雲の中の散歩のように (original) (raw)

ジャン・ルノワール Blu-ray BOX I 、『どん底』/『荒れ地』。24-139。ルノワールによる冒険もの。画質はスタンダード。あまりよくない。

1830年のフランスによるアルジェリア征服から100年を記念する作品。『騎馬試合(Le tournoi dans la cité)』(1928年)に続いてフランス歴史映画協会(Société des Films Historiques)から委託。

そう言われるとよくわかる。パリから金の無心に来た若い甥っ子ピエール(Enrique Rivero)に100年間の征服と開拓の歴史を、農場主クリスティアン・ホッファー(Alexandre Arquillière)が語るシーンなんて、海をあるけば亡霊の様に現れたフランス軍の兵士たちがふたりの後を行進し、農地を行けばソ連の映画のようなアングルでトラクターが列を組んで大地を耕してゆく。そのあたりは実にプロパガンダ映画。

けれども冒頭はドキュメンタリータッチ。ルノワールはスタジオにずっと籠って撮ることを嫌うリアリズムの人。通りに出て、現場に行って撮影しなければ気が済まないところがある。実際、この映画の冒頭は砂漠、モスク、アルジェの街並み、民族衣装を着た娘たちの踊り、遺跡、鉱山の採掘現場、鉄道、農業、葡萄や麦の収穫などの映像を次々とつなげてゆく。一体何が始まったのかと思ってしまった。

物語は、アルジェの港に客船が入ってきたところから始まる。そこにピエールとクローディ(Jacky Monnier)が乗り合わせている。彼は彼女の眼差しにとらえられると、目が離せなくなる。ピエールの目的が伯父のところに金の無心にきたのだが、クローディの方は伯父のドゥヴァルネが残した遺産相続のためだった。

ピエールのおじクリスティアンは、無心にきた甥っこが農場で働いてくれることを期待する。ピエールはお金をやるから半年間働くという条件を飲み、農場で働き始める。一方で遺産を無事に受け継いだクローディだったが、相続を期待していた従兄弟のマヌエルとダイアンから密かに恨まれることになる。

その間、ピエールとクローディは何度かすれ違い、やがて恋に落ちる。しかしピエールの伯父はいい顔をしない。お相手の娘は相続した遺産を売り払ったパリに戻るはずだから、ピエールも一緒に行ってしまうと思ったのだ。しかし、クローディはアルジェの暮らしに馴染んでゆく。鷹狩りの鷹と仲良くなり、ずっとこの地に残りたいと考えるようになる。

あるとき、クローディアたちは相続した南の土地の視察にゆくことになる。そこにピエールも、南部に関心のある叔父をさそって同行する。アルジェリアの内陸地方のことをフランス語で「Le bled」と言うが、それが映画のタイトルであり、映画のクライマックスが用意された場所だ。それがガゼル狩り。いかにもフランス人の植民者らしい行いなのだけど、そのなかで殺されたガゼルに涙するクローディアがいたり、そのクローディアをさらって自分と結婚しなけ殺してやると脅す従兄弟が現れたり、連れ去られたクローディアを追いかけるピエールと仲間たちの大追跡活劇が描かれたりと、盛りだくさん。

そんな狩りのことは、『ゲームの規則』のなかでも描かれているというのだけど、まだ未見。ちょっと楽しみなところ。

ルノワール祭りは、もう少し続く。

ジャン・ルノワール Blu-ray BOX Ⅰ

24-135。

今年のヴェネツィア映画祭(第81回)の非コンペ部門に出品されていた『ALLÉGORIE CITADINE』を見た。アリーチェ・ロルヴァケルと写真アーティストのJRの共作。次のサイトにアドレスを登録すれば観ることができる。

www.festivalscope.com

タイトルの意味は「都会のアレゴリー(比喩)」。プラトンの「洞窟の比喩(アレゴリー)」に着想を得て、パリの都会をプラトンの洞窟に見立てた物語。アリーチェはこんな説明を加えてくれている。

