帝銀事件 (original) (raw)

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帝銀事件
事件発生直後の現場の様子
場所 東京都豊島区長崎(現在の豊島区長崎1丁目)
標的 帝国銀行
日付 1948年昭和23年)1月26日
概要 毒物殺人事件
死亡者 12名
犯人 平沢貞通とされている
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帝銀事件(ていぎんじけん)とは、1948年昭和23年)1月26日東京都豊島区長崎帝国銀行(現在の三井住友銀行)椎名町支店(1950年に統合閉鎖され、現存しない)に現れた男が、行員らを騙して12名を毒殺し、現金と小切手を奪った銀行強盗殺人事件。

画家の平沢貞通が逮捕され死刑判決を受けたが、平沢は獄中で無実を主張し続け、刑の執行がされないまま、1987年(昭和62年)に95歳で獄死した。

第二次世界大戦後の混乱期GHQの占領下で起きた事件であり、後述のように多くの謎が残るため、未解決事件とされることもある。

事件発生時の帝銀椎名町支店。動画は日本ニュース第108号で見ることができる。

1948年(昭和23年)1月26日(月曜日)午後3時過ぎ、閉店直後の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」、「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人(8歳から49歳)に青酸化合物青酸カリ説、青酸ニトリル説がある)を飲ませた。その結果11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。犯人現金約16万4410円と、安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほ銀行板橋支店の金額1万7450円の小切手[1]を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて初動捜査が遅れ、身柄は確保できないばかりか、現場保存も出来なかった。なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。

捜査本部が捜査員に配布した「帝銀毒殺犯人捜査必携(昭和23年<1948年>6月 警視庁帝銀毒殺事件捜査本部)」。犯人のモンタージュ写真や小切手の筆跡、その他、犯人像の説明に「職歴・・・・・・医療防疫(含消毒)其の他薬品取扱に経験あり(軍の関係は特に)」云々とあり、捜査の主流が旧軍関係者犯人説であったことがわかる。

椎名町支店内での死亡者10名: W(男。当時43歳)、 N(男39歳)、 S(男29歳)、 A(女23歳)、U(女19歳)、 K(女16歳)、 T内(男49歳) 、T沢(女49歳)、T沢(女19歳)、 T沢(男8歳)

国際聖母病院へ搬送後に死亡(ないし死亡確認)2名: S(男22歳)、T沢(男47歳)

国際聖母病院へ搬送、重体(生存)4名: Y(男43歳)、 A(女19 歳)、T(男20歳)、 M(女22歳)

「T沢」の4名は、用務員の夫婦とその娘・息子である。

死者は上記の12名のほか、3ヶ月ほどの胎児が1人いた(中村2008[4]p.65)。

死亡者の遺族たちは国の補償も民間の支援もなく、苦しい生活を送ることを余儀なくされた(<#被害者家族のその後>)。

裁判所の判決では以下の2つの未遂事件も、帝銀事件と同一犯のしわざと認定した。

帝銀事件の捜査陣の組織図(平沢貞通逮捕時)。藤田次郎刑事部長以下の捜査本部の主流は旧軍関係者による犯行説で、平沢貞通を追ったのは名刺班だけであった。捜査本部の様子は日本ニュース第109号「まだつからまぬ毒殺犯人」でも見られる。

帝銀事件は、容疑者の自白を「証拠の女王」とした旧刑事訴訟法のもとで捜査が行われた最後の事件の一つである[6]。当時は日本国憲法の施行からまもない過渡期、いわゆる応急措置法の時代で、警察と検察が何ごとも力をあわせて捜査を行った。帝銀事件の捜査本部は目白署に置かれ、毎日、捜査会議が目白署で行われた。検事(高木一)も毎日、地検から目白署の会議に行き、刑事の報告を聞いた(高木1981[7]、p.179)。

犯人は、帝国銀行椎名町支店の支店長代理Y(当時、支店長は病気で不在)に名刺を渡し、Yはそれを机の中に入れたが、事件後、その名刺は消えていた(出射1986[8], p.226)。Yの記憶と2件の類似事件の遺留品である名刺、生存者たち全員の証言から作成された犯人の似顔絵、事件翌日に現金に替えられた小切手を手がかりに捜査は進められた。遺体から青酸化合物が検出されたことから、その扱いに熟知した陸軍中野学校の関係者や旧陸軍731部隊関東軍防疫給水部本部)関係者を中心に捜査が行われていた。“9研”こと陸軍第9研究所(登戸研究所)に所属していた伴繁雄らから有力情報(毒物は遅効性の青酸ニトリル、遺体吐瀉物は青い液体になる。全員が一気に乾杯のように内服する方法は731部隊が集団殺戮する方法で採用していたもの)を入手して、事件発生から半年後の1948年(昭和23年)6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出た。陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るも、関係者の口は硬く、この線での捜査は行き詰まっていったが、静岡軍医病院にいた元731部隊軍医中佐 諏訪敬三郎(元大陸陸軍病院から発足した国立国府台病院初代医院長)が重要参考人として浮上するが、突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられたという主張もあるが、真相は不明である(<#GHQの影>)。

捜査が難航した理由について、国務大臣の鈴木義男は1948年(昭和23年)2月2日の国会答弁で、単独犯だったらしいこと、犯跡を残さなかったこと、被害者が大部分死亡したこと、冤罪や人権蹂躙を防ぐため新憲法の趣旨にのっとり科学的な捜査をしていること、を挙げ、理解を求めた[9]

平沢貞通

捜査本部の脇役的存在でしかなかった居木井為五郎警部補の名刺班は、類似事件で悪用された松井蔚(まついしげる)の名刺の地道な捜査を進めていた(この名刺班には後に「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の解決で名を馳せる刑事平塚八兵衛もいた)。松井は名刺を渡した日付や場所や相手を記録に残していたため捜査も進んでいった。100枚あった名刺で松井の手元に残っていたのが8枚、残る92枚のうち62枚の回収に成功し、紛失して事件に関係無いと見られた22枚を確認。そして、行方が最後まで確認できない8枚のうちの1枚を犯人が事件で使用したとされた。

そのなかで、松井と名刺交換した人物の一人であるテンペラ画家の**平沢貞通**(前年の1947年(昭和22年)に日本水彩画会は創立35周年を迎え、『皇太子殿下献上画展』を企画し、皇室に大作を献上するなどした巨匠)が容疑者として浮上した[10]。居木井為五郎らが捜査のため北海道の小樽に渡り平沢に会ってみると、人相書そっくりであった[11]。頬に2つのシミがあったのみならず、三菱銀行中井支店の事務員Oが証言した「顎の疵」まで一致していた(居木井1955a [12], p.31)。

居木井は、平沢貞通の容疑事実を28箇条にまとめた報告書を藤田刑事部長に提出し、平沢逮捕の許可を直談判した[13]。捜査本部の主流は依然として旧軍関係者犯人説だったが、藤田は、いったん平沢を逮捕して取り調べ、白黒の決着をつけることとした[14]。名刺班は1948年(昭和23年)8月21日、平沢を北海道小樽市逮捕した。
平沢を警視庁まで護送する途中、新聞記者や野次馬が殺到して大混乱となった(日本ニュース第138号で護送中の映像を見ることができる)。後日、平沢への人権蹂躙の疑いについて警視総監が国会で釈明する羽目になった[15]

平沢の北海道での逮捕も、東京の警視庁への護送も、居木井為五郎らは極秘のうちに行う予定だった。ところが8月22日正午、青森へ上陸した居木井らは、ホームで、北海道に遊説に赴く片山哲首相の一行とはちあわせしてしまった。東京から首相に随行してきた政治部記者に発見されてしまい、その後の途中駅から記者や野次馬が次々と殺到する事態となった(居木井1955c [16], p.25)。

警視庁での平沢貞通(左)。なお、この写真は、盗撮されたものである。

平沢が逮捕・起訴された理由は、「松井名刺との結びつき」「人相書きと酷似」「出所不明の謎の預金」などである。

犯人の行動を再現させられる平沢

平沢の逮捕直後も、捜査本部の主流は平沢シロ説であり、平沢の逮捕を断行した名刺班の面々は事実上の謹慎処分となった[30]。本来なら平沢の送致後も、取り調べは居木井ら名刺班が行うはずであったが、居木井らは送致後の取り調べからはずされ、検事の高木一が一貫して取り調べを行うという前例のない事態になった。
しかし、平沢の逮捕後、平沢が銀座の日本堂時計店で詐欺事件を起こしていたことが判明すると[31]、捜査本部と世論は一挙に平沢クロ説へと傾いた(当時の状況は日本ニュース第140号「平沢氏容疑深まる-帝銀事件-」でも見られる)。

警視庁は平沢を、帝銀事件と未遂事件の被害者に面通ししたが、当初は、この人物だと断言した者は一人もいなかった。

平沢が東京に連行された直後、駒込署で行われた非公式の面通しでは1人が「似ている」、もう1人は「違う」だった。警視庁では9人の目撃者が面通しをしたが、帝銀の3人の生存者と他の2人は「違う」と断定し、あとの4人は「似ている」と証言した。当初の面通しの11人中「違う」は6人、「似ている」が5人だった(佐々木2004[3], p.142)。

警視庁での面通しの方法は、適切とはいえなかった。例えば、帝銀事件の犯人と正面から最も長い時間会話した支店長代理のY(出典の原書では実名)が平沢の顔を横から見ようとすると、平沢はいきなり「さあ、タテからでもヨコからでも見てくれっ」と叫んで椅子から立ち上がったため、Yは驚いて部屋から逃げ出した(佐々木2004[3], p.140-p.141)。後にYは「私は、被告人平沢が犯人だと確信を持って言えます」と断言した。

ただし目撃者の証言は、面通しを繰り返すうちに変化した。
安田銀行荏原支店の未遂事件で犯人と比較的長い時間、会話した支店長Wと警察官I、三菱銀行中井支店の未遂事件で犯人と会話した支店長Oは、犯人は平沢であると述べた[32]
第一審の法廷で、証人として呼ばれた事件の生き残りの4人のうち、帝国銀行椎名支店・支店長代理で犯行当日に犯人と約10分間向かいあって会話した[33]Y(当時44歳)は宣誓のうえ「私は、被告人平沢が犯人だと確信を持って言えます」と断言し、T(男性、当時20歳)も「今日は、平沢が犯人だと断定します」と述べた[34]。一方、M(女性、当時23歳)とA(女性、当時19歳)は、平沢が犯人と似ていることは認めながらも、それぞれ「私には、今日も、被告人が犯人と同一人物であるとは思われません」「被告人を犯人と断定することはできません」と法廷でも証言はぶれなかった[22]

逮捕当初、平沢は一貫して否認していたが、逮捕されて1か月後の9月23日から自供を始め、10月12日に帝銀事件と他の2銀行の未遂類似事件による強盗殺人と強盗殺人未遂起訴された。

後に平沢と支援者は、この時の「自供」は拷問に近い不当な取り調べ[35][36]によるものだと主張した(<#自白をめぐる謎>)。なお、平沢は逮捕後3回自殺を図ったが、いずれも未遂で大事に至らなかった。

