『ベッカリーアとイタリア啓蒙』を読む (original) (raw)

堀田誠三氏の『ベッカリーアとイタリア啓蒙』(名古屋大学出版会、1996年)を読んだ。著者は、日本におけるイタリア啓蒙思想研究の第一人者。本書の叙述の中心はタイトルにもなっているチェーザレ・ベッカリーア(1738年~94年)の思想だが、他にルドヴィコ・アントニオ・ムラトーリ(1672年~1750年)、アントニオ・ジェノヴェージ(1713年~69年)、ピエトロ・ヴェッリ(1728年~97年)らの著作が取り上げられ、18世紀イタリアの状況が概括されている。

18世紀イタリアの思想状況を概括した『ベッカリーアとイタリア啓蒙』

まず本書全体の骨格だが、堀田氏は、「周辺部ヨーロッパに属するイタリアは、同時に近代の先駆けとしてのルネッサンスの中心でもあった。ここにヨーロッパ史におけるイタリアの独自性がある。ルネッサンスの先駆性と18世紀イタリアの後進性が、先進諸国から啓蒙思想を受容する素地と必然性とをあたえ、イタリアの啓蒙思想家は、アルプスの向こう側、とくにイギリス(スコットランド)とフランスの動向に敏感に反応した。(中略)このことはイタリアが、ヨーロッパ啓蒙思想の格好の展望台となる可能性を示唆する」(本書「はしがき」)としている。そして、「イタリア啓蒙思想は、ローマ教皇庁が主導する反宗教改革への対抗からうまれた。反宗教改革ルネッサンス宗教改革への対抗物であったから、啓蒙思想はこの両者を、反宗教改革の波をくぐった地点で継承することになる」(本書3頁)とされる。

さて、本書で取り上げられている思想家を順にみていこう。

ムラトーリは、北イタリアの小国モデナ公国で図書館の司書などを務めた文人。『イタリア年代記』の著者として知られる。他の著作としては『法律学の欠陥について』と晩年の『公共の福祉について』があり、歴史をベースにして社会のあり方を考察している。『公共の福祉について』のなかでムラトーリは、「市民社会の成員は、怠惰な貧民に代表されるように、近代的個人とははるかに遠い地点におり、それに対応して、道徳哲学は誰にも必要であるとされながら、現実には『粗野な民衆』は『キリストの宗教に、そしてその伝道者に』ゆだねられ、道徳哲学は『文芸の研究に専心する人』のものとなる。そして公共の利益への欲望をもつことが、とりわけ『諸国民の統治にあたるもの、そして誰であれ才能あり、文芸に専念するもの』に対して期待されるのだから、社会は、利己心のままに行動する無知な大衆と社会秩序を認識し利己心を制御できる知識人=『学識者』・『哲学者』・『賢人』とに分裂する」(本書29~30頁)と考える。彼は、「『博識』によってつちかわれた自らの教養が新しい時代の課題にこたえるには不十分であることを、おそらくは、自覚していた」(本書30頁)が、自分ではそれ以上先に進むことはなく、課題の解決を18世紀後半の思想家たちに託した。イタリアにおける啓蒙思想の先駆けだ。

ジェノヴェージはナポリ王国の啓蒙的改革を代表する思想家。18世紀当時の「ナポリ王国では、スミスの『国富論』でさえ、直接に宗教的かつ政治的意味をもった。(中略)ナポリで出版された『国富論』の最初のイタリア語訳の序文で訳者は、『イギリス人の著者』がその宗教的信条をのべている箇所には、『総てのカトリック読者』をまもるための注をつけた、とことわらねばならなかった」(本書5頁)ほど、思想の表明に厳しい障害があった。

そうしたなかで、ジェノヴェージは、1754年にナポリ大学に設立されたイタリア最初の経済学講座の教授に就任した。ナポリの現実を見て、彼は、「貧困が人を勤勉にするのではなく、反対に怠惰にする、と主張する。このばあい、人間の行為原理が快楽苦痛原則=利己心であることは前提されている。だがジェノヴェージによれば、肝心なのは利己心を発動させる条件を用意することであって、貧困による苦痛が勤勉な人間をつくりだすためには、勤勉の結果貧困を克服しうるという希望が必要である。その意味で、行為の動因として肉体的苦痛より、『精神的苦痛』が重視され、『苦痛は、それを静め和らげうるという希望と結びつかないかぎり、(人間を)押し動かす原因ではない』(本書70~71頁)と主張する。彼は、「貧困をうみだす社会機構を告発するかぎりでは貧民に同情的な態度をしめす。しかしまた、かれらの行動が社会秩序を混乱させるものである以上、それは拒否されねばならなかったのである。この貧民観の二面性は、ジェノヴェージにおいて、旧体制の腐敗の原因はつきとめられたけれども、それにかわるべき新しい社会の構想が未完成であることを物語る」(本書73頁)という。

