わたしの内出血 (original) (raw)

横道世之介」という映画がとても好きで、

高校三年生の春休みのある日に見たことを今でも鮮明に思い出せる。

私は大学受験を終えて穏やかな日々を送っており、

進学先の法政大学が舞台になっていることを知って作品を見たのだった。

人生に一人はいる、数年に一回思い出す「あいつ」の話である。

今は連絡を取らないけれど、思い返せば「あいつ」の一言に助けられたなあとか

そういうやつなのだ、横道世之介は。

なんでこんなことを思い出したのかというと、大学時代のあいつのことを思い出したからだった。

ちょっと思い出しただけ、である。

(ちなみにあの映画は好きではない)

まず触れておくと、特に恋愛感情があったわけではないし、彼と交流があったのはほんの数週間である、今どこで何をやっているかどうかはわからない。

もしかしたら生きていないのかもしれない。

でも私とってはそこは、それほど重要なことではない。また会いたいなと努力するわけではないから。

彼は井の頭公園の中に住んでいた。

文字通り、彼の家には吉祥寺駅を降りて井の頭公園を通り抜けていく必要がある。

「昔ここでバラバラ殺人があったんだっけ」なんて思いを馳せながら少々歩くと、彼の家に着く。

大抵鍵はかかっていないから、勝手に乗り込んで床に落ちている本などを読んだ。

柳田國男ラヴクラフト、フィリップKディック、全部借りパクしたままだな。

彼は大変文化的な人間だった。

見た目はかなり怖いし、中身は結局女の子好きのインキャみたいなところがあって

しかもかなり生い立ちが壮絶とのことだったがあまり詳しくは聞いていない。

彼の家で本を読んだり映画を見たりして、音楽の話になった。

私は映画が好きだったけれど、彼は特別映画が好きというわけではなかった。

だけれど文化的な人間だったからとても知識が広くて、どの映画で誰が音楽を演奏していたか鮮明に教えてくれた。

私は当時映画を「見る」という行為と「知っている」という事実が多分かっこいいと思っていたんだと思う。

それまで総合芸術である映画における、音楽の意義など考えたことがなかったから。

だから、それから、映画を見る時は必ず出てくるアーティストをチェックするようになったし、

その後いろいろバイト先で新しい音楽に出会ったりなどしてかなり趣味が広がった。

当時の私はかなりメンタルがやられていて、家にも居場所がなく

わざわざ家から離れた吉祥寺までよく行ったものである。

本当に当時、生きている意味がわからなかった。

というよりかは大人になることがとても怖かった。

だから不安定な立場に置かれていた大学生活よりも、今の方が自由だと感じることができる。

私の中で彼はとても死に近づいている人間だった。

けれど、死にたがりの私に対して

「死んだ人の時は止まる、みんな忘れてしまう、だから死ぬなんて馬鹿だ」

と怒って抱きしめてくれたのは過去にも未来にも彼だけな気がする。

映画を見る度、吉祥寺を通過する度、ラッキーストライクを見る度

決まって思い出すのは彼のことである。

私のことは死んでも生きていても、忘れてしまっているだろうが

私はきっとこれからも、多分、ちょっと思い出すのだろう。

ある種の諦めをデカダンだと自虐し、賛美してきた人生だった。

私のことを「傾き」だと笑う彼奴等を、「無神経だ」と馬鹿にしてきた人生だが

諦め続ける人生は「何て無責任なんだろう」とこの歳になって考えたりする。

自分を諦めてしまうことは、他人を諦めることであり

自分の発言や行動に自信を持たない、

担保をかけない人間を信用しないのは至極当然なことである。

それなのに「愛されていない」だなんて自己中心的に尽きるな。

特に、私は与え続ける愛こそが真の愛だというロマンチシズムを抱えており、

怒りや反発を伴う感情の揺れ動きを「躁鬱だ」「バイオレンスだ」と卑下してきた。

でも、感情の揺れ動きは「責任を持って考えている」人であれば当たり前の現象であるし

恥じる必要などない。

「素直じゃなくて可愛いね」はグロッキーな恋愛の形のみに収まるし、

抑圧され続けた結果爆発してしまう方がかなり幼稚で問題だと思う。

その結果、25歳になった今性的な関係にいる人はおらず

お互い無償の愛を送り合う友達で、無菌温室状態の人間関係が構築されている。

仕事に関してはもう少しストイックに考えなければいけない。

働き方改革で労働者の生き方がかなり尊重されるようになったが

本当にそれで「社会人なのか?」というような事案も多くなってきている。

「サラリーマンだから」「固定給だから」「定時だから」

どうぞお帰りください。それぞれの働き方があるからね、

それが許されるとて、じゃあサラリーマンが評価されるかはまた別の話である。

一社員として、お金を稼ぐ以上に求められる責任を、理解するためには

残念ながらデカダンではいけない。一生懸命でなければいけない。

なぜなら会社には存在意義があり、顧客があり、確実な明確な目標があるからだ。

それに全力で立ち向かうことがサラリーマンの使命である。

労働と思うからめんどくさいのであって、

優秀な経営者やサラリーマンは仕事とプライベートの境界線が曖昧だから生き生きとしているのである。

「それができない」と感じる人…

世界において自分の存在意義があるのかどうか、なんて話をしていたら宇宙や哲学の話になってしまう。

そんな壮大なことに時間を費やすのも面白いけれど、結局は時間の徒労におわるだろう。

新しい気づきは数回に一回、人生を変えるような映画に出会えればいいのだから。

だからそれまではできるだけ全力で仕事をした方がいい。

全て怠慢と責任転嫁でやり過ごす。

その根本的な考えをやめて、

関わる人全てに「愛」を与え

「愛」を与える責任を自覚する。

誰かを「幸せにしたい」、誰かに「幸せになってね」という言葉がめちゃ嫌い。

幸せに関して上から目線な上、

幸せにゴールがあるように見えて、そんなものは無いから、そういうのって嘘つきの言葉だ。

だから大嫌いだ。あなたにそんなことを言われるまでもなく、私は圧倒的に幸せなので心配なさらなくて良いわよ。

幸せを定義づけるということは、「300メートル走をやります!」と言われて、実はフルマラソンだった感覚。

ぐるぐる同じ校庭を回り続けてしまう。

むしろゴールなんてなかった、エンドレス。人生ってそんな感じ。

そういう嘘つきな言葉を気軽にかけちゃう人はさ、

交際や結婚や出産のような通過儀礼(と一般に思われていること)が、無条件に幸せであると肯定されることの暴力さに気がついた方がいいよ。幸せに定義も際限もないのだから。

