橋本日記 (original) (raw)

観た! 最高だった!

以下、よかったこと! 何から書いていいかわからないから箇条書きで書く!

・一話から五話まで、はじまりからおわりまでずっと号泣

・美術が良い!!

・キャストが良い!

・五話完結なんて素晴らしい!

・俳優は根性だ!

ところで、「日本映画はつまらない」という感覚がうまれたのはいつのことなんだろう?
もしかしたら、「日本製のエンタメは端から受け付けない」という人々がいて、そういう人は、ずーっと日本映画”的”なものを倦厭してきたのかもしれない(古い日本映画はジジ臭いからあまり観ない、という意見を聞いたこともある……)。
しかし、過去、日本映画は面白かったのだ。日本のドラマも、やっぱり面白かった。そしてきっと現在も、誰かの感情を興奮させるような映畫やドラマは作り続けられているし、その映畫やドラマを愛している人たちもやっぱり存在するだろう。で、あるからして、十把一絡げに、最近の映画やドラマはつまらない、と捨て置くことは出来ない。

と、いう前提があり。

それにしても、私個人としておもうのは、やっぱり最近のドラマ(とくに、某連続テレビ小説……)をいざ「見よう!」とおもって観ていると、どんどん辛くなってしまうものがある。
美術が気になるのである。俳優の演技が、気になるのである。
まあ、嫌なら見なければいいんであって、私は、近年のそういうものを観ていて「嫌だな~」とおもったので、あまり見なくなった。
見なければ、「叫びさえすれば熱演ってことになんのか?」とか、「自然な演技ってのを作り込むことができればそれで演技派か?」とか、「なんかアニメキャラみたいな演技してるけどそれどういうことなんだ?」とか、思わないで済む。そういうものを見たい人は見ればいいし、見たくない人は見なければ、それでいいのである。

というわけで、私は過去に作られた映畫やドラマを見て、それで満足していた。そして不遜なことに、「最近の俳優の演技は別に見なくてもいい」という……傲岸な考えを持っていたのである。

でも、それは、ただの認識不足にすぎないのだ。

俳優の演技が悪いのではない。ほんとうに悪いのは、そういう演技をつけて平気な「演出側」なんである。
「演出側」が、「その程度の演技さえしてもらえればいい」というところで、妥協している。あるいは、その程度の演技しか引き出せない(その程度で十分な)脚本しか存在しない。
要は、「演技に値するもの」が、存在しないのだ。
昔がすべて良かったというわけではない。昔だって、「演技に値しない」脚本や演出がなされた作品は、それこそ掃いて捨てるほどあった、だろう。そういうものが淘汰され、濾過された結果、名作のみが後世に残る。そして過去の名作ばかりを目にするわれわれ現代人としてみれば、「過去の演者の演技は、そして作品は素晴らしかった。それにくらべ現代は……」となりやすい、と。

更に、現代ではすでに「ドラマ」が失われている。

電話というアイテムがフィクションに登場したことによって、「その場」以外に舞台を広げることに成功して以来、人々の中に起こる悲喜こもごもというものは、次第に縮小していくことになる。近所の電話持ちの家に行かないと掛けられない電話に始まって(まあ、始まるってこたぁないけど……)、家電、二階の個人電話、ポケベル(が鳴らないということだけで一曲のドラマが生まれた時代も……)、個人携帯、スマートフォン……と来て、個人間のやり取りが容易になった結果、いわゆる「すれ違いネタ」(”佐田啓二”の『君の名は』……)で長々と恋愛模様を描く悠長も余裕もなくなって、世の中には大仰な”ドラマ”が次第になくなっていく。そして、大時代ではゆるされていたかもしれない大げさな演出も(大映ドラマ、トレンディドラマ、『未成年』などを筆頭とした野島脚本作品)も、「眺めるもの」でしかなくなっていったが、しかし相変わらず、人々を熱中させるものは「下剋上もの」であったり、「弱小企業が成長していく」物語であったりして、「大きな物語」をのぞむ人々の気持ちは、やっぱり大時代より変わらない。しかしそれらは「大きな物語」を描くがゆえに、どうしても様々なものが大味になりやすくなる……。

演技というものには様々なアプローチの仕方がある。そして、「場所」が変わるだけで、演技プランも変わる。その場所、演出にふさわしい「演技プラン」というものを、演者として、演技をするということを「生業」、おまんまの種にする人々というのは、考えないではいられないはずだ。そして、その「演出」と演者の「演技プラン」の相克として、現在の「ドラマ」というものは、作品として存在しているはずなのである。

それらすべてのことを一度肯定した上で、ここからは「あえて」そういったものを、一度否定してみたい。

一体、何なのだろう。地上波のテレビドラマに出る俳優たちの演技というものは。
でもたぶんそれらは仕方がないことなのだ。様々な大人の思惑やしがらみ、圧倒的に「無い」時間、ていねいな作劇や画作りよりも求められるのは「早い、安い、(そこそこ)旨い」であり、求められるのは「完成品」だ。「作品」ではない。

