理的には次に来るステップは「笑うこと」でしょう。でもお察しのように、真面目に吟味してしまったせいで、笑いたい衝動などどこかへ消え去ってしまった。

冗談は冗談としての機能を失ってしまったのです。分析する行為は、ユーモアの記号的知識の領域では冗談についての全要素を含みますが、唯一滑稽さを取り除いてしまします。冗談の真価は、考えることではなく、考えないことでわかるのです。

これは私達が自然界に抱く畏敬の念にも言えることでしょう。それに敢えて言うなら、神との神秘的な体験もしかり、「自分達にとっては神的存在が魂を照らしてくださることが人生で最も瞭然たる体験の1つだ」という人もいます。彼らにとってはそうした感覚がない人は、私達の感覚でユーモアのセンスがないというのと変わらない。精神に何かが欠けているということです。

神的体験をユーモアの時のように分析して神学理論を打ち立てたり、あるいは無神論に行きついたりしてもよいのですが、忘れてはならないのは、理論は結局、記号的知識だということです。一方、体験というのは親密な知識です。冗談の構造を科学的に説明しても、笑いを強要することはできないのと同様に、神(または神の代理)の特性について学問的に論ずることは、宗教体験の本質である、精霊に対する親密な呼応を妨げてしまうことになりかねないのです。

荘子 紀元前4世紀

船が川を渡っているとき、無人の船と接触しそうになったとする。どんなに苛立ちやすくても、これに腹を立てる人はいないだろう。

ところが近づいてきた船に人が乗っていたなら、最初の船に乗っていた人はぶつけてくるなと怒鳴るだろう。1回、2回、そして3回呼びかけても返事がなければ、罵詈雑言が口をついて出るのは必至だ。前者には怒りがなく、後者には怒りがあった。前者は空船だったが、後者には人が乗っていたからだ。

人間もこれと同じで己をなくし、空しくしてこの世を過ごすなら、誰も彼を害することはできない。

アーサー・エディントン 1927年

ある日、私は「風による波の発生」について気になって仕方なくなりました。そこで流体力学について書かれた標準的な論文を取り出してみました。

曰く…外力p'yyとp'xyがe**(ikx+at)の倍数である場合(ただしkとaは定数)方程式によりAとCが求められる。したがって式(9)によりetaの値は…云々2ページにわたって書かれていました。結局私に分かったのは、時速約0.8km以下の風では水面に波は起こらないということです。時速約1.6kmになると表面は表面張力波による細かい波形で覆われますが、風邪がおさまった直後に波は静まります。時速約3.2kmでは重力波が発生します。そして著者は控えめにこう結論づけています。「我々の理論的研究は、波形成の初期段階について少なからぬ洞察を与えるものである。」

別の日のこと、私はまた「風による波の発生」について考えていました。でも今度は違う本の方が私の気持ちに合っていました。曰く…風向きが変わり水面がさわさわと笑う。色鮮やかな空に日がな一日照らされ輝いている。霜が降り踊っていた波に静寂が訪れる。愛らしいざわめきがしずまる霜は、白く完全なる栄光。凝縮された輝き、開けた空間、平穏の光を夜空の下に残していく。

魔法のような言葉でその光景がありありと想像できます。私達のほうに自然が近づいてきて私達とひとつになる。やがて波は日差しを受けて踊り出し、それを見る私達は喜びに満たされる。同時に、凍てついた湖を射る月光に畏怖を覚えるのです。こんな時、科学者は自分を卑下してはなりません。自らを顧み、妙に客観視して「ああ、まともな感覚を残らず6つ持っていて、科学的見識もある自分が感傷的になるとは、いかにも恥ずかしい。次からはラムの流体力学の本を携帯しよう。」などと思うものではありません。

こういう瞬間が私達にも必要なのです。学者の研究道具のみを頼りにし、天秤にかけて測定評価できるもの、数学的記号によってのみ表現できるものだけを相手にして、それを超える周りの世界の偉大さを感じることができなくなったら、科学者は視野の狭い発展のない人生を歩むことになるでしょう。

もちろん先ほどの記述は幻想です。自然が見せつけた、ややつたない魔術のからくりを説明するのはたやすいことです。空気と風で乱された水面の闇、異なる角度で反射したさまざまな波長のエーテル振動が私の目に到達し、光の刺激は視神経を通り、脳の中枢に伝わったというわけです。

私の意識は、受け取った刺激の印象を作り上げていきます。受け取った情報が少なくても、意識は情報を肉付けするのに使える関連情報を多く蓄えています。印象ができあがったところで、すべての要素が意識により精査され、「これはなかなかいい」と評価されたわけであります。ここで私は評価や批判、分析をいったんやめます。そして全体の印象のみが意識に残ります。空気の暖かさ、草の匂い、穏やかなそよ風が目に浮かぶ情景と合わさって、私の周りに、私の内に、ひとつの超越した像として浮き上がってくるのです。意識に蓄えられたさまざまなものが連想として浮かんできます。「波が笑う」という表現を思い起こすかもしれません。

波…さざなみ…笑い…喜び…そういったものが秩序なく、押し合いへし合い浮かんできます。それに喜びを感じつつも、エーテル振動のどこがそんなに面白いのか、合理的に説明できる人はいません。静かな感動が印象全体に染みわたります。私達の喜びは、自然に、波に、ありとあらゆるところにあるのでした。これがからくりです。そう、確かに幻想でした。でもそれならなぜこのイメージをさっさと一蹴してしまわないのか。心が無秩序で実態のない空想を外の世界に映し出したとしても、真理をひたむきに追求する人間には、興味のないことではないでしょうか?

