攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society (original) (raw)

ことハードボイルドにおいちゃあキャラクターなんて物語を地図化するための駒に過ぎず、物語を紡ぐのはあくまで物語自身。


2006年。神山健治監督。アニメーション作品。

TVシリーズ『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』で草薙素子が失踪してから2年後。新体制となった公安9課が新たな事件に立ち向かうが、誰も事件の全貌がわからずにワタワタする中身。

ヨーロレイッヒ~。やーろけイッヒ~。
前回の前書きで**「おれは暑さを感じない。心頭滅却すれば火もまた涼し」**とか訳のわからないこと言ってすみませんでした。ガラケーみたいに体をふたつに折って謝罪申し上げます。ぱか。暑中とかも申し上げます。
本当ごめんチャイ、チャイ飲んでメーゴン。
まっすぐ暑いです。クッタリ辛いです。
得意になって滔々とあんなこと話して。
俺、後悔してます。
恥、公開してます。
今、会いにゆきます。
おれが中村獅童なら、きみは竹内結子かもしれないよね~。反省してます。

まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、特に前書きのネタがないんだよな、今日って。言葉の違和感メドレーでも披歴しよか。
こないだ映画館に行ってチケット見せたら、スタッフさんから「ごゆっくりお楽しみ下さいませ」と言われたので「楽しめるかどうかは今から観る映画の出来次第やけどな」と思った。
そのあとコンビニエンスに寄って「袋くーださい!」と言ったら、店員さんから「袋代、5円かかりますが」と言われたので「客かおまえ。お金が『かかる』という言い方は金を払う客側の表現であって、店員サイドはお金を『頂戴』せえ。言うとしたら『袋代、5円頂いておりますが』や、抜け作」と思った。
翌週、散髪したん。カリスマに髪を短くしてもらったあと、知人から「ふかづめさん、髪切りました?」と訊かれたので「切ってない」と言ったらば「絶対ウソー! 明らかに短くなってますやん。絶対切ってますやんか」と言うので「髪は切ってないよ。切って『もらった』んだよ」と返したらパードゥン顔をしたので無視した。切るべきは髪より、この子との関係か! 神のみぞ知る。
神のみぞ知るわけねーだろ。
なんやねん、この言葉。「神のみぞ知る」って。よく聞くけど。
だいたい、神のみぞ知ることを、なんでおまえが知ってんねん。
それを知ってる時点でもうおまえが神やろ。もしくは神の側近やろ。「神のみぞ知ってることをおれは知ってる」というソースを手にしてる時点で。
ほんで「情報源」のことをソースって言うの、なんやねん。
きっしょい英語!!!
昔から、2ちゃんねるで誰かが「どうやら~らしいよ」と発言するたびに「ソースは?」と食ってかかる輩がいたけれども、おれみたいな関西人がソースと聞けば、焼きそばとかタコ焼きとかお好み焼きが想起されてやまないんだよね。
だってさ、たまたまその時の会話の流れが「明太マヨで焼きそば作ったら美味しいらしいよ」だったとしてみ。「ソースは?」なんて言われても「掛けるかあ、そんなもん。ソースも何もあらへんがな。明太マヨゆうてるやんけ」としか思わない明太沙汰が巻き起こるわけで、ニポン語のすれ違い、ソースの掛け違い、意味くんと理解ちゃんの大失恋、みたいなことになるわけである。
だから今後、「ソースは?」と言ってくる輩に「ウスターならあるけど」というカウンターをお見舞いする為だけにウスターソースを持ち歩こかなって少し考えたけど、やめた。その為だけにウスターソースを持ち歩くなんて、きちがいと思われソースから。
掛かったね☆

そんなわけで本日は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』です。
非常に難解な作品として知られる『攻殻』の世界観を疑似体験してもらうため、わざとややこしい書き方をしてるけど、あまり理解を求めず読み物として楽しんでもらえたら嬉しいなって思うんだけど相当ややこしい書き方をしてるので、もはや楽しめないと思ってるし、そのことを、おれは悟り、すでに諦め、「だみだー」って顔で地べたに突っ伏してる。