都市の日常的な動きの背後には何があるのでしょうか。昨年の冬、JRと私はパリで出会い、プラトンの『共和国』(日本語では「国家」とも訳される)に提示された洞窟の寓話について話し始めました。その神話によれば、人類は鎖で縛られ、洞窟の裏側を向いて生活し、影が壁の上を移動するのを見て、それが現実だと想像しているのです。私たちはふたりともイメージを使って仕事をしています。それは確かに幻想ですが、思想を解放する戦いのツールにもなります。そんな議論から私たちは短編映画を作ることにしたのです。洞窟、ダンス、私たちの身の回りの賑やかな街並みなどのアイデアが固まっており、ひとつの問いかけがあったのです。それは、もしもみんなで洞窟の出口に向かって向きを変えたらどうなるのか、というものでした。私たちを縛る鎖が本物である限り、イメージは幻想であると主張するだけでは、きっと不十分なのですから。
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アリーチェ&JRは、プラトンの洞窟の人々の代わりに、パリの大都会に住んでスマホばかりを見ている人々を描き出す。実は、都会の人々が現実だと思っているのは、現実ではない。それは影なのだという設定。そしてもしも、それに気づくのは小さな男の子だったらどうだろうか。彼の話をみんなが聞いてくれるだろうか。そんな話なのだけれど、口でいうのは簡単だけど、映像にするとどうなるのか。

おそらくヒントになるのがメリエスのこの短編『Défense d’Afficher』(1896)。タイトルは「壁にポスターを貼ってはならない」という意味なのだけど、ポスター張りがの男がふたり、競うようにその禁止の文字の上にポスターを貼ってゆくというもの。アリーチェ&JRはこの発想にうまくヒネリを入れてくる。そこがおもしろい。

www.youtube.com

語ると野暮なので後は見て欲しいのだけど、そこに大きな役割を果たすのがJRのストリートフォトのインスタレーションだとは言っておきたい。

JRは世界中を回って、その街の人々の写真を大きく引き延ばしてストリートに貼り付けるというパフォーマンスをしているアーティスト。2017年にはアニエス・ヴァルダと共作で『顔たち、ところどころ』という映画を発表している。

www.youtube.com

アリーチェ・ロルヴァケルとも親友だとJRだといい、2020年には『Omelia contadina』(農婦のオメリア)という短編を撮っている。これはJRの巨大な写真を使ったパフォーマンスの記録なのだけど、全編はここで見ることができる。

vimeo.com

ようするにそれはシンボルとしての農婦オメリアの葬式なのだけれど、その背後には大企業による集約的な農業への危機感がある。それをアリーチェはこんなふうに語っている。

昨年の秋、ウンブリア、ラツィオトスカーナの州境を散歩しているとき、私は友人のアーティストJRに、農業の景観が破壊される懸念を伝えました。大企業が集中的な単一栽培を進めることで領域全体を形が変わっているのです。私は養蜂家の娘として、JRにそのような変化がもたらす昆虫の大量死や、投機、補助金、農薬の流れを食い止めようとする小規模農家の闘争の話をしました。話ながら私たちは交差点で止まりました。両側にはずっとヘーゼルナッツの木が途切れなく並んでおり、その風景が地平線まで続いているのです。これを見て、私たちはお互いに戦争墓地のように見えねと言ったのです。帰り道、墓地のように見えるのなら、葬儀をしなければならないと決めたのです。けれどもそれは命に満ちた葬式でなければなりません。毎日私たちを生かし続け、私たちが食べる食べ物を生産するすべての人々に捧げる希望の賛美歌なのです。

[*2](#f-7c477f8f "THE SHORT FILM "OMELIA CONTADINA" NOW AVAILABLE IN FULL VERSION")

アリーチェ・ロルヴァケルの映画には、短編に限らず長編にも、こうした個人的にして社会的でもあるような問題意識が働いている。彼女はそれを映画にしてゆくのだが、そのときに重要になるのがシンボルというやつだ。比喩ではない。メタファーではない。シンボルだと彼女は言う。それは、映画独特の作用なのだけど、それについては、今いろいろ考えているところ。

それはまたそのうちに。

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アリーチェ・ロルヴァケルが気になっている。最初に見たのは『幸福なラザロ』だった。いい映画だと思った。試写で見たのだけど一緒に見たHさんは、なんだかよくわからない映画だったというので、ラザロは聖書に登場する人物の名前だよねと説明した覚えがある。イエスによってラザロは死から復活するのだけど、背後にそういう話があるのだと思えば、現代の寓話として理解できるのではないか。そう説明した覚えがある。

それから MUBI の配信で『天空のからだ』(2011)を見た。ここにもキリスト教がある。堅信式という儀式を扱ったものなのだけど、主人公のマルタはにとっても、観客の僕たちにとっても式そのものは偽善的なのだ。その偽善を超えて、それでもキリストへの信仰を固めることができるのか。映画はロードームービーの形式をかりて「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」という秘密めいた言葉の意味を探し求める。

