志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』(4/5) (original) (raw)

志位和夫『Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに』を「学び、語り合う大運動」を共産党が「絶賛展開中!」なので、ぼくも参加させてもらおうと思って書いている。5回シリーズの、今日はその4回目。

今回の記事の要旨

今回も要旨を先に書いておく。

  1. 共産主義と自由」というテーマで書くのなら、第一に、「共産主義になって人間は初めて経済の主人公になって自由になり、経済を利潤目的ではなく人間の役に立つように使い、①貧困の根絶(社会保障の充実)・②時短・③環境保全などのコントロールをめざせるようになる」ということを書くべきだ。「これが共産主義だ」という明確な目標を綱領にそって3つにまとめろ。
  2. 社会保障を充実させることで、労働時間の短縮が起きる。パート労働者でも暮らせる最低賃金の引き上げ、大学までの学費無償化、住宅手当の支給(低廉な公的住宅や家賃補助含む)を実現すれば、長時間労働の正社員を選ばなくてもすむ。これこそ日本の今の政治で問われていることであり、地続きとして将来の社会主義を準備する部品を作ることにつながる。
  3. 共産主義と自由」というテーマで書くのなら、第二に、共産党が政権を取ったら市民的自由はどうなるのかを書くべきだ。(1)ソ連や中国は遅れた国だったからというが、ドイツはどうなのか? (2)共産党で起きている党内民主主義の実態は国民から見て疑問を引き起こしていないか? (3)表現の自由ジェンダー、結社の自由と出版の自由の関係など、現代の市民的自由をめぐる問題に共産党はどう答えるのか? そのあたりこそ「共産主義と自由」「共産党と自由」で国民が一番知りたいことであり、まずそこに答えよ。

今回もまず要約を載せる。その上で、体力や時間がない人はそこまで。詳しく知りたい人はそのあとの本文を読んでほしい。

1. 「共産主義と自由」のテーマで何を書くべきか(1):自己決定としての自由

Q&A 共産主義と自由──『資本論』を導きに

共産主義と自由」のテーマで書くべきことの第一は「共産主義になって人間は初めて経済の主人公になって自由になり、経済を利潤目的ではなく人間の役に立つように使い、①貧困の根絶・②時短・③環境保全などのコントロールをめざせるようになる」ということである。

ぼくのこの連載の2回目でも述べたとおり、共産主義になって、人間は利潤第一主義に振り回され自己決定できなかった時代を終え、社会の法則をつかんで自己決定・自己支配ができる新しい時代に入っていくという話を述べた。

つまり人間と経済の主人公になり、経済は利潤のためではなく、はじめて人の役に立つように使われるようになる。

その時、「どのように人間の役に立つのか」ということを、国民にわかりやすく示す必要がある。

これは「共産主義社会主義とはどんな社会か」という答えでもある。国民から「共産主義社会主義とはどんな社会か」と聞かれたらどう答えるか、という問題でもある。

ぼくは、まず「資本主義つまり利潤(もうけ)ための経済から、社会の必要のために営まれる経済になること」だと答える。

そしてその「社会の必要」とは、端的に

  1. 貧困をなくす(全ての人が「健康で文化的な最低限度の生活」を保障される)
  2. 労働時間の抜本的短縮による人間の全面発達
  3. 環境保全など経済の合理的な規制

となる。社会保障の充実、時短、環境保護などの規制と単純化して言ってもいい。それをめざすのが共産主義社会主義である。この3つのために経済を使うのである。

これは実は、日本共産党の綱領に生産手段の社会化の効能*1として書かれていることでもある。

生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす
生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする

生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。

だから「共産主義社会主義ってどういう社会ですか」と聞かれたら、「資本主義つまり利潤(もうけ)ための経済から、社会保障の充実、時短、環境保護などの社会の必要のために営まれる経済になること」という答えになる。

この3つ(社会保障の充実、時短、環境保護などの規制)のうち、もっとも核心的な目標は2番目の時短である。労働時間の抜本的短縮によって人間の全面発達の土台をつくるという目標こそ、「ここにマルクス未来社会論の核心がある」(不破前掲『古典教室第2巻』p.237)と言えるものだし、志位も本書で力説していることではある。