◆漫画を買うだけでも難しい◆

昨年末から『攻殻機動隊』にハマっている。
もともとおれは押井守の劇場版アニメ『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』 (95年) および『イノセンス』 (04年) を観てリタイアした人間なのだが、ある日突然「もういちど攻殻機動隊と向き合ってみては!」と“おれのゴーストが囁いた”のだ。
そこからは広大なネットにダイブする日々。『攻殻機動隊』はかなり難解な作品でござんした。
何はさておき、押井守の劇場版アニメとは作風を異にした士郎正宗の原作漫画『攻殻機動隊』(91ー03年) を読もうと思い、本屋に赴いたおれ。全3巻なのだが、3巻だけ置いてなかったのでとりあえず1巻と2巻だけ買って帰ったのだが、このときおれは既にこの罪深きコミックの罠にまんまと嵌っていた! なにが罠なのかというと、実はこの原作漫画、1巻の続きが「2巻」ではなく「1.5巻」なのだ。
ややこ~~~~!
つまりおれが買った2冊は、事実上の1巻と3巻。なんてトリックだ! あいだの1.5巻(事実上の2巻)が抜けちまった。だが本屋にも1.5巻は置いてなかった。たぶん書店員さんもこの独特な巻数制度を知らず、当たり前のように「1巻の次は2巻」と思い込んで仕入れをしたのだろう…(さらにややこしいことに、出版された時系列としては2巻のあとに1.5巻が発売されている…という目くるめくスターウォーズ現象に前後不覚)。

かように、内容のみならず漫画を買うだけでも難しい『攻殻機動隊』。たくさんのアニメも作られているが、これも見る順番とか時系列がひどくややこしい。
TVシリーズで有名なのは、神山健治が手掛けた『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』 (02年) 、およびその続編『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』 (04年) 。ともに再編集版も存在してるのでややこしさに拍車がかかる。

『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』とその続編『攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG』

このTVシリーズ版では、物語も世界観もキャラクター造形も一新されている。
この時点で、一口に『攻殻機動隊』と言っても、士郎版の原作漫画押井版の映画神山版のTVシリーズと、まったく異なる毛色を持った同一コンテンツへと三者三様に枝分かれしているのであるるるるr。
つまり『攻殻機動隊』とは共通言語ではない。それぞれのクリエイターが自分色に染め、自由な改造を施す“着色前のプラモデル”のように透徹したマテリアル(素材)なのだ。
ちなみにアニメシリーズは、のちに黄瀬和哉監督&冲方丁脚本による全4部構成の劇場版アニメ『攻殻機動隊 ARISE』 (13年) 、ならびに神山健治&荒牧伸志のダブル監督によるフル3DCGアニメーション『攻殻機動隊 SAC_2045』(20年) も存在するが、もうわけがわからんだろうから忘れてくれていい。

~草薙素子七変化~
『攻殻機動隊』の主人公・草薙素子少佐も、各作品によって外見/性格/設定などがマイナーチェンジされている。
あなたの好きな少佐はなんだ。

士郎正宗による原作版『攻殻機動隊』(91-03年) の草薙素子。表情豊かで、時におちゃらけたりもする人間臭さが魅力。

押井守による劇場版『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(95年) の草薙素子。彼女は全身義体のサイボーグなので無感動でメタリックなデザインへと改変。おれは寂しくなった。

押井守による劇場版2作目『イノセンス』(04 年) の草薙素子。あ…コワイ!
もはや肉体は彼女自身のものではない。ただの人形に彼女のゴーストが宿ったのかも。意味がわからんだろう? おれだってわからない。

神山健治によるTVシリーズ版『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』 **(02-04年)**の草薙素子。おれはこの少佐が一番好きだね。ホッとする。

黄瀬和哉による「第四の攻殻」こと『攻殻機動隊 ARISE』(13-15年) の草薙素子。公安9課設立前夜を描いたプリクエルもの。少佐がまだ「三佐」だった頃の若かりし日を描いたシリーズなんだけどさぁ…なんかイヤだわ、この素子。声も田中敦子さまじゃないし。
敦子を返せよ。

神山健治&荒牧伸志によるNETFLIX配信アニメ『攻殻機動隊 SAC_2045』(20-23年) の草薙素子。モーションキャプチャを使用したフル3DCGアニメーションとして生まれ変わった(敦子も返ってきた)。
かわゆゆ~~~~。
なんですのん、この少佐。くりくりですやん。ロシア出身のイラストレーター、イリヤ・クブシノブがキャラクターデザインを手掛けたんだって。 ナイス、クブシノブ!

