まつりごとでなく「ジブンゴト」 (original) (raw)

先に述べた記事で課題にしていた、「地元議会の傍聴」に行ってきた。

地方政治雑感 - まつりごとでなく「ジブンゴト」

用事のついでと、例会でなく運営委員会だったので瞬殺だったのだが。

それでも割と刺激があり(無論会議の中身らしいものはないのだが。笑)、体験全体としては楽しかった。

当然ながら、議会スペースの階に行くのも初めてである。

役所と同じ建物で、議会スペースは最上階、首長室はその下の階にある。

役所自体滅多に行かないので、そうしたフロア区分になっていることすら初めて知った自分に失笑したのだが。

また、興味深かったのは、最初に役所の受付で、議会の場所と入り方について聞いたら、受付の人はそもそも、「運営委員会も傍聴可能」だということすら知らなかったこと。おかげで、自分もその反応に少々不安になった。

(申し込み不要。Webサイトには「議会事務局に直接お越しください」とあった)

が、議会事務局に電話してくれ、階まで行くと、事務局の人が直接運営員会の会議室に案内してくれた。

「いつも傍聴に来られていますか?」「いえ、初めて来ました」

恐らく、傍聴に来るのは余程「定番の人」だけに限られているのだろう。

傍聴に来ているのは自分一人。

ほどなく、事務局の人が自分にも、運営委員会の議案を渡してくれた。

運営委員会は、議員は10人ほどの規模。文字通り、議会の運営日程について話し合う。

既定事項のため、議事に内容らしいものはなく、会議自体も15分ほどで終了。

傍聴席と言っても、広い会議室というわけでなく、議員たちから3,4メートルしか離れてない後方の席に一人座っているだけなうえ、顔見知りの議員もいるので、ややドギマギしながら過ごしていた。

配られたレジュメに、今後の提出議案、意見書、議事日程の項目が並んでいたので、そこで初めて、「そうか、これがうちの自治体の議会で話し合われている項目なのか」と一挙に実感が湧いてきたのである。

「地域の政治」を「議会を通じて」体感する、独特の、初めての感覚。

議会フロアには、議会室脇に、図書スペースもある。

そこにも人はいない。

会議録や自治体史のほか、自治関連の専門書などが置かれ、それなりに充実している。

会議がすぐ終わったので、しばらくそこで会議録などに目を通していた。

議員以外に、出てくる役人(要は議会質問に答える行政側)も、自分が直接やり取りする人も出てくるわけで、この感覚もまた独特である。

会議録を通じて得た感覚とは、「議会を通じて、『役所全体(の業務)』を眺める」という視点が得られる、ということだ。

普段の自分の立ち位置では、当然「自分目線」でしか、役所や役所の業務に関心を持つことがない。

また、「議会・議員」目線というのは、「役所・役所の業務」というものが「カッコに入る」感覚もある。

当然ながら、「住民としての目線」を担うのは、本来「議会・議員」のほうなのだ。

他にも、上述のレジュメに合った議案・議事項目というのは、極めて身近な内容・政策や業界団体などの名も出てくる。

また、議員たちは、レジュメ上「会派」(または政党)で表記が成されているのも新鮮であった。

「議会広報」も恥ずかしながら、初めて目を通した。

以上の通り、短時間で十分すぎるほどの「お土産」をもらった。

コンパクトで、これ以上ないほど「自分に身近」な項目(そして人)で占められているという利点と特色がある。

政治というものにアクセスしイメージの湧きやすい手段として、「議会傍聴」はもっと知られてもいいだろう。

今は実は、「地方政治」には自分なりに取り組もうとしている探究テーマがいくつかある。

今後深めるうえで、大きく強力な素材になっていくだろう。

気候変動・温暖化の影響は、世界のすべての人が実感できるレベルまで来たと言えるだろう。

最近は自分も、「気象災害難民」になった場合の脱出シミュレーションを、具体的に考え始めた。

日本は島国で資源少国、また現在は経済力低下という顕著な条件があるため、早期の準備が必要だ。

(「やりたいか否か、やるべきか否か」という自己の意思や倫理的(?)判断もそこに含まれる)

