【三國志IV董卓S1#4】悪太師、偽の玉璽と共に洛陽に帰還する (original) (raw)

並行して進めていたはずの「蒼き狼と白き牝鹿 元朝秘史」も早々にプレイを止めてしまい、ずっと三國志IVに打ち込んでいる。

・195年

現在の状況は以下。

他勢力はほとんど動きが見られないまま、董卓軍だけが大きく躍進している。

東方軍は袁紹南方軍劉表、西方軍は劉焉と兵力の多い敵が壁になって膠着しやすい局面にある。

外交的には全勢力から物凄く敵視され、ほとんどの君主は敵対100という有様となっていた。

1月、東方軍は平原から南皮を攻める。袁紹がのこのこと迎撃に出てきたので敵を川の中に誘い込んで突撃。敵は手持ちの兵力が少なくなってから籠城戦に移行し、結局支えきれずに袁紹は南皮を放棄。

さらに許昌からショウを攻撃。孔チュウは汝南へ撤退。透かさず宛(南方軍の居残りが宛に2人だけ残っていた)から汝南へ侵攻。使える人員は張勲のみでしかも兵力も少なかったが問題なく孔チュウ軍を撃破。孔チュウは降伏。

また洛陽から北にある空白地の晋陽へも進出。これで公孫サンはいつでもトドメを刺せる状況となった。対袁紹戦を担当する劉備たちの支援をするために代県も手早く攻め落としたいが、晋陽の民忠を上げる作業も行わなくてはならないのが難点。

3月、陳留から趙雲の配下の曹豹が太守として治める徐州へ侵攻。敵太守は歩兵スキル持ちではあったが能力的には大したことないので君主・董卓が出るまでもない戦いではあったが援軍の可能性もあるので万全を期して董卓の部隊には高順を入れておき、別動隊として紀霊も用意して戦闘を行った。

4月、盧植が死去。有能な武将だっただけに残念な思いである。

董卓も含め実際はこの年には既に存命していない人物も多いので後継のことも考えておかなければならなくなってきている。

ついでに遥か南に勢力を構える孫堅の配下が独立した。しかし何の支障もない。

5月、東方軍の主要な敵の1人、趙雲の最後の領地である下ヒに侵攻。敵兵力100に対して董卓7000、紀霊7000で当たり撃破。

趙雲は非常に残念ではあるが登用に応じなかったため処断せざるを得なかった。

間髪入れず平原から北海へ侵攻。徐庶が軍師を務めていたが敵兵力的には大したことない。孔融降伏。

さらに晋陽から代県へも侵攻。やはり兵力0で城に籠った公孫サン撃破。こちらも降伏。

6月、汝南から寿春へ侵攻。劉ヨウは多少抵抗したものの撤退。

7月、皇甫嵩死去。

西方軍の兵力増強が済んだので梓潼から成都へ侵攻。董承、厳顔、周泰の歩兵スキル持ち3人を1つの部隊にまとめて戦わせる。

依然として劉焉は大兵力を保持していたが難無く撃破。

8月、陥落させたばかりの成都から劉焉を追って江州へと侵攻。劉焉降伏。

10月、ここまで董卓をずっと支えてきた軍師李儒が死去。担当軍師の座は郭嘉に譲ってはいたが最後は董卓と共に洛陽へ戻ろうとしている矢先の死だった。

董卓李儒の棺を伴った葬列で洛陽の門を通り、献帝を含めた朝廷や洛陽の人々は喪に服して董卓軍を迎えた。

江州から袁術領永安を攻めここでも兵力0で守っていた袁術はたまらず撤退。

12月、南方軍は襄陽から江陵を攻める。敵味方ともそれぞれが200(2万)以上の兵力を動員する大決戦となった。さらに西方軍から厳顔、周泰の援軍も数千という援軍を連れて参戦。敵方にも援軍が来るも、敵戦力の大部分を撃破することに成功。

195年の1年間で大きく戦線を動かすことが出来た。

西部では本来西方軍が担当していた全ての敵勢力を滅亡に追いやった。

これ以降西方軍は全南方軍の戦力・人員を統括させることとして、新しく「南方軍」と改称して大陸南部の全ての敵勢力の打破を目指すこととした。司令官は引き続き董承、前南方軍司令官の華雄は副指令として董承と共に戦うことになる。

・196年

1月、下ヒより建業へ軍を進める。兵力195を動員し、紀霊を大将として高順・徐庶の歩兵スキル持ち3名で部隊を編成した。自軍と交戦したものの太刀打ち出来ず劉ヨウは撤退。

さらに「南方軍」が永安から武陵へ侵攻。

敵は袁術なので兵力は控えめに8000名とした。

袁術は登用に応じず洛陽からは「降伏を拒否した君主は処断せよ」との命令が変わらず届いていたので、南方軍司令官董承は袁術を処断した。

2月、北の抑えの東方軍部隊の準備が整ったので南皮から北平を攻める。

関羽大将に副将として張飛劉備を付けて兵力は2万3500名である。さらに代県から援軍8000を送り込む。

袁紹も2万ちょっとの兵を保持していたので迎撃に出た。

しかしこの援軍8000は袁紹の部隊には歯が立たず、突撃を敢行したもののとんでもない被害が出たので撤退させることにしたが、撤退先は「襄平」であった。すなわち、袁紹が守る北平を飛び越えてその先の空白地に逃げ込んだのである。

関羽たちによる奮闘で袁紹の全軍を撃破。もはや北平から逃げることさえ許されず、袁紹は捕縛され先に逝った従弟と同じ運命を辿った。

これで東方軍も戦略的には担当していた地域の支配を確立したことになる。

建業の東方軍は軍勢を二分して片方を呉方面へと進めた。

兵力は1万近い軍を保有する王朗を見越して1万2000とした。まずは呉の厳白虎と交戦し、敵兵力1700でしかなかったのでこれを打ち破り厳白虎を処断。

さらに寿春から盧江に攻め込み劉ヨウを撃破。捕縛の後解放。

未だ李儒の死を嘆く董卓であったがその悪逆の軍勢は既に大陸の大半の地域を支配下に置いていた。

196年3月、董卓は洛陽へ召還された李儒の後任軍師賈クと共に最後の戦略を練っていた。