では先ほどの話に戻りましょう、実体のある物質、波の話に。風の圧力と重力が流体力学の法則に従って水という物質を動かした。でもよく考えてみると、固体という物質も幻想なのです。これだって頭の中でこしらえた空想を外の世界に映し出したものにすぎないのです。液体から物質を、物質から原子を、原子から電子を導き出したところで、科学者はどうしたらいいか分からなくなりました。まあ少なくとも追いかけてみた先には陽子と電子という実質的な発見はありました。もし新しい量子論が出てきて、この発見、このイメージが実質的すぎると非難され、科学者がそれまで頼りにしていた一貫したイメージが失われてしまっても、まだ座標や運動量、ハミルトン関数があり、少なくともqp-pq=ih/2πを導き出すことはできます。

さて、こういった話をたどっていくと科学的研究は、その性質からして循環するものであり、私達を取り巻く環境のある側面を表現することしかできないことに気づくでしょう。科学が解明できるのは、現実世界そのものというより現実世界の骨組みです。科学的真理を追い求める過程で、事象の現実味は失われてしまうのです。そして空想する心を否定したのち、最後にはそこに戻ってこう言うのです。「君の空想よりもっとしっかりと堅固な原則に基づいて『完璧な世界』を作り上げた。でも何かが足りなくて『現実世界』を作れない。」「だからここにあるものを何かひとつ持っていって、空想の息吹を与えてほしい。それだけで『現実世界』が誕生する。」

埋もれた真実を手にするために、心が作り出す空想をとことん排除してみたら、そこで見つけた真実は結局、空想を呼び起こすものと切っては切れない関係にあったということです。それは心、つまり空想を作り出す私達の意識こそ、現実性は常に空想の基であることを保証する、唯一の存在でもあるからです。現実世界にとっての空想は、火にとっての煙です。

「火のないところに煙は立たぬ」はデタラメだと思いますが、ヒトの不可思議な空想の中に、潜在的な現実が映し出されていないかを検証するのは、まったくもって筋が通っているのであります。

ニコラウス・クザーヌス 1453年

ああ主よ、神よ、あなたを探し求めるものの救い主よ。私はあなたを、楽園の園に見い出す。だが私には自分の見ているものが分からない。なぜなら、私には何も見えないのだから。だが私は知っている。私には自分が見ているものが分からない。決して分かることができないということを。私はあなたを何と呼べばいいのか分からない。あなたが何なのかが分からないのであるから。

だが私は知っている。人があなたに名前をつけ、あれだとかこれだとか、言い立てたところで、それがあなたの名ではないことを。なぜなら、あなたを見い出す場所を隔てた壁が、すべての呼び名が意味するところの限界であるから。私には分かる。あなたをあらわす概念を人がいかに作り上げたところで、それがあなたをあらわす概念ではないことを。なぜならいかなる概念も、その意味するところの限界は、あの楽園の壁であるのであるから。

同様に私には分かる。人があなたを何かに例え、それによってあなたを理解しようとしたからとて、それがあなたの姿をあらわしたものではないことを。また、あなたを理解しようとして人があれこれ方策を講じ、そこで理解したものを説明したからとて、その人があなたに近づいているとはいえない。なぜならあなたとこれらすべては、最も高い壁によって隔てられ、あなたは人の言うこと考えることすべてからかけ離れたところにいるのであるから。あなたは、いかなる概念にも当てはまらない、無限で絶対的な存在であるのだから。

サヒブ・イブン・アッバード 990年頃

グラスの透過性とワインの透過性は似通っており、事象が混同されている。ワインを意識すればグラスの存在は意識されず、グラスに注目すればワインは頭から消える。

老子 紀元前6世紀

我々は輻を放射状に並べて車輪を成す。そこにある中空を軸とするから車輪としての役割を果たすのだ。粘土をこねて器を作る。器は中が空っぽであるから器としての役割を果たすのだ。木を打ちつけて家を造る。家は中に空間があるから家としての役割を果たすのだ。

形あるものを扱っているようで、実際はその中の虚ろが本来の役割を果たしている。

イブン・アラビー 1231年

垂れ下がるベールの他には、そこに何も存在しない。知覚の行為が帰着するのはただベールのみ。そしてそれらを知覚する。その目の持ち主のうちに痕跡を残す。

アルベルト・アインシュタイン 1930年

それは世界一難しい問題ですね。はい、いいえで簡単に答えられる質問ではない。私は無神論者ではありませんが、汎神論者とまで言い切る自信はありません。きっちり答えようとすると、とても我々の知性が追いつかないでしょう。

たとえ話で答えても構いませんか?どれほど鍛えられていても、ヒトの知性が宇宙をすっかり理解することはできません。我々はあらゆる言語で書かれた書籍でいっぱいの巨大な図書館に足を踏み入れる子供のような立場にあります。その子は、誰かがそれらの本を書いたに違いないとは思っていても、どうやってかは分からない。それらの本に使われている言語も理解できない。本の並び方にどことなく神秘的な秩序を感じるが、それが何なのかは分からない。

私にとってそれは非常に賢明な人が神に対してとる態度であるように思えます。

ニコラウス・クザーヌス 1450年

時計の概念は、時間の連続をすべて内包している。概念においては「6時」は「7時」や「8時」より早いわけではない。しかし概念が定められない限り、時計は決して時を告げない。

ニコラウス・クザーヌス 1450年

時計の概念は、時間の連続性をすべて内包している。概念においては「6時」は「7時」や「8時」より早いわけではない。しかし概念が定められない限り、時計は決して時を告げない。

── それは僕の担当だろ。

そうね、でもこれについて思いついたことがあって、ちょっと試してみたいの。さてどうなるかな。

気がついた時には、クザーヌスのテキストをすべて奪われてしまいそうだね。で、どんな考え?

さあね!意識下の衝動っていうの?創造力にはつきものでしょ。

あの島に行く前からそんな風に思ってた?それとも行った後からかい?

たぶん行った後からね。すべてじゃないにしても前から芽はあったんだと思う。初めにこれを聞いた時、あなたは私に考える手助けをしてくれた。でもその時はうまく気づけなかったの。今では「エンドウ豆の上に寝たお姫さま」のようだわ。でも出しゃばるつもりはないのよ。本当に個人的な衝動なの…。これを録音しておきたくて、後で自分の聞きたいように聞けるように整理しておきたいの、自分のためにね。

これを「持っているといい問題」のファイルに入れておこう。たぶん旅を通じて、この一編に対する君の態度は変わった。あるいはもっとはっきりしてきた。うまくいっている証拠だ。何かがうまくいっているんだ、たぶんね。始めた頃はここまで来れればラッキーな方だと思ってた。

でも来たわね。

ああ、さあどうぞ録音して。僕は行くよ。君に感謝してる。僕自身が避けているものについて考えるチャンスをくれたのだから。

どういたしまして!