これらが狂言自殺だったのか、本当に自殺するつもりだったのかは不明である。この点について、平沢の精神鑑定書は「病的虚言者が屡々(しばしば)自殺を企て、しかも未遂に終ることはよく知られたことで、特にこのような事態においては珍しいことではない」(福島・中田・小木 2018[18], p.321)と述べる。

金品目的とされる。検事の高木一は、平沢貞通が犯行を思いついた理由として、

ことを挙げ、「とにかく、当時は、全く暗い、滅茶苦茶の時代」「その中で、大家といわれた絵かきが、何年たっても自分の絵が売れず、金もできず、家の者からは建築を迫られている。そういう戦争直後という異常な時代の、異常な犯罪」だと述べた(高木1981[7]、p.180)。

帝銀事件一審(東京地裁)第1回公判での平沢。動画は日本ニュース第155号で見ることができる。

1948年12月10日より東京地裁で開かれた第1回公判において、平沢は自白を翻し、無罪を主張した(<#自白をめぐる謎>)。

1950年(昭和25年)7月24日、東京地裁刑事第9部(1審)で死刑判決(裁判官は江里口清雄、横地恒夫、石崎四郎)。

裁判長の江里口は慎重で良心的な法曹だった。彼は審理にあたり「一般市民は被告人の自供があるからと言っているが、はなはだ危険」という旨を述べ、慎重な態度で平沢をじっくり尋問し、録音テープを何度も聞き返すなどした。1年7ヶ月をかけ、60 回におよぶ公判の末に判決を出した。江里口は後年、最高裁判所判事に就任した時に「帝銀事件以外に死刑判決を出したことはない。あの事件に比べると、どんな事件にもどこかに救いがある」と述懐した[39]。国会で議員の羽仁五郎が、帝銀事件の裁判をひきあいに出し、有罪の証拠がないのに国民が有罪判決を受ける可能性は本当にないのか、と問いただすと、江里口は「証拠が足りないということであれば、疑わしきは被告の利益に従うという原則に従って、無罪の判決をいたすべき」「証拠不十分のままに有罪を言い渡すということは、裁判官としてあり得ざること」と持論を述べた[40]

1951年(昭和26年)9月29日、東京高裁第6刑事部(2審)で控訴棄却(裁判官は近藤隆蔵、吉田作穂、山岸薫)。

1955年(昭和30年)4月6日、最高裁大法廷(第3審)上告棄却(裁判官は田中耕太郎ら14名)。平沢の死刑が確定した。

平沢が逮捕されて以来、平沢の妻子と幼い孫は、世間からの心ない迫害と、マスコミの非常識な取材攻勢にさらされた[41]。平沢の家族は平沢姓を捨て、素性を隠して生きることを余儀なくされた(平沢貞通#家族)。

1962年(昭和37年)、作家の森川哲郎は「平沢貞通氏を救う会」を立ち上げ、平沢の無実を立証するための再審請求、死刑執行の阻止などの活動に取り組んだ。森川は趣意書(1962年6月28日)で「私たちの運動は、平沢貞通氏が白であるとか黒であるとか、個人や局部に限定された単純な運動ではない」「この運動は、自覚した民衆が立ち上がって、権力のおかした一つの誤判事件に抵抗していく過程の中で、民衆の意識の中に、自らの人権を確立し、民主主義を深く把握し成長させていくという意義をもっている」と政治的な意義を強調した[42]。平沢の家族は「救う会」の活動とは距離を置いた[43]

支援者らは、「平沢の供述は、拷問に近い平塚八兵衛の取り調べ[35]と、狂犬病予防接種副作用によるコルサコフ症候群後遺症としての精神疾患虚言症)によるものであり、供述の信憑性に問題がある」「大村徳三博士の鑑定によれば、死刑判決の決め手となった自白調書3通は、取調べに関与していない出射義夫検事が白紙に平沢の指紋を捺させたものである」などと主張して、裁判所に再審請求を17回、法務省に恩赦願を3回提出したが、その都度、却下された(<#自白をめぐる謎>)。

平沢の生前に行われた再審請求は18回におよぶが、第1回と第2回は平沢が獄中から単独で起こしたもので、第3回から第17回までは何とか平沢の死刑執行だけを阻止しようとして出されたもので平沢の無実を示す証拠はあまり提出されず、第18回は再審の管轄権がない東京地裁に提出してしまったため門前払いを受けた(遠藤2000[22],pp.452-453)。平沢の死後も第19回と第20回の再審請求が行われた。

1968年(昭和43年)に再審特例法案が国会に提出。この法案は、連合国軍領下の裁判で死刑が確定した死刑囚に再審の道を開くことを目的としたものであったが結果的に廃案。翌年以降、法案提出を契機として中央更生保護審査会により平沢ら7人の恩赦が審査されたが、拘禁性精神病にかかった受刑者などに無期懲役への減刑が行われたのみで、平沢のおかれた状況に変化はなかった[44]

名刺班だった居木井為五郎と平塚八兵衛、主任検事をつとめた高木一らは、後年のインタビューや手記等でも平沢クロ説を曲げなかった。

高木一は後年のインタビューで、「公判は、そうもめることもなかったのですか」という質問に対し、自信満々に「実態については、審理にたずさわった人は、誰も不審をもっていません。記録をみればわかりますが、傍証も、物証もあります。(犯人が帝銀事件の犯行現場に持参した)注射器具を入れたケースもありますし、薬物を茶わんに入れるとき使ったスポイトも、入手先はわかっているし、犯行のとき使った山口二郎の名刺も、印刷所はわかっています」と述べた(高木1981[7], p.182-p.183)。

居木井(1993年6月15日に87歳で死去)[45]は1986年に「俺は平沢が死刑になればいいと思ったことは一度もないよ。自分の手掛けた人間が死刑になるのは、とってもヤなことなんだよ」「かわいそうだけれどね。率直に言って平沢は犯人ですから・・・。私自身、平沢が冤罪じゃないかと心配になったことも、疑問を持ったことも、一度もありません」[46]と述べた。

一方、捜査二課で自称「秘密捜査班」だった成智英雄は、731部隊の軍医S説を公表した(<#真犯人として指摘されている人物>)。捜査一課係長で配下の名刺班に手を焼いた甲斐文助は、引退後の晩年、捜査の主流だった旧軍関係者筋の調査に関する膨大なメモ(『甲斐捜査手記』通称「甲斐メモ」)を民間にリークした[47]。「甲斐メモ」は1989年に平沢の支持者らが提起した第19次再審請求で新証拠として裁判所に提出されるなどしている。

かつて弁護人の正木亮が指摘したように、平沢が自分の無実を証明する方法は簡単だった。帝銀事件直後に預金した謎の大金の出所について、誰からいつもらったのか、真実をひとこと明かせば即座に冤罪を晴らすことができた。しかし平沢はそれを語らなかった。弁護士や支援者だけに内々に打ち明けることもできなかった。後年、平沢の長女はテレビ番組のインタビューで「(平沢が)シロにしろクロにしろね、あんだけ世間を騒がしたんですからね、やっぱり誰だっていい思いはしてませんよね・・・」と述べた[52]

最終的に、歴代法務大臣も死刑執行命令に署名しないまま[53]1987年(昭和62年)5月10日午前8時45分、平沢は肺炎を患い八王子医療刑務所で病死した。95歳没(平沢貞通#帝銀事件以後)。

平沢の死後も養子・平沢武彦[54]と支援者が名誉回復の為の再審請求を続け、1989年(平成元年)からは東京高等裁判所に第19次再審請求が行われていた。武彦は、糖尿病と躁鬱病をわずらい、また平沢の家族から疎んじられたことを悩み[55]、5回の自殺未遂を起こした末[56]、2013年(平成25年)10月1日に自宅で孤独死しているのを発見された[57]。この為、2013年12月2日付にて東京高等裁判所が「請求人死亡」を理由に第19次再審請求審理手続きを終了とする決定を下した[58]

2015年(平成27年)11月24日、平沢の遺族が第20次再審請求を東京高裁に申し立てた[59]

平沢冤罪説に立つ発達心理学者の浜田寿美男は「帝銀事件というと平沢さんの事件と言われていますが、実はそうではない」と述べ、帝銀事件本体と、平沢貞通が疑われて巻き込まれた「平沢事件」は別の事件と位置づけられる、と主張する[60]

帝銀事件(および2件の未遂事件)の犯人像について、

の2つがある。捜査本部の主流は前者で旧軍関係者を追っていたが、名刺班が逮捕したのは後者の平沢貞通だった。

捜査本部の主流は、犯人はプロという線で捜査を行った。平沢冤罪説論者は今も、平沢のような素人には犯行は無理で、真犯人はプロだと主張する。毒物は即効性の高い青酸カリでは、誰か1人でも先に内服して苦しめば犯罪は失敗するが、内服後1-2分の遅効性毒物であれば、疑われずに全員を殺害できる。この為、青酸ニトリルである可能性が高い。死体の吐瀉物が青くなる特徴があり検死結果でも確認済。

青酸ニトリルの液表層部に油を入れており犯人はうわずみ油を服用したものであると推測された。

犯人が帝国銀行椎名町支店で成功したのは偶然の結果にすぎず、未遂事件も含めて犯人の手口を子細に分析すると、巧妙さよりむしろあらが目立つ、という説。つまり、平沢のような素人が犯人であると考えても矛盾はない、という説である。

連合国軍の占領下で発生した帝銀事件の捜査にはGHQが大きく関与していた。その関与の度合いについては、

など、さまざまな説が今も主張されている。

1948年(昭和23年)10月29日に行われた帝銀事件捜査本部打上げ式において、田中栄一警視総監は「本事件に対してGHQ公安課の絶大な御協力を頂いた」との挨拶を述べ、同事件捜査本部長であった藤田次郎刑事部長も「本事件発生直後から逮捕に至るまで、また逮捕後においても、最高司令部公安課当局(PSD)の懇切な指導と援助を賜った」、「公安課のイートン主任警察行政官の指示で作成したモンタージュ写真が、平沢逮捕の上で有力な手がかりとなった」との内容の挨拶を述べている[64]。この式にはGHQ公安当局の担当者も出席しており、占領下で発生した帝銀事件の捜査にGHQが大きく関与していたことが窺える。

なお、名刺を悪用された松井蔚は太平洋戦争中、**南方軍**防疫給水部(岡9420部隊)に所属していたことが判明している[65]

平沢冤罪論者の一部(全部ではない)が主張し、帝銀事件関係の出版物や記事などでも人気がある説である。

介入説では、捜査本部は旧731部隊の関係者を洗っていたが、細菌兵器の情報を独占したいGHQが捜査本部に731部隊の捜査を中止するよう内々に命令した、そのため731部隊と関係のない平沢貞通が逮捕された、とする。作家の松本清張は『小説帝銀事件』や『日本の黒い霧』の中で、推理と想像を交えてGHQによる圧力や介入を描いた。清張の原作にもとづいて昭和期に作られた映画やドラマでは、あたかも事実であるようにそれらのシーンが描かれ、また平沢冤罪説論者の一部もGHQ介入説を主張したため、一般の認知度は高い。が、実際には、GHQが日本の警察に圧力をかけ旧軍関係者の捜査を打ち切らせたのかどうかは、下記のとおり確実な資料では確認できず、学界や法曹界での通説とはなっていない。