常に、恒常的に「貴方が幸福の隣人で在ってほしい」というような、平和の継続に対する希望が、愛の本質な気がしてならない。

それは実現可能かは別として、ささやかな祈りのようなものなので。

世の中は諸行無常なので。美しき反抗として、ね。

本題、最近の話。

私はとても満たされている。ということを前提にしてね、

私はADHDではないんだけど、だから何もしないのがとても好きなのだけれど、

最近私の中のスリム・シェイディがうるさくて堪らないので、手と足と口を動かすしかないんです。

だから突然部屋の掃除をとことんやってしまったり、一人で一週間旅行してみたり、こうやって思うことを誰にも見せないメモに書き溜めたり、1人で延々と話し続けたり

脳内物質が過剰に出てしまい、そういう機運が究極に高まって、7月あたりからまた眠れなくなってしまった。

私にとって、普通のことを当たり前にしているつもりだったけど、遂に知らないおじさんの声が頭の中で止まらなくなってしまって、流石に最近やばいかなと思い始めている。

何か行動しているつもりでも、何もことが進んでいなかったりする時は最悪だ。

ずっと永遠に行動計画を頭で練りに練っている状態だから。

だからこの手記も6月以降纏まった文章にならなかった。

私の周りの出来事はとてもうまく進んでいるから、今回に関してはメンタル的な要因よりも、脳の作り自体に問題を感じざるを得ない。

よくよく考えていれば、私に身体的・精神的に障害がなく、食べ物に好き嫌いがない時点でクソ強いので、

鬱ではなくデカダンで居れるうちはめちゃくちゃハッピーなのかも、と思ったり、しています。オフィシャルデカダンディズム。

少し前を向き始めた時期だから、本質的に解決策が見出せないような今回のケースが本当に怖いです。

損したくねえ!っていう考えがあまりなく、常に得でラッキーだなと思うばかりだし、

やっぱり他人の幸せを軸に生きていきたいし、

私はブルジョワでは無いので、だから私はきっとずっと貧乏人なのだが、

自分が操作できる範囲のことを、自由にできるのはとても幸せだな、と思うばかりです。

最初に戻ってしまうけれど、残念ながら、私に誰かを「幸せにしたい」という度胸はなく、「幸せになってね」ということはゴールがなくて残酷で無責任な発言なので、

私を見守ってくれる全ての人が「愛される環境にあって、幸せな状態が継続して欲しい」と思うばかりです。

「あの角を曲がれば、親しみ深い街並みが見えてくる。」

と心構える。

ドン・キホーテの角を曲がり、その先のT字路の先。

私の原風景であるのに、いつもすこしどきどきしてしまう。

私は3歳まで大阪で育った。

父が建てた家があり、まだローンを払い続けている。

住むことのない家に金を払うことで、生活は困窮しているが

父は頑なにその土地を売ろうとしない。

非生産的なことに対して長年疑問を抱き続けてきたが

最近は父の気持ちがわかるようになってきた。

私は3歳までしか大阪に住んでいないが、

やはり出身地は、というと大阪だと考えてしまう。

それはただ単に出生した土地だと言うだけではなく

いまだに「帰る場所」が用意されているからなのかもしれない。

30過ぎまで「帰る場所」で暮らした父からすれば、手放すことは容易ではない。

すこし、その気持ちがわかるようになってきた。

大阪に赴くと、いつも感傷的になる一方で

最後にはとても新鮮な感覚も持ち帰ってくる。

それはきっと移ろう街並みに対するエモーショナルな気づきではなくて、

私が大人になって、自由になって、できることが増えた故の感覚なのだろう。

小さい頃、私の行動にはいつも親の加護があった。

よく遊びに行く公園、保育園、海遊館USJ天王寺動物園

全てが守られていた。

その時の記憶は鮮明ではないから、エモーショナルになりようがない。

親から昔よく遊んだ土地やその時の私の行動を聞いて、思い出を保管するしかない。

だからこそ、大人になって再度天王寺動物園に行った時には

新鮮かつ、何故か懐かしみを感じてしまった。

ここが私のゆりかごであったのかと、しみじみ思いを馳せるのである。

私は3歳までしか大阪に住んでいないから、大阪の飲み屋には詳しくない。

地下鉄の乗り方も詳しくないし、関西弁だってなんだか不慣れになってしまうものだ。

大人になって大阪に行くと、大変便利な街だと痛感する。

改めて私はこれまで都会でしか生活してきておらず、

大人になってやっと田舎の暮らしを知ったと言うことに気が付く。

(田舎の暮らしが、私をまた癒してくれるのであるが)

父方の祖父母はかつてブルジョワであった。

斜陽というべきか、没落していったブルジョワである。

いい意味で、世間知らずで、いい意味で全てが美しかった。

私は近鉄百貨店の高級食材で作られた、無添加の離乳食で育ったし

食器だってウェッジウッドノリタケのものだった。

母は町工場の社長の娘であったから、そんな父方の親を気取っているとよく馬鹿にしていた。

没落してしまったから、最終的には私の父には遺産は全く残らなかった。

子供からすると、あまり親切なことではないかもしれない。

けれども、実家に帰って整えられた食器棚や

美しい床の間を見る度に、それが無駄であるとは到底思えないのである。

私しいものには、美しいなりの価値が存在しており、

私も「美しい」と、無駄であっても「無駄にしたくない」と口にしたいのである。

それは、私の血の中の、かつてブルジョワだった記憶から思い出されるのだろうか?