ハンス・デンク 1520年頃

ああ主よ、この憐れむべき世界で、あなたの御業はかくも偉大であるのに、誰もあなたを見つけられないのはなぜですか。あなたの呼び声は響き渡っているにもかかわらず、誰も耳を傾けないのはなぜですか。あなたの御業がすぐ側で起こっているというのに、誰もあなたを感じないのはなぜですか。あなたは御身をすべての人に捧げておられるのに、誰もあなたの名を知らないのはなぜなのですか?

人はあなたから逃げながら、あなたが見つからないと言うのです。あなたに背を向けながら、あなたが見えないと言うのです。そして耳をふさぎながらあなたの声が聞こえないと言うのです。

アウレリウス・アウグスティヌス 400年頃

肉体のあらゆる騒ぎが、地上、海、空気についてのせわしない考えとともに静まったさまを想像してみなさい。世界そのものが止まり、心がそれ自体について考えることをやめて超越し、ぴたりと止まったなら。夢や想像に一切の幻想が現れぬようになり発話も記号もなくなったなら。

滅びうるすべてのものが静止したとしよう…。耳を傾けてみれば彼らは言っている。我々は自らそうしたのではなく、主によって永遠に待つ者となったのだ…。さあ想像してみなさい、それだけ言って口を噤む彼らを。言葉を聴け。他ならぬ彼の声に耳を傾け、人の舌、天使の声、雷雲、その他のしるしを通じてではなく、これらのものの中にある我々の愛する「そのもの」を聴き、そして行きなさい。我々自身を超越し、すべてを超えた果てに待つ永遠の叡智のひらめきを得るために。

想像してみなさい。その瞬間がいつまでも続き、すべての風景と音を置き去りにする時、ただひとつ、見る者を魅了し、喜びの内に引き込んで離さない、ある光景…。永遠の命の残りはそれ故に、あの一瞬の幻影のごとくなり我々は息を呑む。主の喜びに身を投じること、これこそが聖書の命じるところではないか?

リチャード・ファインマン 1963年

人類を超えて宇宙について熟考することは大冒険だ。人類がいなければ宇宙はどうなっていたのだろう…。いや待てよ、実際に宇宙の歴史の大部分、人類は存在していなかったし、今も宇宙のごくごく一部に生息しているだけじゃないか。この客観的な視点をようやく手に入れ、物質の謎と価値を十全に認識した後に、人類を物質とみなし客観的な目を向け、生命を最も奥深い宇宙の謎の一部とみなすことは、非常に稀有で胸踊る体験であるが、これは通常、笑い話のような徒労に終わる。宇宙にあるこの原子というものが何なのかを理解しようとすることは、好奇心を持つ原子達とでも言うべき自分自身を観察し、なぜそれが物を考えるのか、と考えることだから。

これら科学的な見方は結局、畏怖と謎の中に迷い込み、どこまで行っても確かなものに出会えず道を失う。だがいくら深遠で印象深く思えても、それが神様が良くも悪くも人の葛藤を観劇するために整えられた舞台であるという説には納得できない。

今私が宗教的経験について話していると考える人もいるだろう。大変結構、好きなように呼べばいい。その延長線上で言わせてもらおう。若者の宗教的経験とは、自分の教会の宗教がその種の経験を説明するにも包含するにも不十分であると気づくような経験なのだと。その教会の神様の大きさでは足りないのだ。

アーサー・エディントン 1927年

科学者の立場から言うと、色というものは目が捉えたエーテル振動の波長の問題にすぎません。でもだからといって私達が、波長約4800オングストロームの反射光は抒情詩のテーマになりそうだと感じ、5300オングストロームの光による色には、とりたてて関心を持たないというような人々の感情を否定できるわけではありません。私達科学者は「ガリバー旅行記」のラピュタ島民が女性や動物の美しさをひし形や円、平行四辺形、楕円など、幾何学の用語を使って表現するような境地にはまだ至っていないのであります。

この世のすべての現象は、電子や量子などの関係式によって説明できると確信している唯物論者なら、自分の妻も非常に高度な微分方程式の賜物であるとひそかに信じているんでしょうが、家庭生活でそれを大っぴらにするほど愚鈍ではないでしょう。

科学的に解剖していくことが日常の人間関係では不適切かつ不必要なものなら、最も近しく親密な関係である。人間の魂と神の霊との間に科学的議論を持ち込むことが妥当ではないことは言うまでもないでしょう。

リチャード・ファインマン 1963年

新たな方向をまったく見られない、または見ようとしない。あるいは何かを疑う気持ちを持たず、無知の認識もないのなら、新しいアイディアなど得られない。何が真実であるかを知り尽くしていれば、もう調べる価値のあるものもないだろう。

つまり今日、科学的知識と呼ばれるものは、それぞれ異なる不確かさを持った主張の集合なのだ。中にはほぼ嘘だろうというものも、間違いなく正しいと言えるものもある。だが100%真実と言い切れるものはない。科学者はそれに慣れている。無知であっても矛盾なく生きられるということを知っている。

科学者でない人は問う。「無知のままどうやって生きられるのか?」私には質問の意味が分からない。私はずっと知ることなく生きてきた。簡単なことだ。どうすれば知れるのかを私は知りたいのだ。疑う自由は科学において重要な問題だが、おそらく他の分野でもそうだろう。それは葛藤から生まれる。疑ってよい、不確かであってよいと認められるための葛藤。その重要性を忘れ、はじめから葛藤を避けるようにはなってほしくない。

