チ、チ、ババチ (original) (raw)

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目も鼻も口も眉毛もどこも、どの角度からも自分には似ていないと思っていた娘が成長するにつれて、もしかしたら昔の自分の顔に似ているのではないかと思えはじめてきていた――正月に実家を訪れたときに、その思いが正しいのかどうか確かめようと古いアルバムをタンスの奥から出してきて、持ち帰った。布張りの表紙と背表紙とに挟まれたアルバムは重く、車の助手席に乗せると揺れてもカーブを曲がっても動かなかった。ミカンを食べながら、果汁で汚さないよう気をつけて表紙をめくると、小さな足形があった。いまの娘の足よりもはるかに小さな足。順番にめくっていくと、娘にそっくりな写真もあれば、あまり似ていない写真もあり、似ている、似ていないと妻と娘と笑って話しながら眺めた。2歳を過ぎて弟が生まれ、さらにめくって一枚の写真をみたとき、おそろしくなった。チ、チ、ババチ、チ、チ、ババチ……

明るい日差しを受けた芝生に寝転んだ父親の上に弟と自分とが覆いかぶさってうれしそうにこちらをみつめている。そのときカメラを持っていたのはおそらく母親だろう。しあわせそうな親子が休日の公園でたわむれている写真だと説明すれば誰もが納得するに違いない風景だった。

思いだせる限りでは、父親のことを好きだと感じたことは一度もなく、思いだせる一番昔の頃からいままで、父親とまともに会話をした記憶もない。そんな親子がほんとうに存在するのかと自分でも不思議だけれど、同じ家で暮らしながらほとんど顔をあわせることもなく、父親は自分の息子がどこの高校へ進学しどこの大学へ通い、いまどこに就職してどこで暮らしているかを知らない。同じ家で暮らしながら、母親は父親と一切会話をせず、お互い隠れるようにして生活している。離婚はせず、別居もせず、でも全く関わらない、そんな夫婦がほんとうに存在するのだろうかと不思議だけれど、どこかには存在するのだろう……
物心ついた頃から母親と父親との仲はとても悪く、喧嘩をしているところをみていたわけではないけれど、子どもの頃から父親は自分が起きている間に帰ってくることはほとんどなく、食事を共にすることもなかった。仕事で忙しかったからというわけでもなく、母親からはいつも父親がいかに家族に対して無責任か、関心がないかを教え込まれていた気がする。その頃は母親を疑う気持ちは全くなかったし、身の回りのすべての面倒を母親にみてもらっていたため信じるしかなかった。かすかに、(父親を慕えば、理由ははっきりわからないけれど、父を毛嫌いしている母親から見放されてしまうのではないか)という不安があったような気もするけれど、なにもわからないまま、いつの間にか父親を嫌悪していた自分が、幼い頃休日の公園でたわむれていたという事実が写真に残されていることがおそろしくなった。チ、チ、ババチ、チ、チ、ババチ……

父親はほんとうに、息子に対してまったく関心のない人物であり、したがって息子側からもまったく関心を持たれるべきではないのか。
それとも、ほんとうは父親は息子に対して愛情を抱いていたが、なんらかの事情により、誰かの意図でその事実が曲げられ、その状況を見過ごしているうちに取り返しがつかないところまできてしまったという可能性はないのか。

娘が産まれていなかったなら、芝生の上の写真をみても、ほんとうは子どもに無関心な父親が表面をとりつくろっている醜い写真だと何の疑いもなく思いこんでいたかもしれない。でも、その風景が過去に実際にあり、そこにカメラを向けていたひとがいたという事実は、ある。

毎日成長する娘をみていると、とてもかわいらしい、愛おしいという気持ちになる。だから、子どもに対してまったく関心が持てないということがあるのかと疑問に思える。一方で、娘に自由を奪われる、ほんとうにしたいことができなくなる、という気持ちがふとよぎることはないとはいえず、そんな気持ちが膨らんですべてを覆ってしまえば、自分の父親のようにまったく家族に関心が持てなくなってしまうのではないかと不安になる。
自分の気持ちが自分でもわからない。あなたの気持ちはこうだ、こう感じるべきだとひとに言われればそうかと思ってしまうかもしれない。それが一日、一日と、毎日が連なって月日になり、月日がやがて年月になって、ほんとうの気持ちはもうまったくわからない、思いだせない、もう取り返しがつかない、取り返す必要があるのかもわからない。

娘は自分に似ていようが似ていまいが、ほんとうにかわいい。笑っていたり踊っていたりするときはもちろん、怒っていたり泣いていたりするときもかわいい。最近はあまりこの歌を歌わなくなってさみしいけれど、どんなに泣いているときでもバーバパパの歌の動画をみせると泣きやんで、頬を濡らし鼻水をたらしたまま「チ、チ、ババチ、チ、チ、ババチ」と大きな声で歌うのがとても好きだった。「トリック、トリック、バーバトリック」という歌詞でも、耳で聞く分には「チ、チ、ババチ」で間違っていない。こんなに瞬間的に気持ちを切り替えられるのはどうしてだろう、すごいことだ、自分も同じように瞬間的に気持ちを切り替えられたらと思った。
気分がよくなって何気なく鼻歌を歌うことはあっても、すごく気分が悪いときに歌うことですぐに気分が変わるということはない。でも、気分が悪いとき、落ち込んでいるときに坦々麺を食べると(おいしいなぁ)という考えで気持ちがいっぱいになり、一瞬なにもかも忘れられるということはあった。辛い食べ物を食べるときにそうなりやすいけれど、ただ辛いだけではそうはならないだろうと思える。もし辛いだけでいいなら、ポケットに唐辛子を忍ばせておいて、気分がふさいだらそっと取り出してかじればいいけれど、実際にそうしてもうまくいかない気がする。辛くておいしいものでなければだめだ。本当にあの坦々麺はおいしかった。仕事中に悲しくなってあの坦々麺屋さんに駆け込んだことが何度もあった。でもあの坦々麺屋さんはあるとき急に閉店してしまった。もうあの坦々麺を食べることはできないのかと思うと落ち込んだ。店主はどこへ行ってしまったのだろう。ある日突然お店を再開したならまた通いたい。(おいしいなぁ)という考えで気持ちをいっぱいにするために、なにかを忘れるために、なにかを思い出さないために(辛くておいしいなぁ)と思えるあの坦々麺をもう一度食べたい。仮に九州にお店が移転していたとなっても、(おいしいなぁ)、(辛くておいしいなぁ)という一瞬のために列車に乗って出かけていくだろうか。車窓からみえる風景に視線を送りつつも(おいしいなぁ)(辛くておいしいなぁ)(おいしいなぁということ以外なにも考えられないなぁ)の瞬間が待ち切れず、試しに娘の真似をして「チ、チ、ババチ」と歌ってみるだろうか。かわいかった娘を思い出し、笑いながら「チ、チ、ババチ」と歌うだろうか、それとも涙を流しながら「チ、チ、ババチ」と歌うだろうか、その頃自分は何歳になっているだろうか、車窓からみえる風景はどんな風に変わっているだろうか、そんなことはわからないし、わからなくてもいいし、教わりたくもない。