また、平沢の三女のボーイフレンドだった連合国軍のエリー軍曹は、平沢の家族の証言によると事件当日に平沢家を訪れており、平沢のアリバイを証言できたので、弁護側はエリーを証人として申請したが、裁判所はなぜか許さなかった[66]。これもGHQの圧力があったとする主張がある。

GHQの協力はあったが、介入や圧力はなかったとする説である。裁判所の公式見解(後述の「東京高等裁判所 昭和56年(お)1号 決定」参照)でもある。 当時の関係者の証言や一次資料によると、捜査本部は最後まで(平沢逮捕後もしばらくのあいだは)旧陸軍の特務機関筋の捜査を続けていたことが確認できる。

遺体解剖吐瀉物茶碗に残った液体分析は、東京大学慶応大学で行われたが、液体の保存状態が悪く、青酸化合物であることまでは分かったものの、東大の古畑種基と慶大の中舘久平の鑑定が食い違い、100%正確な鑑定結果は出ていない。

検視結果が東大と慶大で違った理由については諸説がある。平沢冤罪説・謀略説に立つ松本清張らは、使用毒物の正体を知られたくなかった国家やGHQが東大に秘密裏に圧力を加えたからだ、と推測する。いっぽう、医化学的にみれば、現場の警官が機転をきかせ赤みがかった遺体6体を東大に、黒ずんだ遺体6体を慶大に送ったため必然的に東大と慶大で検視結果が食い違ったにすぎず、何の不思議もない、という指摘もある。青酸カリも含めて、青酸化合物は被害者の胃液と反応することで毒性を発揮する。被害者の胃酸のpH(ペーハー)が正常値であればショック死して遺体は赤みがかり、胃酸のpHが低ければ窒息死して遺体は黒ずむ。東大は前者を検視し、慶大は後者を検視したため、結果も違ったとされる(中村2008[4]pp.54-63)。

平沢貞通に死刑を宣告した第一審判決書(昭和25年8月31日、東京地方裁判所刑事第9部)では、理系の専門家の意見も採用し、使用毒物を「青酸カリ」と認定した。犯人は第1薬として青酸カリを、第2薬として水を飲ませた、とされる。この判決は今もくつがえっていない。が、帝銀事件関係の本や記事では、青酸カリ説を疑う声が今も多い。

古畑は、帝銀事件の犯人が使ったのは「古い風化した青酸カリ」だったと推定した。被害者は嘔吐するなど純粋な青酸カリ中毒とは違った症状を見せた。その理由は、青酸カリの一部が空気と反応して炭酸カリになっていたためである(古畑1959[70]、pp.52-53)。

平沢冤罪論者の一部は、帝銀事件で使われた毒は日本陸軍が秘密裏に開発したアセトンシアノヒドリンという特殊な薬であり、毒とも軍とも関係がなかった平沢がこの毒薬を入手できたとは考えにくい、と主張する。以下、日本語では、アセトンシアノヒドリンは「アセトシアノヒドリン」、青酸ニトリルは「青酸ニトリール」など表記のゆれがあることに注意されたい。

当時、読売新聞の記者・竹内理一は、陸軍9研(登戸研究所)でアセトシアノヒドリン(青酸ニトリル)という薬を開発していた事実を突き止めた。竹内によると、

この薬は防諜名ニトリールといい、昭和十七年ごろ神奈川県稲田登戸にあった当時の陸軍第九研究所二課T大尉によって発明されたもので、この薬の特色は、青酸系毒物としては、効き目が遅い点にあった。致死量二cc(ニトリール分のみ)で大体服用後三分から七分の間に倒れるようになっている。薬物の使用目的は大量毒殺、集団自決などが主であった。いずれも先に倒れるものがてて、あとのものがおじけづかぬよう考えられたものである。さらにこの薬の特色は、服用後は胃の中で青酸分のみが分離するため、青酸分は検出できるが、ほかの薬は反応がないという。つまり、青酸反応が認められ、青酸系毒物とはわかるが、それから先はわからないという点にある。(竹内1957 [77], p.29)死亡直前に苦しんで吐く吐しゃ物が青い液体になるという特徴があり、現場状況に酷似している。

しかし突如、警察の捜査が731部隊から大きく離れた時点で[78]、報道も取材の方向を転換せざるをえない状況になり、731部隊に関する取材を停止した。 後年、GHQの機密文書が公開され、1985年(昭和60年)、読売新聞で以下の事実が報道された[79]

ただし、アセトンシアノヒドリンであっても事件の経緯からすると謎が残る(少なくとも5分は経過していると思われる)。もし効能や致死量を熟知したプロの犯行なら、生存者を4人も出すという失敗(事件発覚時の生存者は前述のとおり6人)を犯した理由を説明する必要がある(生存者が証言者になることはわかりきっている。もしアセトンシアノヒドリンなら、犯人は致死量を余裕で超える量を投与して全員を毒殺できたはずである)。

余談ながら、アセトシアノヒドリン説・平沢シロ説を追い続けた読売新聞の竹内理一記者は、帝銀事件のあとの1948年11月、生き残った4人のうちの1人であるMと結婚した(Mは竹内姓に改姓)[81]。事件の当日、犯人の顔を正面から見たMは、法廷でも、平沢を犯人とは思えない、と証言した。Mの証言は夫の仕事とも夫の論拠とも無関係であったが、高木一検事や世間は、Mの否定的証言は夫の影響にちがいない、とあらぬ疑いをかけた[82]

竹内理一は平沢冤罪説を主張したが、その竹内さえ以下のように述べている。「私はだからといって平沢が〝白〟だともいい切れないのである。平沢と松井名刺との結びつき、事件後の平沢の行動、はっきりしない金の入手先など、平沢をめぐるモヤモヤとしたものは私にも説明がつかない」「不思議な毒薬や、巧妙なトリック、毒殺部隊などというのは探偵趣味ごのみの新聞記者が勝手に描いた幻想かも知れない」(竹内1957 [77], p.31)。

捜査本部が旧軍関係者を中心に調べていた1948年4月、伴繁雄(登戸研究所の関係者)は捜査員に対し、過去に自分が行った人体実験をふまえ「青酸カリとは思えない。絶対ニトリールである」と述べたとされる[83]。ただし法廷での証言では、伴は専門家として、毒物は青酸カリだったと断言している。

昭和24年(1949)12月19日の証人尋問で、伴は毒物科学捜査会議の結論について「毒物は、純度の比較的悪い工業用青酸カリで、入手の比較的容易な一般市販の工業用青酸カリであると断定しました」と述べ、裁判長から「本件毒物がアセトンシアンヒドリンとは考えられないか」と念をおされると、伴は「アセトンシアンヒドリンは無色無味無臭で水と同じのため、犯人が飲ませる際に飲み方について説明する必要はないはず」と答えた(証人訊問調書)。

登戸研究所で青酸ニトリール開発主任だった土方博は、すでに1948年6月22日の時点で捜査員に対し「嘔吐することは青酸カリでもニトリールでも普通である。青酸カリは苛性ソーダのような刺激の味があるので、帝銀事件で呑ませたとすれば、味から言って、青酸カリではないかと思う。ニトリールは青臭い臭いはするが味はない。ニトリールの症状はカリよりも症状を出すのが遅い」と証言している[84]

次にあがったのが、安定した(人間に毒性を持たない)シアン化物(シアン配糖体)と、その成分を毒性化する酵素の2薬を使用した、バイナリー方式と言うもので、ジャーナリスト吉永春子が自著の中で言及した。シアン配糖体は身近な食用植物に含まれている。また、これにより発生するのはシアン化水素で、体内の分と結びつくことでシアン化水素水溶液となる。このシアン化水素は一般に入手可能なシアン化化合物より遥かに毒性が強い。

この吉永の説は、従来の731部隊犯説を大きく覆すもので、一定の説得力があった。犯人が第1薬を平然と飲んだこと、他に失敗した例があること、後にアメリカ軍がこれを研究し実用化の段階まで進めていること、などである。

吉永の主張は、「731部隊とは直接関係がないアメリカ軍による人体実験である」、というものだった。実際、日本ではこの分野の化学兵器研究は行われておらず、酵素の研究が進んだのは戦後のことである。

ただし、この説でも、この時点では酵素の研究がそこまで進んでいたのか、人体内での反応が安定して起きるのか、容器に使われた茶碗からは青酸化合物が検出されていない理由はどうなるのか、もし人体実験のデータ収集が目的ならなぜわざわざ都内の市街地という目立つ場所を選んだのか、などさまざまな疑問が残る。

共産党の志賀義雄が1962年に国会の法務委員会で主張した説である。志賀は、1948年の帝銀事件と、1958年に南ベトナムで起きたフーロイ収容所虐殺事件(ベトナム戦争#反政府勢力の掃討作戦)で使われた毒薬は同一で「青酸カリによく似ておるが、青酸カリでない、新しいものであり、それは石井部隊(731部隊)によって作成され」たものだ、と述べた[85]

帝銀事件再審弁護団に第19次の時から参加した弁護士の渡邉良平は、犯人が使用した第1薬と第2薬の組み合わせについて、

の諸説を挙げて説明したうえで「弁護側としては,これが間違いなく犯行毒物だといえる毒物は,少なくとも現段階の証拠ではいえない」ものの「弁護団としては青酸カリと水だというこの判決認定は,これ自体は間違いだと確信しています」と根拠を挙げて述べている[86]

渡邉によると、帝銀事件の死亡者の血中青酸濃度が異常に高かったことから、帝銀事件で使用された毒物は青酸カリではなく、青酸イオンが分離しやすい特殊な青酸化合物ないし特殊な手法であった可能性がある。再審弁護団は、専門家の協力を得てブタによる動物実験を行い、帝銀事件の使用毒物は青酸カリではなかったという医学的分析をふまえた鑑定書を、第20次再審請求の新証拠として準備中である[87]

平沢冤罪説では、さまざまな真犯人像が語られてきた。ただし「平沢貞通氏を救う会」の平沢武彦(平沢貞通の養子)は「真犯人説を追いかけるのは、もう一つの冤罪を生む」と戒めた[88]。以下、今まで語られてきた真犯人説の一部を掲げる。

「私は事件が起こってすぐ、二月一日から藤田刑事部長直属の特命捜査官で、課長にもその捜査内容を報告しなかった。従って、私の報告書は一枚も残されていないはずである。いま私が持っている捜査記録が、唯一のものである。(中略)私は軍関係の佐官クラス以上の者約三百人と対談している。その誰もが、犯人はいろいろな面からみて、軍関係者以外にはいないと断言した。」(成智1969[94],pp.71-72)
「アリバイその他で、犯人と認められる者は、結局、医博S軍医中佐(当時51)ただ一人となった。(中略)ところが中佐は昭和二十四年に死亡。けっきょく死人に口なし。」(※Sは原文では姓のみの実名表記)(成智1969[94],p.67)

