否定されることを恐れるな、否定することを恐れるな。拒絶によってそこに輪郭が生まれる (original) (raw)

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ども、あけましておめでとうございます。年が明けても相変わらずな感じで行きますが、今回は珍しく続き物です。続き物というか、相も変わらず戯言です。戯言というか、論理を放棄し、言葉の断片をちぎっては投げちぎっては投げ、という様相を呈しております。どうでもいいね。ゆるふわでいくぜ。

不要なフィールドでまで戦わなくて良い。相手の挑発をことごとく買ってやる必要はない。全ての問題に立ち向かわなくて良い。捨てるべきものは捨ててやれ。肩の荷を下ろして、自分の持っているもの、本当に取り組むべき問題に目を向けてやれば、それでいい。当事者でないことは必ずしも罪ではない。あなたも私もROM上等、世界はROMでできている。

世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら

否定されることを恐れる必要はないし、否定することに後ろめたさを感じることもない。拒絶することによってはじめてそこに輪郭が生まれるからだ。

ところが、この類の問題はリクツでは理解できても、感情的に反発があることが少なくない。

否定されるということ

自分を否定される経験は、気持ちの良いものでは決してない。

よく「指導の方法」的なマニュアルや育児書なんかで*1「人を叱るときは人格を否定するのではなく、行為を否定する」という原則が挙げられているのを目にするけど、
裏を返せば、人格に通じる部分を否定されることは、誰でもかなりのダメージを伴う、ということを示している。
世の中の全ての人が育児書を読んでいるはずはない。みんな育児書を読もう!僕のオススメは...という流れにはならないので安心して欲しい。

ずいぶん前になるが、僕はid:nakamurabashiさんの書いた記事にとても共感した覚えがある。今該当箇所を探し出した*2

ブクマのページは俺にとって鬼門だった。ここのところはわりと200とか300とか平然とブクマついたりして、そのなかには俺に対する好意的な意見もあるのだろうし、おそらくは参考になることも書いてあるだろう。けれど俺はネガコメが怖い。その怖がりかたは、おそらく病的なレベルのものだと思う。

はてなダイアリー

傍観者であるROMは、非傍観者すなわち当事者に対し、いつでも好きなときに牙をむくことが出来る。そしてたいていの場合、ROMは戦いのフィールドに降りてくる必要もない。そうした一方的な"否定"の最たるものが、はてブネガコメだ。
誰にだって苦手なタイプの人間がいるが、そいつに対してイライラしたりビクビクしたりするほど非生産的なことはない。ところがインターネッツというやつは、視界に入れたくない相手を可視化してしまう。

僕も極度にネガコメを恐れていた頃があったんだけど、これまたえむけーつーさんと同じく、今となってはさほど気にしてはいない。もう少し引用を続けてみる。

これは俺の文章の書きかたに問題がある。はてなの多くの人、特に有名な人は、基本的に論説として文章を書いている。しかし俺は常に「自分という物語」について書いてきた。つまり、文章には常に俺自身がいる。いってみればそれは、俺自身について書かれた一人称の小説のようなものであり、同時に「俺」という人間について書かれたノンフィクションでもある。

(中略)

こんな俺にとって、ネガコメとは「俺という存在の否定」を意味する。多かれ少なかれ、だれにとってもネガコメというのは気分のいいものではないだろうが、俺にとっては、それは死刑宣告だ。この傾向はいまに始まったことではない。文章の書きかたが昔から変わらない以上、いつでも同じことで、俺は、ネット上で自分の文章に対する否定的な意見を見るたびに、常に全力でネットから逃亡してきた。自分を否定する存在がいるということは、いつか「殺される」ということを意味するからだ。

はてなダイアリー

似ている、と思った。

僕はこの方法でしか文章を書けない。自分という物語を通すことでしか語れない。自分の思考や感情を文章化することは、生を実感する重要な方法の一つであり、自分を客観化する行為であり、それが故に、唯一の確実なものであった。
だから日記帳を初めて開いた小学校高学年の頃から、自分の書いた文章というものを後生大事に抱えてきた。ところが、最初はただの作業ログ/メモの場所だったブログと、個人の思考/感情を記録していた紙の日記との境界線が少し崩れて、自分の思考を書くようになり、...今に至る。