アメリカで映画化された『ゴースト・イン・ザ・シェル』(17年) の草薙素子。
スカヨハやないか。 百歩譲っても「スカ薙 ヨハ子」やろ、こんなもん。

以下、概要。
『攻殻機動隊』とは、科学技術の発展により脳の神経ネットにマイクロマシンを注入することでデバイスを用いることなく脳内から直接ネットワークに接続できる「電脳化」の技術や、肉体にロボット技術を付加する「義体化」が普及した近未来の日本を舞台に、脳と脊髄の一部を除き全身を義体化した草薙素子少佐を指揮官とした内務省直属の攻性組織「公安9課」の活躍を描いたデカダンス・サイバーパンクである。
とにかく難解な作品だ。ストーリーの複雑さは言わずもがな、行間を読むこと前提のテリング、用語の多さ、ハイテキストな演出、難文を諳んじるかのような台詞回し。
そして哲学的命題。
義体化によって身体を拡張した人間(素子など)は、果たしてどこまでが“人間”でどこからが“サイボーグ”なのか? では人間としての法的または倫理的な適応範囲は? あるいは高度に発達して感情さえ獲得したAIはゴースト(人間の魂に相当する霊的な概念)を持ちうるのか? そもそも知識や経験を並列化して個体差を排除することでAIたりうるAIにとっては人間の個体差=個性(ゴースト)の方こそさまざまな社会問題の原因では?
そうした命題の数々から実存主義的帰着を(きわめて婉曲的に)描いたのが『攻殻機動隊』。
“大人向けの作品”どころか、大人だからこそ蟻地獄にはまって余計にワカらなくなる“大人殺しの作品”といえるよなぁ。

荒巻課長
「少佐、今はハマるあてのないピースについて考えるのはよそう。明日からまた壮大なパズルを一から組み直しだ」


世界を熱狂させた『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』のOPシーンより。光学迷彩で消えゆく草薙少佐。

◆『S.A.C.』反アニメ論◆

で、やっと本作の話。
今回扱うのは『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society』(06年) 。以下『S.A.C. SSS』と表記。
本作は神山健治が手掛けたTVシリーズ『S.A.C.』と『S.A.C. 2nd GIG』の続編として制作された108分の長編作品である。
もちろんTV版の2シリーズを観たうえで鑑賞するのがベストだが、おれはあえて未視聴の読者にこの13文字を贈りたい。
いきなりコレから見てもいい、と。
…13文字だよな?
いきなり…これから…で、8。
見ても…で11。
いい…で13。
おっけおっけ。13、13。
いきなりコレから見てもいい。
特に、刑事モノとか海外ドラマが好きな汝らにはグイッと勧めたいんだよな。こう、グイッと。
雨のように冷たく、鉄のように硬派で、12mmのマルボロのようにハードボイルドな世界観と程よーい空想科学が混じり合い、割れたガラスのようによく切れるソリッドなアニメ表現。抒情にむせび泣く愁嘆場など渇いた皮肉でさらりとかわす…、それでいてルービックキューブの色が揃いだす知的快楽と、しかしなかなか一面が揃わない口惜しさすら楽しめる大人のYOYU(余裕)を持った視聴者にな。
おまえのゴーストが囁いてるだろ? あ、囁いてない?
囁いてないんだ…。

草薙素子
「そうしろと囁くのよ。私のゴーストが」

TVシリーズで描かれた「笑い男事件」と「個別の11人事件」から2年…。草薙少佐(CV.田中敦子)が失踪した公安9課は、トグサ(CV.山寺宏一)の指揮のもと新体制で犯罪の抑止にあたっていた。
そんな折、梵字の刺青を入れた男たちが相次いで不審な自殺を遂げる。彼らは死の直前に「傀儡廻(くぐつまわし)」という正体不明のウィザード級ハッカーの存在を示唆。一方、事件を追っていたバトー(CV.大塚明夫)は“個人的推論に則った捜査”をおこなっていた少佐のリモート義体と再会し、「Solid Stateには近づくな」と警告を受けるが、傀儡廻を追跡するうち、次第に9課は少佐こそが傀儡廻の正体ではないかと考え始める―…。