平沢は1948年8月21日に逮捕後、警視庁での送致前の取り調べでいったん自白(幻の自白)、送致後の検事による取り調べでは当初は否認、後に自白、後に再度の否認、と二転三転した。

  1. 幻の自白:8月23日夜、東京に到着して最初の夜の、送致前の取り調べで、平沢は犯行を自白したとされる。最初、平沢は、謎の大金の入手先について次々と嘘を並べたてた。担当刑事の居木井為五郎は、事前に綿密に調査していたので、嘘は全て通用しなかった。平沢は観念し「何とも恐れ入りました。申訳ありません。帝銀の犯行は私であります。御手数かけて申訳ありませんでした。本日は長旅でもあり疲れたので詳細は後に述べさして頂きたい」と自白した(居木井1955c [16], p.29)。が、その直後に居木井らがはずされ、検事が直接に取り調べるという前例のない事態になったため、これは幻の自白になってしまった。
  2. 送致後に否認:検事の高木一による取り調べを受けた平沢貞通は、当初、帝銀事件および2つの未遂事件について自分が犯人であることを否認した。しかし、自分が偽名で預金した謎の大金の出所を、高木に説明できなかった。
  3. 自白の開始:1948年(昭和23年)9月23日から自供を始め、自分の犯行だと認めた。最後に10月8日と10月9日の両日、高木の上司であった検事の出射義夫(いでい・よしお)が取り調べを行い、調書を取った。
  4. 再度の否認:裁判開始の直前、平沢は自白を撤回し、再び否認に転じた。本人は「確か11月28日、18日かな、確か8がついた筈ですが、やっと催眠術から醒めたのです」(内村・吉益鑑定の聞き取り)と述べている。裁判の開始後も平沢は否認を続け、死刑確定後も自分は冤罪であると主張した。

後に、平沢の弁護団は、高木による取り調べは拷問に近いもので、平沢の自白は強要ないし誘導されたもので証拠能力はなく、出射義夫による検面調書(検察官面前調書。検察官の目の前で被疑者がサインをした供述調書)は捏造であると主張したが、裁判所は棄却した[96]
以下、否認→自白→再度の否認、の流れを時系列順に示す。

この日本堂事件については、平沢は後年も自白を撤回せず、平沢冤罪論者も平沢の犯行と認めている。

ニュースを知った練達の裁判官たちは異口同音に「高木君が自白させたのか。それならまちがいない。彼は決して無理な調べをする男じゃないからなあ」と述べた(出射1986[8], pp.254-255)。

その後、平沢に対して、UPI通信社のベテラン特派員であるアーネスト・ホーブレクトが、同僚のイアン・ムツとともに約1時間にわたる独占インタビューを行った。平沢が警察から手ひどい扱いを受けた徴候は認められず、平沢の手つきはしっかりしていた。(平沢は拘留中の自殺未遂で自分の手を傷つけていた)。平沢は英語で「警察は自分を礼儀正しく扱い、自白を引き出そうとして拷問的手段を用いるようなこともなかった」と強調し、自分を取り調べた検事の高木一を「ハイエストクラス・ジェントルマン」と賞賛した。米国人記者が見た平沢は「取調べを受けている係官たちとは、きわめて友好的な関係にあるように思われた」。ホーブレクトによる記事は「ニホンタイムス」紙(現「ジャパンタイムズ」)の一面を飾った(トリプレット1987 [67] p.50-p.53)。

平沢は第60回調書(1948年10月8日)の中でも検事の出射義夫に対し「先日UPIの記者が検事の調べがひどいのではないかと言って来た事がありますが私は断じてそうではない。高木検事は『ハイエストクラスジェントルマン』であると答えました。私は高木検事を心の友と思ってるぐらいであります」(森川1977[17], p160)と陳述した。

平沢の精神鑑定書には「警視庁看守係巡査の動静報告書によると、平沢の精神状態は全部自白した後には前と比べて明瞭に平静となり、熟睡していることが認められる。/これなども真実を告白した場合と異るところがない」(福島・中田・小木 2018[18], p.321)とある。

平沢は移送の車中の中で、同乗した捜査本部の鈴木清に対し「私は、居木井さんたちに捕ったお陰で、真人間になることが出来ました」「自分の手にかかって死んだ12名の帝銀の犠牲者に仏画を描いて差し上げ、冥福を祈り、お詫びしたいと思います」云々と述べ、心から改悛した様子を見せた。鈴木は捜査本部では旧軍関係者捜査班の主任だったが、平沢が真犯人だと確信した(鈴木1974[98], p.142)。

出射は熱心なクリスチャンで、戦時中は聴訴室を開設し民衆の直訴や相談を受け付けるなどリベラルを貫いた法曹であった。出射は、第一審の公判中に書いた文章「帝銀事件の問題点」(出射1986[8], pp.220-235)で次のように述べている。

(引用開始)その年の十月中旬(正しくは上旬。出射の記憶違い)、私は平沢を逮捕して以来の高木検事の取調べをもう一度白紙の立場から検討するつもりで、小菅刑務所に出かけて行った。(中略)

「高木君は無理な調べをしたかね」

「高木さんは紳士です。私の友達です。留置中に進駐軍の人が来て、調べに無理はないかと言ったので、高木さんはゼントルマンだと言ってやりました」(中略)

まだ電燈をともすほどではなかったが、調書を取り終わって、平沢貞通と達筆に署名した頃には、秋の夕暮の気配が社会から隔離されているこの部屋にも忍び入って、私の前に腰かけている一個の人間に対し無限の哀愁の情を唆るのである。(中略)

私が十月という秋の感傷にふけっているのに、平沢は実に何ごともなかったかのごとく、またこれから何ごとも起こらないかのごとく平然としているのである。彼は犯した罪業に恐れ戦くか、または冤罪であれば七転八倒の思いがあってしかるべきであるのに、何らの感動を示さないのである。実に不思議な男である。(引用終了)

敬虔なキリスト教徒だった出射は「帝銀事件の問題点」の中で、神ならぬ法曹が、目の前の人間が犯人か冤罪かを見極める本質的な難しさを述べ、「私が問題にしたいのは、人を裁くことがいかにむずかしい仕事であるかということである」(出射1986[8], p.235)「判決はしょせんは人間のわざなのである」(同前)と正直に語った。

平沢の弁護人で弁護士の山田義夫は、小菅拘置所に移管されてから1週間目の平沢の様子を「上告趣意書」で次のように述べた[99]

(引用開始)小菅入りをして一週間目に平沢は面会に行った私に、最初は「私は犯人でありません」と言った。「それにしても細かい事を答えるぢやないか」という私に答えて、「教えられれば何でも答えられます」と言った。次いで「しかし私は今は結構たのしいのですよ。夜になると仏様が毎晩来て歌の遊びをしているのです。私はもう現し身でなくて仏身なのです。だからたのまれれば何にでもなりますよ、帝銀犯人にでも何にでもなりますよ」と言った。その瞬間たちまち彼は犯人になったらしい。眼を光らせて「私は帝銀犯人だ」と言った。「さっきの話と大分ちがうようだが」と言う私に、「いいえ私がやりました、荏原も椎名町もやったんです」と断言した。その怪しい無気味な彼の目付きから、私は彼は狂っていると直観した。こんな風じゃ何を聞いても駄目だと、何かまだ聞こうとする高橋弁護人を押し止めて、今少し落付かせよと言って引揚げてしまった。(引用終了)

以後、平沢は獄死するまで、帝銀事件の犯行は自分ではないと無実を主張し続けた[100]

