天正15年9月26日深水長智宛豊臣秀吉朱印状 (original) (raw)

去月廿九日九ヶ条*1之趣、今日廿六於京都具被加披見候、条〻示*2越候段、神妙思召候、

一①、其国一揆等令蜂起之儀、陸奥守*3背殿下*4御下知、国侍ニ御朱印之面知行等不相渡、既及餓死付、無了簡*5仕立*6之由候、并在〻検地俄申付、下〻法度以下猥故*7、百姓等及迷惑*8企一揆歟、陸奥守仕様無御分別*9候事、

一②、国侍共無異儀被立置、知行等宛行、在〻放火をも不被仰付候処、国侍百姓等、陸奥守才判*10悪ニ付てハ、目安状*11を以成共御理*12申上候者、早速可被仰付候処、一旦*13不申上、一揆起候事、不相届儀候歟事、

一③、御朱印被下候国侍并一揆、依申様成敗可申付旨、各被仰出候条、成其意、弥相良*14忠儀専一候事、

一④、其方事律儀*15宏才*16段、被届御覧付て、本領*17事者不及申、新知*18被仰付候条、か様之砌、相良不存疎略段、勿論其方覚悟故候間、今更差而忠儀共不被思召候、捧神文*19事、却而如何敷*20候、猶以諸事可入精事肝要候事、

一⑤、為馬代*21、金子十両到来候、悦覚候也、

九月廿六日*22(朱印)

深水三河入道とのへ*23

(三、2319号)

(書き下し文)

去る月廿九日九ヶ条のおもむき、今日廿六京都においてつぶさに披見を加えられ候、条〻示げ越し候段、神妙に思召候、

一①、その国一揆など蜂起せしむるの儀、陸奥守殿下の御下知に背き、国侍に御朱印のおもて知行など相渡さず、すでに餓死に及ぶにつき、了簡なき仕立の由に候、ならびに在〻検地にわかに申し付け、下〻法度以下みだりゆえ、百姓ら迷惑に及び一揆を企つるか、陸奥守仕様御分別なく候こと、

一②、国侍ども異儀なく立て置かれ、知行など宛行い、在〻放火をも仰せ付けられず候ところ、国侍・百姓ら、陸奥守才判悪しきについては、目安状をもってなるとも御理申し上げそうらえば、早速仰せ付けらるべく候ところ、一旦申し上げず、一揆起こり候こと、相届かざる儀に候かのこと、

一③、御朱印下され候国侍ならびに一揆、申し様により成敗申し付くべき旨、おのおの仰せ出だされ候条、その意をなし、いよいよ相良忠儀専一に候こと、

一④、その方こと律儀宏才のだん、御覧に届けらるるについて、本領のことは申すに及ばず、新知仰せ付けられ候条、斯様のみぎり、相良疎略を存ぜざるだん、もちろんその方覚悟ゆえに候あいだ、いまさらさして忠儀とも思し召されず候、神文を捧げること、かえっていかがわしく候、なおもって諸事精を入るべきこと肝要に候こと、

一⑤、馬代として、金子十両到来し候、悦ばしく覚え候なり、

(大意)

先月29日付の九ヶ条に渡る書面、本日26日に京都にて詳しく拝読しました。九ヶ条にわたり申し越してきたこと、感心なことと思います。

一①、肥後国の一揆などが蜂起するに至った件、成政が関白たる私の命に背き、国侍に朱印状にある知行地などを渡さず、すでに餓死に及ぶなど、無思慮な一部始終と報告を受けています。また村々へ検地を急に命じ、「下〻」=陪臣に至るまで無法状態ですので、百姓らが困窮しやむを得ず一揆を企てたのでしょう。陸奥守のやりようは限度を超えています。

一②、国侍たちに異存がないようにその地位を保全し、知行地などを充て行い、村々に火を放てとは命じていないのに、国侍・百姓ら、成政の統治が悪し様であることを、目安状にて異議申し立てすれば、すぐにでも止めるように命じたのに、一度も上申せず、一揆が武装蜂起したことは、成政の不手際と言うべきでしょう。

一③、朱印状により知行地を安堵された国侍や一揆は、その言い分に応じて処罰を申し付けよと命じていますので、その趣旨にしたがうように。主君である相良長毎に忠義をつくすことにますます専念しなさい。

一④、その方が律儀で才気煥発であると聞き及んでいます。本領はもちろん、新たに知行地を与えます。こういうときに相良家を疎かにしないことはそなたも心得ているだろうから、いまさら特別に忠義立てせよとは命じません。起請文を書かせるなどかえっていかがわしく思われることでしょう。なお万事怠りなきように行うことが大切です。

一⑤、馬代として、金十両届きました。嬉しく思います。

文書とは差出人(発給人)と請取人(受給人)が明記されているものをいい、最近よく聞く「古文書が発見された」というニュースのほとんどが文書(モンジョ)ではないので要注意である。一方でいわゆる教育勅語や終戦の詔勅は明記されていないものの「帝国臣民」に充てて天皇の名で発せられた文書である。後者の最後「朕が意を体せよ」と命令形であるのもそのためである。文書を読む際には誰が(Who)誰に対して(to Whom)何を述べているのかが重要で、本文を漠然と読むだけでは意味をなさなくなる。

