【江ノ電駅史】#24 大境 —戦前の構造物が遺る場所— (original) (raw)

どうもこんにちは、ひこねです( ̄  ̄)ノ
秋は日本から撤退してしまったんでしょうか…。

さて、今回紹介するのはこちら。

大境(おおさかい)停留場です。

今回も地図と年表を掲載しておきます。

地理院地図に筆者加筆

【大境停留場 年表】 M36.6.20 (1903)
片瀬-行合間延伸に伴い、行合として開業
T1.9.21 (1912)
待避線を極楽寺昇降場際に移転指令(M45.4.26申請)
T4.10.18 (1915)
大境に改称認可(9.18申請)
T5.8.9 (1916)
藤沢寄りに約100m移転認可(7.10申請), 交換可能になる
T14.8.15(1925)
大境待避線を片瀬方面に8鎖42呎(約170m)延長認可(7.16申請)
T15.6(1926)以前
ホームを撤去
S3.10.12 (1928)
大境待避線を4鎖7節(約80m)延長認可(8.3申請)(S4.4.6着手届出, 6.7竣工届出)
S4.4.18 (1929)
相対式ホーム新設認可(S3.8.22届出→申請)(5.20着手届出, 6.7竣工届出)
S6.10.4 (1931)
廃止(S5.10.21申請, 7.21認可)

この一帯の停留場変遷について解説したこちらの記事も、ぜひご覧ください!

1.大境停留場

①初代停留場

地理院地図に筆者加筆(赤線は旧線)
※「田辺」付近の曲線改良は、1990年実施

大境停留場は、明治36(1903)年6月の片瀬-行合(ゆきあい)間延伸に伴い、「行合」終点停留場として開業しました。当初は、現在のプリンスホテルがある辺りにあり、行違い可能な構造をしていたようです。それを示すのが、以下の画像です。

▲行合停留場を発車する電車
※当時の絵葉書より(鎌倉市中央図書館蔵)

こちらは当時の停留場を写した絵葉書です。画像右側の架線柱のビーム(電線等を吊るす部分)が、柱の両側に飛び出ており、この部分が複線になっている(=待避線がある)ことがわかります。
※絵葉書では海側を向いているため、上図とは待避線の膨らんでいる向きが逆になっています。

地理院地図に筆者加筆
※待避線撤去および改称が行われた

大正元(1912)年には、運転上支障があるとして、待避線が峰ヶ原停留場(現:七里ヶ浜駅付近)へ移設されました。※正確には行合から極楽寺へ、極楽寺から峰ヶ原への移設なのですが…。詳細はこちらも参照。

また、同4(1915)年には「行合」の名を隣に譲り「大境」へと改称されました。

②2代目停留場

地理院地図に筆者加筆
※移転および待避線新設が行われた

七里ヶ浜2号踏切より藤沢方面

改称が行われた翌大正5(1914)年、運転上の不便があるとのことで、峰ヶ原停留場に移設した待避線が当地に戻ってくることになりました。

その際、従来の停留場の位置でなく、約100m西側に待避線が設置されることになったため、それに合わせ、大境停留場も待避線位置(現:七里ガ浜高校の下)に移転されました。

▲大境停留場にて行違いをする電車
※当時の絵葉書より(鎌倉市中央図書館蔵)

当時の絵葉書より。先程も図示した通り、二本の線路の間には、狭い島式ホームがあったようです。また、ホームから浜に出るための構内通路のようなものも確認できます。

地理院地図に筆者加筆
※待避線が延長され、複線となった

大正14(1925)年には列車交換所の整理に併せ、行違いを円滑化するため、待避線の片瀬側を行合停留場まで約170m延長して、**疑似的な複線区間**がつくられました。経緯からしても、「複線」というよりは「長い交換所」だったようですが…。

▲延長された大境停留場の待避線
※当時の絵葉書より(鎌倉市中央図書館蔵)

当時の様子です。少し見づらいですが、待避線が停留場の奥で収束せず、複線区間が続いている様子が確認できます。

また、島式ホームも変わらず写っていますが、下図の通り大正15(1926)年6月時点での資料には記載されていないため、これまでに撤去されたことがわかります。島式ホームのために若干膨らんでいた線路も、直線に修正されていますね。

▲大正15年時点での大境停留場
※公文書資料に筆者加筆

地理院地図に筆者加筆
※待避線の鎌倉側も延長された

その後、ボギー車の導入に向けて、昭和4(1929)年にも交換所の整理が行われました。行違いをさらに円滑化するため、待避線の鎌倉側も約80m延長され、全長は318mとなりました。また、鎌倉側の末端部には、後年に臨時停留場が設けられることになります。

▲新設された相対式ホーム(公文書図面より)
※申請時は、鎌倉側の延長工事は未了

また、これと同時にホームも新造されることとなりました。以前とは異なり、相対式のホームが設置されたようです。

▲複線区間を走行する電車
※当時の観光案内図(筆者蔵)に加筆

こちらは、昭和10(1935)年頃の観光案内図の裏面に掲載されていた写真です。海側の線路脇に、ホームが写っているのが確認できます。

こうして設備を整えた大境停留場ですが、そのわずか2年後の昭和6(1931)年に、速力増進のために廃止されてしまいます。廃止時の一日平均乗車人員は2人だったようですが、当時は民家もろくに無かったこの場所で1日2人も利用していたというのは、却って驚きですね。

ところで、先程の写真に見えた海側のホームですが、なんと停留場廃止後、さらには戦後に待避線が撤去された後もなお残存していたようです。

▲七高下を行く351号他(野口雅章氏提供, S48.5.11)

こちらは昭和48(1973)年に撮影された写真です。ややわかりにくいですが、電車の右下、斜めになっている電柱の根本に、コンクリートの塊がありますね。これがホーム跡のようです。

七里ヶ浜2号踏切より、搬入基地

もちろん現在は既に撤去されており、その痕跡は見られません。撤去は昭和62(1987)年で、1502号車の搬入基地(七高下のコンクリートの場所)を整備するにあたって行われたようです。
駅ファンとしては残念ではありますが、平成手前まで遺構が残存していたことには驚きを隠せませんよ…。

さて、停留場については以上です。

2.草むらに残存する戦前の遺構

それではおまけパートへ。今回も名所案内はお休みです。

さて先程、停留場のホームが昭和末期まで遺っていたと書きましたね。実は、ホームではありませんが、戦前の構造物が現在でも遺っているんです。

それがこちら!

……看板がどうかしたんですか?
違います、その右下です。
手前の擁壁から、画像右側の木に向かってコンクリートがありますよね? これです。

これが何かというと…

地理院地図に筆者加筆

▲キャンプカー前停留場

なんと、待避線の収束部分の擁壁なんですよ…!

鎌倉側が延長されたのは昭和4(1929)年なので、95年前の構造物ということになりますね。戦前の構造物によくみられる、粒の大きい砂利を含んだコンクリートなので、おそらく当時のものだと思います。

看板の裏側から。

収束部の方向と、その反対側から。これが一番わかりやすいですかね。

収束部。木製の古電柱も転がっています。

現役の構造物ならまだしも、廃され放置された状態の構造物が、戦後の諸開発の波に呑まれずに残存しているというのは、かなり凄いことだと思います。
海が近く、戦前には何もなかった七里ガ浜は、特に激しく変化したので、尚のこと素晴らしいと思います。

夏季は草むらに隠れてほぼ確認でできませんが、草が短くなる冬場であればよく見えるので、散歩のついでに見てみてはいかがでしょうか?

それでは、今回はこの辺りで。( _ _)

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