出合いの風景 - 音楽 詩 自然 - (original) (raw)

このブログは、カテゴリー中心に作っています。
大まかに分けると、「詩-随筆」「音楽」「自然」の3つです。
現在は、次のようなカテゴリーに分かれています。

・詩-随筆
・クラシック音楽
・クラシック音楽-楽曲構成
・ジャズ
・いろはの音楽の部屋
・自然-風景

・映画
・自作パソコン
・音響機器

今回、「いろはの音楽の部屋」というカテゴリーを追加しました。

◇「いろはの音楽の部屋」は、もともと、「いろは」が自分のこのブログで、自分の好みの音楽を楽しむ部屋でした。それをみなさまと共有できれば、更に楽しく音楽を共有して聴くことができるかなと思い、このカテゴリーを作りました。気が向いたらこのカテゴリーをのぞいてみてください。

◇音楽関係の記事は、今後は「いろはの音楽の部屋」を主にして書いていこうかなと思っています。音楽のジャンル分けはしないで、自分の好みと気分でその都度音楽を紹介していこうかなと。*YouTubeからのリンクが取れる音楽という前提がありますが。

◇「いろはの音楽の部屋」という表記の無い記事でも、自分の好みの音楽が貼り付けてある記事は、このカテゴリーに入れておくことにします。

◇音楽の解説などはできませんが、その音楽にまつわる「いろは」の思い出や感想などを書いていきたいと思います。気分次第という事もあり、むらのある内容となることでしょう。

・「かあさんの歌 倍賞千恵子 -いろはの音楽の部屋-」に、倍賞千恵子さんの歌「鈴懸の道」を追加しました。

*今日は「いろは」の誕生日。古稀+1歳となりました。

「スマホ買い換えました Pixel 8a 格安SIM」(2024.6.27)の記事を書きました。今度は、「スマホ落としました。ひび割れました。Pixel 8a」の記事です。

金沢への旅で、ホテルのドアを開けたときに、手に持っていたスマホを落としてしまいました。柔らかい絨毯が敷かれた廊下の上に落としたのですから、大丈夫だと思いました。

その時は気づかなかったのですが、電車で移動中に画面を見ると、何か光る線が見えます。電源を切って画面を暗くして見ると、何と、厚さ1mm程(画面ガラスの厚み)のヒビがスマホの画面の上から下に斜めに13cm程走っているではないですか。

このスマホ画面には、保護フィルムを貼っていませんでした。というのは、入力する時などに、指でうまくスマホの画面をタップすることができず、大概別のキーを押してしまったりしていたため、保護用のガラスフィルムも影響していると思ったからです。

Web上を調べてみると、スマホの画面のガラスの強度が強くなっているので、スマホフィルムは不要などという記事がありました。それを見て、画面保護のフィルムは貼らないことにしていたのです。

例えば、現在もこんな記事が見られます。
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「スマホフィルムは、もういらない?
Android スマホに多い強化ガラス画面なら、なくても安心!」
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現在の Android スマホの画面は衝撃に強い素材が使用されており、原則として保護フィルムは必要ありません。 スマホフィルムを貼り付けることで、かえって画面の美しさが損なわれたり操作性が低下することもあります。
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ところが、見事にヒビが入りました。(落としたときに何か小さな硬いものに画面がぶつかったのでしょう)画面の一箇所に小さな傷が出来ていました。そこに衝撃が加わり、そこから画面を真っ二つに分ける1本の斜めの割れ目(ひび)が入ったものと思います。衝撃に強いと書いてありますが、ヒビは入りました。

ガラスフィルムが貼ってあれば、衝撃部分をそれが受け止めますので、それにヒビが入っても、本体の画面ガラスにダメージはなくて済んだものと思われます。いくらガラスの強度が上がったとしても、一箇所に強い衝撃が加われば、ガラスが砕けてしまうことはなくとも、ガラスにヒビは入るものであるとこの事実から知りました。

安易にスマホのガラス強度が高くなったという理由だけで、ガラスフィルム不要論を採用したわたしがバカでした。また、Web上の記事を安易に信じてはいけないなと改めて思う次第です。確かに上の記事では根拠となるデータなどは示していません。

〈例えば、「Pixel 8a(またはこれと同等のもの)を100台、これこれの条件下で落花させたところ、98台のスマホ画面にはヒビが入らなかった」というようなデータは当然ないのです。〉

修理屋では、ガラス部分だけの交換は不可とのことです。修理には、画面の部品をそっくり取り替えるので4万~5万すると言われました。これでは買い換えた方がいいので、修理はお断りしました。

しかし、お店の方が、画面の部品自体はそのまま使えますし、電源オンの状態なら、ひび割れは気にならないので、画面の上に今からガラスフィルムなどを貼っておけば、そのまま使えると思いますよとのアドバイス。

このアドバイスに従い、保護のフィルムを貼っておけば、ひびの入った部分を補強し、つなぎ止めておいてくれるでしょうから、一応これで落着ということに。本体の機能も全て正常に動作していますし、見た目も電源ONの状態なら問題ないですから。

みなさん、ガラスフィルムは貼っておきましょう!

転ばぬ先の杖になりますよ。

旅に出ると家の中の日常と違う景色や事態に出合うことになる。それらが刺激となって、身体や精神の代謝が活発になる。旅に出るのはおっくうでも、刺激の機会を多く持った方がよいだろう。古稀を越えるとボケてくるからこそ、刺激が必要だ。

旅の空の下で かすめた思い 特急列車のトイレはよく揺れる。だから、列車のトイレは使いたくないので、駅で用をすませてきた。わたしが使いたくないと思っていても、生理作用はそれを許さない。我慢ができなくなり、仕方なく列車のトイレを使用する。

旅に出たら、長い間列車に揺られているので、列車の中でトイレに行きたくなってくる。通常、これは生理現象と言って、トイレに行きたくなることで、本人が責められることはないだろう。「自分」にはどうすることもできない生理作用が働いているのだから。

とすると、自分の身体と言っても自分の支配の及ばない領域があるということだ。むしろ、自分のほとんどの部分が、自分の支配の及ばない領域なのではないだろうか。生も老も病も死も苦も楽も、ほとんどあらゆる領域が。

このように自分という存在は、実は自分のコントロールできない、自分ではどうすることもできない存在なのである。そうであるなら、自分など無いに等しい。自分を「無」であると言う時、あるいは「無常」ということを言う時、このような事態を想定して言っているのだろう。

このことは逆に、自分というものは「ある」のだと言いかえてもいい。自分と思っていたものを越えた存在が、実は自分の実体(実態)であったのだと。

このように考えてくると、「自分」という言葉自体が意味のない言葉、空しい言葉に思えてくる。言葉は限定であり、限界のある限られたものである。しかし、事実は、言葉の指し示す限定に縛られる義理はない。事実は言葉を越えている。

こんな思いが、ふと列車のトイレの中で頭の中をかすめました。
その「かすめた思い」を一旦上のように言葉で整理してみました。これも言葉による整理ですから、限定的なものです。事実そのものではありません。単なる説明あるいは感想を述べてみただけということになりますか。