べらぼうに複雑な筋立てではあるが、『S.A.C.』、『S.A.C. 2nd GIG』に比べれば相当に易しい部類に入る『S.A.C. SSS』。見応えがありました。
まず開幕から2年後の公安9課がおれを不意打ちした。少佐の失踪によりトグサが新隊長となり、全身義体化まで施している。なんてこっ太郎。頼もしく感じる一方、最も生身の人間に近かったトグサから“血の匂い”が消えてしまったようで、ちょっぴり寂しいな。
寂しいといえば9課の親である荒巻課長(CV.阪 脩)が杖をついてる姿や、「10の力で1つの事件を解決する組織」から「8の力で3つの事件を解決する組織」への方針転換にも隔世の感を禁じえないわ。
そして少佐の失踪。草薙素子ってよく失踪するよねえ。村上春樹の小説に出てくる妻か?ってぐらい失踪ばかりする。原作漫画の1.5巻(事実上の2巻)だって“少佐が失踪したあとの9課”を描いてるし。
何を失踪することがあるんよ。
そしてバトーは元気がない。『S.A.C.』シリーズのバトーは少佐に対して恋慕に近い感情を抱いてる設定なので、バトーが活き活きするのは少佐をバックアップしながら銃撃戦してるとき。

草薙素子
「さて、どこへ行こうかしらね…。ネットは広大だわ」

公安9課。

神山健治が創り出した『S.A.C.』の魅力は『攻殻』のハードボイルドな世界観をシステム化することで“映画”に接近した点だと思う。違うかもしれないけどね。でも今のおれはそう思ってる。
「いいかい。優れた物語というのはキャラクターが自律的に行動することで自ずと作り出されるのよ」なんてことは三流専門学校の脚本講座のヘボ講師あたりが口にしそうなことだが、『攻殻』はその逆。
ことハードボイルドにおいちゃあキャラクターなんて物語を地図化するための駒に過ぎず、物語を紡ぐのはあくまで物語自身(これは映画脚本の方法論でもある)
したがって草薙素子も、バトーもトグサも、『S.A.C.』のキャラクター造形はすぐれて道具的だ。たとえば作戦中、もしくはその前後のキャラクター間の絡みでちゃめっ気を出してみたり、表情豊かに感情表現することで視聴者がそのキャラクターに好意を持つような要素は徹底的に排除されている。
『S.A.C.』の登場人物は“視聴者に好かれるため”に造形されてるわけではなく、もっぱら
事件発生から作戦展開を経て可及的速やかに事態を収束するためだけに造形された精緻な駒なのだ。
つまり素子も、バトーも、広義の“仕事(目下発生している現象に対処するための行動選択)”のプロといえる。しがたって仕事と無関係の何気ないセリフなど一語たりとも存在せず、装飾品や小物といった美的感覚に基づいたデザイニングが視聴者の目を楽しませることもない(仕事には不要だからだ)。9課で唯一の妻帯者であるトグサの娘には名前すら付けられていない(裏設定も存在しない)。なんならモブキャラもほとんど描かれず、オフィスの片隅には観葉植物のひとつもない。そもそも有機物としての被写体自体ない。素子たち登場人物にしても、その多くが義体化してるので“純粋な人間”とも言えないしね。
何が言いたいかって?
『S.A.C.』にはアニメーションとしての生命感がない。当たり前だ。生命のアンチテーゼに関する内容なんだから。
極めつけに、アニメ独特の活き活きした動きや簡略表現からも逆走している。『S.A.C.』のアニメーションは目を見張るほどに写実的だ。いわゆる“アニメキャラクター”のように活き活きすることを禁じられた9課メンバーは、あくまでシステマティックに身体を使う。そこには人間としての恣意的な身体運動はなく、まるで視聴者を“不気味の谷”現象へといざなうかのような極めて模擬的な義体の駆使がおそろしい作画密度で描かれるのみ。
対象の簡略化によってこそアニメ然とする引きの画やアクションシーンでもコマ単位で描かれた偏執的な絵は、やはりどこかアニメとしてアンナチュラル=映画としてナチュラルなのだ。

荒巻課長
「われわれの間にはチームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。あるとすれば“スタンドプレーから生じるチームワーク”だけだ」