詔書は天皇の名前で発せられる「直書」という形式を取るが、「綸旨」は「天気候ところなり」(天皇はこうお考えです)という「奉書」という形式を取る。本文書で秀吉はみずからのことを「殿下」と敬称で呼び、自身の考えを「思し召し」と表現している。こうした作法も心得ておかなければならないが、テレビや新聞ではこれがなおざりにされていることがほとんどである*24

Fig. 肥後国球磨郡人吉城と深水周辺図

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『日本歴史地名大系 熊本県』より作成

充所の深水長智は肥後国球磨郡人吉城主相良長毎の重臣である。人吉周辺は2020年7月、日本三大急流のひとつ球磨川*25の増水により浸水被害にあった場所としても記憶に新しい。

①は肥後国人一揆が起きた原因について成政が現地での対応を誤ったために起きたのだろうと述べている。従来の推測を踏襲しているが、肥後国人である長智に「寄り添う」ように言明することで現地に対する秀吉の「思いやりのある」、「寛大な」措置を仄めかしているのだろう。ここでは「誰に対して」述べているのかという点が重要で、もちろん多数派工作の一環である。検地を急いで行ったことなどを成政が秀吉の命に背いたこととして追及している。また「下〻以下法度みだりゆえ」というのはおそらく郷村への乱妨行為を指すのであろう。「乱妨」とは「乱暴をはたらく」ことではなく掠奪のことである。制圧した土地において自軍の兵士が掠奪や放火を行わないように、禁制と呼ばれる文書を大名が発することはよく知られる。

②でも「放火せよと命じていないのに」とあり上記の推測を裏付ける。中世後期の戦争においては勝利すると村々を焼き払うことがつねに行われており、「仰せ付けられず」という表現から見て秀吉もまた武力制圧した地を焼き払う命令を下していたようである。火はいったん燃え上がると人間の力では制御できなくなるため、安価で確実な唯一の大量破壊兵器であった*26

この一揆は自力救済の発動つまり郷村の自衛戦争でもあったのだ。藤木久志氏はこれを「生命維持装置」と呼んでいる。ただしこの自衛戦争は秀吉から見れば「惣無事」を脅かす「私戦」であり、豊臣政権にとって正統性を問われる危機でもあった。

2021年清水克行氏による解説つきで復刊された本書は戦国期を語る上で必要不可欠な必読文献である。

戦国の村を行く (朝日新書)

その一方で「惣無事」という「紛争の調停者」を自認する秀吉は、「目安状をもって」成政の統治がいかに「不法な」やり方であるか異議申し立てをすればそれに応じる用意があったと述べている。実力行使と紛争の調停はつねに隣り合わせなのである。

③は長智の主君である相良家に忠義をつくせと命じているが、④ではこの機会を狙って起請文を書かせると周囲から秀吉が「いかがわしく」思われるのでしないと断っている。これを長智への親しみを込めた正直な心境を綴ったとみるか、それとも「自分はいかに器の大きい人物であるか」を知らしめたかったと解すべきなのかその本音はわからない。

⑤は臣従する証しに馬を献上する習慣があったことを示す。実際には金10両だったのだが。

(追記)

ヨーロッパの家々が石造りであるのに対し東アジアの家は木造である。これに着目したのが第2次世界大戦における連合国軍、とりわけアメリカ軍部である。ドイツ東部のドレスデン爆撃に代表されるようにヨーロッパ戦線では、爆発によって建物を破壊する手法が採られたのに対して、日本本土への空襲は焼夷弾という燃焼促進剤を投下して火災を発生させる手段が採用された。焼夷弾は爆撃機から投下したのち、その砲弾からさらに多数の焼夷弾が放出されるクラスター爆弾というしくみを採用していた。爆撃機にとって敵陣の領空に留まる時間を短縮させることができる点でリスクが低減され、破壊力は逆に増えるという点でクラスター爆弾は効率的なのである。クラスターとはブドウなど果実の房のことで、そこから派生して集団などを意味するようになった。ちなみ「スーパースプレッダー」の「スプレッド」は表計算ソフトの英語、「スプレッドシート」の「スプレッド」である。アメリカのドラマ「HAWAII FIVE-0」と「NCIS LA」のクロスオーバーエピソードで、天然痘に感染した人物がホノルルからLAへ向かう航空機に搭乗する。このことを知らされたクリス・オドネル演ずる「G.カレン」と LL・クール・J演じる「サム・ハンナ」が「クラスター」、「爆弾(BOMB)」と嘆くシーンがある。

閑話休題、対日戦争時アメリカ軍はユタ州ダグウェイ実験場に東京の下町を再現した「日本村」をつくり、焼夷弾の実験を重ねた。この燃焼タイプの爆弾はその後の戦争でも使用され、とりわけベトナム戦争を象徴する兵器として、枯れ葉剤とともにナパーム弾はよく知られるようになる。