『ミチクサ先生』伊集院静|遠回りになろうとも、多くの経験は無駄にはならない (original) (raw)
『ミチクサ先生』上下 伊集院静
ミチクサ先生とは、国民的作家夏目漱石のこと。幼少期から、生家と養家を往来し、学校を何度も変わり、ミチクサをしてきた。ミチクサは、大人になってからも続いた。
勉学も生きることも、いかに早くてっぺんに登るかなんてどうでもいいことさ。いろんなところから登って、滑り落ちるものもいれば、転んでしまうのもいる。山に登るのはどこから登ってもいいのさ。むしろ絡んだり、汗を掻き掻き半ベソくらいした方が、同じてっぺんに立っても、見える風景は格別なんだ。ミチクサはおおいにすべしさ。(下巻396頁)
5〜6年ほど前に、東京・新宿にある「漱石山房記念館」を訪れた。漱石が晩年に住んでいたということでこの地に建てられたそうだ。小さい敷地ながらも漱石の作品や関わった人にまつわるものが多く展示され、壁に貼られた猫ちゃんやグッズが特にかわいかった。新宿にあるとは思えない静けさに、落ち着いた気持ちになったのをよく覚えている。
子供の頃の漱石(金之助)が天然痘にかかり、その時の痒みで鼻のてっぺんを掻きむしり、その傷が残っていること、私たちがよく知る頬杖をついた漱石の写真にはそれがそのままあることは知らなかった。他の写真(お見合い写真や学生証の写真)では本人は気にして修正してあるというのがまた人間らしくていい。そもそも夏目漱石は今でいうイケメンだよなぁ。
ちょうど日本で初めての電車が新橋から横浜を走るようになり(現在のJR東海道線)、寺子屋が学校制度に変わり、1日の時刻が24時間などと定められるなど、世の中が様変わりした時代。よく考えたらまだほんの150年ほど前の出来事なのだ。漱石のミチクサ人生とともに、日本の歩みを読んだと言える。
金之助の兄大助は「一冊の本を読むことは、舟で海に漕ぎ出すようなものだ」(上巻183頁)と言う。この感覚すごくよくわかる。文章をかみしめて読み頁をめくるは、少しだけ力がいる。だから漕ぐというのがぴったり。大波に飲み込まれながらも必死に漕ぐのは大長編。漕いで漕いで、読み終えた先に待つものは読者にしかわからない。
金之助は兄の影響もあって小さな頃から本を読み耽りその楽しさを見出すが、大人になってからは、教師という職業に就いた年数の方が長かった。『吾輩は猫である』から始まる小説家として生きた年数はたった10年程度だ。その短い期間にあれだけの数の、素晴らしい作品を作り上げたのはもはや僥倖である。
ミチクサをするというのは、言い換えれば色々な経験を積むことと言える。たとえ遠回りになろうとも、多くの経験をすることは人生に無駄ではないし、大きな財産になるのだろう。
伊集院静さんの評伝小説といえば、サントリー創業者鳥井信治郎さんのことを書いた『琥珀の夢』が記憶に残る。丁稚奉公の時の「へい!」というかけ声が今でもこだまする。この作品でも重要人物になっている、漱石の親友である正岡子規を題材にした『のぼさん』はまだ未読なので、これも読みたい。それよりも夏目漱石の作品を読み直すほうが先になりそうかな。