私は責任を感じる。科学者、すなわち無知の境地を心地よく感ずることにどれほど偉大な価値があるか知る者として。その境地によって進歩が可能となる思考の自由の結実するところに進歩があるのだ。責任感を持って、あなた達に述べ伝えよう。この自由の価値を、疑念を恐れず歓迎せよ。それは潜在的に人類の新たな可能性なのだ。「よく分からない」と分かっていれば状況を改善するチャンスがある。私は未来の世代のために、この自由を要求したい。

アルベルト・アインシュタイン 1931年

我々が経験しうる最も美しいものは神秘です。それは真の芸術と真の科学が生まれるところにある基本的な感情です。それを知らず、もはや新鮮な驚きを感じず驚嘆しない人は、すでに死に、視力を失ったようなもの。それは謎を体験することです…それは時に恐怖すら糧とし…宗教を生み出しました。我々には計り知れない何物かが存在することを知り、我々の知性ではその最も原始的な形態を理解するのがやっとの深遠なる道理や、輝くばかりの美を知覚すること…真の信仰心を構成するのはこの知とこの感情です。

この意味合いに限って言えば、私は非常に宗教的な人間です。私は自らの創造物に賞罰を与えたり、我々と同じような意志を持ったりする神を想像できません。私は肉体的な死を生き残るような人物を理解できないし、したくもない。そのような考えは恐怖や不条理な利己主義から生まれる貧弱な魂のものでしょう。

自ずと現れる道理の最小限にせよ一部を理解したいと渇望する献身者と同様、私は命の永遠の謎と既存の世界の素晴らしい構造を認識し、その姿を垣間見るだけで満足なのです。

ジェームズ・ジーンズ 1928年

生後3日の赤ん坊である我々には、ほんの数分前に発見した宇宙について自信たっぷりに解釈することなど決してできない。その子ひとりの寿命は70年ほどであろうが、人類という種で考えれば約7万年であると思われる。

突如目覚めて突き付けられた世界は明らかに無意味で不可解なことが多く、その子は困惑し、悩み、しばしば苛立つかもしれない。しかしその子はまだまだ若い。同じくらい若く経験のない赤ん坊は、地球の反対側まで探さなければ見つからないかもしれない。その子にはすべてを理解するために十分すぎるほどの時間がある。遅かれ早かれパズルのピースをつなぎ合わせなければならないが、うっかりすれば見落としてしまうほど小さなパズルの一片に過ぎないその子自身に、果たしてパズルの全体像が理解できるかどうか、疑わしく思うのも当然であろう。

ジェームズ・ジーンズ 1928年

天文学的な時間スケールで見るとき、人類は誕生してまだ間もない。乳児期のようにあらゆる未知の可能性を持つ新生児である。その間ずっと、彼らは専ら揺籠と哺乳瓶のみに強い関心を寄せている。自分と揺籠を取り囲む広大な世界に気づいたばかりであり、遠くの物体に目の焦点を合わせることを学びつつあり、目覚めかけている脳はうっすらと、ぼんやりとではあるが考え始めている。「自分は何者で、何のためにここへ来たのか…?」外界への関心はさほど育ってはおらず、能力の主な部分はまだ揺籠と哺乳瓶に夢中であるが、その脳は一隅で考えることを始めている。

ジョワシャン・ガスケによるポール・セザンヌの回想 1921年

「ほら、モチーフはこれなんです…」(彼は手を合わせ、10本の指を開いて引き離し、ゆっくり非常にゆっくりとまたそれを合わせ、握り、固くつかみ、噛み合わせた)「これが実現すべきものです。片手が高すぎたり低すぎたりしてはうまくいきません。」どの部分も、感情、光、真実の逃げ道となるような穴が残るほど緩みすぎてはならない。

私はキャンバス全体、あらゆるものに同時に取り組むのだと理解してもらいたい。ひとつの衝動、ひとかたまりの信念を持ち、私はすべての散乱した破片に近づく。この目に映るすべてのものは、崩壊して消えゆく定めにある。自然は常に同じだが、その中にあって目に見えるものは1つも残らない。我々の芸術は自然が見せる演技のスリルをその要素と共に、あらゆる変化の様相と共に描写しなければならない。永遠なる自然を味わえるものでなければならない。

その下には何がある?何もないのか、それともすべてがあるのか!私はそのひらひらと遊ぶ手と手を結びあわせる。私は右で、左で、ここで、そこで、そこかしこで何かを手に取る。その色合い、色彩、陰影、私はそれらを描き入れまとめあげる。それらは線を形成し物体や岩や木となる。私が意図しなくとも量感や価値を帯びる。これらの量感、これらの価値がキャンバス上で呼応する。私の感性の中で、平面に向かって、一点に向かって。これは私達の目の前で起こること。そしてキャンバスの中で、自然の両手はしっかり組み合わされている。そこに迷いはない。手は高すぎも低すぎもせず組み合わされている。

私のキャンバスは真実で、小さく、豊かだ。しかしある日、わずかにでも気を逸らすものがあれば…またわずかにでも失敗すれば…何よりも解釈に懲りすぎれば…今日の私が昨日の私の考えに夢中になって反論をはじめてしまえば…描きながら考え余計なことをしてしまえば…おじゃんだ。すべてが台無しになる。

ラッセル・シュウェイカート 1975年

あなたはそこで1時間半ごとに地球を1周します。そしてそれがずっと続きます。たいてい起きるのは朝です。軌道がそうなっているからですが、起きた時に眼下にあるのは中東や北アフリカです。朝ご飯を終え通りすがりに窓の外を見ると、地中海、ギリシャ、ローマ、北アフリカ、シナイ半島などの全域が広がっています。そして一目で気づくのです。自分が目にしているものは人間の長い歴史であったもの…古代文明の発祥地であることに。

その後、北アフリカを渡ってインド洋に出ます。そして大きなインド亜大陸を下のほうから見上げる形で通りぬけます。セイロン(現スリランカ)を横に見て、ビルマ(現ミャンマー)、東南アジア、フィリピンを抜けると、呆れるほど広大な海洋…太平洋が広がります。この光景を見るまであなたは太平洋がこれほど広いものだとは知りませんでした。

