「才能も無ければ、努力もできないヤツ」 (original) (raw)
YouTuberや、色々な競技で活躍してくると出てくるのが、アンチという存在だ。足を引っ張ることばかり考えて、根も葉もないことを事実みたいに並び立てる。
そういうコメントは見ていて嫌な気持ちになるので、なるだけ見ないようにしているのだが、1年前にたまたま目にしたアンチコメントへの”返し”が、未だに忘れられない。
それは確か、とある若手のアスリートに送られたDMか何かだ。正直内容は、言いがかりというか、妄想100%で、それ自体がとても痛々しかった。
曰く、「こんな短期間で成長できるわけが無い!絶対にズルしてるに決まってる!みんな!騙されちゃだめですよ!」といった感じ。
そして僕が忘れられないのは、そのコメントにあった返答だ。うろ覚えなのだが、大体以下のような返しだったと記憶している。
「才能も無ければ、努力もできないヤツって、こうやって言いがかりつけて足を引っ張ることしかできないよね。
或いは、足を引っ張れたつもりになっている、というか。
人間的な器としても格としても、完敗していることに気付けていない。そういう意味ではただ哀れなだけの存在なので、コイツが何を言おうと、どうでもいいよ」
ちなみにこのコメント主は、当事者のアスリートとは別の人だ。だがその人のプロフィールにある経歴を見ると、打ち立ててきた実績は匹敵するものがあったように思う。
・・・なんというか、ぐうの音も出ない。これ自体の「アッパレ!」という印象だけでなく、どちらかというと自省のきっかけとして、僕は下線部の言葉を大事にしたい。
”才能も無ければ、努力もできないヤツ”。すなわち、僕が誰か、何かに嫉妬しているとき、才能・努力のどちらも無いことを潜在意識では自覚しているのではないか。
実は過去、そういう記憶に心当たりがある。今日はそんなことを引っ張り出しながら、記事を書いていこうと思う。
愛と憎。
僕はご多分に漏れず、16~7歳の頃はすごく悶々としていた。思春期だからではなく、自分の能力の限界が、思ったより狭いと自覚しつつあったためだ。
5年間続けた野球も止めて、特に何の部活にも属さず、ただ毎日ゲームに熱狂しつつも、他者と比較して特別上手な腕を持つわけでもない。
相手の目も見れず、女子とも話せず、勉強も1位が取れるほど猛烈にできたわけではない。子供の頃に憧れた煌びやかな世界。いずれ行けると信じていた場所。
自分はそこに行けないと悟ったのが、大体高校2年生の頃だ。拠り所も、自信も、将来の指針も全てが雲隠れし、行き場のないイライラばかりが募っていく。
そんな僕を当時支えていたのが、いわゆる2ちゃんのまとめサイトだ。特に「炎上」とされるお祭りをまとめたページに不思議と惹かれ、文字通り朝まで観ていたほどだ。
人を断罪”する”側は、なんて心地が良いのだろう。当時の僕は自尊心がクソ過ぎて、そういう帰結に至ってしまった。要は、ゴシップが好きになったのだ。
芸能人とかだけじゃなく、学校内のゴシップもそう。誰それが誰それのことを好きだと言っている、無謀だよな、そんなカスみたいなことも言ってしまったと思う。
この頃、僕は友達が極端に減ったという記憶はない。だが、そうなっていても全くおかしくなかったくらい、当時の僕は、今の僕が見てもゴミ人間だった。
思い出しても猛烈な感謝が込み上げてくる。同じ高校だった奴らと未だに酒を飲む機会があり、その度に雑にイジリながらも、根では僕は今でも同じ濃さで感謝している。
さて。この暗黒期をどうやって脱出したか、実は明確に記憶している。それは別の高校に行った友達に誘われて入塾した、とある大手予備校がきっかけだ。
その空間は、とにかく前向きに勉強を頑張ろうという空気で充満していた。嫉妬というくだらない思考自体が一切混ざっていない場所。そんな暇があったら努力しろ、と。
圧倒的才能を持ちながらも、”学力への渇望”とでもいうべき鬼気迫る何かを持って勉学へ打ち込む他校の生徒を見ていると、みみっちいことを全く考えなくなった。
「アンチ活動めいたことをしていても、何も得られやしない!!!得意なら伸ばせるよう、苦手なら埋められるよう、頑張り抜かなきゃいけないんだ!」という納得。
ガチ勢の中にいると、周りからの冷ややかなコメントは一切混ざってこない。「勉強なんて頑張ってどうすんの、ププ」という存在は、一人もいなかった。眼中にないのだ。
そうしてやり切った果て、僕はそれまでの自分が歩んできた道とはちょっと違う場所に出ることができた。そこはそれまで居た場所より格段に、健やかな場所だったと思う。
才能か、努力か、或いはその両方か。その大切さを身をもって知っている。或いは、嫉妬なんて実は何も生まないことを、潜在意識のレベルで理解している。
そういった人たちのいる世界があることを知り、自分が一時期とはいえそこに行けたことは、今となっては物凄く大きな財産である。
とはいえ、人生はやはりシンプルではなく、僕はそこからしばらく経って、もう一度自分のアイデンティティを粉砕され、嫉妬と無力感にまみれた日々を送るのだが・・・
それはまた、別のお話だ。そして今現在は、西野亮廣氏がブログで書いていた”ある話”が、自分事としてとても現実味を帯びてきているのに気付き、すごく焦っている。
それは、「三十代になると、二十代で猛烈な努力をした人同士が集まって繋がるようになる。」という話から始まる。そして、更に続く。
「そうじゃない人は、嫉妬と足の引っ張り合いしかないコミュニティに属すしかない」といった感じの内容だ。猛烈にギクッとさせられる。
「才能も無ければ、努力もできないヤツ」とラベリングされたヤツがいたとして、それを正そうとする聖人君主は、一度社会に出てしまえば、もう存在しなくなる。
アメーバのように、そいつがいる周りから【デキる人】はゆっくりと分裂して消えていき、あとに残るのは【アンチ活動と嫉妬に忙しい同志だけ】となる。
才能があれば、それはそれで評価される。しかしそれがなくても、猛烈な努力を軽んじない人は、同等以上に価値を持つ。両方あれば、それこそ最強だ。
才能も無ければ、努力もできないヤツ。そういうヤツが1人でも組織に居ると、確かに死ぬほどめんどくさい。僕は、やはりどうしても、そう思われたくない。
言われる側だったことも、言う側だったことも、その両方の経験があるだけになおさらだ。
もちろん僕だって人間なので、体調や機嫌によって、アンチっぽいことを考えそうになることはある。だがその度に、猛烈な罪と恥の意識を、どうしても後で感じてしまう。
「才能も無ければ、努力もできないヤツ」。そう言われないためには、大体のことに才能を持たない僕なので、せめて努力をするしかないと、改めて襟を正そうと思う。
では今日はこの辺で。