IMAGON 3 (original) (raw)

編集は撮影よりも孤独な作業

ワーク・イン・プログレス work in progress

という わかったような わからんような 概念だが

進めながら 作り直し また進めながら 作り直すのを よしとする 立場 方法

(即興 という概念を 内包しているのか はたまた それは別位相の ことなのか)

これを共有しておくと

あれこれ言ってくれる

ここはこうした方がいい こういうシーンを追加すべきだ

など

それは決め事で縛られた作り方よりも はるかに 楽しい

が、出費は多くなるかも

編集はフィジカルにひとりでやるので

誰も何も言わない

そこがいい

今日は 暫定版仮編集 version 3 を見てもらい

主演格に意見をもらい 考え直すための 場を設けた

85分み終え あれこれ

本当に捉え方がさまざまなので 驚いた

人の人生とはこういうことなのだ

それを媒介している 85分の暫定版だが

これからまた編集し直して 続いてゆく

いつ完成するかわからないし

そこは今のところ決めなくていいような気がする

恐山から帰ってきた

6月に行った時よりも精神的には余裕があった

八戸 本八戸 舘鼻 とあれこれと見て回ったが

やはり恐山の印象がつよい

季節は8月 の頭

少し涼しいような気もしたが 東京とそんなには変わらない

右が今回出演してもらったナオキ君、八戸在住の学生である

舘鼻海岸での朝市で遭遇した台湾とフランスのハーフのリサさん ノリで平原が声をかけた

恐山行きの道中 八戸とむつ市の中間あたり

撮影は うまく行ったのか うまく行った

八戸の若者と彼の友人たちにブレイクダンスを踊ってもらう予定で

それであれこれやりとりしていたが

練習が間に合わなかった ということで

主演の平原との会話 二人が柔道経験者ということで

その体の絡み合いの様子も 撮影

6月の下見の時に 彼がバイトをしている呑み屋に寄って

あれこれ話しているうちに出演ということになって

お互い名前も知らないのに よく引き受けてくれた

感謝

むつ市までの道程 車の運転で目が疲れたためか

帰ってきたら左眼に ものもらい

視界が少しわるい

結論

旅するのはいいと思う

一人でも二人でも

スケジュールを入れる とか

スケジュール帳を使う とか

あまり得意とすることではなく

なるべく そういうことのないほうが

いちいち 自由でいい

そうも言ってられなくなり

スケジュールがひとめでわかるような

書き込みをすることに

市販のものではなかなか愛着が持てず

紙に日付、字を書き入れたものだけを

作成

こうしてみると

時間の流れや区切り付けという

作意をもとに

動いていく必要があると

感じられ

多少

窮屈にもなるが

ひとつひとつ

こなしてゆくほかない

感覚の塔

ナレーションの連続持続

えんえんとつづき

声の余波がだんだん

上昇していく

(声の波は空気よりも軽い)

そういう

声の余波の雲

は いずれ雷雨となる

恐山に関する記述はつづく

恐山といえば イタコである

イタコ というその聞き慣れているが 実態のわからない

あった事のない 誰か 何か

誰がそのように名付けたのかさえわからない

(タコ というシニフィアンから 八戸でたこ焼きをけっこう食べてしまった のかも)

最終日 夜行バスに乗る前に

八戸市の 歓楽街 ではないが みろく横丁 で 時間を潰していた

その横丁は 最近できたのか 古びた感じがひとつもなく

どちらかと言えば ショッピングモールの縮約版 人工的な 造成

完全に人為的に作られた 店の軒並みである

入ってすぐに目立つ 店があったので入った

程なくして 酔いが周り

隣席というか4、5席離れたおっさんと会話することに

一通りの

身の上を話し

どうして 君は恐山に?