哲学者の松井暁は『ここにある社会主義 今日から始めるコミュニズム』(大月書店、2023年)で、自己実現こそが人間にとって最高の価値だという思想は完成主義・卓越主義と訳され、諸個人が有する潜在能力が納得するまで発揮されることを指すとのべる。そして、完成主義は本質主義とも呼ばれ、マルクスが社会の共同の中でこのような自己実現することを人間の本質としてとらえていたとして、社会主義の原理を共同主義と本質主義から成っていると述べている。まさに、時短による自由時間の創出が人間の全面発達を促すという見通しこそ本質主義であり、そこにマルクスの思想の核心を見ているのだ。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

ただ、時短こそが核心的な社会目標であるとしても、今あげた3つ(貧困の根絶、時短、経済の合理的規制)全体の達成のために、剰余価値の処分に対して、労働者や社会が関与し決定を行うことこそ、共産主義なのである。

志位の本書には、共産主義が経済への自由を獲得することによって、何を達成するのかという観点が一面的である(時短のみが強調されている)。

2. 社会保障と労働時間の抜本的短縮

もっと具体的に考えてみよう。

日本共産党が綱領で「生産手段の社会化」つまり社会主義になってめざすべき方向として掲げる3つのうちの2つ、社会保障の充実と労働時間の抜本的短縮は、お互いに補い合いながら、社会主義共産主義を準備する。

もっともシンプルな例はベーシックインカム(政府による最低生計費の現金支給)であろう。一例であるが、「健康で文化的な最低限度の生活」のために月15万円の現金が、所得に関係なく全ての個人に支給された場合、短時間労働でも生活、結婚、子育て、介護も見通せるようになるから、短時間労働が当たり前になる。

これらは例えばルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋)を読めば簡潔にわかる。

隷属なき道 AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働 (文春e-book)

ただ、ベーシックインカムは依然論争的な制度であり、あくまで思考実験である。

ではベーシックインカムの代わりに、ベーシックサービスの提供、もう少し表現を柔らかくすれば、社会保障の充実をすることで、ぼくらは過労死寸前の長時間労働を耐え抜いて必死で賃金を稼がなくても済むようになる。

日本の正社員(しかも男性正社員)が依然として年功序列賃金のしばりがかけられているのは、教育費と住居費の負担が40代、50代で非常に重くなるからである。つまり、子どもを大学で学ばせるための学費と、住宅ローンである。

この費用を社会保障に移す。

つまり、大学までの教育費を無償にし、月3万円の住宅手当(低所得者への低廉な公的住宅の整備や家賃補助も含む)を支給することによって、給料でその費用を稼がなくて済むようになる。

日本では全体の総労働時間は長期的には減っている。

しかしそれはとてもいびつな形で減っている。

日本の労働者は正社員の長時間労働がなかなか解消されず、他方でパートやアルバイト、派遣などの短時間労働者が人員としては以前に比べ大幅に増えている。『男女共同参画白書 令和5年版』で、「フルタイム労働者の一人当たり労働時間は、90年以降の景気後退期全体を通してみても大きな変更はない」「非正規・パート職員の増加が労働時間減少の主な理由となっている」と述べているが、この両極端が平均されて日本の労働時間は傾向的に減っている。非常にいびつな「労働時間の短縮」が起きているのである。

正社員には一定の賃金が保障されるが、それは他の先進国と比べれあまりにも長い時間残業することと引き換えにである。

他方、非正規社員は短時間労働であることが多いが、その賃金は、「健康で文化的な最低限度の生活」が営めないほどに低く、結婚し、家庭をもち、子どもをうみ、その子どもを大学にやれるような見通しは持てない。身分が不安定でしかも賃金は低いのだ。

出典 https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/99.html

ここに社会保障の充実(学費無償化、住宅手当支給)を間に噛ませ、なおかつ最低賃金を他の先進国並みに時給1500〜1700円にすれば、パート労働者であっても子どもを大学にまでやることができるようになる

短時間労働でも住宅を手に入れ、子どもを大学にまでやれるなら、どうして正社員になって長時間労働を好きこのんで耐え忍ぶだろうか。短時間労働は、貧困の象徴ではなく、自由な働き方の入り口となるのだ。

共産党の議員や共産党員は、いま学費の無償化の署名をがんばっているのではないか? 各地の自治体や国会で家賃補助や公営住宅の増設のために奮闘しているのではないか?