現在では、地震とか災害対策に備える人も出てきただろうが、ある意味それの延長線上と言えなくもないが、より広範かつ包括的な意味合いである。

企業経営ではゴーイングコンサーン、国際政治では「持続可能性」という概念がある。

あるいは、人間の生命に即してはQOL(Quality of life)という概念なども。

自分の生命だけでなく、「生活や、生活の質全体の持続性・継続性」をトータルで考える必要がある。

「気象災害」「資源不足」(現在は戦争が拍車を掛けている)というのはセットで進行する。

単純に言えば、カナダや豪州のように、資源豊富な国に脱出しておくのが、「明確確実」なリスク対策には違いない。

ただ、それらの「地域選択」というのは、所詮「相対的優位」に過ぎない、と捉えている。

ウクライナ戦争でも、一度は祖国を脱出しつつも、結局は、トータルな生活のあり様を考えて、帰国したという人もいるという。

「脱出する」というのは、単に「短期的に有利な戦術」に過ぎなくなる可能性もある訳だ。

もし気象災害・資源不足の激甚化が予測されるとしても、敢えて日本に留まるという(積極的・消極的)選択も当然あり得るだろう。

しかし、そうだとしても、「じゃあその時、日本の経済社会はどうあるのか?自分の生活はどうなり、どう過ごしていくのか?」のシナリオやシミュレーションが必要となる。

「これからどうなるだろう?」と全く分からない段階では、不安と焦りしか無かったのが、知りに行き、心の準備をしておくだけでも、不思議と気持ちが落ち着いてくるものだ。

地震対策・大雨洪水対策にも言えるが、「ピンポイントのリスク対策」というのは非常に難しいものだ。

「自分一個人や自らの家庭、地域に対して」瞬間やその地域局所で、どれほどの被害を被るのか?は、精密な予想が殆ど不可能だからだ。

日本社会や政治現場で、「防災」は事実上ほぼ不可能と見て、「減災」へと舵を切り直したことは高く評価するに値する。

(国際的トレンドもあるかもしれないが詳しく知らない)

自分は、気候変動も同様だと考えている。

「温暖化をストップする」という愚劣な方向性は即座に放棄し、「気候変動・気象災害・資源不足の減災」路線へと舵を切り直さねばならぬ。

ただ、それには、現在のSDGsなどという生ぬるいスローガンや運動を遥かに超えて、文明のあり様を、急速かつ厳しく改め、世界の経済社会を、統制的方向へと変更しなくてはならなくなるだろう。

(既に、気候変動というトピックにおいて「国際政治は一体とならない」という解は明白となっている以上、「緩い国際枠組み、堅めの隣接地域の連携」で乗り切るよりない)

こう書きつつ前提を引っくり返すようだが、実は、自分の生命にこだわっている訳でもない。

そうだとしても、「死に場、死ぬ瞬間」は自分で選びたい。

選びたいのは「死に際、死に方」に過ぎないのだ。

知恵と労力を尽くせる限りは、可能な準備をしておきたい。

その先には、「世のため人のため」に、自分だけが果たせる仕事、役割というものも確実に見えてくる筈である。

(長文注意。具体的なことを書けず、抽象的記述となっています。読む方は予めご留意下さい)

思い立って、とある政治系のイベントに出てきた。

短い時間だったが、議員たちと割と率直な意見交換が出来て、非常に有意義だった。

また、各地の事例や理論の近況も確認でき、学びも多かった。

特に、話しながら、「ああ、自分はこう思っていたのか、こういうスタンスだったのか」と、自分自身の立ち位置や感覚を再発見する機会ともなったのが、意外かつ新鮮でもあったので、その覚書代わりに書き留めておこう。

といっても、読む方には、あまり何のことか分からないとは思うので申し訳ないのだが…いずれ詳しく注釈できる日を待つこととしたい。

・(地方政治に関して)自分が想像以上に(そして意外にも)「お役所脳」だった。

仕事上の立ち位置ということもあるし、自分の「政治観」において、「地方議会」という存在は、殆ど認識すらされていなかった

(だからこそ、このイベントに行ってみた訳だが)