そんな『S.A.C.』シリーズの反アニメ的触覚性が『S.A.C. SSS』では極限まで研磨されている。
もともと本作は劇場公開用に制作されたが、諸般の事情によりスカパー有料放送となった。総製作費は3億6000万円と、たとえ劇場公開していたとしてもスーパー赤字ウルトラ必至の大型無謀作である(2011年に3D劇場版として悲願の全国公開に漕ぎつけた)。
その巨額資金の賜物でもあろうが、研ぎ澄まされた『攻殻』の世界観が立体解剖図のように立ち上がった力作だ。飛びぬけてリッチな画面と、エッジ際立つインダストリアルな艶。メタリックな質感表現は建築物や各種メカニックのみならず登場人物の皮膚や衣服、果ては声優陣の声にまで波及する勢いで、画面の全域にエロスが氾濫している。
あと、草薙素子の顔がちゃんと“固定”されていた。
『S.A.C.』シリーズの欠点は素子の顔が定まらなかったことだ。
カットによって顔がころころ変わる。それもそのはず、無理からぬこと。“表情なき美人”が絵としていっちゃんムジィのよ。目と眉の間隔や口角が1ミリずれるだけで表情が出てしまったり別人みたいな顔になっちまうんだ。さらぬだに『S.A.C.』は大胆な多角的構図や三点透視図法のつるべ打ちなので、たとえば「この仰角でこのポーズを取った場合、目はどこに付いててどういう形になってるか?」のアニメ的な最適解(時として最適解を違えるのが最適解という場合もある)を都度々々模索しなきゃいけねーわけ(でもコンテ段階でそんなとこまで決め打ちできないから、ある程度は原画マンに投げるわけでしょ。そこでミスったらご破算ですよ)。
にィィィィも関わらず!
本作の素子は全身/全顔面の全角度の全プロポーションが、全おれの見る限りほぼ全完璧。フォトジェニックならぬ、たいへん“アニメジェニック”なソフィスティケートされた主人公として凄艶な光彩を放っていたが、本作のシナリオ上、素子が登場するのは後半部のみ。物語前半は“素子が消えた公安9課”の推理/追跡劇が描かれるのだが、まあ、それとて“不在なればこそ逆説的に顕在化しゆく否定しがたい彼女の存在”を絶えず背中で感じながらの鑑賞となるわけだが。
つまり『S.A.C.』シリーズを見てきた視聴者の経験それ自体が本作の外部記憶装置として作品構造の成立に加担させられている…とも言い換えうるってこった。
バトーっぽい言い回しだろ?


本作の草薙素子は“ちゃんと美人”。

もともと『攻殻機動隊』は日本よりも欧米諸国で人気の高いコンテンツだが、こと業界内においては攻殻マニアを豪語して憚らないアニメーターが非常に多いと聞く。
かく言うおれも原作漫画を読んで火がつき、近ごろ熱心に絵や漫画を描いているのだけど、まったくもって嫉妬を禁じえないですよ。
上手すぎる。絵が…というよりも“漫画が上手すぎる”
そして魅力に満ちすぎ。満ち満ちすぎ。士郎正宗。なんて野郎だ。野郎正宗って呼ぼかな。やめとこ♪
漫画版でおれを魅了した「ベスト1コマ」があるんだけど、聞く?
それは1巻の第3話『JUNK JUNGLE』、単行本82ページの2コマ目だ。ホシを追跡する素子が「バン!」と強く地面を蹴って空中に飛びあがり「バコッ」と住宅街の屋根に着地するシーンの空中に飛びあがってるとこ


「バン!」と「バコッ」の間には今日も冷たい雨が降る。これね。いわゆる捨てゴマ(またはカーテンカット)と呼ばれる、“跳躍”と“着地”を仲介する間繋ぎのコマに過ぎないが、おれはこのコマに恋をしていると言っても過言ではないね。坂本冬美の「また君に恋してる」ならぬ、ふか本づめ美の名義で「このコマに恋してる」をリリースさせて下さいよってレヴェルで恋してる。わかってくれとは言わないさ。
本来、“跳躍のコマ”で素子の全身を映していればそのまま“着地のコマ”に繋げられたにも関わらず、あえて空中に舞うカット・アウェイを挿入することで読者のページ滞在時間を延長させると同時に跳躍の重力表現によって漫画内時間まで表現する…という高等技術もさることながら、やはりいちばん魅力的なのは絵だが、絵に関してはセンスの問題であり、技術論で説明して頭だけで理解されるのが癪だから説明せずにおく。