定かではないが、美しいものを見ると、懐かしみと親しみを感じてしまう。

そんな感性を持っていることが何よりの誇りである。

『自己肯定感が低い』

という事実を受け止めてみよう。

自己肯定感を高める必要はない、と言うよりかは

25年間生きてきて、今から自分の内面を大変革するなんて到底無理なので、現実を現実として受け止める以外に手段は無い。

『自己肯定感が低いから自分はダメなのだ』

という意識がさらに自己否定感を加速させている気がする。

自己肯定感が高い人間と同じフィールドでやり合うことは、相手にとってかなりのアドバンテージがあるので、やめた方がいい。

この世の大抵の事は、自己肯定感が高い人間の方が上手く事が進む。

もっと上手く言えば、自己肯定感が高い人間にとって「上手くいく」も「上手くいかない」も、関係ない。

圧倒的に自分を庇護してくれるこれまでの環境と、環境に慣れた自分がいつまでも存在してくれるので。

「自己肯定感が低いなぁ〜自分。」

と自分を卑下することは今までたくさんあったのだけれど、

「なぜ私は自己肯定感が低いのだ?」

逆張りに人生を深掘りする機会は少なかった。

なぜなのかは過去に回想しているのだけれど、

主には

①顔面へのコンプレックス

②小学生の時、勉強ができなかったこと

③運動神経が低すぎてスクールカーストが低かったこと

④なぜかいつも友達からハブられてたこと

①.②に関しては努力(物理)と努力で少しは克服できた。

③に関しては、歳をとるにつれて運動する機会が減って比較対象=自己を卑下する機会が減ったから気が付かなかった。

最近気がついた、あと少し運動することが楽しくなった。他人と比べなければ。

④に関しては、よくよく思い出すと、シンプルに性格が悪いことを幼少期から自覚していた。

すごい性格悪かった、

知らない子の悪口が描かれている悪魔の手紙が落ちていたのを拾って、わざとその子に渡したり(ひどい)