ノンフィクション

エッセイ

小説

ニュース映像

以下の映像は「NHK戦争証言アーカイブズ」の「ニュース映像」で視聴できる。

映画

テレビドラマ

ドキュメンタリー番組

  1. ^ 被害金額は、東京地裁の第1審判決書(昭和25年<1950年>8月31日)による。
  2. ^ 琺瑯質(ほうろうしつ)は「エナメル質」のこと。後藤仁敏「琺瑯質かエナメル質か、間葉性エナメル質かエナメロイドか」『鶴見大学紀要. 第3部保育・歯科衛生編』第51号、鶴見大学、2014年3月、71-86頁、doi:10.24791/00000109ISSN 0389-8024NAID 120006549053。 によると、1950年以前、つまり帝銀事件が起きたころの日本語では「琺瑯質」が一般的であった。「エナメル質」という言葉が広まったのは帝銀事件のあとの1950年代からで、特に藤田恒太郎著『歯の組織学』(1957年<昭和32年>刊)の影響が大きかった。ただし、東京歯科大学だけは「琺瑯質」を1994年(平成6年)まで使い続けた。ネットなどで流布している俗説「琺瑯質という歯科用語は、現在の東京歯科大学とその前身の東京歯科医専の出身者しか使わない特殊な用語で、これは真犯人が東京歯科医専の系統の歯科医である証拠」は誤り。
  3. ^ a b c d e f g 佐々木嘉信(著)・平塚八兵衛(述)『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』(新潮文庫、2004年。原著は1975年刊)
  4. ^ a b c d 中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』(東京図書出版会,2008)ISBN 978-4862232755
  5. ^ 帝銀事件の裁判で平沢貞通に死刑判決をくだした裁判官・江里口清雄によると、この巡査は「交番の若い教習所を出たばかりのおまわりさん」だった。自称「厚生技官」の犯人が行員らに薬を飲ませようとしたまさにその時、この若い警官がきて「赤痢がどこに出たのですか」と聞いた。すると犯人は「そんなことを警察が知らぬようじゃしょうがないじゃないか」云々と警官を怒鳴りつけた。若い警官は恐縮し、敬礼して出て行った。それを見た行員らは、それまで疑いの気持ちをもっていたのに、警官の態度を見て、てっきり本物の厚生技官であると信用してしまった。江里口清雄は「この警察官は意識しない犯罪幇助」を犯してしまったと述べ「事実の中には全く頭などでは考えられない、小説家でもちょっと思いつかないような事実があるのであります」と評した。また江里口は、この時は犯人の薬が非常に薄かったため効き目がなく未遂に終わったこと、1人だけ最後まで犯人を疑い薬を飲むふりだけして飲まなかった者がいたこと、もし犯人の毒薬が濃く死者が出ていたら毒を飲んだふりをした者がいたため失敗していたはずであることも述べている。出典:江里口清雄「法廷における弁護活動」、日本弁護士連合会編『特別研修叢書 昭和41年度上巻』pp.128-129 (国会図書館 永続的識別子 info:ndljp/pid/3454264)
  6. ^ 現行の刑事訴訟法は、帝銀事件発生の半年後、1948年(昭和23年)7月10日に公布され、容疑者の裁判が始まったあとの1949年(昭和24年)1月1日から施行された。
  7. ^ a b c d e f g 高木一(たかぎ・はじめ)「帝銀事件と白鳥事件」、野村二郎『法曹あの頃(下)』(日評選書、1981年)pp.176-190
  8. ^ a b c d 出射義夫(いでい・よしお 1908年-1984年)『検事の控室』(中公文庫、1986年)。pp.220-235に「帝銀事件の問題点」を収録。
  9. ^ 「第2回国会 衆議院 本会議 第13号 昭和23年2月2日」006 鈴木義男 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100205254X01319480202/6
  10. ^ 帝銀事件の捜査線上に浮かんだ容疑者は約5800名にも及んだ(高木1981、p.179)。平沢は、帝銀事件の犯人の人相と似ていたため、比較的早い段階で捜査の対象になったものの、有力容疑者にはなっていなかった。1948年8月18日、平塚八兵衛が話をきくため平沢の長女の勤め先に行くと、初対面の長女は「また、調べられるのですか」と言って急に泣き出し、平塚を驚かせた。以前、平塚とは別の刑事が聞き込みに来たことがあり、長女は、もし父が本当に犯人だったら、と気をもんでいたためであった。出典:『刑事一代』新潮文庫版、pp.120-123
  11. ^ この人相書を描いたのは、浅草の絵師・海老根駿堂である。海老根を捜査本部に推薦したのは、かねがね彼の腕前を認めていたGHQの警察司政長官ヘンリー・イートンだった。海老根は2件の未遂事件と帝銀事件の目撃者に会い「英語を話す男」「温和な風貌」「何か仕事に疲れでもしたドンヨリした眼つき」などの証言も参考にして犯人の似顔絵をかきあげた。この人相書は捜査に大いに役だった。のちに容疑者として平沢「画伯」が浮上すると、海老根は同じく絵をなりわいとする者としてショックを受けた。彼は、自分の人相書があっているかどうかを確かめるため、上野駅に行き、護送されてきた平沢の顔を見た。おとがいの尖りが海老根の思っていたより強い角度だったこと以外は、人相書とだいたい同じだったので、海老根は安心した。出典:矢田喜美雄「帝銀事件余聞 人相書を描いた絵師の話」、『週刊朝日』増刊・炉昭和24年(1949年)7月1日号, pp.92-98
  12. ^ 居木井為五郎「帝銀事件 捜査記録(上)」、『旭の友 9(4)(105)』(長野県警察本部警務部教養課、1955年4月)pp.24-36 (国会図書館・永続的識別子: info:ndljp/pid/2632162 )
  13. ^ 『週刊新潮』昭和60年(1985年)5月23日号で、居木井為五郎は当時を回想し「捜査本部は七三一部隊に的を絞っていたために全然相手にしてくれない。最後には『お前は気が違ったんじゃないか』とまで面罵されましたよ」「藤田刑事部長が、平沢逮捕の断を下してくれた」と語っている。
  14. ^ 藤田次郎と東大で同期だった検事の高木一の証言によると、当時の藤田は「困ったことになった」と話し、平沢逮捕に踏み切った背景について「とにかく決着をつけねばならない状態でした。捜査は純粋なものだし、きちんと始末をつけ、それから前進しようといって、結局、居木井君を北海道に二度目に行かせた折に平沢を逮捕することになりました。/逮捕する段階でも、シロともクロとも断定したわけではありません」と述べている(野村二郎『法曹あの頃(下)』p.179)
  15. ^ 「第2回国会 参議院 司法委員会 閉会後第1号 昭和23年9月13日」「003 田中榮一」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100214390X00119480913/3
  16. ^ a b c d 居木井為五郎「帝銀事件 捜査記録(下)」、『旭の友 9(6)(107)』(長野県警察本部警務部教養課、1955年4月)pp.20-31 (国会図書館・永続的識別子: info:ndljp/pid/2632164 )
  17. ^ a b c d 森川哲郎『獄中一万日 追跡帝銀事件』図書出版社、1977年1月20日刊 ISBN 978-4809900358
  18. ^ a b c 福島章・中田修・小木貞孝編『日本の精神鑑定 : 重要事件25の鑑定書と解説1936-1994』(増補新版、みすず書房、2018年)。同書p.267-p.332の内村祐之・吉益脩夫「帝銀事件」は、内村祐之、吉益脩夫「脱髄脳炎後の空想虚言症とその刑事責任能力について」『精神神経学雑誌』第59巻第5号、日本精神神経学会、1957年5月、ISSN 00332658NAID 40017966715。 の主要部分を転載したものである。
  19. ^ 正木亮は法廷弁論の中で、平沢を「実に嘘つきであります」と批判し、平沢が疑惑の預金の出所について「この点さえ真実を述べれば事件は寸刻を出でずして片付くのであります」「本当に本件に関係のない金なら弁護人にだけはそっと知らして呉れたらよさそうなものである」と不満を述べつつ、「もしも平沢貞通が大正十四年に狂犬病の予防注射を打つことがなかったならば不幸なるコルサコフ病に罹ることもなく、また今日のような嘘つきにもならなかったのであるとされております」「(平沢に)嘘つきだという悪名をかぶせはしますけれども、証拠のはっきりしないものを死刑にすることはよくないということに気がつくようになりました」と弁護した。出典: 正木亮『死刑 消えゆく最後の野蛮』(日本評論社、昭和39年)p.111-p.125。なお正木は、平沢の死刑確定後の1955年(昭和30年)7月14日、国会で「私は心証から申しますと、平沢貞通が真犯人じゃないかと思っておるのであります」と述べた。出典: 「第22回国会 参議院 法務委員会 第15号 昭和30年7月14日」「021 正木亮」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/102215206X01519550714/21
  20. ^ 佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』(批評社、2002年)
  21. ^ 平沢武彦「小樽で平沢貞通氏の春画発見!」 https://www.gasho.net/teigin-case/jiken/shunga/shunga.htm 2021年6月30日閲覧
  22. ^ a b c d 遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』(現代書館、2000年)。遠藤誠『帝銀事件と平沢貞通氏』(三一書房、1987年)の増補改訂版。
  23. ^ 松本清張『小説帝銀事件』では、春画を描いたことがわかれば平沢の画家としての名声は地に落ちることになるからあえて否定したのではないかと、主人公が推測する場面がある。ただ、もしそうなら、「殺人犯の家族」という汚名に苦しむ家族の懇願をはねつけてまでなぜ平沢は「画家の名声」にこだわったのかを合理的に説明する必要がでてくる(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』)。実際、大量殺人犯の汚名は春画どころではなく平沢のそれまでの画業は抹殺された(平沢貞通#エピソード)。なお2000年(平成12年)には北海道小樽市と神奈川県横浜市でそれぞれ平沢のものと鑑定[_誰?_]された春画が発見されている(詳細は「救う会」HPの「小樽で平沢貞通氏の春画発見!」を参照)。ただし、これらの春画に平沢の署名はなく、いつ誰が誰からいくらで買ったのか、も立証できていない。そもそもこのていどの春画が、戦争直後の、裁判所の判事すら餓死するほどの経済難の時代に高い値段で売れたとは考えにくい、とする意見もある(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』)。
  24. ^ 土地ではなく土地である。鑑識捜査の「鑑」を含む「土地鑑」は司法用語で、その土地をよく知っていて周辺の地理に詳しいという意味である。これに対して、あてずっぽうでなんとなくわかるという意味の「勘」を含む「土地勘」は、はじめてその土地に行ってもどこに何がありそうかなんとなくわかる、と全く違う意味になってしまう。帝銀事件関係の一次資料の表記は、司法用語の「土地鑑」(鑑識捜査の鑑)で統一されている。一方、マスコミやネット記事ではこれを誤って「土地勘」(勘が鋭い、の勘)と書きかえてしまうことが多いので、要注意である。参考記事 日本語研究室 - 言葉の雑学その2 ~土地カンで捜査のプロがカンカン!?~ 閲覧日2022年5月7日
  25. ^ 「シリーズ人間121 死刑囚 平沢貞通の妻」、『女性自身』昭和44年(1969年)9月27日号、pp.50-58