荒巻課長
「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

事程左様に、『攻殻機動隊』には(傲慢な言い方が許されるのであれば)漫画版/アニメ版ともに“描く側にしかわからない魅力”があるのかもしれない。現に、おれの周りには攻殻ファンが4人存在するが、4人全員が絵描き、物書き、腹掻きの類である。
反面、TVシリーズを途中で挫折した者や、押井の劇場版を見て一発でヤんなったという者も多いがね。だから当然、挫折組との攻殻トークは終始すれ違ったまま、おれはおれの未来へ、奴らは奴らの明日へと交差していったのだ。


良くも悪くも見る人を選ぶ。

◆口をつぐむことで真実を語る◆

何をどこまで話したかな? 原作漫画とアニメと本作の話を同時平行しすぎて、今いる場所がわかんなくなっちった。タチコマ状態だわ。
そうだ。見所でも語っちゃおうか。
本作のパワー見所は大きくわけて2つ。
ひとつは物語中盤。敵側のラジプートという名の「タカの目(情報衛星とリンクした狙撃支援システム)」を使うスナイパーが要人狙撃を目論んでるという情報を掴んだバトーと9課狙撃手のサイトー(CV.大川透)がラジプートの狙撃ポイントを見渡せる電波塔の屋上へと急いでいたころ、単独で児童誘拐事件を追っていたトグサは行方不明になっていた自分の娘を発見して安堵したのも束の間、傀儡廻によって電脳ハックされ、失踪した児童が集められた電脳化病院に娘を送り届けてしまう(その後トグサの記憶を抹消することで“親が自分の子どもを誘拐するトリック”が成立する)が、辛うじて右腕だけハッキングを免れたトグサは娘を守るべくこめかみに拳銃を突きつけ自殺を決意する。
ラジプートに長距離弾道狙撃の照準を合わせたサイトーは、彼の銃口が要人ではなく自分に向いていたことに気づき、刹那、双方が互いに向けて発砲。サイトーは腕を負傷し、バトーは命中判定を行うべくラジプートのいる向かいの建物に走る。そのころ電脳化病院では「運動会みたいにパンッと銃声がしたら思いきり走るんだ。決して後ろを振り返るんじゃない」と『千と千尋の神隠し』みたいなことを言ったトグサが心のなかで家族と9課に別れを告げ、引き金を指をかける―…。


頼れる狙撃ニキ、サイトーさん。

よもやアニメでここまでサスペンスフル なカットバックにムネムネすると は! あ間違えたハラハラするとは!

アニメのカットバックって“アニメのカットバック”でしかないんだよな。

カットバック本来の映画理論に基づいたモンタージュ効果ではなく、ただ単に複数の場所で起きてる出来事を同時展開する、演出的な経済的説話形式に過ぎない。“形式”なんだよ。演出ではない。映画を模倣した“疑似カットバック”と言ってもいいかもしれない。
どっこい、このシーケンスではカットバックが演出されていた。おれがアニメに詳しくないだけかもしらんが、初めて見たよ。正しくカットバックしていたアニメを。
本作を含め、『S.A.C.』シリーズはあと何度か観返さねばならないし、実際観返すことになるだろう。現時点では1周しかしてないが、おれの目では絵を見切るだけで精一杯だった(筋を追うことはハナから放棄。あとで調べて補完すればいい。演出や表象や間テクストの類もたぶん全部見落としてる)。


トグサ(画面手前)とバトー(画面奥)。

もうひとつのパワー見所は「財団法人聖庶民救済センター」に突入するクライマックス。
この場所は福祉施設を建前とした純血の日本人のみを対象としたエリート養成施設。傀儡廻は虐待を受けている日本中の児童を救済し、彼らに社会的価値を与えるため、その親を電脳ハックして親子である記憶を抹消し戸籍をロンダリング。
ややこっ!
そして身寄りがないまま全自動介護システムにより延命され、国に資産を吸い上げられるのを待つだけの高齢者と結託して、彼らの子供として誘拐児をあてがい、その遺産を子に受け継ぐことをオートマチックに行う誘拐インフラ「ソリッド・ステート・システム」を構築した。
ややこし!
その本丸である聖庶民救済センターに踏み込んだ素子復職後の9課の“攻性ぶり”は、これぞ『攻殻』。
電脳戦、銃撃戦。時にシステムへの侵入、暗殺、爆破といったカウンターテロ…。
おっと、言うのを忘れてたが、公安9課とは犯罪発生前に事件を抑止するための“遍く権限”を与えられた内閣直属の独立部隊だ。よって相手が警察であれ検事であれ、決して法的干渉を受けることなく社会正義を実現できる攻性組織である。アニメではわざと“正義の側の視点”から描いてるが、こんなもんテロより危険な異常集団だぞ。最大権限をもって犯罪の芽を事前に摘むことが許された“内閣直属”の非公開組織って。大問題ですよ。
また、荒巻課長ならびに9課メンバーが、当たり前のように“自分たちは正しいベース”で、正義や信念に殉じる気満々というあたり(そしてアニメ自体も彼らのヒロイズムを称揚してるあたり)がマクロで見るとゲロヤバ案件であり、劇中に登場するテロリストよりも9課の組織性(ひいては彼らに頼っている日本の在り様)の方こそ問題じゃないの?という根本的な虫歯の演繹パラドックスが横たわってるわけ。
虫歯の演繹パラドックス…いま勝手に考えた造語。問題は歯の表面を蝕む虫歯ではなくその根元であることの例え。

