言継卿記 (original) (raw)

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言継卿記』(ときつぐきょうき)は、戦国期の公家、山科言継の日記。1527年大永7年)から1576年天正4年)のほぼ50年に渡って書かれているが、散逸部分も少なくない[1]

日記に登場する人名は数多く、武家に限ってもおよそ1200人を超える[2]。その内容は皇室御領や有職故実、医薬・音楽・文学・芸能、京都の町衆や武士などによる政治動向、社会的事件まで広範にわたっている[3]。戦国時代の日記はその数が限られるなか、『言継卿記』においては長期にわたる記述が自筆原本の形で今日まで伝わっている[4]。また、貴族でありながら庶民と積極的に交流し、市井の人々の日常生活をうかがうことができる記録という点においても特異な史料[5]である。

言継による自筆本は山科家に受け継がれ、日次記35冊、別記4冊が現存している。日次記のうち天正4年(1576年)分は京都大学、別記のうち3冊は天理図書館、それら以外は東京大学史料編纂所の所蔵となっている。刊本には、『言継卿記』(国書刊行会、1914年-1915年;全4巻)、国書刊行会版から漏れていた永禄元年・同2年・天正4年分が含まれる『言継卿記 新訂増補版』(続群書類従完成会八木書店、1965年-1972年;全6巻)、天理図書館所蔵の別記は『天理図書館善本叢書 和書之部第72巻 古道集』1(八木書店、1986年)に影印が、紙背文書は『史料纂集 古文書編2』言継卿記紙背文書第1(続群書類従完成会/八木書店、1972年)および『史料纂集 古文書編35』言継卿記紙背文書第2(続群書類従完成会/八木書店、2003年)におさめられている[6]

一年分をまとめて冊子にして、表紙の扉の表には甲子・土用入など注意を要する日付を列記し、扉の裏には天皇の年齢と「御哀日」、自身の家族の年齢と「衰日」を列記している[7]

経済的に困窮していた言継は、その医薬の知識を用いて製薬の副業を営んでいた[8]永禄9年(1566年)、自らの妻が瘧病に罹患した際には、その病状を記録している[9]。この診療録は「中世における瘧病症状の記録として医学史上極めて貴重な史料」(服部敏良[10]と評価されている。

  1. ^ 今谷明『戦国時代の貴族––『言継卿記』が描く京都』講談社学術文庫、2002年、384-386頁。清水克行「『言継卿記』(山科言継)ー庶民派貴族の視線」、元木泰雄松薗斉編著『日記で読む日本中世史』ミネルヴァ書房、2011年、258頁。日次記がそろっている年および一日も記録が残っていない年について、今谷と清水との間で違いがある。
  2. ^ 今谷明「『言継卿記』武家人名索引」『言継卿記––公家社会と町衆文化の接点』そしえて、1980年、巻末1-28頁。
  3. ^ 今谷明『戦国時代の貴族』、前掲、3頁。
  4. ^ 奥野高廣 (1947年). “『言継卿記 : 転換期の貴族生活』”. 高桐書院/国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年5月29日閲覧。74-75頁。
  5. ^ 今谷、前掲、387頁。
  6. ^ 今谷、前掲、387-388頁。清水、前掲、259頁。
  7. ^ 山田邦明 著「山科言継とその子女」、戦国史研究会 編『戦国期政治史論集』 西国編、岩田書院、2017年。ISBN 978-4-86602-013-6
  8. ^ 今谷、前掲、237-239頁。清水、前掲、262頁。松薗斉「言継さんの診察カルテ––山科言継『言継卿記』––」、倉本一宏監修『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家』日記で読む日本史13、臨川書店、2017年、162, 164頁。ISBN 978-4-653-04353-9
  9. ^ 水谷惟紗久 (1997年6月). “「古記録にみえる室町時代の患者と医療(2)『言継卿記』永禄九年南向闘病記録から」『日本医史学雑誌 = Journal of the Japanese Society for the History of Medicine』43(2)(1486)”. 日本医史学会/国立国会図書館デジタルコレクション. 2023年6月2日閲覧。
  10. ^ 今谷、前掲、238頁。
  1. 第一(大正3年)
  2. 第二(大正3年)
  3. 第三(大正3年)
  4. 第四(大正4年)