・会った議員たちは、想像以上に、真剣に議会活動に取り組んでいる。

汗もかき、現場で非常に苦闘していることが分かった。

「ここまでやるのか!」と驚き、感動する事例もあった。

・しかし、「それが住民に伝わってない」という矛盾。

「発信しないと、活動どころか存在すら認識されない議会って?」という素朴な疑問が生じた。

・「地方議会」というものの機能と存在意義について。

地方自治は、日本では憲法(92,93条)に規定があるが、具体的な内容は地方自治法で定められている。

「地方議会」と「首長」双方を、住民自ら選ぶ「二元代表制」が基軸で、国の「議院内閣制」と大きく異なる。

・自分自身が気づいたのは、「お役所の施策」メインでのみ見てきて、「議会活動」にはまるで興味を持ってこなかった、ということなのだ。

「議員・議会=自分たちの代表」という認識そのものが欠落していたことを意味している。

・地方議会や議員内部では、実は様々な情報発信を行っていることを知った。

「自己満では?」との疑問も若干生じたのだが。

・実は、自分の卓では、自分が議員たちから質問攻めに遭った。

「なぜ興味を持ってないんですか?」と。

こう聞かれないと、考えることすらなかったのだ。笑

「役に立ってもらえる」瞬間そのものがないのが、実際のところ。

・地方議会は、どこも「議員の成り手不足」が深刻化している。

「無投票再選だと、『投票率』そのものが出てこない」というのは目から鱗だった。笑

投票しなければ、確かにそうだ。「投票実績」そのものが積み重ならなくなる。

・一方、「議員定数や議員歳費の削減」という、地方議会で行われてきた施策そのものが、住民たちの「地方議会」観を端的に反映していると見なすことが出来る。

「いや、議員も議会も、そもそもそんな要らないでしょ?役立ってないでしょ?」と。

そして「無投票」化することで、「住民の地方議会への無知・無関心」はますます加速し「砂漠化」していってしまうのである。

・最も共感したのは、「議会活動報告は、住民が来るのを待つのでなく、議会や議員自らが、住民に出向いて行わなくてはならない」と述べられていたこと。

興味深かったのは、ハードルを下げて、住民たちと接点を持つために、様々な工夫(堅苦しくならないようにゲームなど)を凝らしたりするやり方で、歴史的には「御講」を想起した。

・中高公民でも習う、「地方自治は民主主義の学校」(ブライス)という言葉がある。

これについては、色々なことを考える機会となった。

地方議会では、(「成り手不足」解消のため)「議会や議員の育成」そのものに、それぞれ注力し、また、「住民への発信」に皆悪戦苦闘している。

自分が興味があったのは、「議会・議員に対して」と、「住民に対して」と、双方に対して、「政治・政策知識の涵養」を、「継続的に」行っていかなければ、「良き政策と人の循環」が起こらないだろう、ということだった。

実は、自分は「地方議会」の政治プロセスについて、具体的なことは殆ど知らず、この会で初めて知った様々な概念や用語が非常に多かったのだ。

つまり、「議員たち自身・内部では知っている」(言わば専門的な)政治知識というものがあるのだが、それらは、住民には降りてきにくくなり、それが議員・議会と住民の距離を隔絶してしまう部分が出てくる。

非常に基本的なところ・初歩的地点で、住民に対する「地方政治のイメージ形成」につまずきが出てしまうのである。

・子育て世代や、子ども世代(高校生など)への「アウトリーチ」の試み自体は正しい方向と評価できる。

が、そこにも「議員・議会」と、「住民」双方の間で、相当の「知識・関心格差」があり、現状ではなかなか埋まらないだろう、というのが自分の観察だった。

・議員は、「困りごと」を自分たちに伝えて欲しい、という意識がある。

自分の考えでは、住民のうち、具体的な「困りごと」として「問題意識を言語化」出来る人というのは一部に過ぎないのではないか、と見ている。

それが、「そもそも政治の中で扱うべき=共有化される課題」なのだ、ということを、住民側で明確に意識したり、考え、深めること自体が難しいのが、今の社会のあり方ではないだろうか。

また、行政・公共・社会状況に対する気づきや課題感があったとして、「議員や議会が本当に取り組んでくれるのか?」あるいは「特定の政策知識の有無」なども分からない。せっかく言ったとして、「まともに取り合ってくれるのか?分かるのか?」という不安もある。言って通じなかった場合の失望感・徒労感の大きさというものを、想像してしまって(初めから何も言わない)というのもまた大きい。