イタコは知ってるか

へえ 映画を撮ってるのか

うちの娘も日大芸術学部に。。。。

と一通りの交換情報儀式

そして

そのおっさんはイタコは嫌いだ という

その理由を聞いた

車を乗っていたおっさん

車体のどこかが凹んでいたのか、傷ついていたのか

板金塗装

イタコがその車には悪霊がついている

とおっさんのいる公衆の面前で言った

という

結論としては 端折っていうが

「イタコは営業妨害をした」ということらしく

それで 嫌いになった ということだった

言いたいのは

外部のものからは イタコ だの 恐山 だの いわれ いい の

いうことは 文化人類学的な興味にしかすぎず

変わり種 特殊な人びと

という 捉え方が先行してしまう

し それは 昔の日本で

青い目をした外国人 と言った程度の

物珍しさにおいて 消費されるという傾向にあるかもしれない

人による ということだろう

●●ってこういう人多いですよね

いや、人によるよ

という よる という程度の問題

地元とは こういうことだろう

灯台もと暗し というよりも

地元では ならでわで よく見えることがあるだろうし

それは仕方ない

今日はここまで

論理学に数学が紛れこんでいる

というよりも

数学に論理学が紛れこんでいる

断定や仮定

である であるならば

など

p.q その他

など

記号におきかえても

それは意味論的には成立する

問いと答え という

これ自体が数の外側にあるのだ

数自体の外側にある 数ー学

気づいたことがあった

恐山菩提寺は円仁(エンジンではなくエンニン 794年 現栃木県生)によって創建されたという

そこに本尊である<地蔵菩薩>が祀ってある建物がある

賽の河原から極楽湖へ つまり巡行ルートの歩を始めるにあたっての最初の門ということだだろう

そこでお賽銭をいくらか投じて 両手を合わせ 何事かを念じる (字義通り今の心を念じる)

車の運転が心配だったため、体調は良かったが 下唇の一部が内出血を起こしていたため

大袈裟だが 生きて帰れるのか という心配があった 全くなかったといえば嘘になる

なので 生きて帰れるように 念じた

後は

54年と10ヶ月 生きてきて

20代後半より 数々の 死に目にあってきたので

死の国にいる 彼ら/彼女ら への 媒介祈念 といったことか

おそらくは 1分以上目を瞑り手を合わせていたのだが

当たり前に何も見えない

ここにはこころの声というものしか 身体を媒介するものはなく

その位相に支配されている なので 念ずることが可能になる

気づいたこととは目を瞑り 念じ終わって 目を開く

その手前のわずかな時間のことだ

心の声で念じ終わり 目を開けるまでの わずかな時間

そこにある

映像というか 図像というか 模様というか 何か色と形象だけがくっついている

抽象的なサインとでも言おうか

そういう何かが 目を瞑っているその 暗み黒み のなかに 一瞬出現するのだ

これが 大変 重要なのではないか と 思えた

願いこと 念じこと その後にくる Xの現前だ

ということを書いている上では

今回恐山菩提寺 地蔵菩薩 を参った ことから

何かを学んだという か 気づいたことがあった

と確信したい

礼拝

参拝

文章の結びにつけるうやまいに近い意味の拝

これは形式上の行為として なぜか 見なされている

形式であることを なぜか 要求されている 手を合わせる 未然に

(付記)