ここにもキリスト教がある。儀式や儀礼や形式ではなく、信仰とは何かを問うようなキリスト教だ。それはどこかフェリーニに似ている。そうは見えなくても政治的であり、そうはみえなくて深くカトリックであるフェリーニ。ではアリーチェ・ロルヴァケルはどうなのか。そんなことを思いながらも、彼女の映画からはしばらく離れていた。

ところが先日、イタリアの「聖と俗」という大きなテーマで映画について考えてみないかと言われたとき、彼女のことを思い出した。そこで急いで、『夏をゆく人々』と見て、公開中の『墓泥棒と失われた女神』と続けてみることにした。結論から言えば、ロルヴァケルもまた政治的であり、宗教的なのだ。

政治的というのは、現代社会に対する批判的な視座を持っているということ。たとえばテロリズムと政治の混乱の寓話である『オーケストラ・リハーサル』や、ベルルスコーニ的なテレビの時代を批判する『ジンジャーとフレッド』を考えてみれば良い。

そして宗教的である(spirituale)こと。それは権威となった教会にこびへつらうことではなく、むしろそれを笑い飛ばしながら、目に見えず、触ることができない、霊的なもの(spirituale)を捉えようとする『道』から『カビリアの夜』、『甘い生活』と『8½』、そして『魂のジュリエッタ』へのフェリーニであり、もしかすると『サテリコン』のようなキリスト教以前の世界への眼差しを持つフェリーニまで射程にはいるかもしれない。

夏をゆく人々』と『墓泥棒と失われた女神』を続けてみた感想は、まさに政治と宗教がアリーチェの核にあるということだ。この人は、それがまるでひとつの問題であるかのように取り上げると、それをひとつの映画として提示し、ぼくたちの眼差しを乗っ取り、見たことのないものを見せてくれる。自分一体何を見たのか、そこに何を読み取るべきか。2時間に満たないくつろぎの時間を、小さな冒険と迷宮巡りに変化させると、気がつけば世界の見え方がすこしだけずれている。それが、彼女の映画なのだ。

もう少し知りたくなって調べてみると、アリーチェが映画についての考え方や自分の作品について語った問答形式の本が出ている。『Dopo il cinema. Le domande di una regista(映画の後、ある女性映画監督の問い)』(2023)。E-Book版も出ていたので早速購入して読み始めたら、これがなかなか面白い。そしていろいろわかってきた。

ひとつは彼女が映画監督のなったのは、ある種の偶然の積み重ねだったこと。文学を学びながら、アルバイトでドキュメンタリーフィルムの編集をやっていたということ。そして、あるとき友人に頼まれて、ハンガリーから来た小さなサーカス団に密着し、彼らがイタリアを離れて故郷に帰る旅に同行することになる。それが彼女が参加した最初のドキュメンタリー『Un piccolo spettacolo(ちいさなサーカス)』。監督はピエルパオロ・ジャローロ(Pier Paolo Giarolo)。彼女はカメラを持って旅に同行し、編集を担当する。

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このカメラを持った旅のなかで、彼女は自分が場違いであると感じていた。このサーカスの家族にカメラを向けることが恥ずかしかったという。彼らは見事に仕事している。ところが自分はその姿をカメラに映しているだけ。利用しているだけ。だからカメラを持った姿を見られると、思わずカメラを下げて隠れてしまう。罪の意識が働いていたのだという。

しかしやがて飛躍のときがおとずれる。とくに撮影した映像を編集しているとき、 自分の撮ったイメージの中に、なにかが自分を通して実現されているのを見出して興奮を覚えたのだという。彼女はそれをこんなふうに語る。

編集で何度も見直しているうちに、イメージたちがなにかの秘密を呟いているのが聞こえたのです。それはもしかすると、どこか深いところでの和解だったのかもしれません。とても何かを為せたように思えなくて、ただ自分がなされることの道具であると思えるとき、そんな和解が訪れるものなのですね。そんなに起こることではありません。けれど、ときに出来上がったイメージが、自分のものではないのに、自分を通して存在しているように思えることがある。現実のほうから、証言してほしい、語ってほしいと望まれているように思えるときがあるのです。

[ Nel vederle e rivederle durante il montaggio, ho sentito che mormoravano un segreto. O forse: ho sentito la profonda riconciliazione che si ha quando il nostro fare non sembra neanche fatto, sembra solo che siamo strumento di un farsi. Non succede spesso, ma ci sono dei momenti in cui l'immagine che si crea non è la tua ma sembra esistere attraverso di te, sembra che la realtà voglia essere testimoniata e raccontata. ]

Alice Rohrwacher & Goffredo Fofi,

Dopo il cinema., Roma, edizione E/O, 2023, p.6/47 E-book.