そうだ!

それこそが、社会主義になった時のパーツ(部品)を作るということなのだ。将来と今は地続きなのだ。

これこそ資本主義の下でのぼくらの社会運動のとりくみと、社会主義共産主義が地続きであることを示す雄弁な証拠ではないのだろうか?

共産主義になったら資本家など社会のメンバーがみんな生産に参加したり、証券や金融などの社会の浪費部門がなくなるから、労働時間が抜本的に短縮する」などといった、よくわからない、キツい説明を軸にするのをやめるべきである。

3.「共産主義と自由」のテーマで何を書くべきか(2):市民的自由はどうなるか

共産主義と自由」というテーマで考えた場合に、本当に国民が知りたいのは「**共産党が政権を取ったら今ある市民的自由がなくなる/大幅に減らされるのではないか**」ということではないだろうか。

いくら「共産主義になったら抜本的な時短が進み、自由時間が増えて、人間の全面的な発達が可能になるんですよ!」と言ったところで、「でも自由時間がいくら増えても、家でフルート吹いてるぶんにはいいけど、当局がバリバリ監視して体制批判とかできない社会なんスよね」とか思われたら意味がないのである。

もちろん、これに対応する問いと答えが本書にはある。Q34「旧ソ連、中国のような社会にならない保障はどこにあるのでしょうか?」(p.131-133)だ。

志位は旧ソ連と中国が遅れた状態から革命を出発させたとして、生産力、自由・民主主義の水準、識字率などを挙げて、現代日本はそれらとは「まったく条件が違う」(p.133)と述べた上で、

日本の社会主義共産主義の未来が、自由のない社会には決してならないという最大の保障は、発達した資本主義社会を土台にして社会変革を進めるという事実そのもののなかにあります。(p.133)

と結論づける。国民が自由・民主主義の点で昔の旧ソ連や中国よりもはるかに成熟しているので、仮に共産党政権がおかしなことをしても、そんなときは国民自身がそういう政権を批判し、下野させるから、旧ソ連や中国みたいなことは起こらない、心配するな、という意味であろう。

これはこれで一つの道理ではあると思う。

しかし「そうなりにくい」というほどの話であって、絶対にならないという保障ではない。

三つ問題を挙げておこう。

一つ目は理屈の上から。

「発達した資本主義国」であったドイツではファシズムが生まれ、戦後も東ドイツでは長らく「社会主義」を掲げる政権のもとで抑圧的な体制が続いた。

ズザンネ・ブッデンベルク、トーマス・ヘンゼラー『ベルリン 分断された都市』(彩流社)は東ドイツ(東ベルリン)の脱出をめぐるルポのコミックだが、東ドイツ社会の抑圧をその中で見事に描いている。

ベルリン 分断された都市

19世紀後半のドイツ(プロイセン)の識字率9割だったとされる。また、20世紀になって王政を打倒し先進的なワイマール憲法を生み出した。経済力も第一次世界大戦前は世界第2位であった(1913年時点で、世界工業生産に占める割合は米国が35.8%、独が15.7%、英が14.0%/『新版西洋経済史』有斐閣双書、1997年、p.255)。

その国が「社会主義」を掲げる道に踏み出したことは事実であろう。

しかし、その国は自力で革命を起こした後にナチス体制の成立を許してしまったし、ナチス体制を打倒した後にできた政権は「社会主義」を掲げる道に踏み出したが、結局1989年まで数十年間はスターリン体制を模した抑圧体制に転化してしまっていたのである。国民が例えば数年でその誤りをただすことはできなかったのだ。

主要国の工業生産指数

志位は東ドイツも「遅れた状態からの出発だった」というのだろうか。今の日本と比べれば相当に遅れている、というかもしれない。しかし、それでは一体どこまで行けば「遅れていない」と言えるのだろうか。