  26. ^ 平沢の逮捕・送致後の取り調べは、当時37歳の検事・高木一(東大法科卒。捜査本部の藤田次郎刑事部長と東大で同期)が独占的に行った。高木は、現場で犯人が取った行動が容疑者の性格・知識・能力が合致するかどうか「犯人適格」をいろいろ検査した。椎名町支店の犯人は誰か欠けていては困るので全員を集めるとき「オール・メンバー・カム・ヒア」と言ったが、これは平沢が自宅の朝食で家族を呼び集めるときの口ぐせだった。中井での未遂事件の犯人は企業名「井華」(せいか)を「いか」と誤読していたが平沢も「いか」と誤読した。高木は後年の回想で「これらは一つの例にすぎませんけど、こうしたテストを積み重ねると、犯人の適格性が出てくるんですね」と述べている。出典:野村二郎『法曹あの頃(下)』(日評選書、1981年)p.180-p.181。
  27. ^ 新潮文庫版『刑事一代』p.147。なお、平沢の妻は自著『愛憎を越えて―宿命の妻・平沢マサの手記』の中で「帝銀事件以後のこの伊豆行について、当局(警察や検察)では犯罪の逃避と単純に決めてしまつていますが、彼の伊豆で得たこの物静かな手堅い二つの作品(平沢が描いた絵を指す)は何よりも如実に彼の身の潔白を物語つて居ります。作品の巧拙は問題外として、生命と人格とを傾けて描いた画面に虚偽(いつわり)があろうはずはありません。又激情と恐怖の中では、しかも二日という短い時間では到底できない作品です。この静かな画面に向つて一瞬でも彼(平沢)を疑うことが出来るでしようか」と夫を擁護した。後年「平沢貞通氏を救う会」も同様の主張をしている。平塚八兵衛は、もし平沢が犯人なら事件後にあんな素晴らしい絵を描けるはずがない、もし犯人ならもっと絵ににごりがあるはずだ、という見解を「哲学者みてえなこと」「命がけでやってきた捜査をそんなことで簡単に決めつけられちゃあ、話にもならねえ」と一蹴した。出典:新潮文庫版『刑事一代』p.151。
  28. ^ https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100214390X00119480913/3
  29. ^ a b c d 居木井為五郎「帝銀事件 捜査記録(中)」、『旭の友 9(5)(106)』(長野県警察本部警務部教養課、1955年4月)pp.18-27 (国会図書館・永続的識別子: info:ndljp/pid/2632163 )
  30. ^ 平沢クロ説の立役者となった名刺班の居木井為五郎警部補(役職は当時)は「昭和二十三年八月二十三日、平沢を逮捕して東京へ帰ってきてからだって捜査本部の空気はまったく冷たいもんでね。堀崎一課長は、〝今日中に自白すれば留置するが、しなければ釈放だ〟っていうんだ。自白なんか、させられねえだろうって腹があったんだろうな」と、平沢逮捕直後も捜査本部の主流は平沢シロ説だったことを打ち明けている(『週刊新潮』昭和60年5月23日号)。平沢の逮捕後、捜査一課の甲斐文助係長(平沢貞通の再審弁護団が重視する『甲斐捜査手記』通称「甲斐メモ」の作者)が車のなかで「課長さん申し訳ない。気違いヤローらがよけいな者(平沢のこと)を引っぱってきて、人騒がせさせて・・・・・・」と謝り、同乗していた「気違いヤロー」こと平塚八兵衛と乱闘寸前になる一幕もあった。この係長も、のちにぬけぬけと平沢逮捕の功績にあずかった(『刑事一代』新潮文庫版、p.152-p.153)
  31. ^ 実は、詐欺未遂事件にあった日本堂時計店は、早い段階で警察に対し、未遂事件の犯人の人相が帝銀事件の手配書と同じであると通報していた。刑事が日本堂時計店の詐欺未遂事件を調べ、その報告書を捜査本部にあげていた。しかし捜査一課の係長は、報告書を机の中にしまいこみ、すっかり忘れていた。平沢の逮捕後、その報告書が机の中から出てきて、係長は立場を失った。出典:新潮文庫版『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』p.148
  32. ^ 「東京高等裁判所 昭和56年(お)1号 決定」に「以上の目撃者の供述を通じて、犯人と直接応待し、数分あるいはそれ以上犯人と話をし、充分その特徴を把握する機会があったと認められる者、すなわち、安田銀行荏原支店長W(原文では実名)、同事件の際同支店に立ち寄った警察官I(原文では実名)、三菱銀行中井支店長O(原文では実名)、帝国銀行椎名町支店長代理Y(原文では実名)が、いずれも犯人は請求人である旨その同一性を確認する供述をしていることに留意すべきである。」とある。ちなみに警察官Iは、9月23日の取り調べで平沢の顔を見て高木一検事に「間違いありませぬ」と耳打ちして退席したが、平沢はこの日から自白を始めた。平沢の弁護人だった正木亮は、平沢の眼前で「間違いありませぬ」と耳打ちさせるこのような首実検のやりかたは平沢に心理的圧力をかけるデモンストレーションにほかならない、と批判した(正木亮『死刑 消えゆく最後の野蛮』昭和39年<1964年>、pp.115-116)。
  33. ^ 生き残りの1人M(結婚後はT姓。出典原文では実名)は「犯人が私たちに薬を飲ませる前、約10分ぐらいY支店長代理(出典原文では実名)は、犯人と話をしていました」「とにかくこんな調子で10分近くYさんは話をしているんです。決して一方的に、無条件に犯人に命令されて薬を飲んだのではなくて、一応疑って色々聞いて、そして納得して飲むことになったというのが、真相なんです」と述べている。出典:「なぜ行員たちは乾杯するように毒を飲んでしまったのか――生存者が語った"帝銀事件"の悪夢「平沢は犯人と思えません」
  34. ^ T(原書では実名)は後年の回想で、今も確信が揺らいでいないこと、同僚だった証言者M(旧姓。原書では実名表記)の否定的見解については「でも、まあ、みんな違う方向から犯人を見たわけですからね」と述べた(ウイリアム・トリプレット著、西岡公・訳『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』1987年、p.159)。
  35. ^ a b 平塚八兵衛らが取り調べをしたともされるが、平塚八兵衛自身の証言によると、彼は平沢の取り調べはしていない。「傍流」にすぎなかった名刺班が、捜査本部の方針とは別に平沢を逮捕して大きなニュースとなったため、警察内部の嫉妬と反発を買った。平塚逮捕後も捜査本部はシロ説が主流であり、警視庁は、居木井為五郎と平塚を含む名刺班の4人に対して、北海道への出張の疲れをとるため自宅で休養するように、という口実で、事実上の謹慎処分をくだした。平塚らは平沢の送致後、取り調べからはずされ、最初から検事だけが取り調べるという前例のない事態になった。のみならず、ある警察幹部は平沢逮捕後も「平沢シロ説」を立証するため刑事を北海道に派遣するなど、捜査内部の対立はのちのちまで続いた(『刑事一代』新潮文庫版、2004年)。平沢の取り調べを担当した検事の高木一も、平沢はクロと信ずる者が捜査するとクロの捜査資料しかもってこない懸念があるため「居木井君の班は、平沢逮捕後は捜査班からはずし」たと述べている(『法曹あの頃(下)』P.179)。高木一は後年「平沢が警察の留置場に勾留されていた最初の四八時間は、居木井刑事が取り調べを行った。その後、検察当局が身柄の管理を引き継いでからは、高木みずからが取り調べにあたった」と証言している(ウイリアム・トリプレット(著)、西岡公 (訳)『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』1987年、p.186)。
  36. ^ 平沢側は裁判で、取り調べが拷問に近かったと主張した。最高裁判所は聴取書を精査したうえでこの主張を退け、判決文(最高裁判所大法廷「昭和26(れ)2518」判決。昭和30年4月6日)の中で「論旨摘録の各聴取書に記載されたような検事の取調が行われたことは、認めることができるが、所論引用の聴取書によってその経過を委しく調べてみても、これをもって強制拷問とはいえないのみならず、また他に特別な強制手段を行ったという形跡も認めることはできない」と述べた。なお、裁判が始まる前は、平沢自身が拷問はなかったと述べていた。また当時の調取書にも(当然のことながら)「拷問に近い取り調べを行った」とは書いていない。平沢の逮捕後、取り調べを行った検事の高木一は、公正を期すため平沢クロ説で固まった居木井為五郎の班(名刺班。平塚八兵衛もいた)を取り調べからはずし平沢シロ説をとる者に全力捜査をさせたこと、平沢の取り調べに際し本人・家族・弁護士に「弁解、反駁があればいいなさい」と話したがシロの材料は出ずクロの材料ばかり出てきたこと、「途中で、自殺未遂みたいなこともありましたが、そのときの状況も、署名はしないけれど、全部そのまま調書にしました。自殺しようとしたのが芝居であるか、本当に自殺しようとしたのかも判定しなければなりませんから・・・・・・。」と取り調べの様子は全て調書に書いたこと、を述べている(野村二郎『法曹あの頃(下)』)。
  37. ^ 「第2回国会 参議院 司法委員会 閉会後第1号 昭和23年9月13日」「022 堀崎繁喜」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100214390X00119480913/22
  38. ^ 平沢マサ『愛憎を越えて―宿命の妻・平沢マサの手記』(都書房、1949年)
  39. ^ 野村二郎「日本の裁判史を読む事典」(自由国民社)
  40. ^ 「第22回国会 参議院 法務委員会 第2号 昭和30年3月31日」「084 江里口清雄」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/102215206X00219550331/84
  41. ^ 平沢の三女は、平沢自供報道直後、雑誌『家庭生活』1948年(昭和23年)11月号に「帝銀容疑者平沢画伯を父にもった娘の手記」を寄稿し、すさまじい迫害を受ける家族の苦しみを訴えた。
  42. ^帝銀事件ホームページ」の中の「平沢貞通氏を救う会趣意書 1962年6月28日 森川哲郎事務局長記」。ちなみに北芝健『ニッポン犯罪狂時代』 (扶桑社、2009年) によると、「救う会」のある有名な弁護士(原文では実名)はプライベートな場で「(平沢貞通が)白でも黒でもかまわんよ」「国家という巨大でまがまがしい存在に対抗するには、この平沢の事件は非常にいいネタなんだ」云々と述べたという。
  43. ^ 平沢の次女は「『平沢貞通を救う会』(自分の実父なので「氏」を抜く)が父を救うなどと言っているため、父がいつまでも本当のことを言わない、そのため家族はいつまでも苦しまねばならない」と不満を述べ、また「救う会」が帝銀偽証事件を起こした時も「自分は黒を白と言ってまで父を助けてもらおうとは思わない」と語った(佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』、p.50)。ジャーナリストのウイリアム・トリプレットは「『救う会』が平沢の娘たちから、沈黙ではなく支持を取りつけることができていたら、『救う会』による平沢釈放の訴えはもっと重みを増していたはずだ」と残念がり「彼女たちが実父を支援しようとしなかったのは、西洋人の目にはどう見ても疑わしい行動に映るものだった」と述べる(ウイリアム・トリプレット(著)、西岡公 (訳)『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』1987年、p.220)。ただし「救う会」の活動は別として、平沢の家族は「救う会」代表の森川哲郎や森川武彦(平沢武彦)とは良好な関係を保った。1996年ごろに撮影された、平沢貞通の長女が森川哲郎に親しげに語りかけるプライベートビデオが残っている(「コラム 帝銀事件とは何だったのか-50 Vol.50 原渕 勝仁さん」)。また、諸般の事情で縁を切ったとはいえ、平沢を思う家族の気持ちには変わりがなかった。平沢の三女は米国人と結婚し米国に渡ったが、1980年代前半、米国から獄中に父に手紙を寄せ、自分は父のことを思っており元気でいてほしい、自分はアメリカでの生活を満喫している、と伝えてきた。返信用のアドレスは記されていなかった。(『帝銀事件の真実』p.221)
  44. ^ 「女死刑囚に初恩赦」『朝日新聞』昭和44年(1969年)9月5日朝刊、12版、15面
  45. ^ 居木井は1960年(昭和35年)に警視庁の初代の検死官(現在は「検視官」と表記)となり、その研修で年下の監察医・上野正彦から指導を受けた。上野は著書『藪の中の死体』(新潮社、2005年)のなかで当時の居木井を「朴訥な好々爺という感じで、兄貴のような親しみやすさもあった。酒をくみかわすと、帝銀事件の苦労話が出てくる」「あの時の居木井さんの自信に満ちた顔は忘れない」と書いている。