・子どもに向けて、教育プロセスの中で「議会体験」とか「主権者教育」をやるなら、それを「大人になってから=社会人教育」にも連続させなくては無意味ではないだろうか。

そうでないと、単なる「学生時代の思い出作り」に堕してしまう。

政治について、「同じ個人が連続的に関わり、考え続ける」仕組みづくりには、まだ不足している。

・次に、議員の、その「住民は、困りごとを自分たちに伝えて欲しい」というスタンスの、「住民の客体化=お客さん化」自体にも、「地方自治」としては問題があると考える。

「代表制民主主義」の発想においては、「妥当」と言わざるを得ない部分もあるのだが。

「リサーチと言語化」を通じて、「課題そのものの理解を、住民にも深めてもらう」という「翻訳」的機能も、本来議員や議会が担うべき役割ではないかと考える。

その上に立って初めて、「行政」「議会」双方の役割というものを認識できる筈だ。

・(議会制・代表制を前提にする限りは)「議会のファンづくり」という発想があっても良かろうと思われる。

自分が今回初めて認識したのは、「議員たちの集合・一体としての議会」という性質・側面である。

小規模な地方議会では特に、その「一体感」やその重要性が際立つというものだろう。

もっとも、「それは議員同士の単なる談合や馴れ合いにならない?」というのも懸念点ではあるのだが。

・「成り手不足」問題を解決するには、住民に、「議員と議会固有の役割と仕事、またその重要性・有効性」を認識してもらわねば始まらない。

「何のためにあるの?役に立つの?」を認識してもらったうえで、その具体的な「職業観」も持ってもらう、という極めて重層的なプロセスが必要となる。

待遇面と、その労力=労働時間面の課題解決も必須だ。

つまり、(かつては地方の「名望家」層がそれを担ってきたのに対し)「本来、誰=どのような存在が、地方議員を担うべきか?」という社会的合意が崩れてしまっているのが現地点であり、議会はそこに対して「解」を自ら示しに行かなくてはならないのだ。

自分個人は、「行政を使って」という明確な意識はあって、実務的には、それで様々な便宜を図ることが出来る(また、行政とは相互的な情報のやり取りを通じて意思を伝えることも何がしか出来ている実感もある。限界はあるものの)。

が、「議会・議員を使って」という発想はない。

「何が出来るの?」がそもそも分からず、期待値もないからだ。

ではなく、本来「議会・議員を育てる」のが、「住民の仕事」である。

それは分かるが、どうもその「メリットがない」と感じるのだ。

今回の会を通じて、いくつか自分としてのスタンスや課題を整理することは出来たので、それをまとめて結びとしたい。

1議会や議員に「自分から」は恐らくリーチしない。

変に「当事者性」は持ちたくない、持とうとしないからだ。

ここまで散々「地方自治」についてブっておきながら矛盾しているのだが。

そこには、忙しくて変に関わりを持ちたくないということと、仕事上のポジションの複雑さということ、自分個人の戦略ということが相互に絡み合っての事情によるものだ。

「きちんと距離感を保っておこう」というスタンスであり、戦略と整理できる。

個人的・組織的に「積極的に政治力を持ちたい」との動機がなく、むしろ「悪目立ち」したくない、という心理が働いている。

と言って、別に「非協力」な姿勢というのではない。その時議員にも言ったのだが、「聞いてくれれば、知識や情報も、また住民の持つ(潜在)課題感も持っているから答えられる」ということだ。

「お役所脳」というのはここにも言えて、(役人でないにもかかわらず)「聞かれたことには答えるが、聞かれなければ敢えて答えない」というスタンスなのだ。

知りたいなら、そっち(議員・議会)の側からきちんと引き出して欲しい。

(そもそもそんなの介さなくても、「自治」には仕事を通じて貢献してるし、という自覚があるのである)