現代でも、例えば「発達した資本主義国」、例えば「先進国クラブ」と言われるOECDの中で権威主義的な体制をとっている国はないだろうか。

例えばハンガリーはどうか。同国のオルバン政権は移民やLGBTを敵視し、その独裁ぶりから「ハンガリープーチン」と言われる。英誌エコノミストシンクタンクが発表する「民主主義指数」では「欠陥民主主義」のレベルになっている。

あるいはトルコ。エルドアン政権もやはり「独裁者」と言われ、弾圧と抑圧を進めてきた。民主主義指数でも「混合体制」(非自由主義的民主主義)という「欠陥民主主義」よりさらに低い評価をされている。

つまり、現代の「発達した資本主義国」であっても日本国民が十分に危惧するに値する民主主義抑圧は起こりうるのだ。別の言い方をすれば「中国や旧ソ連ほどには確かにならないかもしれないが、トルコやハンガリーくらいにはなってしまうかもしれない」ということだ。

それでもなおかつ「いやいや日本の民主主義は相当に進んだものだ。日本国民の民度も高い。決してトルコやハンガリーほどにも許すまい」というだろうか。

日本共産党は日本資本主義がヨーロッパなどに比べて国民を守るルールの整備が遅れていることを綱領でも問題視している*2。そして、その原因を不破も志位も国民のたたかいではなく、戦後に「上からの改革」によってルールが持ち込まれたことに求めている。*3つまり国民のたたかいが十分ではなく、それゆえにヨーロッパと比べて資本主義を規制するしくみがいちじるしく遅れているという認識なわけで、共産党自身がそのような認識を持っている以上、決して楽観視できないものだと思うがどうだろうか。*4

そして、「日本共産党は民主主義を掲げて権力から弾圧された政党だから、民主主義を抑圧するわけがない」という人(日本共産党員や支持者)がいるが、中国共産党ソ連共産党ボルシェヴィキ)もまさに革命前は徹底した弾圧を受けてきた政党であったという単純な事実を見ればそういう理屈は通用しないことはすぐわかる。

二つ目は、現代の日本共産党の党内民主主義のありようから不安に感じてしまうということだ。

「いや、党内の規律と国家統治の問題を混同してはならない!」と共産党員や支持者はいうかもしれない。

なるほど原則的にはそうであろう。結社の自由が保障されており、その結社に自主的に入る市民には市民的自由において一定の制約がある。その制約が嫌なら結社から自主的にまた抜ければいい、という理屈である。結社の自由の範囲内でその結社が何をしようが自治ではないかと。

しかし、その区別を仮に認めるにしても、そこに透けて見える党幹部らの人権意識はやはり十分に一般市民に疑問を惹き起こさせるものではないのだろうか。

——不当な解雇をしていないか? 自民党総裁選で話題になっている「解雇規制の緩和」を共産党は批判しながら、自身の党職員を「客観的合理的理由」もなく、あるいは「社会通念上妥当」とも思われない理由で、サクサクと首を切っていないだろうか? それは「セルフ解雇規制緩和」ではないのか?

——党職員の働く人の権利を認めているのか? 同じく大企業の「サービス残業」や、ウーバーイーツで働く人を「労働者」と見なさないやり方を批判しながら、自分の党の職員については「労働者」とは認めずに、残業代の支払いも、労働組合を結成する権利も否定してはいないだろうか?*5

——ハラスメントが横行していないか? 自衛隊や宝塚でのハラスメントを厳しく批判しながら、自分の党の中では、ルールで禁じられているはずの自己批判を強要し、自己批判しなければ追放すると脅して職員を精神疾患による休職に追い込んだりはしていないだろうか? 精神疾患で休職していた職員を排除して、「党の撹乱者と同調する人間」だとか、調査中なのに「規約違反」だと決めつける話を他のメンバーに秘密裏の会議でわざわざ流したり、ハラスメントを訴えている職員の仕事を全て取り上げて、他の党職員との接触を禁じたりしたことはなかっただろうか? 法律で義務化された2022年4月から長らく相談窓口さえ置いていないというようなことはなかっただろうか? また、加害者として告発された幹部が調査もせずにその場で否定し県党会議(県大会)でハラスメントの事実を否定する決定までしてセカンドハラスメントを助長させたりはしていないだろうか? ハラスメントや不当解雇などの人権侵害を組織外に告発することに対して「内部問題を外でしゃべるな」と言って黙るように圧力をかけているようなことはないだろうか?