円仁は東京にある(最も古い寺)浅草寺も建立したということだ

同一人物による 恐山菩提寺だ ということに

驚く

恐山 菩提寺

慈覚大師 円仁

楽しんでやる やらない

苦しんでやる やらない

いずれにしても ある程度 楽しくやらないと

続かないだろう

この ある程度

全ては 程度 の 問題

ものを作っている人の こころは

ものを作っていない人の こころからは

見えない

ものを作っていない人のこころに向けて

そこに届くように 作ったとしても

それは 見かけの共感 を呼ばずにはおれない

そこにある豆腐は

100人がそれを知覚して 100人が

それを豆腐である 豆腐としてそれを 認識しているから

それは 豆腐として 安定できる

その物体は

この 安定 を糧にしている

高橋由一の描いた 豆腐 は

誰が見ても 豆腐として 見えるから

それは 豆腐の絵だ ということができる

100人が豆腐として知覚する限り

その見え方は

100通りあると いうべきだろう

見え方のバラバラさ加減

これを認めることが

批評の始まりなのだ

ものの見え方はあり

それは ものを作っている人にもあるし

作っていない人にもある

このズレこそが ものを作る始まりなのだ

今更こういうことを書き連ねて 何になるのだろう

言いたいのは

ものを作っていない人に

ものを作っている人が

合わせるべきではない

ということだ

作品を見る この始まりがあって

感じ方がある 100人100通りの それ

この次元にとどめるべきなのだ

恐山に行った翌日に

こういうことを考えていた

これを忘れないようにしようと

念じながらその後を過ごして

今に至る

恐山 賽の河原

憑依するものと憑依されるものは

意味するものと意味されるものの 関係に 近いのか

一枚の紙の裏表

ウラオモテ ヤマネコ ではなく イリオモテ ヤマネコ

憑依されることの弱さと強さ

それは強さではない 余裕というべきなのかもしれない

全ての生命は保守であり保守があり本能の持続が保証される

なので 革新や 革命 はその次のことなのだ

保守 メンテナンス 身体のそれは

憑依されることの身体的余裕を 保証する

意味の充填は 意味人間であろうとするその持続

無意味はそこから逃れる 楽しみ

詩人はまた無意味も好み

ナンセンスもまた地獄として享楽する

その身体的余裕は 一朝一夕にしては なりたたない

憑依と恍惚の弁証法

possession と ecstasy の弁証法

身体の限界を考えるにあたって 有効なのかもしれない

ある程度歳を重ね 死に目にあっていると

こういうことを考える

単に生きていることの穀潰しは

あっさりと乗り越えられ

高次の生命体を求める

恐山は驚くほど怖くはない

恐を抱くべきかもしれないが

畏れ と 慄きを 著した

キルケゴールの哲学ほどには 真剣なわけではない

賽の河原は その光景は 俯瞰で眺める 町、街、低層住宅の集まりに見えた

死者のその群れを成立させる

構造体にも似たようなそれ

だが

全ての肉はただれ落ちるだろう

積み上げられた石は

崩壊するだろう

だからこそ

構築が可能になる

そういう教え

結局は、肉は腐り、ただれ落ちるだろう

眼球はバゼドー氏病患者のように飛び出し

骨があちこちから肉を食い破っている

おお聖なる肉体

聖なる病

ただなぜか流血はない

内出血、鬱血、は血の流れをあらたに察する装置

唇の裂開はなぜ起きたか

唇の内出血はなぜに

恐山

と言いつつ

管理者 管轄の

菩提寺があるのは

盆地なのである

ひっそりと佇む湖

盆地、そして湖

それは京都と琵琶湖の関係に似ている

湖の静態 static は 海の dynamic と相反する

その不思議な色合いと物質感

盆地を愛でる人類史

詩人は言った

口にするものの描写を避けてはいけない、と。

歯は動物の隠喩であり

食べることを避けて口は鍛えられる

歯でちぎってそのエネルギーを脳化する

それが動物だ

動物は胃を嫌悪する

歯と脳が直結している と詩人は言った

食べることが全てなのではない

口にすることが重要なのだ

スマートフォン以降の理性

人類に手は必要なくなった

必要なのは

目 脳 指先 である

それは腕と手を無効にして

脳で考え脳で食べ脳から排泄するような

カニズム

一箇所の痛みは複数の痛みを隠す。

痛みがある。そこに集中する感覚。

本当はあちこち痛いとする。複数の痛み。

一つの痛みは一つの痛みである、と一つの痛みは言う、あるいは叫ぶ、あるいはつぶやく。

無数の毛穴は肌感覚のバランスを保っている。

表層としての肌、その肉を隠す、骨を隠す、臓腑を隠す肌。

肌が肌であるためには無数の毛穴を隠す必要がある。あった。

誰に機銃掃射されたのか、その表面_肌に。

そうではない。穴は毛と共にあり、それは動物遺伝子の残滓だ。いや、植物でも毛が表面に生えているものもある。なので植物遺伝子の残滓ともいえる。

一体誰に?

そうではない。

穴は外部から穿たれたのではなく、(隕石の落下ではなく)、内部から生成された。

生物の極みだ。

一定距離に毛穴がある。定規で測ったことがある。それはつまりリズミカルだ。

毛穴はリズミカルだ。という断言はいささか異常に見える。

だが、精神科医が「それは異常ではありません」とそつなく断言するほどには異常ではないのだ。自然界。

ある学生は突然学食でランチを食いながら目覚める。。。。

「もう身体論もファッション論もうんざりだ!もっと毛穴論を!」