草薙素子
「世の中に不満があるなら自分を変えろ。 それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ。それも嫌なら…」

まあ、とはいえ頭と感覚は乖離する。格好いいものは格好いい。
光学迷彩を使って施設の警備型サイボーグに一杯食わせるトグサの戦い方は頭脳派ならではのスタンドプレーだし、敵をマシンガンでなぎ倒すバトーなんてさながらターミネーターのT-800。『2nd GIG』で核ミサイルにぶつかって玉砕するもAIデータの一部復元により別個体として復活した思考戦車・タチコマちゃん(CV.玉川砂記子。『攻殻』唯一の癒しキャラ)たちの活躍も見逃さずにおきたい。

バトーを慕う思考戦車のタチコマ達。「バックアップを」と言う素子と「任せとけ。いつだってそうして来ただろう」と呟くバトーの会話がシビれるのは、およそ2年ぶりとなる背中合わせの共闘を少なからず悦んでいるはずの2人が、それぞれの立場、状況…そして照れから、平常心を装うことにも失敗して半ばぶっきらぼうな(つまり曖昧な)やり取りだけに留めんとする神山健治の“視聴者がキャラクターに好意を持ちうる要素の徹底的排除”というルールがこの時ばかりはものの見事に破綻したからに他ならねぇ~~~~。

素子 「バトー。あなた映画に感動して泣いたことってある?」
バトー「そういや昔あったな。マルクス兄弟の映画で、笑いすぎて涙が出たことが」
素子 「あなたらしいわ…」
バトー「そうだ。今度ふたりで映画でも見に行かねぇか?」
素子 「ありがとう。でも本当に見たい映画は一人で見に行くことにしてるから」
バトー「じゃ、それほど見たくない映画は?」
素子 「見ないわ」

素子とバトーの不思議な関係性。さしずめ女王と騎士。ハッ! 陳腐な表現だな。ラストシーンは心地いいほどの“攻殻的難解さ”に翻弄される。
ソリッド・ステート・システムを開発したコシキタテアキとかいう訳のわからん黒幕が現れるのだが、すぐにピストゥルで自らの頭を撃ち抜き自殺。記憶が意味消失する前にコシキの電脳に潜った素子だったが、逆にハッキングされてしまい、そこでコシキの計画が明かされる。大タネ明かしなので平易な言葉で語られているが、自分でもびっくりするくらい理解できなかった。
コシキの一人語りのあと、素子は問う。
素子 「お前は一体誰だ?」
コシキ「まだ分からないか? 草薙素子。これほど身勝手な正義感を持ち合わせてる人間はお前の記憶の中にもそうはいないはずだ。今までに多くの意思と並列化をしてきたんだ。集団的深層無意識が一人歩きし始めてもおかしくはない。
これでソリッド・ステートは完成する。われわれは消滅する媒介者となって、次のソサエティに介入していこう」