やがてやっとカリフォルニアの海岸が見えてきます。懐かしい場所を目を凝らして探します。ロサンゼルス、フェニックス、エル・パソを越えてヒューストン、あなたの故郷。もちろんそこにはアストロドームが思わず感情移入し故郷への愛着がこみ上げてきます。ニューオーリンズを横断し、さらに南に目を向けるとフロリダ半島が一望できます。大気中を何百時間も飛行したあのルートも、すべて懐かしく思い出されます。

そうやって大西洋を通ってアフリカに戻ってきます。それを何度も何度も繰り返すのです。そのうちにあの感情、ヒューストンに感じたあの思慕をロサンゼルスやフェニックス、ニューオーリンズにも感じるようになってきます。

次にあなたは北アフリカを懐かしく思っていることに気がつきます。あの大陸の姿を心に抱き、それが視野に入ってくるのを心待ちにするようになるのです。地球一周を何度も繰り返す過程で、感情移入の対象が変わっていきます。地球を1時間半で周り続けているうちに気づくのです。自分が地球全体に思慕を抱いていることに。これは自分を塗り替えるほどの経験です。

あなたは地球を見下ろして、自分がいかに多くの国境や境界線を渡っているのか考えて唖然とします。しかもそれらの境は目に見えないのです。目覚めて最初に目にする中東では、あなたには見えない架空の国境をめぐって何百人もの人々が殺し合いをしています。あなたが見ている場所からは地球はひとつです。そしてとても美しい。衝動がこみ上げてきます。争い合っている人達の手を取ってこう言ってあげたい…「ほら、ここから地球を見てみてください。どうですか?今、何が大事だと感じますか?」

それからしばらくして、あなたの隣にいた宇宙飛行士の仲間が月に行きました。旅を振り返り彼は言います。「地球を大きいとは思わなかった。細部はとても美しかったが、地球は、虚空に浮かぶほんの小さな惑星だった。」鮮やかな青、クリスマスツリーの飾りのような白、漆黒の空…無限の宇宙のコントラストが心に蘇ってきます。

小さくて大切で…地球はまさにそのようなものなのです。とても小さくて壊れやすい船内からは、親指で隠せてしまうほど小さい、けれど尊い、宇宙の中のささやかな1点、そしてその青と白の小さな1点が、あなたにとって意味のあるすべてなのだと気がつくのです。歴史、音楽、詩、芸術、戦争、死と誕生、そして愛、涙、歓喜、遊び、そのすべてがあなたの親指ほどの小さな場所の中にあるのです。あなたは自分の世界観が変わったことに気づき、何か新しいことが始まっているのを感じます。あなたとあなたの周りの世界との関係も今までとは違います。

船外活動をしていた時のことが頭をよぎります。カメラが故障してほんの少し時間の余裕ができたこと、その時に今何が起きているのか考えていたことを思い出します。その時あなたは目の前の光景をじっと見ていました。あなたはもう何かの中にいて、窓から外の風景を眺めているわけではありません。あなたは外にいて、あなたの頭には金魚鉢のようなものがある。無限の空間を持つ金魚鉢です。枠もなければ境界線もありません。あなたは地球から離れた外の世界に浮かんでいるのです。音もない真空の宇宙を時速約40,000kmで駆け抜けているのです。

そこにあるのは静寂です。初めて経験する深さ、景色と際立った対比をなす静けさ、そして途方もないスピード。それらのコントラストが心に蘇ってきます。そしてあなたは思うのです。自分が経験していることや、その妥当性について、自分にこのような素晴らしい体験を授かる価値があるのだろうか、これは何かのごほうびなのだろうかと。あなたは神と接触するために選ばれたのでしょうか?普通の人間には許されない特別な体験をするために?

あなたはその答えがノーであることを知っています。なぜならあなたはそうした恩恵を授かるうような大きなことは何もしていないからです。これは確かに特別な体験…でも自分ひとりのためのものではない、とあなたは思い至ります。その瞬間、強烈なひらめきを覚えるのです。自分は「人類のために」何かを感じるべきなのだと。

眼下を見下ろし、自分がこれまで暮らしてきた地球の表面を眺めます。そこに住んでいるのはあなたが知っている人々です。彼らはあなたに似ています。彼らはあなたです。ここに送られてきたあなたは彼らの代表なのです。あなたは感じ、教える存在なのだと謙虚な気持ちで受け止めることができます。それは一種の使命感です。自分のためにすることではありません。人類の一員として取り組むべきことです。これこそ地球がそこにあり、あなたがその外にいる理由です。そしてあなたは自分がこの生命体のかけらであることを知ります。あなたはその先頭にいて、地球に大切なものを持ち帰らなければなりません。これはとても特別な使命です。あなたは私達が生命と呼ぶものとあなた自身の関係について学びます。

戻ってきたとき世界は違ってみえます。あなたがしてきた経験のおかげで、地球とあなたとの関係、あなたを含む地上のあらゆる生命体との関係が、これまでとは違ったものとなります。これはとても意味深い変化です。

ここまで私は「あなた」という言葉を使ってきました。なぜならこれは私ではないからです。デイヴィッド・スコットでも、ディック・ゴードンでも、ビート・コンラッドでも、ジョン・グレンでもありません。これはあなたであり、私達でもある、生命のことなのです。この経験は私だけのものではありません。地球をひとつにするという課題、挑戦、喜びは、私だけのものではありません。それはあなたの、そしてすべての人のものなのです。

ニコラウス・クザーヌス 1453年

神よ、ゆえに私はあなたに感謝する。なぜなら、すべての人間、もっともすぐれた賢人でさえ近づけない、不可能と思えるやり方でしかあなたに近づけないことを、私に明らかに示したのであるから。あなたは私が不可能なものに対面し、それに阻まれるときのみ、あなたの姿を見ることができるのだと、私に指し示したのであるから。

