天正18年1~3月「家忠日記」に見る秀吉軍通過の準備 (original) (raw)

ここで秀吉軍を迎える家康の準備について「家忠日記」から抄出してみた。

正月小

二日己巳、駿府より近日御陣*1可有之由申来、夫丸留につかハし延引之事、

十九日壬戌、殿様*2来十九日中泉*3へ御座候、皆知行方亥年之五十分一高辻越候へ之由申来候、

廿一日甲子、来二月朔日東*4筋出陣候へ之由申来候、吉田本田十助殿御越候、

廿二日乙丑、知行方勘定候、

廿四日丁卯、遠州知行ハり*5中泉*6ニ而被成、前〻御判もちにて被下候由にて両人下候、

二月大

二日甲戌、あらい*7迄出陣候、

三日乙亥、見付迄出陣候、中泉小栗二右衛門尉伊奈熊蔵*8所へ礼に越候、知行方五十分一之出目被下候由候、

五日丁丑、朝食板倉四郎右衛門所にふる舞ニて越候、晩ニ出仕候、江尻辺迄も出陣候へ之由御意候、

六日戊寅、雨降にて殿様御出馬延候、

七日己卯、江尻*9妙泉寺・法花寺迄出陣候、酒井宮内大輔*10所へ陣まハりニ越候、

八日庚辰、中泉より知行方かへ地ニ野羽切山済候ハヽ越候、

十日壬午、殿様賀嶋迄御出馬候、ゆい*11迄陣替候、

十三日乙酉、酒宮内へ陣まハり越候、吉良御茶屋道具あたり候、各国衆人数越候ハす候、

十四日丙戌、酒宮内より我等人数越候間明日吉原へ陣替候へ之由申来候、

十五日丁亥、吉原へ陣替候、旗本より成瀬小吉*12・深尾清十著到付ニ越候、

十六日戊子、御茶屋*13之木取候、舟橋の升す廿あミ候、菅沼織部*14・西郷弾正*15ふる舞候、

十七日己丑、舟橋の普請候、

十八日庚寅、舟橋の普請候、

十九日辛卯、同普請候、

廿日壬辰、同、

廿一日癸巳、舟橋出来候、内府様*16駿府迄御着候由候、

廿二日甲午、御茶屋之普請候(中略)三州より右衛門尉*17切山*18百姓難渋申候由ニて越候、

廿三日乙未、大西吹、御茶屋地形引候、

廿四日丙申、御茶屋普請候、家康様長久保*19へ御出馬候、尾州衆先勢沼津*20辺ニ着候、

廿五日丁酉、内府様沼津迄御出馬候、

廿六日戊戌、御茶屋之普請出来候、

廿八日庚子、美濃衆通候、

晦日*21壬寅、又御茶屋之普請候、

三月小

一日癸卯、御茶屋之普請出来仕候、

五日丁卯、殿様御陣場普請候、

八日庚戌、明後日十日ニにら山*22表ニ御取出*23可有之之由御ふれ候、

十四日丙辰、雨降、関白様来十六日ニ吉原*24迄御成候とて吉原御陣屋かけ*25ニこし*26

十五日丁巳、御陣屋之道具取候原にておいとり*27、かり*28にて山の鳥十五とり候

十六日戊午、御陣屋いて候てそうか原かへり候、

十七日己未、関白様去十日ニ吉田*29迄御成候、彼地ニ十三日迄御逗留候由候

十八日庚申、材木あたり*30候、関白様田中*31迄御成候由候

十九日辛酉、関白様今日駿府*32迄御成候由候、戸田三郎右衛門*33所江石風呂ニ入候、よしハら御陣屋すくなく候とて又あたり候

二十日壬戌、吉原小屋普請ニ人数つかハし候、関白様駿府迄御成候て殿様御こし候

廿二日甲子、殿様御帰候

廿三日乙丑、関白様清見寺*34迄御成候御前へ出候、天神山にて材木引候、夜より雨降

廿四日丙寅、同材木引候戸田左門ふる舞候

廿六日戊辰、関白様よしハら*35迄御成候

廿七日己巳、関白様沼津*36迄御成候見物ニ越候

廿八日庚午、山中筋物見関白様御越にて長久保城へ御成候

廿九日辛未、山中筋をしこませられ*37候、山中城*38中納言殿衆*39のりくつし*40

図1. 家忠日記登場地名関係図

『日本歷史地名大系 静岡県』より作成

図2. 駿河国略図

「駿河国」(『国史大辞典』より作成)

図3. 遠江国略図

「遠江国」(『国史大辞典』より作成)

「家忠日記」によると家康が遠江国中泉の知行割を行うなど領国支配の基礎固めを行う一方で、軍勢の通過に意を払っている様子がうかがえる。とくに秀吉を迎えるため「御茶屋」、つまり遊郭を建てたり、舟橋を掛けたりしている。

当然これらの負担は領国内の百姓が負うことになる。そういう意味において2月22日水野秀忠が三河から「百姓難渋申し候由にて」やってきたという部分の詳細が気になるところである。