2地元議会の傍聴に行く。議会報を見る。予算を自ら読み解く。

3近年地方政治史を追う。

地方政治に、元々強い興味があった訳ではない。

いくつかの契機があるが、その一つは、コロナ禍で「地方自治体には、これほどまでに大きな権限が与えられているのか」と知ったこと。

国が強権で、戦前の「国家総動員法」的な措置を採ろうとしても、そのような法的建付けになっていなかったことは、非常に痛快だった。

そして、各知事や自治体単位に、非常に大きな法的裁量権があることを、そこで初めて自覚したのである。

随って、「実践的・生活的関心」というより、「知的関心」のほうが勝っている、というべきかもしれない。

が、今回のイベントで、そのための重要な素材を直接仕入れることになったのは非常に有益だった。

他にもやってみたい有益な試み(世代間・業界間交流による政策啓発)のアイデアもあるが、いずれ深めてみることとしたい。

民主党内での「バイデン撤退論」の盛り上がりが、連日のように日本国内でも報じられている。

「指名前に撤退出来るの?撤退してどうなる?バイデンの代わりに誰が民主党候補になるの?」

は誰もが抱く疑問だ。

「バイデン撤退論」ばかりが報じられて、「で?」の部分が全然報じられない異常さを感じた。

その「なぜ報じないの?」という部分もツッコミが入れられてない。

どうにも不可解かつ不愉快でならないと思ったら、きちんとした解説はあった。

バイデン氏撤退論、候補交代の手続きは 選挙資金が鬼門 - 日本経済新聞

なぜこういう冷静な解説をしてくれてないのか。

単なる「憶測」に過ぎないからなのか。

それとも、「米大統領民主党候補指名」の内情を、「日本国内で」そこまで報じるのは「マニアック過ぎるから」なのか。

しかし、だったら初めから何も報じるべきではないだろう。

「なぜ?」にも、「なぜのなぜ?」にも一向に何も答えようとしていない。

「何かに忖度しているのか?」すら分からない、「異常忖度」を感じる。

これを表明しないのは「知の劣化」としか言いようがないので、敢えて整理しておくことにした。

奇妙なタイトルとなった。

都知事選は、強い興味を持って眺めていたわけではなく、「かなり遠巻きに」といった感じ。

ツッコミを入れる以前に、日々更新される状況も含めて交錯し過ぎ、スタンスを形成することすらままならなかった、というのが正直なところ。

自分の「力」をどこに振り向ける・振り向けたいか、またそのために何を・どこにどうタメていきたい・いけばいいのか?

自分は、「誰かに何かを」託したりはしない。

一時的に「仮組み」のパートナーシップ(的なもの)を組むことはあったとしても、それは「戦略的提携・連携」に過ぎない、という位置づけだ。

この辺りははっきりしている。

去年の旅行以来、「サバイブ」を主題にしたことは前に述べた。

上述の「パートナーシップ戦略」のスタンスも、「サバイブ」を軸に構築するというのが分かりやすくなるだろう。

「自己のサバイブ」にとって、「誰とどう組むのが最適か」。

といって、「自分一個のことだけ」考えているというのでもない。

それだけでは仕事の動機を調達することが出来ないからだ。

しかし、現代のような混迷した時代や社会では、「善」とか「義」とかの判断基準をどこに・どのように求めていいかが、そもそも混乱してしまう。

「混迷」の中から、「善」とか「義」、あるいはその判断基準を掴み出そうとする、その作業や意志そのものが重要なのだと考えるに至った。

「混迷」といっても、そうした「価値」基準そのものが消え失せたという訳ではない。

様々な事情から、とても分かりにくくなっている、ということであって…

それが一意的・一元的に決められるということでも無論ない。

「自分の『力』をどこに振り向ける・振り向けたいか、またそのために何を・どこにどうタメていきたい・いけばいいのか?」への、自分なりの回答が、表題の「善と義、カオス(混迷)、サバイブ」なのだ。

混乱・混迷の世を、自分なりにきちんと解き明かしに行った上で、「善と義」、その判断基準を樹立しに行く。

それそのものが「巨きな力」となる。

「世間が面白くない時は勉強に限る」という好きな言葉がある(ドイツ語学者関口存男の言葉らしい)。

(個人的には、今の世が「面白くない」とまでは思わない。現状、「楽しめている」というほど乗れてもいないが)

「勉強」には、実際的な意義や目的もある。

「面白くない世間」を解き明かし、自分なりの処方箋を見出しに行く、という目的である。

恐らく、この数年、「カオス」のほうが自己内部にかち過ぎていた。

「解き明かしに行く」武器と自信が、ようやく揃いつつある、ということだ。

もう一つが、「ポジション」と「スタンス」。

こちらも見えてきた。

今後の発信においては、それらを整理し、絞り込んでいくことが焦点となっていくだろう。

政治資金規制問題は、関心があり、結構ニュースには目を通している。
昨日の論戦に目を見張ったのは、「議員提案を闘わせる」論争になっていたからだ。
「悪い意味で」「良い発見を」させてもらえた。笑