なになに~~~~!? なに~~~~~~?
つまるところ、ソリッド・ステートとは素子と関わってきた人々が無意識下に生み出した正義感の集合体的リゾームのようなものであり、そのシステムを利用した傀儡廻の正体はやはり素子自身だったということか(ただし本人の意思や主体とは別の領域で自律的≒無意識的に駆動したシステムという解釈)。
…数日後、セーフハウスで目覚めた素子は、当時現場にいたバトーから、彼女がコシキにハッキングされたあと(意識を失ったあと)の出来事を聞かされるが、そこでバトーは言葉を選ぶ。
バトーが語ったのは、コシキは2年前に死んでおり、あのとき現場にいたのはコシキのリモート義体だった(つまり別の何者かがコシキになりすましていた可能性が高い)ことと、やはり一連の事件は共同体無意識によって引き起こされたこと。
そして語らなかったことは、上記したコシキの台詞。バトーと同じく素子ハッキングの現場に立ち会っていたタチコマは二人の会話を記録していたが、その後なぜか「データが消失した」と言い張ったのだ。
……?
「バトーはその会話、聞いていたの?」と問う素子に、バトーは言う。
「さあな。今となっちゃあ、そんなことはどうでもいいだろ」 口をつぐむことで真実を語る、大人 のテリングをするというのかあああ あああああ!? バトーとタチコマがとぼけた理由は、ほかでもなく素子を守るため。というより、知らなくていい事に気づかせないために素子を“真実”から隔離した、と取るべきだろうかああああああああ?
てことは、やっぱり傀儡廻の正体は…って話になってくるわけよ。
ダリィイイイイイイ!!! 攻殻ダリィイイイイ! サルバドール・ダリィイイイイイイイイ。

クッタリした時計のやつぅううう。


クッタリした時計のやつ。あることを「ある」と理解するのではなく、ないことを確認することで「ない=ある」と理解する思考経路を強いられるのダリィ~~~~。
裏から読まないといけないのムジィ~~~~~~!

荒巻課長
「ひとつだけ言えることは、我々は自らを律するルールの中で不条理に立ち向かっていくしかないと言うことだ」


コシキの電脳に潜るも、逆に電脳ハックされてしまった少佐。

社会性の高い『S.A.C.』シリーズはさまざまな風刺や問題提起がなされており、本作では少子高齢化社会児童虐待問題がテーマの枢軸を担っているが、やはりその根幹にあるのは『S.A.C.』の正称であり当シリーズに通底する大テーマでもある「STAND ALONE COMPLEX」
スタンド・アローン・コンプレックスとは、個人が発信したひとつの情報を共有した不特定多数の独立した個人が無意識裡にその情報に影響され、全体として集団的な行動を取る現象のこと。またはそうした共同体無意識の総称(攻殻用語です)。
オリジナルに感化された大衆が次々とオリジナルの模倣者 になってゆく現象…と言い換えてもいい。
1作目『S.A.C.』のあらましは、2024年に一人の男がマイクロマシンメーカーの社長に銃を突きつけ、生中継のカメラの前で脅迫、誘拐した。男は現場に居合わせた通行人すべての電脳にハッキングをかけ、カメラに映ったすべての人間の顔に“笑った顔のマーク”を上書きしたことで、この犯行は「笑い男事件」として世間やメディアを騒がせる。

ポップなマークは瞬く間に世間に浸透し、謎めいた犯人像や犯行の鮮やかさも相俟ってネットを中心に「笑い男」の人気は急上昇。瞬く間に文化的アイコンとなっていく。
そして事件を追う公安9課を翻弄するように不可解なテロや殺人事件が継起するなか、一連の犯行が笑い男の模倣犯や便乗者によるものだったことが判明。彼らはメディアやインターネット掲示板の影響を受け、正体不明の笑い男を偶像化し、その人物像に「こうあってほしい」、「こうに違いない」という理想を投影し、自己を重ね合わせ勝手に共鳴。思想なき浅慮な“思い込み”で事件を引き起こしたのだ。
草薙少佐は、この現象を「スタンド・アローン・コンプレックス」と命名した。情報の並列化がもたらす自我の画一化、および集合的無意識。 おもしろい。だとすれば個として存在する価値や理由、意思の所在はどこにあるのか?
自分の意思や思想、感情、思考と思っているものは本当に自分のものか? どこまでが自分の考えで、どこからが他人に影響されたものだ?
そんなS.A.C.問題にもスパッと切り込み、相変わらず答えの出ない無理問答を強いてくる本作の切れ味。一度は血を流しておくことをおすすめする。

草薙素子
「忘れないで。あなたがネットにアクセスするとき、私は必ずあなたの傍にいる…」

2026年に新アニメが始まります。(C)2011 士郎正宗・Production I.G / 講談社・攻殻機動隊製作委員会