幸福なるかな、あわれみ深き者 (original) (raw)

10月のオープン礼拝
メッセージ「幸福なるかな、あわれみ深き者」
聖書 マタイの福音書5章2−10節

「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションに過ぎない」とはアインシュタインの言葉です。常識と偏見は真逆のもののように思えますが、ほんとうは紙一重ということでしょうか。
常識、社会通念を英語では「コモンセンス」と言います。コモンとは、共通・共有を意味しますが、もともとはイギリスにあった共同の牧草地のことで、そこを共有している人がもつ共通の感覚をコモンセンスと言いました。みんなが知っている、理解している「共通感覚」です。
評論家の犬養道子さんは、「五・一五事件」で暗殺された犬養毅首相の孫で、クリスチャンの作家としても知られています。そんな犬養さんの本にコモンセンスについて書かれていました。
「4歳ぐらいのある日、玄関から茶の間に駆け込んで、思いきり柱にぶつかった。おでこはたちまち赤く腫れ上がり、その痛かったこと。私は柱を蹴ったり、たたいたりしました。すると母が、『みっちゃん、柱も痛かったね』と言ったのです。『走って来たのはみっちゃんで、柱じゃないでしょ。柱をいい子いい子して、仲直りしましょう』と。その時のしぐさまで、今でもはっきり覚えています。こちらが痛いということは、あちらも痛い——『お互いに』ということを教えてくれた。非常にありがたいことでした。」(『こころの座標軸』)
「こちらが痛ければ、あちらも痛い」、そんな文章を読みながら、「共通感覚」とは「共痛感覚」と言ってもよいのかなあ。なにか冷たい感じのする「常識」ではなく、コモンセンス(共痛感覚)を大切にしたいと思いました。今、マタイの福音書から、山上の垂訓、八福の教えを学んでいますが、これこそ天国のコモンセンスです。