——民主主義的に組織は運営されているのか? 党自身が定めたルールを党幹部が踏みにじって、ルールを都合よく「運用」し、異論を唱えるメンバーに対して不当な排除が行われていないか? 県党会議(県大会)で、党役員の選挙において、「決定や計画を実践する責任と気概がない」と(選挙人が選挙で判断するのではなく)党幹部が会場で宣告した立候補者が選挙直前に一方的に被選挙権を剥奪されるという、民主主義ではあり得ない運営をしてはいないか?

——追放した一個人を圧倒的な非対称性のもとで傷つけていないか? 1人の除名者・除籍者に対して、本人の人格を傷つけかねない執拗なキャンペーンを、組織を挙げて、大変な物量で行なってはいないか?

そんな事実がないのであればいい。結構なことだ。

しかし、もしこうしたことが、国民の目の前で展開されていれば、国民はどう思うだろうか。「ああ、共産党職員は労働者じゃないからね。残業じゃなくて自由時間に好きで活動してるんだよね。労働組合とかなくて当たり前だよね」とか「あれは党内問題だからね。党内を統制するためにはそういう国民から見てもよくわからない特殊なやり方も当然だよね」とか思ってくれるだろうか。

思わないだろう

共産党内が非民主的だとか、そんなことを不満に思っている人など、まわりにはいない」と感じている共産党員もいるかもしれない。しかし、それは党への支持という広い視点で考えた場合、薄い支持をしてくれていた人、時々は共産党に票を投じてくれていた人、支持には至らないが関心を寄せていてくれた人がことごとく去り、どんなことがあってもついてきてくれるコアな熱狂的ファンのみが残っている姿なのではないのか。熱狂的なファン層が何も言わずについてきてくれるからと言って、その外にいる、圧倒的に広い層から、自分たちの党の「民主主義」の姿がどう見えているかについて反省がなければ、要するに新規のお客は増えないということだ(そもそも選択肢にも入らず、関心も寄せていないのかもしれないのだし)。

党への支持という広い視点ではなく、党に入って活動するという層を考えたらどうだろうか。ぼくは自分のまわりの若くて熱心に活動していた党員たちが、このような党幹部の非民主的な姿勢に呆れ、失望し、党を去っていったケースをいくつも見てきた。それどころか、そういう若い熱心な党員たちを、少しでも反抗的な態度をとると排除して回っている姿さえ見てきた。自分なりの意見を言い、耳の痛いことも述べる、もっとも自主的で、もっとも確保すべき若い有能な人たちをうるさがって、去っても追わず、自分たちの組織の在りようを見直すこともせず、別の「何も事情を知らないナイーブな人を新たにリクルートすればいいや。そういう人はたくさんいるもの♪」——そんなふうにやっていったら先細りするばかりで、本当に誰も残らなくなるだろう。

共産党への投票数がガタガタと減り、必死の入党キャンペーンにもかかわらず党員が増えずに減っているという現状は、残念ながらこれらのことを裏付けてしまっている。

共産主義と自由」は実は「共産党と自由」の問題なのである。

国民にとっては間違いなくそうだ。

まず党の今の姿・活動・組織のありようがどんなふうに国民には見えているのか、その目の前の自分たちの現実の改善から始めないことには、いくら「自由に処分できる時間を増やして人間解放します」とハンドマイクで叫んでみても、聞いている国民の心には響くまい。もし「戦略的課題」として取り組むのであれば、そこに着手すべきではないのか(なお、共産主義における自由時間の話が無駄だとは全く思わない。それは共産主義のイメージの刷新にはつながるだろう。だがそれに熱心に取り組むよりももっと「自由な共産党」というイメージの改善のためには他に取り組むべき問題があるのではないかという話だ。)

目の前の共産党幹部や共産党組織が、自由で多様性にあふれ、寛容で、民主性に富んでいる様子を実際に国民の前に示さなければ、私も入って活動したいなあとか、俺も票を託してみようとか、そんなふうには思わないだろう。