神よ、あなたは成熟者の糧。私が自己を打ち倒す勇気を与えてくださった。なぜなら不可能は必然と一致するのであるから。あなたが見出される場所は、矛盾の一致に取り巻かれているのであるから。

そこは楽園の壁。あなたがまします楽園。壁の門は、最も堅牢な理知で護られ、それが覆されないかぎり門の扉は開かない。ゆえにあなたが見られるのは、矛盾の一致の向こう側であり、こちら側ではないのだ。それゆえに、もしあなたの眼に不可能が必然であるならば、あなたの眼に見えぬものは、ひとかけらとしてないのであろう。

B・F・スキナー 1971年

制御する側とされる側は相互に関係している。ハトの行動を研究しているラボの科学者が、行動随伴性の実験を試み、その成果を観察した。実験装置は明確な制御をハトに加えているが、ハトのほうも実験を制御していることを見逃してはならない。実験道具の設計や使用手順は、ハトの行動を見ながら決められているからだ。

このような相互制御の関係は、科学のあらゆる場面で見られるフランシス・ベーコンの言葉を借りれば「自然はこれに従うことによらなくては征服されない」のである。

サイクロトロンを設計する科学者は、研究対象である粒子の反応に支配される。親が子をしつける時は、叱る場合も褒める場合も、子供の反応が親の行動を左右している。心理療法士による治療で患者の行動が変わる時、療法士はそれまでの過程で患者の行動を変えるのに有効だった方法に影響されている。政府や宗教団体なら、市民や信者を制御するのに、過去に効果があったやり方で指示をしたり制裁を加えたりすることがある。雇用者と被雇用者の関係では給与システムが被雇用者の勤勉かつ丁寧な仕事を促すが、そのシステムは被雇用者に現れた効果により調整される。学校の教師もしかり授業のやり方は生徒の反応を見て決めている。

要するに奴隷は奴隷使いを、子供は親を、患者は療法士を、市民は政府を、信者は神父を、被雇用者は雇用主を、生徒は教師を、制御しているのだ。

デヴィッド・ダーリング 1996年

日本には2つの主だった宗派がある。臨済宗と曹洞宗である。いずれも瞑想をせずに世界を見るという同じ目標を持つが、アプローチの方法は異なる。

曹洞宗では思考に特定の焦点をもたず、着座して行う静かな黙考を重視する。しかし臨済宗の手法では、論理的な解答のない問題に知性で取り組む。こうした問題は「公表」を意味する中国語から「公案」と呼ばれている。

一部は単なる問いかけだ。例えば「精神が善悪の二元論について考えていない時、生まれる前のあなたのもともとの顔は何か?」次のような問答形式のものもある。「仏とは何か?」答え:「3ポンドの亜麻である」または「中庭のヒノキである」(色々な答えがあるが、典型的な2例のみ挙げる)伝統的な禅においてはこのような難題のレパートリーが1,700種類もある。これらに共通する目的は、一種の知的なカタストロフィーを起こすことだ。それは突然の飛躍である。個人を言葉と理性の領域から、悟りという事物を直感する領域へと引き上げる。

禅は瞑想法ではない。仏教の他の宗派とも異なる。なぜなら禅は、我々を俗世間から世界の真理へと徐々に開眼させるものではないからだ。ひとつひとつ修行を積み重ねるわけではないのだ。禅を研究する唯一の目的は、稲妻のように突然やって来るその瞬間を体験することである。知性がショートし、主体と客体を隔てる障壁が消え失せる瞬間を体験することである。

荘子 紀元前4世紀

最初の船に乗っていた人はぶつけてくるなと怒鳴るだろう。1回、2回、そして3回呼びかけても返事がなければ、罵詈雑言が口をついて出るのは必至だ。前者には怒りがなく、後者には怒りがあった。前者は空船だったが、後者には人が乗っていたからだ。

人間もこれと同じで己をなくし、空しくしてこの世を過ごすなら、誰も彼を害することはできない。

── それでこの後はどうなるんだっけ?

さあ。覚えてないわ。

え?

ああ、私いつもこうなの、夢を覚えていたことがないわ。起きる直前に意識して覚えていようとすれば、夢の断片くらいは残るけどね。でもその後はたった20分後でも、その断片さえ消えてしまう。書き留めておけば別だけど…それでも後で読み返すとおかしな人が書いた戯言の羅列のようなもの。

そう。でもそうなると、記憶に副次的な影響がないと言える?例えば自分の人生の他の事は全部覚えてるものかしら?

それは大丈夫よ!ただしまい込んでるだけで…頭を切り取られるわけでもないんだし。全部そこにあるわ。夢の中で私達はよくちょっと違った人格を帯びる。起きている時の日常の細かなことを忘れ、かわりに架空の世界の記憶を保持するでしょう。それがどうやって起こるのかっていうと、ただ…同じ経路を使っているだけ。大丈夫よ。でも確かに何かが欠けていた場合、どうやって気づけばいいんだろう?もし細かなことをいろいろと忘れているとしたら、忘れているという事実はどうやって思い出せばいい?別に何か大きなものが欠けているというわけじゃないと思うけど。あれ、そういえばあなたはどちらさま?

もう、なぜあなたを「一番手」にさせたのやら…。

まだ「一番手」じゃないわ!私はただ水際に足の先をつけただけ。「本当の一番手」は真っ逆さまに飛び込んで自分でいつ出てくるか決められるようになった最初の人よ。誰が行くことになるかしら?あなた?

ああ、こんな怖いことをするなんて、まだ分かってなかった頃が懐かしい。

大丈夫!怖い事なんてない。楽しくなってくるわ。

楽しすぎて忘れちゃうくらいなのね。

まあね。さてと、始めようかな。帰る前にこれをもう一度録音しておかなくちゃ。新しい考えが浮かんできたの。

それはテストのせい?