「自分のものではないのに、自分を通して存在している」映像という表現は、どこかフェリーニを思い出す。チネチッタの第五撮影所の主として、そこを我が家のように使いながら映画を撮ったマエストロは、少なくとも『8½』の前までは自分が監督であり、自分が映画を撮るのだと考えていたはずだ。ところが映画というのは、自分だけで撮るものではない。大勢の協力者がいて、あの霊たち(spiriti)の囁きを聞きながら、映像が実現してゆくのを助けるのが監督のしごとだという自覚が、その8本と二分の一本目の作品『8½』において表現されていたではないか。

アリーチェの感覚はフェリーニのそれに近い。映画は初めてでも、それまでフィルムの編集に携わり、大学では文学を学び、ホールデン校では創造性についての薫陶を受け、自分でも文章を書き、絵を描いてきたような人なのだ。それまでのそんな蓄積があったからこそ、『un piccolo spettacolo (小さなサーカス)』の撮影中に、ある種のブレークスルーが起こったというわけなのだろう。

もうひとつ印象的な話がある。『夏をゆく人々』のプロデューサーでもあり、映画の完成前に亡くなったカール・バウムガルトナーから送られた言葉だ。脚本が書けずに悩んでいる彼女はこう言われたという。

アリーチェ、きみな特別な人間じゃない。だから自分の好きな映画を目指せ。きっと、同じことを愛してくれる人が何百人もいる。戦略も技術もトリックもいらないんだよ。

Alice, tu non sei un essere speciale, quindi cerca di fare un film che piaccia a te, ci sono milioni di persone come te che possono amare quella stessa cosa. Senza strategie, tecniche, trucchi».

Op.cit., p.19/47

この感覚。平凡な自分が好きなものなら、多くの平凡な人に届く。できるだけ多くの人に届けたいと思うなら、自分が読みたい物語を書き、自分が見たい映像を撮ればよい。自分が、自分がという個人のクリエイティヴィティなんていうのは幻想なのだ。そういえば、ギタリストのロバート・フリップは自分はラジオ受信機だと言っていた。それは、音楽の電波をキャッチして再現するのが仕事だということだ。おそらく映画監督も同じなのだろう。

こうなると、見逃していたこのドキュメンタリーも見たくなる。なにしろ、アリーチェは、ピエトロ・マルチェッロとフランチェスコ・ムンツィという同世代の監督と一緒になって、パンデミックによるロックダウンの前後のイタリアを周り、若者たちにインタビューして回ったのだ。

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印象的なのは、アリーチェがジェノヴァの若者にたずねたのは2001年に G7 が開かれた時のこと。アンチグローバルの静かな運動が G7 に抗議する集会が広かれたのだが、これが警察との激しいぶつかり合いになってしまう。ジェノヴァの学生たちの高校に立てこもった学生たちも、警察に踏み込まれ、血だらけになって排除されていた。あのときのことについて、どう思うかと尋ねられたとき、彼らは知らないという。二十歳に満たない彼らは、まだ生まれていなかったのだ。そして、極端に暴力的なことはやらないほうがよいと穏健な意見を述べるのだが、カメラの向こう側にいるアリーチェはこれをどう思ったのか。

このドキュメンタリーが否応なく思い出させるのは、かつてパゾリーニがイタリア中を回ってインタビューをした『愛の集会』(1964)だ。今その映像を見るときに感じるようなことを、将来の彼らもアリーチェたちの映像を前に感じるのだろうか。

少なくとも僕は、同時代のイタリアの若者たちの生きた姿と、生きた言葉に、ただただ引き込まれていた。おそらくこのプロジェクトは空間だけではなく、時代も超えて、ひとつの歴史の証言として残るのだろう。これもまた映画であるわけだ。

アリーチェの本、まだ半分しか読んでいないけれど、続きはまたこんど。

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Dopo il cinema. Le domande di una regist