紀伝体 (original) (raw)

紀伝体

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紀伝体(きでんたい)は、東アジア歴史書の書式の一つ。中国の正史(いわゆる二十四史)はすべて紀伝体である。

紀伝体は以下のような項目から構成される。「紀伝」の名称は、このうち上位に位置づけられた2項目、「本」と「列」に由来する。

基本的に紀伝体の史書は正史であることが多いが、正史を意図して民間の学者が書いた紀伝体の史書も幾つか存在する。これらは後に正式に正史が編纂されるときの基礎資料となった。

などがそうである。 また、日本水戸藩が編んだ『大日本史』及び続編の『大日本野史』も紀伝体で書かれている。

このような記述形式であるから、同じ事柄が重複する事もよくあるが[注釈 4]、個人や一つの国に関しての情報がまとめて紹介されるためにその人物や国に関しては理解しやすい。これに対して全てを年毎に並べていく方法を編年体といい、こちらは全体としての流れがつかみやすいという利点がある。

中国では『春秋』と云う名作があったために最初は編年体が主流だったが、司馬遷の『史記』以降は紀伝体が主流になり、二十四史は全て紀伝体である。ただし、中華人民共和国が編纂中の『清史』は本紀を廃し、代わりに編年体の通紀を入れている。これは、本紀が政権全体の時間の流れを書くために持っている編年体的特徴を強めたものである。編年体の代表としては春秋の他に司馬光の『資治通鑑』がある。

紀伝体と編年体の他には、紀事本末体国史体(こくしたい)がある。

なお、日本には記紀が成立する以前に『古事記』の序文などに記されている『帝紀』と『旧辞』のような二つの史書を組み合わせた「日本式の紀伝体」とでもいうべき形態が存在したのではないかとする説もある[13]

  1. ^ 後漢書の光武本紀に倭王への漢委奴国王印下賜が書かれているなどがその例である。
  2. ^ 『宋史』巻一、本紀第一、太祖一には先祖が微官で猛将だった祖父が出世したことを述べたあと、趙匡胤が生まれた時に「赤光繞室,異香經宿不散,體有金色,三日不變。」とある。
  3. ^ このため、『三国志』には魏の重臣として魏の歴史を書くのに欠かせない存在であるはずの司馬懿司馬昭などの伝は立てられていない(やがて書かれるはずの『晋書』の本紀に記載されるべき人物であるから。ただし、六朝時代の混乱ゆえに『晋書』の編纂は晋の滅亡の数百年後になった)。
  4. ^ 重複を避けるためもあって、一つの事柄を複数人の伝に書き分けたり不名誉な事柄を本人の伝に書かず他の箇所に書いたりする例があり、たとえば「三国志」では魏の曹仁が呉の朱桓に大敗したことは曹仁伝ではなく朱桓伝に記載されている[12]
  5. ^ a b 武田泰淳『司馬遷 史記の世界』中公文庫
  6. ^ a b c 岡田『世界史の誕生』ちくま文庫、元版は1992、筑摩書房
  7. ^ a b 『史記』(集英社・世界文学大辞典)執筆・福島吉彦、集英社、1998年
  8. ^ 『三国志』蜀書先主伝
  9. ^ 『三国志』呉書第一孫破虜討逆伝
  10. ^ 『三国志』呉書呉主伝
  11. ^ 『晋書』列伝第一・后妃上伝・宣穆張皇后伝
  12. ^ 『元史』列伝第一・后妃伝一・太祖后孛児台(ボルテ)旭真(ウジン)伝。旭真(ウジン)は漢語「夫人」に由来するモンゴル語で貴人の妻の敬称。
  13. ^ 飯田忠彦『大日本野史』第275巻任侠列伝、曽呂利新左衛門伝・前田利太伝。飯田忠彦『野史 第5巻 3版』日本随筆大成刊行会、昭和4-5、国立国会図書館デジタルコレクションより
  14. ^ 『宋書』倭国伝
  15. ^ 『宋史』巻四百九十一、列伝第二百五十、外国七・日本伝
  16. ^ 坂口和澄「正史三國志群雄銘銘伝」光人社、2005年、P375
  17. ^ 倉西裕子「『日本式紀伝体』は存在した - 二本の史書を一対とする編纂記述様式」『記紀はいかにして成立したか - 天の史書と地の史書』講談社選書メチエ、講談社2004年、pp. 46-59。 ISBN 9784062583015