  46. ^ 『週刊読売』1993年7月11月号、p.172
  47. ^ 甲斐文助が死去する2ヶ月余り前、甲斐の自宅を訪ねて本人から『甲斐捜査手記』を手渡された佐伯省は、その経緯を自著『帝銀事件はこうして終わった』p.191に書いている。遠藤誠も『帝銀事件の全貌と平沢貞通』(現代書館、2000年)p.253で甲斐メモを入手した経緯を書いた。
  48. ^ 石井敏夫『帝銀事件平沢貞通と一店主の半生』(つげ書房新社、1997年)、片岡健『絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―』鹿砦社
  49. ^ Noose or Pneumonia? Time(英語) 目撃者の証言との不一致、アリバイの存在、自白を強要された可能性があることなど、当時分かっていたことが書かれている。
  50. ^ 『週刊読売』昭和49年12月21日号、pp.155-156
  51. ^ 「帝銀事件の二十七年間 消えてしまった遺族を追跡する!!」、『女性自身』1975年4月24日号、pp.48-54
  52. ^ 北海道放送「誤判の生贄 ~魂の画家 死刑囚・平沢貞通~」(プロデューサー:五十嵐浩二、日本民間放送連盟賞 2003年 テレビ報道・優秀賞受賞)
  53. ^ 平沢が亡くなった4日後、法務大臣の遠藤要は国会での答弁で、歴代の法務大臣が平沢の死刑を執行しなかった理由は「再審請求のさなかに執行したということになると世論として一体どうなるか、あれは口をふさぐために早くやってしまったんだというような疑いも出てくる」(第108回国会 参議院 法務委員会 第2号 昭和62年5月14日 「089 遠藤要」)ためであったと明かしたうえで、「平沢は間違いなく真犯人であるということを私は改めて強調申し上げておきたいと思いますので、ぜひその点は皆さん方にもお広めをひとつちょうだいいたしたいと思います」(同前)と述べた。
  54. ^ 平沢の晩年、「救う会」事務局長・森川哲郎は将来を憂慮した。法律では平沢が亡くなっても遺族が申し立てを引き継げるが、平沢の肉親に再審請求を続けたいと願う者はいない。森川は当時22歳の息子・森川武彦を平沢の養子とした。1981年(昭和56 年)1月24日に養子縁組が成立したあと、森川は涙ながらに「平沢の釈放を実現したいと願うあまり、自分は息子を犠牲にしてしまった」と家族にわびた。森川は翌年の末、58歳の若さで亡くなった。出典:ウイリアム・トリプレット著、西岡公・訳『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』(講談社、1987年)p.96-P.97
  55. ^ 「自殺未遂を起こした帝銀事件「平沢貞通」養子の葛藤」、『週刊新潮』2011年3月17日号、pp.45-46。自殺未遂後、命を取り留めた平沢武彦は「平沢の実の孫や曾孫たちが、平沢は立派な画家だったと胸を張って生きていけるようにしたいと思って頑張ってきたんです」「でも、現実には、遺族の大半が私の運動をずっと迷惑がっていた」「かつては平沢の奥さん、そのお兄さん、それに長女とは細々と交流があったのです。でも、奥さんとお兄さんは亡くなり、長女の息子、つまり平沢のお孫さんのお嫁さんからは、2年ほど前に〝今後一切かかわりを持たないでください〟とまで言われてしまった。その他の孫、曾孫さんたちは、今では住んでる場所さえ知らないんです」と苦衷を述べた。
  56. ^ 「第19次再審請求の最中に孤独死していた『平沢貞通』養子」、『週刊新潮』2013年10月17日号、pp.39-40
  57. ^ 帝銀事件・平沢元死刑囚の養子?死亡 東京の自宅で 朝日新聞 2013年10月2日。また「帝銀事件とは何だったのか-35 Vol.35 原渕 勝仁さん」に「再審請求人の平沢武彦氏は2013年10月1日、一人暮らしの自宅で孤独死しているのを発見されている。発見したのは、このわたくしである」云々とある(2021年3月27日閲覧)。
  58. ^ 帝銀事件の再審請求終了 養子死亡で東京高裁 弁護団は異議 産経新聞 2013年12月3日閲覧
  59. ^ “帝銀事件、20回目の再審請求”. 朝日新聞デジタル. (2015年11月25日). http://www.asahi.com/articles/DA3S12084462.html 2015年12月2日閲覧。
  60. ^ 浜田寿美男「二十次再審請求に提出された自白・目撃供述の心理学鑑定書」、『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報, 5』(明治大学平和教育登戸研究所資料館、2019年9月25日)pp.121-162
  61. ^ 柳沢よしたね「帝銀事件と奇術」、『奇術研究』第4号(昭和31年冬号、1956年12月1日)pp.30-32
  62. ^ 河合勝・長野栄俊・森下洋平『近代日本奇術文化史』(東京堂出版、2020年)pp.263-264
  63. ^ 陸軍登戸研究所第四科で毒物「青酸二トリール(アセトンシアノヒドリン)」の製造にたずさわったN(原書では実名表記)は犯人が被害者らに毒を飲ませた「その手口は非常にうまい」と述べつつ、帝銀事件を「もし私がやるとすれば,相手方の年齢・体格をみて,各個違った量を与えて,一人も生き残りを出さないように全部殺す自信がある。スポイトでやった目分量が技術達者な者とはいえない。だから生存者ができた」と述べた(塚本百合子「『甲斐捜査手記』より明らかになった旧日本陸軍の毒物研究とネットワークおよびGHQと交わされた“ギブ・アンド・テイク”」、『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報, 5』2019年9月25日、p.10)。同じ第四科で青酸ニトリールの製品化にたずさわったS(原書では実名表記)は、もし使用毒物が即効性の青酸カリならそれを使って16人も殺すというリスクをあえて犯すのは「よく青酸カリの特徴を研究した大家か,もしくは全然素人」だけだと述べた(前掲「塚本2019」p.11)。
  64. ^ 警視庁機関誌『自警』1948年12月号
  65. ^ 明治大学平和登戸研究所資料館第9回企画展記念講演会「帝銀事件と陸軍登戸研究所 ̶捜査手記から明らかになる旧日本陸軍の毒物研究̶」資料
  66. ^ 「第41回国会 衆議院 法務委員会再審制度調査小委員会 第1号 昭和37年10月10日」の「008 磯部常治」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104105223X00119621010/8 に「○磯部参考人 申し上げます。私の調査したところによりますと、当時の弁護人、なくなられた山田義夫君でありますが、当時の弁護人らはエリーをぜひとも証人にということで申請したということを聞いております。が、裁判所は遂にこれを許さなかった。その許さなかったということは那辺にあるか、私は想像で申せとおっしゃれば申し上げますけれども、事実はよく知りません。同時にエリーは平沢の娘と一緒にアメリカへ行ったということでありますので、何とかこの点をと思って私も弁護人の立場からずいぶんと努力したのでありますが、遺憾ながらエリー氏に会うことができず、かつ最近の調査によれば、エリー氏は飛行機事故のために死亡したということが確実に入手されて、今はいかんともすることができ得ません。私はその程度しか今のこのエリーのアリバイ関係については知っておりませんということをお答えしておきます。」とある。
  67. ^ a b c d ウイリアム・トリプレット著、西岡公・訳『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』(講談社、1987年)
  68. ^ 帝銀事件の使用毒物を鑑定した法医学者の中館久平は「普通青酸加里として市販されているものは、曹達が半分位、寧ろナトリュームの方が多く入っている。純粋の青酸加里は、作るのも困難だし、素人では勿論専門家でも容易に入手できない」(第二審判決書) と公判調書で証言した(文中「曹達」「ナトリューム」はそれぞれ「ソーダ」「ナトリウム」の意)。青酸カリウムであれ青酸ナトリウムであれ、青酸塩(シアン化物)は空気に触れるとすぐに空気中の二酸化炭素と反応して炭酸カリウムになり、そうなると色は白濁したり番茶のような色になり毒性もいくぶん弱まることも中館は公判調書のなかで指摘している。もし帝銀事件の使用毒物が、判決書のとおり、市販のいわゆる「青酸カリ」であり、犯人が自宅でそれを保管していた状況も判決書どおりであったなら、帝銀事件の被害者の状況は化学的に矛盾なく説明できるとされる(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』)。
  69. ^ 古畑種基の四男で東大名誉教授の古畑和孝は、帝銀事件発生当日を回想し、父・種基が夜行列車で神戸に向かう仕度を家でしていると「突然、東京地検から緊急要請の電話での懇請があった。父は事情を説明するものの、地検は引き下がらない。『先生のお宅の近くの帝銀椎名町支店で、事件が発生した。行員が倒れている。是非とも検視していただきたい。』と矢の催促だ。事の重大性をある程度把握した父は『正式の鑑定は出来ないが、それではとにかく現場に行こう』と承諾した。(中略)何人もの行員がすでに絶命していた。また複数の重症の行員もいた。父の取り敢えずの検視に基づく一応の鑑定では『おそらく青酸カリ、ないしは青酸ナトリウムなど青酸化合物によるものだ』というものだった」出典:『わが道』(11)中学~高校時代に出くわした極めて大きな社会的事件①帝銀事件 (1447)2020年12月13日(日)23:48
  70. ^ a b 古畑種基『法医学ノート』中央公論社、1959年
  71. ^ 帝銀事件当時、工業用青酸カリ(実際は青酸カリウムと青酸ナトリウムの混合物)は町工場でもメッキのため普通に使われていた。町工場の大半は零細で、青酸カリの管理は一般的にずさんであり、青酸カリ溶液を舌で舐めて含量を調べる職人もいた(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」』)。理科系YouTuberの「ヘルドクター くられ」氏は学生時代、実験室にあった青酸カリを、教授がいないすきに学生仲間とともに4人でなめて味見した経験を語っている(YouTube「ペロ・・これは・・青酸カリ やってみた話」2021/03/17公開)。もちろん、青酸カリを口にするのは危険な行為であり、真似てはならない。
  72. ^ 植松正「帝銀事件の判決文を読む」、『法令ニュース 20(8)(451)』 (官庁法令出版、1985年8月)pp.14-17
  73. ^ 平沢を取り調べた検事の高木一は、昭和23年10月12日に東京地方裁判所に送った公判請求書の中で、平沢が「曽テ新聞紙上ニテ読知セル『増子校長毒殺事件』ニ暗示ヲ得」て犯罪を思いついた、と書いている
  74. ^ 伴繁雄は、平沢逮捕前の1948年4月の聞き取り調査では「アセトンシアンヒドリン(青酸ニトリール)説」を捜査員に語ったとされる(いわゆる「甲斐メモ」の記述。本人は後に、雑談を誤解されたものとしてこれを否定)。平沢逮捕後の9月6日、捜査会議に出席した伴繁雄は「帝銀毒殺事件の技術的の検討及び所見」という書類を土方博(元・日本陸軍技術少佐)と連名で提出し「使用毒物は純度の比較的悪い工業用青酸カリで、入手の比較的容易な一般市販の工業用青酸カリであると断定する」と結論づけ、その主張を終生、変えなかった。
  75. ^ 捜査一課係長・甲斐文助『帝銀事件捜査手記』第5巻(再審弁護団所蔵)
  76. ^ 藤田次郎刑事部長ら10人の日本人警察官たちは、捜査本部に隣接する目白警察署長の宿舎で石井四郎から話を聞いた。このとき同席した検事の高木一が後年、米国人ジャーナリストのウィリアム・トリプレットの取材で語ったところによると、GHQ関係者は1人も同席しておらず、石井は協力的で善良な役に立つ人間に見えた、という。トリプレットは「タカギが語ったところに従えば、GHQが、米国軍側とイシイとの取引を隠蔽するために七三一部隊の捜査を中止させたのだという主張はもう通らなくなるし少なくともそう思われる」と述べている(トリプレット『竹の花の咲くとき』小林敏久訳。遠藤誠『帝銀事件と平沢貞通氏』1987年、pp.393-397に引く。『竹の花の咲くとき』は1987年に西岡公の訳で『帝銀事件の真実』として講談社から刊行)