ええ、たぶんね。

何も覚えてないんじゃなかったっけ?ふぅん、なるほど、不思議ね。

でしょ、じゃあね、おやすみまた明日。

ニファリ 970年頃

神は私に海を見よと命じられた。私は船が沈み、板切れが浮かぶさまを見た。そして板切れもまた水に呑まれた。

そして神は私に言われた。「航海する者は救われない。」またこう言われた。「航海する代わりに海に身を投げる者は危険を冒している。」またこうも言われた。「航海をして危険を冒さぬものは滅ぶべきである。」またこうも言われた。「危険を冒すことは救いの一部である。」波が訪れ、海中にあったものをも落ち上げて、海岸を呑み込んだ。またこうも言われた。「海面は手の届かない微かな光である。そして海底は人を拒む暗闇である。これらの間には恐るべき巨大な魚達がいる。」

── 何?

買い物に行くけど、サンドウィッチか何か要る?

そのために1時間もそこにいたの?

邪魔したくなかったんだ。

サンドウィッチは好きじゃない。私がサンドウィッチを食べてるところ見たことないでしょ?それでどうしてサンドウィッチを勧めるの?

ごめん。

まあいいわ…少し眠ろうかな。

もちろん、根を詰めすぎてたからな。

ちゃんと読みたくて、これ、きっと今後何度も聞くことになるもの。細かな部分まですべてが重要になる。

大丈夫、すでに良い出来だ。

ありがとう。そうね、でも目標が高いもの。どんな細部もおろそかにできない。コーヒーを1杯もらってもいい?

-none-

── お湯が沸いたようよ。あのティーポット、早く沸くけどうるさいよね。さあ、続ける?

ああ、目下の懸案事項は唯物論的無神論者や物理主義者、その界隈の思想をもっといい形で提示することだ。ずっと模索しているんだが、どうもうまくいっていない。問題は、理論的に一貫している無神論者の主張が、どれも神についての特定の概念の否定や宗教組織の活動の歴史に対する怒りの表明に終始していることだ。私達がほしいのは、まず原理的に神という概念が存在しえないことを証明するような言論だというのに。

私もまったく同じ問題を感じてるわ。無神論の根拠が、聖書がいかに不合理かをあげつらうばかりになっていること、バートランド・ラッセルのような先進的な思想家でさえ宗教についての解釈は「なぜ私はキリスト教徒ではないのか」という狭い見地からの物言いにしか聞こえない。ここで提示している神のビジョンに対してスケールが小さすぎるのよね。

えっと…最後のところ何て?通信の調子が悪くて。

ああ、無神論者が議論に出す神の概念があまりにも限定されてるってこと。極端な例では、わら人形論法的に神なるものを批判していたり…クザーヌスやスピノザ、スーフィーの聖者達、さらにはアインシュタインまでもが持っていた神のビジョンとかけ離れすぎているのよ。そもそも論じる土俵が違いすぎるってことなの。

唯物論をはっきりと唱えているのは、物質的な世界を最先端で理解している物理学者じゃなく、たいがい哲学者や作家だからね…大物の物理学者にはなかなかいない。わら人形論法的な詭弁じゃない。しっかりと骨のある議論を見つけるのは至難の業だ。現代ではすべてとは言わないが、物理学者の多くが無神論者だっていうのに、この分野の学者が強いはっきりとした無神論を説くことは少ない。それが不思議だよ。

そうだな。強いていうならファインマンがいて、彼は特定の事柄について科学はある程度までの確実性は語るが、それ以上のことについては分からないのだから、作り話に納得したり勝手に推測するより、大きな疑問については僕らには分からないということをきちんと分かっていた方がいいというようなことを言っている。でもファインマンはもうかなり引用をしているね。

ポール・ディラックはある時期、かなりの無神論者だったようだけど、そういう主張が記録に残っているかどうかは分からないな。注意して見ておくよ。

ディラックは唯物論者とはいえないな…何しろ宇宙は数学でできていると信じていたんだから。これはもちろん単純化しすぎているにしても、彼はアインシュタインと同じようなニュアンスで神について何度か言及したりもしてる。

何だか馬鹿げているわ。科学的素地のある人にはそれは当たり前のことなんじゃない?科学者やプログラマーみたいな人種にとって唯物主義はデフォルトでしょう?唯物論を信じないのは知性が足りないからだって思ってる…でもそれを論理化してる人がいないならどうしてそういう風潮になるのかしら?

キリスト教やユダヤ教の説法に不合理性を見つけるのは難しいことじゃない…だから信仰に対するそういうイメージがあって、ほとんどの人がそうだろうけど、自分の価値観を掘り下げるのには抵抗があるなら宗教っぽいものはすべて聖書のようなでっちあげで、唯物主義は反宗教的。一般に教養のある人は唯物論者という感じがするし、自分は知的でありたい…っていうことで片付けてしまえる。

加えてだいたいどんなものでも信じてそれを広めようとする、いわゆるスピリチュアルな人々もいるからね。

聖書だけじゃなく、お化け話や占星術、スプーン曲げ、そういったいかさまはこの世にいっぱいあるよ。

でたらめが多すぎてスピリチュアルな世界に質の高い思想を探すのは実に難しくなってしまっている。「スピリチュアル」と一括りにしていいか分からないけど。だからすでに唯物論に傾倒している人は薄っぺらな「スピリチュアル」な人達を見て、だからみんなウソですよって、短略的に結論づけてしまうことが多い。

僕もそうやって考えてやっていた、しばらくの間はね。

なるほど。まあそれは置いておいても現代の科学者の中には、ある種の無神論的唯物論主義を信じていて、その論理を慎重に考察している人もかなりいる。そういった見解も見ておかないと。

そういえば…/何だかもどかしい…

ごめん。

いえいえ、どうぞ。

ええと、ただ…カール・セーガンが「悪霊にさいなまれる世界」か何かでスピリチュアリティの源泉としての科学について語っていたのを思い出したの。でもセーガンの言うスピリチュアリティは神秘的なものじゃなくて…真理への純粋な献身や世界の中での人間のあるべき姿に対する考えを深めていくっていうことなの。宗教に対する反感や軽蔑のない無神論になっていてとても良い本よ。

ああ、私も読んだよ、なかなか素晴らしい一編で。ぜひにと思ったんだが、エージェンシーが要求する額が高くてね。

払ってしまえば?