うるせーやつにはうるせー正論でたたかっていた。変にませていたのだ。

そりゃ友達いなくなるな。

ということを、理解している…

でも、今は過去の自分だと納得した方がいい…。

人間は誰しも変わらない部分があるけれど、

なんとか自分が困った時に自分の嫌なところを治せると信じている。

信じるしかない。

それが忘れること、でもいいじゃないか。

自己肯定感がないことを理解して、もうさっぱり諦めちゃえばいいのじゃない。

私はandymori好きだし、ハヌマーンすきだよ。

大森靖子もカネコアヤノもすきだもん。

忘れることは、生きること。

目の前で起きていることを現実だと受け止める、ということの無骨さよ。

受け止められないほどの光景の暴力と、その連続になす術がない。

その光景が、「美」の連続であればどれだけ素晴らしいだろうか。

見渡すほどの美、美、美。

美による暴力、なす術ない自分。

もうフランスに行ってから半年が経過するのかと思うと、

色褪せない記憶の解像度の高さに、驚かされる。

記憶の不確かさに関心深く、私は時こそが全てを破壊するのだと信じてやまないのであるが

長年恋焦がれた街は私を裏切らなかった。

今も裏切らずにいてくれている。

むしろ、私が訪れる何百年もまえからそこに佇んでいて、普通に存在していた。

普通だということ、が、私にとっては異常事態だった。

フランス旅行を振り返ると、数年かけて計画していたため、

パリに関しては、個人的には見慣れた街であった。

パリに関して

街のトイレの位置や地下鉄の乗り方まで完璧にマスターしていた。

見慣れた憧れの街は非常にいい意味で、想像通りだったのだ。

想像通りだという意外性を含め、新たな気づきは何点かある。

一つ目は自分が想像以上にフランス料理に馴染んでいたということだ。

日本食が恋しくなると思ってインスタントの味噌汁や即席麺を持っていったけれど

全く不要であった。

ひとり暮らしをしながら、ワインに合うツマミを日々研究しているから

当たり前といえば当たり前なのだが、全てのものがおいしかった。

二つ目は、美術館の自由さであった。

本来美術というものは人にとって、文化的な意味で必要不可欠なものである。

海外に行かなければ気が付かないことだが、日本の「美術」に対する意識は堅苦しい

美術だけでなく、問題は英語教育や部活動にも言えることなのだが

全てを完璧に、楽しみではなく学びとして経験しなくてはいけないのが日本あるあるな気がする。

ルーブル美術館の貯蔵品と建物の美しさを体感できたのは、美術館における自由度の高さが大きく寄与している。

子供たちは駆け回り、おじさんはイーゼルを掲げスケッチをする。

長椅子で眠る人もいた。

こんなにも素晴らしい芸術品に囲まれて、自由に体を動かせたら、どれだけ気持ちいいであろう。

私も少しだけ、美術館で走ってみた。「はなればなれに」の三人のように。

すこしだけ、恥ずかしくて人がいないところで走ってしまったけれど。

ルーブル美術館に行った日から、私の小さな夢が、自分の子供をルーブル美術館に連れていくことになった。

親のエゴかもしれないが、全ての美しさをのびのびと享受できる環境を作ってあげたい。

正しいことはどこにもなく、間違ったことも存在しないのだと、示してあげたい。

パリでは連続して美に痛めつけられてしまったのだが、

南仏ではガラリとその様子が変わった。

鮮やかな空、目が明くような色彩豊かな街並み。

どこからか香る潮の匂いと、開放的な人々。

地中海の暖かな風を受け止めるだけで、こんなにも風土が変わるものかと、驚いた。

ニース、モナコ、マントンに赴いたのだけれど

驚くことに南仏の大きな空が私を孤独にさせた。

仕事を忘れ、生きることさえ放り投げ、ただただ大きな空に囲まれていた。

生身の人間、裸にされた魂に、大きな空がかぶさっている。

ニースのプロムナードに寝転がり、

こうやって地球の裏側でぼーっとし続けて、私が瞬きした瞬間に、私の世界が終わるか、全ての戦争が終わればいい。

無責任にもそう思った。