三つ目は、現代における市民的自由の問題で理論的に結論を出すことだ。

例えば表現の自由と不公正。「共産党政権では女性差別的な表現は禁止されるんですか?」という問いにどう答えるのか、ということだ。

ポルノをはじめ、女性に対して差別的だと思えるような表現が存在した場合、あるいは民族的な差別と思えるような言論に対して、日本共産党はあくまでそれを克服する世論の力に訴えるのだろうか。それとも一定の条件で規制をかけるのだろうか。

規制のあり方だけでなく、例えばなぜポルノは問題だと思うのか(あるいは思わないのか)について党としてまとまった方向を出す——キャンセル・カルチャーやポリティカル・コレクトネスが話題になっている中で、そういう方向で答えを出すことこそ、国民が一番知りたい問題で、共産党が自由というものをどう考えているのかを、さし示すことになるのではないだろうか。

もう少し言えば、共産党という政党は、自分とは反対の立場の勢力や自分が不快に思っている存在、特にその表現を、社会でどう扱うつもりなのか、ということを理論的に示してほしいと思っているのである。

あるいは、政党の自律性。

いま共産党は、同党を除名された松竹伸幸からその処分の撤回を求めて裁判を起こされている。

しかし、除名処分の手続きが妥当だったかどうかを裁判において説明を求められても「党内問題だから答える必要ない」「司法が口を出すべき問題ではない」という態度をとっている(2024年9月19日時点)。

政党がどんなルールを定め、それをどう運用するかは、政党が自分で決めるべき問題だ。それが結社の自由というものではないか——これは原告の松竹さえも認めるところである。松竹は共産党の戦前の弾圧の歴史を振り返り、特に共産党がこのことを大事にするのはすごくよくわかるとまで言っている。

だが、だからといって、なんでもかんでも組織が自治をし、ルールを決め、運用でき「嫌なら出て行け」と言えるわけではない。いったん共産党に入ったら憲法もクソもない、好きで入ったんだろ、というわけにはいかない。

松竹は自分は綱領に反する出版を行ったことはないとして、次のように主張している。

結論として私が主張したいのは、綱領と規約、大会決定の範囲内では、党員の出版の自由は最大限に尊重されるべきだということだ。綱領と規約、大会決定への批判を含まない本を刊行した為に処分されるべきではないし、そのような処分は憲法の出版の自由に反し、結社の自由の範囲を超えたものとして、裁判の司法審査が及ぶというものである。(松竹『私は共産党員だ!』p.109)

「結社の自由」を無制限に認めるのではなく、憲法が保障する別の自由である「言論・出版の自由」とのバランス=均衡点を探るべきだという主張である。

それに対して共産党がどう答えるのか。それは公党として責任をもって回答すべきことのように思える。松竹の意見に賛成するか反対するかは別として、裁判で共産党がそれを自信をもって答えることが、まずは「共産主義と自由」「共産党と自由」について、共産党が果たすべき責任ではなかろうか。

ところが、言論・出版の自由との均衡どころか、共産党側は松竹事件の裁判において、除名手続きが正しかったかどうか、それさえも答えることを拒んでいるというのだ(2024年9月19日時点)。さすがにそれはどうなんだということで、裁判所から共産党側に「ちゃんと反論してね」との声かけがあり、共産党側は「検討する」と回答したようではある。(動画の11分あたりから14分あたりまで)

www.youtube.com

こうした市民的自由をどうするかについて、理論的に答えることこそ、共産党の幹部には求められている。

1970年代につくられた日本共産党の「自由と民主主義の宣言」(96年に改定)は、近代民主主義をブルジョア民主主義として乗り越えられるべき、つまり否定されるべき民主主義とする見方を一掃し、近代民主主義の価値の積極性を評価しつつ、共産主義者こそがその発展的継承をめざすことを理論的に明らかにした。これはこの時代における一つの新しい解明だった。

それを今日繰り返しても意味はないが、現代は現代なりに答えが出ていない(あるいは不安に感じられている)市民的自由に関する問題が存在する。そのような問題に共産党としてどう答えるかを出すことこそ、本当に国民が求めている「共産主義と自由」あるいは「共産党と自由」という問題なのではないだろうか。