『羆嵐』吉村昭|クマによる被害がよくニュースになるこの頃 (original) (raw)
新潮社[新潮文庫] 2024.05.09読了
クマってぬいぐるみにすると一番かわいい動物だと思う。クマのプーさんを筆頭にして、ディズニーランドのダッフィー、ご当地ゆるキャラくまモン、映画のおやじ熊さんTed、テディベアなんて人気ブランドがいくつもある。
しかし現実の熊は想像を絶するおそろしさだ。動物園で初めて熊を見たときにそう感じる人は多いはず。ぬいぐるみみたいにあんなに丸っこくないし、目が怖いし獰猛だし。熊といってもこの小説に登場するのは羆(ひぐま)である。羆は北海道にしか生息しない、大きいもので熊の3倍もある巨大で獰猛な生き物だ。
1915年(大正4年)に北海道苫前町三毛別で実際に起きた事件を題材にして、吉村昭さんがドキュメントタッチに仕上げた物語である。当時の関係者から聞き取り脱稿したということで、ほぼ真実であろう。
この村に突如として現れた羆は、二日間で6人の命を奪い3人の重傷者を出した。そして亡くなった人の人肉を貪り食らった。区長は警察や警備隊を要請をするが誰も頼りにならない。最終手段として、区長は老猟師の銀四郎に助けを求める。酒に酔うとタチが悪く住民からは嫌われ者だが、頼らざるを得ない状況。
作中で固有名詞で名前がついているのはほんの数人だけ。銀四郎や死んだ人物など、名前をつけたいというか特定の人だと著者が表した人だけ。他は、区長、分署長、白髪の老人、彼の妻、かれら、のように役職や特徴があるだけで名前はない。これはつまり、私たちみながそう成りえるという人物だからだ。
羆が開拓民たちを襲う様はもちろんだが、羆に怯える村人たちのリアルさが胸を打つ。何かに恐れる人間もまた恐ろしく、より一層の恐怖心を掻き立てる。タイトルの『羆嵐(くまあらし)』とは、クマを仕留めたあとに強く吹き荒れる嵐のことだという。自然界にあるものはみな役割があって人間が主役ではない。それを肝に銘じて自然と共生しなくてはならない。
吉村昭さんの記録文学が好きだ。まだまだ読んだ冊数は少ないが、今まで読んで気に入ったのは『破船』と『高熱隧道』だ。しかし『羆嵐』はこれらを超えた。無駄を省いた乾いた文体がより真実味を増し、心をえぐられるよう。さすが日本文学史に燦々と輝く名作のひとつだ。わずか270頁ほどの中編であるが、文学作品としての完成度が高い。読み終えた後にひたひたと迫り来る静かな身震いは、良作を読んだ時ならではの快感だ。