閑話休題

長い目で見ると、否定されることは、人間の人格形成のために必要な経験でもある。人格形成などと大上段に構えなくとも、何にでも言えることだ。否定され、それを受け入れ、消化し昇華する必要がある。
逆に何も壁にぶつからないまま、利害と感情の対立に悩むことのないまま時間だけを積み重ねてしまうと、人間として薄っぺらくなってしまう。そんな気がする。
極普通の人間関係の中で生きていれば、必ず自分を否定する人の存在に気がつく。また、自分で自分を否定せざるを得ない事もある。そうしないと、次へ進めないような時がある。

ここで否定を受け入れるためには、一定量の肯定を蓄積してある必要がある。ダメージを和らげるためのバッファを準備しておく必要がある。
そして、逆説的だが、他人あるいは自分自身に自己を肯定させるためには、自ら何かを否定しているのだという「自覚」を持っていなければならない、と僕は考える。

否定するということ

「自覚」と呼んだものは、この文脈では「輪郭」と読み替えてもいい。

あるものを受け入れる一方であるものを否定し、好き嫌いをはっきりさせることではじめて形が見え、明確なラインが浮き上がってくる。否定することでそこに輪郭が生まれる。
逆に、全てを重視すること、何も拒絶しないこと、そこにあるものを無批判に受け入れることは、何一つとして希望を持たないことに等しい。

失敗しても反省して復活し、恥をかいても割り切って次に進む、そんな柔軟な強さはすべて「なんとかなる」という確信に基づくものだ。そしてその確信の根拠は「自分自身が否定すべきものを否定して、選択の結果ここに立っている」という自信だと考えている。

ちょいと前に、こんなエントリが話題になった。

人生は早めに諦めよう! - Chikirinの日記

ところで僕はid:Chikirinさんの記事がかなり好きなのだけど、その理由はなんじゃろなと考えてみたところ、どうやら、扱うテーマがどうこうというよりは、好き嫌いがはっきりしてさばさばした書き口だから、であるようだ。なんというか、輪郭がはっきりしていて好感が持てる。

早めに「人生の天井」を知る。
そういうことを中学生くらいで知ることを不幸と思う人もいるのだろうが、ちきりんは「40才まで分からないよりは、中学生くらいで分かった方が幸せでは?」と思う。
いつまでもいつまでも「頑張ればやれる」などと思ったまま大人になるのは、本当に幸せなことなのか?
(中略)
それより、若い時にいろいろ諦めておいたら違う人生が開けてくるんじゃないかな。

人生は早めに諦めよう! - Chikirinの日記

これはつまり、他人と自分を混同することを早くやめてしまえ、という主張だと僕は解釈した*3。他人を自分とは違う存在として「否定」する、そこが等身大の歩みのスタートである。と読めた。

自分の立っている土俵に上がっていないから卑怯だ、と誰かを攻めるのはお門違いで、世の中には勝負する必要すらない、ROMであるべきものごとが世界の大半を占めている。これは前回のエントリでも書いたことだ。

何かを否定することと何かを望むことは表裏一体の等価な行為で、何かが嫌いな人は、その何かとは異なる(正反対、とは限らない)何かを好いている。価値観の違い、重要視するものの違い。人はそれぞれ違ったものを見ているという事実を認めることさえ出来れば、人間関係の不和がどれだけ解消されるか知れない*4

他人との視野の違いを許容できなければ独りよがりに生きていけばいい。

世界の大半はきっとどうでもいいことだ。

世界の大半はきっとどうでもいいことだ。その大切な視点を僕は幼少期に教えてもらわなかったし、自分でも長らく気がつかなかった。

そして世界の大半を否定すること、「諦め」てしまうことは、必ずしもネガティブな意味ばかりではない。以前の僕はこれを理解していなかった。僕は何も望んでいないのではないか、何に対しても本気になれないのではないかという不安に苛まれることがあった。四半世紀にも満たない*5自分の人生を振り返るに、僕は、極端なまでに否定されることを恐れて来たのだと思う。少なくとも20歳の頃までは。

不必要なまでに考えすぎる僕ではあるが、今の僕はこの問題に対する解決策を手中に納めている、と思っている。

まぁ、否定を極端に恐れていた昔とは打って変わって現在は振り子が逆に振れ過ぎており、少々困ったことになっているのだけど....それはまた別の話。