「行政(政府)」を対手にしない、「政党間の議員どうし」の国会論戦があることを、「発見」したからだ。
議員たちが相手にしてるのは、大臣などの政府関係者ではなく、「他党の議員どうし」なのだ。
いや、でもこれが本来の「国会」のあるべき姿である筈だ。
仮に最悪なネガティブな政治問題が契機になっていたとしても…

「政府vs.政党」ではなく「政党vs.政党」のやり取りは、彼ら自身の利権の源泉と直結する問題だけに、実に白熱して見応えがあった。
「国会」というのは、憲法に書き込まれている建前だけの存在じゃなかった。
別に褒めてる訳でも褒めたい訳でもない。
議員や各党のドス黒い腹の中も見え見えにしてくれるし、また、「政府に反対」だけではない、(自分たち自身の生き死にに関わるから当然だが)「積極的論戦」の場も実はあり得る。
「国会」には、きちんとした役割を果たし得る場合があるのだと知らしめてくれた。
それだけでも、今回の裏金問題の意義があったと、まずは評したい。

最近、ネットの記事でよく見かけるようになったのが、「日本の労働者は、世界でも際立って仕事へのエンゲージメントが低い」というものだ。

まあそうだろうな、と思いつつ失笑している。

片方で、少し前から「パーパス経営」と「パーパス(目的)」を重視するという経営論のトレンドも生じていて、それ自体は好ましい流れではある。

自分たちの会社の、業務の「パーパス(目的)」を問い返すところに判断基準を立ち戻しているからだ。

昔、Twitterをやっていた時代に、「日本の会社員労働者は単なる奴隷だ」という趣旨のツイートをしたら反発するコメントが来たのが印象に残っている。

「奴隷呼ばわり」が、不快感を与えるものなのは承知している。

しかし、「お金のため」「生活のため」「家族のため」と言いつつ、会社、または自分の所属している組織においても「何のためにやっている仕事?」という「大義」も、「エンゲージメント(自分がそこに参加する意義)」もない、分からないのに働いている奴って…?とは率直に思う。

日本のサラリーマン社会では、「生計を稼ぐための歯車でよい」と割り切って、出世も昇給も大して望めないどころか、「楽しさどころか、意味も味わいもない仕事」に(定年まで)没入するのは、「むしろ立派だし褒められるべきでだし、なおかつそれが必要である」という価値観・仕事観(?)もあったのではないだろうか。

雇用契約上の建付けとしては、「奴隷」ではもちろんない。

会社員(被用者)の側にも、退職の法的自由はある。

単に、その先の「生計」の保障の有無云々の問題がある、というだけで…

自分が「奴隷」、特に「自発的奴隷」と見なしているポイントは、「自発的に思考を放棄・停止している」プロセスを、そこに看取しているからだ。

もちろん、生活内部の時間をしっかりと割り切り、「仕事は仕事、プライベートはプライベート」で、「自由」を確保している人ならば、そうした「自発的奴隷」には必ずしも当たらないだろう。

その人は、自らの判断で、「仕事」を「(生計・カネを得るための)手段」にすることに成功しているからだ。

自分が重視しているポイントは、その人個人の「自由」の確保の有無が、その「思考放棄」と強く関わってきてないか、ということなのだ。

「自発的に思考を放棄・停止する」の「自発的」というのも、微妙な部分ではある。

通常、年齢がいくほど、(特に家族・家庭的)しがらみが多くなり、行動の自由は利かなくなっていくものだからだ。

年齢がいくと、子どもの進学や住宅ローン、自分自身の高齢化に伴う備え、親のケアなどの課題というのは必ず向き合う課題となる訳で、そうした「家族的しがらみ」があると、「自分個人としての自由度」というのは利かなくなってくるのは普通だ。

「自発的に」というのではなく、「環境起因により」自由(な選択肢)が必然的になくなる、または狭まっていく、ということだ。

尤も、日本では世代間の断層が極めて大きく、真っ当な「対話」すら成り立ちづらい、という深刻な事情もあるが。

長期持続した不況による、昇給・昇進自体もさして見込めない、というところから、もっと若い世代は、経済そのものの縮小に伴い、結婚も子育てもままならない、というところへと転落してきている。

上(前)の世代ほど、「逃げ切り」が出来たのが、今の世代は、年輩であっても「逃げ切り」が出来るか否か、といったサバイバルを迫られる状況になっているし、若い世代は、そもそも文字通りの深刻な「死生線」上に置かれてもいる人も少なくはない。