全ての悲しみが救われるためにはどうしたらいいんだろう?そんなことばかりを考えていた。

だって私は私のことを誰も知らない土地で、何もない状態で、何も悔しさがないはずなのに、漠然とした悲しさと孤独さを感じている。

誰も知らない土地で静かに人生を終わらせることだって、簡単なのに。

世界の人々が幸せになるためには、一体…

地球の裏側に来ても、やっぱり私は私であった。

ずっと私の結論は変わらない。

だから、想像通りなのである。

とてもいい意味で。

私はこれからも孤独と向き合う他なく、急に襲いかかる希死念慮と戦う他ない。

ただただ、日常を愛し、感謝することが未来へのささやかな祈りである。

私は長い年月の間、何度も考えたことの答え合わせをしたのである。

無自覚にも愛してしまったフランスという国の全てが、私にとって正しかった。

高校生の時に見たカイユボットの「床を削る人々」に胸打たれ、何度も思い返しては感動していたのだが、

ついにオルセー美術館で、8年ぶりに再会した瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。

「ああ、私は今も感動している。」

高校生の時の無垢な感情と何も変わらず、

ただただ私の奥深く、唯一存在する魂が震えていた。

私がこれまで生きてきた人生と行動全てを理解し、受け入れることができたのだ。

私の夢はなんだっけ?

幸せな家庭を築くこと?そんなわけない

世界中のすべてを知ることでもない、しあわせの青い鳥の話と一緒。

幸せはいつも自分の中にある。

しかし、圧倒的に忘れられない心象がある

パリ、モンマルトル朝5時半。

コーヒーの香りがするアパルトマンで、朝焼けを見ている。

サクレクール寺院の鳥たちが朝を告げる、

その光景は、本当に涙が出るほど美しい。

私はまだこの光景を目にしたことがない。

しかし私は何故か忘れることが出来ない。

なぜだか、心に焼き付いた風景がある。

私はそれを確かめるためにこれまで生きてきたのだと、そしてこれからも生きるのだと、

なぜだか、自信を持って言えるのだ。

ka7788.hatenablog.com

『花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ』 井伏鱒二

春は旅の季節である。

個人的に。

人は、出会った時から、すでに別れている。

別れという一直線の結末に向かって、遅かれ早かれ進んでいく。

春に咲く花の運命が、散りゆく以外に無いように。

ならば私は、誰も知らない場所に行きたい。

別れが世の常だから、

それは私にとって辛すぎることだから。

それを受け止めなくてはいけないのが、人生だから。

旅では、別れを受け入れ、むしろ別れるために出会いたい。

私のことを知らない街に行きたい。

もう2度と会うことがない人に出会い、

好きな音楽を聴いて、少し涙する、

でもそれもすぐに忘れてしまうのだろう。

お酒を飲んで、空を見上げたい。

空も雲も吹き抜ける風も、1秒先にはもうお別れしているけれども、

そんな刹那的な人生を抱きしめていきたい。

そんな季節は、決まって春である。

私は今名古屋に来ている。

一人で旅に出てきた。

立ち飲みビストロでワインを三杯ほど飲み、寒空の下ショートドリップを飲んで、息を吸い込んだ。

言葉では言い尽くせない、

無常の幸せだった。

これが私であり、私の人生であり、幸せであるのだ、

絶え間なくやりきれず、寂しいことは主に対人関係に発生する。

しかし、自分の感情とは、お別れすることができない。

それもやっぱり私である。

『人は自分の死を予知できず、人生を尽きせぬ泉だと思う。 だが、物事はすべて数回起こるか起こらないかだ。 自分の人生を左右したと思えるほど大切な子供の頃の思い出も、 あと何回心に思い浮かべるか?せいぜい4,5回思い出すくらいだ。 あと何回満月を眺めるか?せいぜい20回だろう。 だが、人は無限の機会があると思い込んでいる。』

「極地の空」 ポール・ボウルズ