浅田彰「変貌する科学」(『科学的方法とは何か』) (original) (raw)

分子生物学、サル学、経済学、数学、複雑系科学の研究者らとの共同研究をまとめた本。序文にあたる浅田彰の「変貌する科学」を取り上げたい。

浅田は「科学は世界の客観的な記述である」とする論理実証主義的な検証主義やポパー反証主義の常識が、数学的公理主義やクーンのパラダイムによって相対化されていると考える。

レヴィ=ストロース構造主義は数学的公理主義の影響下に出発したことを参照し、「各々の文化には、それぞれ首尾一貫した構造をもつ世界像があり、近代ヨーロッパの世界像だけが世界の客観的な記述とはいえない」という「超閲覧的主体なきカント主義」または「相対化されたカント主義」と捉えることができる。

浅田はクーンのパラダイム史観にも「相対化されたカント主義」を見出すことができると考える。検証主義や反証主義的な累積的進歩というヴィジョンは、裸眼で世界を眺めることにたとえられる。新しいデータが加わるにつれて世界への解像度が増す。クーンの革命史観によれば、データ自体がその時々の理論に依存しているため、いわば科学はそのつど一定の「色眼鏡」をかけて世界を眺めており、科学革命においては色眼鏡をかけかえる=パラダイムの変更によって飛躍的な変化が生じる。

しかし、「近代科学のパラダイム」などというものは存在するのか、と問う。たとえば芸術史ではロマネスク様式やゴシック様式が存在すると言われるが、近代様式は存在するとは言えない。近代様式とはロマン派や印象派といったさまざまな様式を競争させ交替させる過程にほかならない。同様に、ギリシア科学やアラビア科学のパラダイムのように、近代科学のパラダイムが存在するとは言えない。近代科学のパラダイムとは、スタティックなものであり得ず、資本主義のようにさまざまな局所的なパラダイムを競争させ交換させる過程、さまざまなシステムを解体しては組み替えていくダイナミックなプロセスに他ならないと説く。

加えて、パラダイムの間の関係も、パラダイム史観が想定するように相互に独立な理論体系ではあり得ないという(ニュートンアインシュタインの「理論の共役不能性」)。

「実際の理論的生産の現場では、客観的な世界もないけれど完結した理論体系もない、この両極が事後的にそこから抽象されてくるような混沌とした現実のなかにあって、絶えざる対話を通じて概念の鍛えなおしが行われていると考えるべきだろう。実際、そこでは、いわゆる客観的な自然ではないにせよ、理論家の独白を許さない他者としての自然がそこに存在していて、それらの複雑に絡み合った対話の状況が展開されているのだ。そこに根差しているからこそ、形式的には別々の独白に属していて共役不能な二つの概念も、ある程度つながったものとして了解されうるのである。累積史観、とりわけポパー流のそれが、近代科学に関してある程度のリアリティをもっているのも、そのためだろう」(9頁)

ポパー的な反証主義が何故に人気なのかがわかる一節である。

過去の科学(史)においても出来上がった理論体系よりも解体-再生産の過程こそが重要だという。単純なパラダイム交替史観は成り立たず、パラダイムの体系化・固定化に向かおうとする動きと、たえずそれを突き崩そうとする動きとして科学史をとらえなおす必要がある。前者をドゥルーズ=ガタリはロイヤル・サイエンスとマイナー・サイエンスに分けた。浅田は当時のカオス理論やフラクタル理論をテクノロジーに結びついた問題提起的なマイナー・サイエンスと捉え、プラクシスの科学として称揚した。

ゆえに「科学の変貌」と言ったときに、近代科学を超える新たなパラダイムが問題となっているのではない。つぎつぎと新たなパラダイムを作り出していくことこそが、近代科学のパラダイムだからだ。

本書でなによりも重要なのがニューサイエンス批判だろう。近代科学、とくにその還元主義は、社会科学においても何度も批判に晒され、ホーリスティックな有機体論が対置されてきた。「ホーリスティックな有機体論そのものがアトミスティックな機械論のミラー・イメージにすぎず、後者から前者に飛躍することは実のところ逃避あるいは後退でしかない」。

長々と書いてしまったが次の箇所が引用したかったのだ。

「還元主義が「・・・は・・・にほかならない(nothing but)」というとき、ほとんどの場合そこには短絡がある。ところが、それ以上分析を進めることなしに、そこからこぼれ落ちた「something else」を救い出そうとすると、それは不可避に実体化され、有機的全体性といった形而上学的な概念はすりかえられてしまうのだ。ここで可能なことは、「決してnothing butとは言えない」という否定的言明にとどまりつつ、あくまで分析を進めていくということだろう。実際、長野論文が分子生物学を例にとって強調する一見ごくあたりまえの事実、アトミスティックな分析を進めることによってはじめて有機的な相互連関もはっきりと見えてくるという事実こそ、あらためて想起されるべきものではないだろうか」(15ページ)

nothing butのsomething elseへの頽落と呼びたくなる。このような実体化=形而上学化を批判の手つきはデリダさながらである。ニュー・サイエンスといういつの時代もなぜか滅びない形而上学(ニュー・サイエンスとは異なるが「利己的な遺伝子」も批判されている)に対して、あくまでアトミステイックな(≒還元主義)分析を堅持するのが浅田彰の立場だ。

そのほか座談でも京都学派を批判。 経済学におけるラッファーカーブへの批判も興味深い。ヴァレラの評価はいまはどうなんだろう。 1986年の著作。

そういえば『逃走論』で清水博『生命を捉えなおす』を取り上げつつも、その形而上学を批判していたのもなんとなく思い出す。ところで、坂本龍一関係故なのか、福岡伸一の「動的平衡」におべんちゃらを使っていたのは、浅田としてはどうだったんだろうか。