【伊王島について】 – 伊王島の歩き方 (original) (raw)
【伊王島について】
長崎湾の入口に位置する伊王島は、江戸時代よりもはるか前から海の玄関口となっていました。
島の口伝 によると、西暦391年頃、伝説にも多く登場する神功皇后が、朝鮮の新羅(しらぎ)征伐のおりに軍船をととのえるため、この島の船津に寄港しました。
その際に、この島を 「美しい島」と風光を賞し、祝詞(のりと)をたまわったという故事にちなみ「祝島(いわうじま)」となります。
また、「イヲウシマ」と書かれてある古地図があります。古くは魚のことを「いを」と言っていたことから、かねてからの豊富な漁場に浮かぶこの島のことを「いをしま」と呼んでいたのではないか、という説もあります。
ちなみに現在の名、伊王島の「伊王」は、「祝ふ」の当て字ではなく、昔の中国に海神、あるいは漁夫の神様の名なのだといわれています。
また、大航海時代、長崎を訪れたポルトガル人の記録によると、伊王島は「カバロス」と呼ばれていたそうです。カバロスとはポルトガル語で暴れ馬を意味し、荒れる波間から見た島姿が、暴れる馬のように見えたのでしょう。カバロスとは「暴れ馬の島」の複数形であることから、当時から伊王島、沖之島の両島を指し呼んでいたことがうかがえます。
803年:延暦(えんりゃく)23年頃、空海上人の時代には、遣唐使の船が小中瀬戸(伊王島と沖之島の間)を通ったとも伝えられています。
悲劇の僧 俊寛
「平家にあらずば人にあらず。」とも語られていた平家全盛時代に、後白河天皇のために平氏を討伐しようと、鹿が谷の山荘で俊寛僧都、丹波少将藤原成経、平康頼ら密議を開きます。しかしクーデターは実行前に発覚し、首謀者の3人は1177年:治承(じしょう )元年に、俊寛僧都らは硫黄島に流刑となります。その後成経と康頼の二人は恩赦を受け京都へと帰ることができました。 なぜか俊寛だけは赦されず、一人だけ島に残されます。俊寛の召使いであった有王丸(ありおうまる)が、京都から島まで尋ねてきた際に俊寛の妻子が死んだことを聞くや、食を断ち他界しました。 平家物語には有王丸が主人を荼毘(火葬)にふし、見晴らしのよい丘の上に葬ったと書かれています。 1817年:文化(ぶんか)14年頃に発刊された『長崎名勝図絵』(ながさきめいしょうずえ)にも俊寛僧都の史跡について記録されています。
伊王島の歴史メモ |
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1637年:寛永(かんえい)14年に起こった島原の乱後は、佐賀鍋島藩によってこの島に警備隊が配され、今もその遺跡が島の各所に残されています。長崎の儒者 西川如見(にしかわ じょけん)の『長崎夜話草』(ながさきやわぐさ)1719年:享保(きょうほ)4年には、伊王島の風物が記され、江戸時代、すでにこの島で暮らす人々の営みの様子がうかがえます。また、現代よりも遥か昔に伊王島には泉湯(せんとう)があったようです。 明治の初めには灯台、寺院、教会堂、学校が建ち、大正になると漁業が発展します。昭和には炭鉱が開発され、1972年(昭和46年)まで炭鉱の島としてその役割を果たしました。 現在では、リゾートアイランドの伊王島として、温暖な気候と豊かな自然環境に心やすらぐスポットとして親しまれています。 |