いや無理だよ。そんな特別枠を作れば例外がどんどん増えていって破産するのがオチだね。セーガンはなしだ。素晴らしい思想家だったし、雄弁でもあったのに。残念だがね。

-none-

── …これらをうまく読んでちゃんと録音されたものを選ぶのは…

理路整然としていなくてもいいと思う。何か僕らの痕跡を残しておこうよ、勇敢な誰かが探せるようにね。

というと?島に来る人はちょっと歩き回れば私達の声を聞くことになるだろう?

そりゃあそうだけど、舞台裏で起こっていることを見てもらうのも悪くない。僕らの誠実さを分かってもらうためにもね。もし僕らが賢い言葉を並べることに躍起になって、それらを心に響かない方法で届けたとしたら、表面的なものにしか聞こえなくなるかもしれない。ここが微妙なところだ。下手すると尊大に聞こえかねないからね。誰もが避けたいことなのに、そうなっていたとしたら気づきにくいだろ?もしくはプロジェクトに没頭しすぎているかも?もし、ところどころに僕らの会話を挟んで、自分達は何かを超越した存在なんてものじゃなく、行き詰まったり口論したり落ち込んだりすることもあるってことを知ってもらえば、少なくともごまかしではないこと、こそこそした奴らでないことが分かってもらえる。

そうやって信頼を築くのはいいことだけど、でも事件やドラマなんて、日常に山ほど溢れてるんだ。だからこそそういう喧噪から離れた静かな場所をここに作っているんじゃないか?けたたましい日常のドラマを称えるんじゃなく…。ここにあるのは思索するためのものだ。心を集中させ、明瞭にする。それは最初に決めたことだろう。

分かってる、それを変えるつもりはないよ。ちょっとひねりを加えるだけだ、奥の方でね。ドラマである必要もない。現実を見せるだけだよ。

現実だって?ミーティングの様子を録音してそれを入れるとでも?

それもありかもな!でももうかなり良いのが録れてるよ。君が女性にサンドウィッチを勧めているところとか。彼女のマイクが入ってた。だからアーカイブに保存されてる。でも話の流れとしてはパーフェクトだ。上からものを言ってるシーンじゃないからね。ここに録音してあるものは「真実」を求めた人間の努力の証だ。でも人は本当の「真実」にはたどりつくことができないことも忘れちゃならない。僕らがそれを知っていることをここを訪れる勇敢な人にもきちんと示すべきだと思うんだ。

まあ分かったよ。とりあえずはそれで様子を見よう。この島については、私達はなんというか…際どい立場にある。その点は気をつけてくれよ。特に私は少々恥ずかしい部分もさらけ出すことになるようだし。

そうだ、一応知らせておくけど、この会話も録音してるよ。

おいおい。

僕は真剣さ。

(ため息)

ポール・ディラック 1927年 ヴェルナー・ハイゼンベルクによる引用

宗教について、なぜかみな正面切って論じようとしない。正直であろうとすれば(科学者はそうであるべきだが)宗教が事実無根の虚偽の寄せ集めでしかないことを、誰もが認めざるを得ないはずだ。

神という概念そのものさえ、人間の想像の賜物にすぎない。自然の脅威が今よりもっと大きかった原始時代の人々が、恐れの気持ちからそうした力を擬人化したというのはたやすく理解できる。

だが自然の原理がもっとよく分かるようになった現代では、そのような手段を講じる必要性がない。僕には全能の神の存在を前提とすることで何かの役に立つとは到底思えない。神の存在を仮定することで人々は悲惨な状況や不当な環境に陥ったり、金持ちが貧乏人から搾取したりする残酷な状況を、なぜ神は放っておくのかという、考えても仕方がない疑問を抱くことになる。

今でも宗教が教え込まれているなら、それは僕らがその教養に納得しているからでは決してなく、下層階級を黙らせたいという層が一定数存在するからだ。人々が不満を抱き、あれこれと要求してくるより静かにしてくれている方が統制も搾取もしやすいからだ。

宗教とは、民衆がどれほど不正義や不平等に苦しんでいても、国家がそれをきれいに忘れ去り、自らの進みたい方向に粛々と勧めていくための一種の麻痺剤のようなものだ。

── 私が何を言いたいかは分かるだろう。

ええ、これも適当じゃないわね。

どうしてだと思う?

それは…比較的小さなことにやけにこだわって議論を大きくしてるからかな…高みを志しているのでも、究極の真実を突いているのでもないし。ほとんどは自分が正しくて、それに比べ愚かな人達がいかに間違っているかを述べているだけだわ。

だがポール・ディラックは真実の探究者だった…少なくとも物理の世界においてはね。

でも私には、ここからその真実を求める姿勢というのは見えないな。ほかの信条に対抗するために作られた信条なら、それは本質的なものとは言えないわよね?さして深いとも思えない。ただ、ディラックは自然の原理について述べる時、はじめに現実をふまえた自分なりの哲学を打ち出しているわね。

興味深い点だ。反対意見でもなく既存の考えの棄却でもなく、独自の論理の展開を試みているんだね。でもこれは私達が求める無神論の思想じゃない。もう少し見てみよう。ディラックはこうも述べている。「こう説明できるかもしれない。神はことのほか優れた数学者で、きわめて高度な数学を使って宇宙を作り上げた」ここでの神はアインシュタインの言葉と同じような意味合いだろうね。

同じ人がそんなことを?本当に?

そうさ、まったく人間は不思議なもので、科学者はそれに輪をかけているね。

同感だわ。

ラビンドラナート・タゴール 1916年

私の力は限界に達し、この旅路にも終わりが来たと思った…。私の前途は閉ざされ、蓄えは使い果たし、静かな暗がりの中へ身を隠す時が来たと。

しかしあなたの御心に私の終わりはなく、言葉が舌の上で死に絶えると、心の底から新しい旋律が湧き出でた。

私は知った。古い道が消えると、驚くばかりの新たな国がその姿を表すことを。