  77. ^ a b c 竹内理一(読売新聞社会部通信主任)「平沢は果して真犯人か」、『週刊読売』臨時増刊・昭和32年(1957年)6月5日号、pp.24-31
  78. ^ これは間違いで、これと反対に、警察の捜査本部は731部隊ともつながりがある旧陸軍の関係者の捜査を最後まで続けるため、GHQを利用して新聞報道を差し止めたのが真相とする説もある。詳細は以下の注の「GHQ公安部調査官ジョンソン・マンロウの覚書」を参照。
  79. ^ 「帝銀事件 米でGHQ機密文書発見 731部隊も捜査対象 毒物使用、教練通 り」、『読売新聞』1985年3月8日朝刊1面
  80. ^ 精確に言うと、日本の警察が、GHQの権威を利用して新聞報道を差し止めた、というのが真相である。1948年3月12日付の「GHQ公安部調査官ジョンソン・マンロウの覚書」によれば、その前日の3月11日、GHQと日本の警察の合同会議の席上、帝銀事件の捜査本部の藤田次郎刑事部長は以下の発言をした。自分たちは千葉県津田沼にあった陸軍化学研究所(陸軍習志野学校関連の機関を指すと思われる)の関係者を調べていること、警察は秘密裏に津田沼研究所に関与したY大佐とN少佐(原文では実名)の助力を得られることになったがそれを嗅ぎつけた読売新聞の記者にN少佐の自宅を見張られ困っていること、もし新聞に毒物研究所についての捜査をすっぱ抜かれるとせっかくの情報源が絶たれてしまうこと、を藤田は訴え、GHQの助力を要請した(遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』2000年、p.377-p.379)。読売新聞記者として731部隊を追った遠藤美佐雄も、後年の手記で、ある時、藤田刑事部長(記者クラブと良好な関係を築いており、新聞記者にとってネタ元であった)から電話で「いま君のやろうとしている事件から手を引いてくれないか。権威筋(暗にGHQを指す)からの命令でね」「いろいろ関係があって石井部隊(731部隊のこと)を君一流のスッパ抜きでやられては困るのでとにかくやめてくれ。この埋め合わせは他でするよ」と頼まれて報道をやめたこと、帝銀事件の映画で描かれたように読売新聞のデスクが米軍当局から直接「手を引け」と言われたのかどうか実情については何とも言えないこと、を述べている(前掲『帝銀事件の全貌と平沢貞通』、p.353-p.354)。
  81. ^ 遠藤誠『帝銀事件の全貌と平沢貞通』p.326
  82. ^ 文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「帝銀事件の悪夢」に載せるM(結婚後は竹内と改姓)の談話。2021年3月26日閲覧
  83. ^ 『甲斐捜査手記』第5巻。ただし伴自身は青酸カリ説であり、後年の手記で、自分が捜査員に雑談のなかで話したことが別の意にとられてしまった、と弁明している
  84. ^ 塚本百合子「『甲斐捜査手記』より明らかになった旧日本陸軍の毒物研究とネットワークおよびGHQと交わされた"ギブ・アンド・テイク"」『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報』第5号、明治大学平和教育登戸研究所資料館、2019年9月、1-26頁、ISSN 2423-9151NAID 120006768527。 p.11 より
  85. ^ 国会議事録「法務委員会 第8号 昭和37年12月7日 018 志賀義雄」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104105206X00819621207/18 2021年7月25日閲覧
  86. ^ 渡邉良平「帝銀事件の毒殺の手口と毒物の謎をめぐって」、『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報, 5』(明治大学平和教育登戸研究所資料館、2019年9月25日)pp.177-192
  87. ^ オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦:捜査過程で判明した日本軍の実態」(明治大学平和教育登戸研究所資料館、2021年8月7日)での「帝銀事件再審弁護団より再審請求進捗状況報告(渡邉良平弁護士)」による。
  88. ^コラム 帝銀事件とは何だったのか-13 Vol.13 原渕 勝仁さん」 2021年7月4日閲覧
  89. ^ 平沢クロ説に立つ中村正明によると、平沢貞通はコルサコフ病特有の記憶障害のうえに双極性障害離人症も加わり解離性同一性障害(旧称「多重人格障害」)が生じていた(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』2008年刊)。平沢がサイコパス(精神病質者)だったなら、毒殺の時も落ち着き払いピペットを持つ手が緊張で震えることもなかったこと、犯行後も罪悪感をもたず口が達者で魅力的な人物に見えたこと、逮捕した刑事や取り調べを行った検事が見た平沢は不誠実な嘘つきだったのに拘置所の看守や支援者が見た平沢は生き仏のような人格者だったという二重人格性(弁護士の遠藤誠は「平沢氏普賢菩薩説」(平沢貞通#エピソード)を主張した)も合理的に説明できる。平沢冤罪説に立ち再審弁護団とも深くかかわった原渕勝仁は、平沢がコルサコフ症候群だったため「平沢の自白は証拠にならないということなのだが、逆に考えてみると、平沢には自分が犯行に及んだことも記憶から消失していた。だから自分はやってないと本気で死ぬまで〝嘘〟を主張し続けたともうがった見方ができなくもない。弁護団会議で、そのような平沢に不利になるような話をすることはタブーなのだが(下略)」と「帝銀事件とは何だったのか-28」の中で述べている。ただし原渕の叙述の真意は(残念ながら)「心理学的アプローチは事件を解決する決定打にはならない」という点にある。
  90. ^ 「東京高等裁判所 昭和31年(お)13号 決定」によると、獄中の平沢貞通は弁護士とともに「いわゆる帝銀事件の真犯人は平沢でなくH(原文では氏名を実名表記)であることが新に発見されたから、平沢に対しては無罪の言渡を為すべき理由があり、旧刑事訴訟法第四百八十五条第六号により再審請求をする」と主張したが、却下された。その後も平沢らは「未遂事件の犯人の目撃者のうち数名はHが似ていると証言」「Hの指紋は流れ指紋だが、帝銀椎名町支店に残された犯人の指紋も流れ指紋」「大村得三の筆跡鑑定によれば事件翌日に犯人が換金した小切手の裏書の筆跡はHと同一の可能性がある」「真犯人は自家用車で犯行直後の警戒網を巧みにくぐり抜けたはずだが、Hは自家用自動車を持っていた」などの理由を挙げて真犯人はHだと主張し続けたが、棄却された(「東京高等裁判所 昭和37年(お)10号 決定」)
  91. ^ 大西弘泰「心霊障害を巻き起こした帝銀事件」、『心霊研究』(日本心霊科学協会、1994年9月)
  92. ^ 佐伯省によると、731部隊の諏訪敬三郎(次項)を真犯人と主張した捜査二課の「成智主任は、他の捜査官は傍流だと言っているが、本当は犯人に対する人々の目を七三一部隊に向けさせるために、お人好しの成智が特命捜査主任などというもっともらしい名称を与えられて利用されただけで、主流の鈴木清捜査統括主任は上海で人体毒殺実験をやった陸軍中野学校出の特務機関員を本命とみて捜査していたのである」と指摘している。出典、佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』批評社、2002年(ISBN 978-4826503457)p.156。なお、名刺班だった平塚八兵衛も特務機関筋を調査し、戦時中「大陸(中国)で羽振りだった特務機関の顔役」に銀座で会って話を聞いたことを書いている。出典;『刑事一代』新潮文庫版、p.102-p.103
  93. ^ 秦郁彦によると、成智英雄がいうS中佐ことS・S(原書では実名)という姓名の人物は日本陸軍の軍医将校名簿には存在しない。該当しそうな似た名前の人物は、軍医大佐のS・K(精神科。原書では実名。1902年生まれ)と、軍医中佐のS・N(皮膚科医。原書では実名。1898年生まれ)の2人だけで、2人とも経歴は731部隊とは無関係だった。成智とその賛同者は明らかにS・Nのほうを念頭に置いていたと考えられるため、秦は1987年秋、F県(原書では実名表記)にあるS・Nの本籍地まで行って写真を入手し、帝銀事件の生き残りの1人M(旧姓。結婚後はT姓。原書では実名表記)に見てもらったが「犯人ではない」という返事を得た。出典:秦郁彦『昭和史の謎を追う』下巻(文藝春秋社、1993年)pp.191-194。秦郁彦より数ヶ月前、小池新もSの「親族に会い、写真も見せてもらったが、七三一部隊とは無関係で、帝銀事件犯人の似顔絵とは似ても似つかなかった。最終的に私は、Sが実際にいたとしても、それは実在の人物の名前と経歴を偽った別人と推理した」。出典:小池新「死刑確定後30年たってはじまった殺人事件再取材…担当警部が残した「メモ」から見えてきたもの――GHQ占領下の日本を揺るがした大量毒殺「帝銀事件」#3」2021/01/17(2021年3月24日閲覧)。なお、平沢の再審弁護団(遠藤誠ら)はS中佐真犯人説を理由に平沢の第17次再審請求を行ったが、東京高等裁判所は「東京高等裁判所 昭和56年(お)1号 決定」の中で「成智英雄は右S中佐(原文では実名)について直接捜査したことすらなく、同中佐と帝銀事件との具体的なつながりは一切明らかになっていない」と指摘し、棄却した。
  94. ^ a b 成智英雄「帝銀事件 死刑囚平沢貞通〝無実〟の確証」、雑誌『新評』昭和44年9月号 (新評社、1969年)pp.55-73 (国会図書館 永続的識別子 info:ndljp/pid/1808085)
  95. ^ 佐伯省『疑惑α―帝銀事件 不思議な歯医者』(講談社出版サービスセンター、1996年)、およびその増補改訂版である佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』(批評社、2002年)。なお後者の本のp.280には著者の言葉として、その歯科医は「平成元年(一九八五)」に82歳で亡くなり「今年、十三回忌のはずです」とあるが、平成元年なら1989年のはずである。
  96. ^東京高等裁判所昭和31年(お)13号決定
  97. ^ 帝銀事件担当検事 高木 一 (談)「哀れむべき人間 ―わたしの見た平沢貞通―」、『週刊朝日』昭和25年(1950年)8月6日号、p.13
  98. ^ 鈴木清「帝銀事件 平沢の手記」、警視庁警務部教養課 編『自警 56(1)』(自警会、1974年1月)pp.140-143 ※国会図書館 永続的識別子 info:ndljp/pid/2706830
  99. ^ 2019年1月「企画展「帝銀事件と登戸研究所」関連イベント 主催:明治大学平和教育登戸研究所資料館 特別プログラム 第二回講演会「帝銀事件第二十次再審請求の現状」」https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p000032n36y.pdf p.25より引用。 2021年6月16日閲覧
  100. ^ 平沢の主張は国会の会議録「第46回国会 衆議院 法務委員会 第41号 昭和39年6月5日」026 赤松勇 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104605206X04119640605/26 でも読むことができる。
  101. ^ 帝銀事件を論ず - 青空文庫
  102. ^ 哀れなトンマ先生 - 青空文庫
  103. ^ 目をあいて見る - 青空文庫
  104. ^ 「一般社団法人 日本民間放送連盟」公式HPの「表彰番組・事績」 https://www.j-ba.or.jp/category/awards/jba100930#se3aa602 2021年5月30日閲覧

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