しかしそれでも、「会社員」という身分の(差当りの)安定感・安心感には代えがたい筈だ。

ただ、自分にはどうしても、その安定感・安心感と、「思考停止」とを引き換えにしているように見えてならないのだ。

そして、会社員で構成される組織というのは、文字通り上から下まで、世代によるグラデーションはあっても、「思考停止」の成員によってしか成り立ってないのではないか。

あるいは、「思考余地」が残っていたとしても、その自由な時間や思考は、決して「会社のためには使わない」と割り切っている人も少なくないかもしれない。

彼らは、「仮面奴隷」「偽装奴隷」と言えるかもしれない。笑

割り切って、「会社や、組織の上から言われた業務だけやっておけばいい」と半ば諦め、半ば投げやりなスタンスに転じ、仮に気づいたことやアイデア、あるいは不満などがあっても「どうせ変わらないし、自分だけが言い出しっぺになっても、悪役になって変に叩かれるだろうからもういいわ」と何も言わなくなっていく。

どうも、近年噴出する日本の大企業の不祥事というのは、そうした「会社員の病理の塊」を見せつけられている気がしてならない。

(これは、自分にもそうした経験があるから実感としてよくわかるのだ。笑)

また、そこに仮に不法行為が含まれていたとしても、「どうせ皆もやっているから」と「赤信号皆で渡れば怖くない」式の「思考停止共犯系奴隷」へと転落していく。笑

では、会社員個人や、日本の組織、また日本社会にとって、救いはあるのか。

(回答すべき対象に対する)グラデーションはあるものの、「ない」というのが誠実な回答となるだろう。

「逃げられる」決断を下せる余裕のある人は、既に、またはいずれ必ずそれを行動に移せるから、そもそも問題ではない。

また、十分な余裕があり、今の時代でも順調な成長軌道を描いている「勝ち組」の企業やそこに所属する個人には無論関係のない話だ。

が、自分や組織が腐敗している・していくと分かっていても、諸々のしがらみから脱出することは容易ではないと、上述の各種「奴隷」へと、大多数の人々が転落していくというのが、殆どの場合に当てはまるのではないか。

自分が可能性を見出しているのは、おかしな言い方かもしれないが、「きちんと逃げおおせた・逃げおおせる人々」のうち、「日本社会に残る」ことを自分自身で(積極的にまたは消極的に)選択している人たちだ。

その人たちには、まだ「時間の自由や、思考の自由」が残されている。

「市民」たる資格や素質が認め得るだろう、ということなのだ。

悲観的な論調で書いてきたのに分裂的な結論と思われるかもしれないが、自分は日本社会に「絶望」はしてないのである。

無論、純粋に「自分個人とか身近な家族や友人のため」(=利己的目的)だけに行動する人はいるだろうし、それがもしかしたら圧倒的多数なのかもしれない。

ただ、そこにモヤモヤ感のある人もいるだろうし、そこに社会・法・公共・政治の回路を噛ませるほうが実際はトクで効率的だ、という部分に気づく人も出てくる、またはそこに向けて行動する人も出てくるだろう、ということなのだ。

自分がベットしているのはその部分だ。

自分は「革命」主義者ではないが、(小泉以来の)「構造改革」を「在野で、民間で」引き継ぎたいと思っているものだ。

したがって、自分が取る社会戦略は、「組織の内/外から、改革の動きへと突き崩す」方向と整理することが出来る。

日本人というのはスタンピードに弱いから、その手法・考え方の突破口を、各所に同時的に仕掛けに行けば、すぐに・全部を変えられないにせよ、段階的変革の糸口は得られる。

随分と迂回してしまった。エンゲージメントというのは、「自分が動けば変えられる」という実感・体験により加速的に向上していく。

日本の組織というのは、多重的かつ過重にそれを圧し潰す構造になっている、というだけで…

「収益性の向上」とか「イノベーション」というのは、実際はその先にあることだと思うが、目先の収益主義に囚われているため、組織トップから末端に至るまで「カネのための仕事」という「刹那主義中毒」が蔓延し、組織と個人総体が抜けられないスパイラルにハマっている、と言えるだろう。

しかし、組織内にいて、その「現実」を突き放して見られる人は、実は全員にまだ可能性(カード)は残されているのだ。どんなカードか、自分には必ずしも分からないだけで。

その人たちは全員、「奴隷」ではないのである。