次に堀田氏は、18世紀の後半にミラノ公国に登場した新しい知識人たちに視線を転換する。それがヴェッリとベッカリーアである。

18世紀のミラノ公国は、一時期を除いてハブスブルク家(=神聖ローマ皇帝)に従属していた。このためローマ教皇に対して一定の距離を置き、教皇(=宗教)の影響力をある程度除外して、世俗的な問題として国政改革を考えることができた。ミラノの若い知識人たちは1760年代に「拳の会(Accademia dei pugni)」というグループを結成し、それを中心にしてイギリスやフランスの新思想を学んだ。また1764年には『コーヒー店(Il Caff_è_)』と名付けられた旬刊雑誌を刊行し、自分たちの思想を公刊した。

ヴェッリにとって「神の正義と賞罰は、市民社会の秩序形成と維持のために必須のものではない」(本書109頁)。『幸福に関する省察』(1763年)のなかで、彼は、「正義の根拠としての法について、『快楽への愛が唯一の普遍的な法(=法則)であり、感覚的存在はかならずそれにしたがう』」(本書109頁)と述べるが、私見によれば、この考えは当時フランスで出版され、直後に出版許可取消し処分を受けて危険視された著作に記されている考えとほぼ同じである。堀田氏によれば、ヴェッリのなかでは、「人間の利己的性格が、道徳的にのぞましくはないが、やむをえないものとして消極的に是認されることはなくなり、利己心が正義の規準としての法すなわち市民社会の行為規範の位置にまでひきあげられた。もちろん利己心を野放しにしてよいわけでなく、その規制原理が必要とされるという点はかわらないのだが、利己心そのものにたいする評価が逆転する」(本書110頁)という。

次いでベッカリーア。彼は、ヴェッリらと交流し、1764年7月に『犯罪と刑罰』を刊行した。この著作は、フランスの思想家アンドレ・モルレによって仏訳されて翌年末に刊行され、この仏訳をとおして、ミラノやイタリアのみならず、「ヨーロッパの思想界に衝撃をあたえた」(本書158頁)。さて、この著作の基調となる思想はと言えば、「神の正義にかわる人間の正義を表現する社会契約と最大幸福原理=功利主義こそ、古い社会にかわる新しい社会の正当性を基礎づけるものであった」(本書171頁)。ルソーに学んだとされる社会契約論は、「人間の自己保存の活動、いいかえれば利己的行動を、自然権にもとづく正当な行為とする。『犯罪と刑罰』の死刑廃止論は、その必然的結果といえる。そして功利主義は、諸個人の利己的行動の間の利害調整の原理である」(本書171頁)という。ここでも先行するフランスの著作の影響は顕著である。そして、ベッカリーアにおいては、「社会の成員は公共の福祉の認識能力たる理性をもつ少数者とそれをもたない民衆に大別される」(本書171頁)ので、彼の社会理論が刑法理論として展開されるのは「この分裂の必然的結果」(本書171頁)であった。

その後ベッカリーアは『文体論』を執筆し、また『公共経済学の原理』を準備する。経済学においてベッカリーアはヒュームの影響を強く受けたが、「ヒュームにおける近代社会成立論は、ベッカリーアにおいて、旧体制解体のための理論的武器としての経済学の中心」(本書249頁)となった。

刑法や政治改革に関心をもったベッカリーアだが、彼は1794年に亡くなり、フランス革命に対する反応は不明とされる。「他方1797年まで生きたヴェッリは、フランスに成立した新しい社会を擁護し、『不可侵の所有権』を保証する立憲体制を、ミラノに樹立することを求める」(本書258頁)。しかし、「ミラノの貴族はすでに封建的諸権利をもたないという理由をあげて、それまでの貴族批判から転じて、貴族の所有権を擁護する」(本書258頁)という。堀田氏は、「旧体制にかわる新しい社会の形成というイタリア啓蒙の課題は、19世紀に手わたされる」(本書258頁)と、論考を結んでいる。