そういうものから逃れようと頑張ってみても、たったひとりがあがいてみても、蟻のようにふみつぶされてしまうだけ。
でも、それが10人になったら……
100人になったら!!?
1000人になったら……

突然ですが、ここである本の引用。

その実体については無知同然の女子プロレスについて記事を書こうと(筆者が:引用者注)思った動機は、その当時、観客席で繰り広げられていた、ひとつのダイナミックな変化にある。(略)
それは、どういう変化だったか。
数ヶ月前、初めて会場に行ったとき、女子プロレスの観客は、おおむね中年男性で占められていた。(略)
こういった会場の隅に、小学生らしい年代もまじえたローティーンの女の子たちの一群が出現しはじめたのは、いつ頃のことだろう。(略)
最初に、相手の集団に対して、そこはかとない敵意をしめしたのは、少女のほうだ。中年男性が、リングに冗談まじりの野次をとばすと、1000人近い少女たちがひと塊りとなって体をゆすり、ざわめく。(略)
そして、”カエレ”コールが始まった。
会場の一劃に孤立した中年男性たちの野次は、その頃には、ヒステリックなまでに野卑になっていた。少女たちは、その野次に匹敵するものを模索しているように見えた。あるとき、突然、足踏みが止まった。次の瞬間、やや確信なさそうに、手を握り込んで親指を下に突き出し、小さな声で、
「帰れ」
と言ったのは、彼女たちの中の誰だったのか。
それが、すべてのきっかけだった。
少女たちは、握った右手の親指を下に突き出し、足を踏みならし、中年男性の小島にむかって、カエレ! カエレ! と際限なく叫びはじめた。(略)
このカエレコールによって、会場から中年男性は完全に駆逐され、女子プロレスは少女たちの専有物になった。
(『プロレス少女伝説』/『井田真木子著作撰集』 p.10-11)

あの……いいですか?(どうぞ)
『極悪女王』は、そうやって、作られました。(泣)(嘘です)
ここに引用したものは引用に過ぎないので、「中年男性がかわいそうだ!」とか、「女子プロレスは少女たちだけのものじゃない!」とか、まあいいんですけど。
とにかく、数である。「現状を変えていこう」「素晴らしいものを作ろう」という気概と根性のあるものが一人ではなく、千人でもあつまれば、『極悪女王』のようなものは、できるんです!

作品に対して「誠実になろう」とおもっている人々の作った「作品」というものは、かならず観ているものの心を打つ。それが、誠実に作られているからである。そして、作品への「愛」を、端々にまで感じるためである。そう、『極悪女王』を観るものがなにに感動しているのかと云うと、それは作品を貫く「愛と誠」を、否が応でも感じるためなのだ……(号泣……)

もちろん、あの頃の「全女」に起こったものは、作為的なものだったかもしれない。お互いが憎み合う必要もないはずなのに、リング状の「ドラマ」をより強く、激しく演出するために、少女たちの感情は「利用」されたのかもしれない。それらは所詮「作られたドラマ」でしかないのかもしれない。そしてそれを「観劇」することによって消費するのは、ひょっとしたら、あまり趣味の良いものではないのかもしれない……
しかし、彼女たちはその「嘘」のなかで、「現実」を生きるわれわれよりも、「生きている」のである。
そしてここで飛び出してくるものが、「スポ根」という概念である、と……

本当は、誰だって「スポ根」したいのだ。自分という体のすべてを燃焼して、なにか崇高な場所にたどり着きたい。でも、そんな体力も根性も根気もない、「そんなことしてなんの意味もないよ」という我々の中の日常と怠惰が、その代わりといって提出してくれるもの、それが「スポーツ観劇」という「提案」であり、「スポーツ観劇」のなかに付随する「人間ドラマ」なのだ。
そして怠惰で日常でしかないわれわれのようなどんがめであっても、何か全身全霊を掛けてなにかに取り組みたいと、短かったり長かったりする人生で、一度や二度は考える(別に考えなくても生きていけるからいいんだけど)。でもやっぱり、そういう機会というものはなかなか訪れない。しかし、われわれどんがめとは違い、「演技」や「演出」という形のないもので「身を立てたい」と願う人々のめのまえに、そのような「チャンス」がいざ現れたとき、彼らはどんなものを作り出すというのか?

『極悪女王』を、生み出すのである。(うおぉお~~~~)

「演技」に値する作品が、脚本が、題材が、演出が、存在しないのである。だから、「演技」ができないのである。「憑依」に値しないのである。
尊敬できない、大げさな言い方をすれば「命を燃やすに値しない」対象に対して、ヒトは、全身全霊で取り組むことはできない。「そう在ろう」といくらがんばってみても、やっぱり「ヒト」は「ヒト」である。どこまでその対象に「乗る」ことができるか? そしてその「憑依」を、どのくらいの熱量を掛けて維持できるのか? そして、そのような状態にめぐまれる機会というものは、今現在においてはごく少ない。例えばの話、俳優は「北野武作品だから」頑張るのである。体を張るに「値する」土壌を作ってくれるという信頼と尊敬と「価値」、演技をする「価値」……

「価値なんて関係ない! 演技というものはそんな計算ずくで取り組むものじゃない、どんな題材でも、その題材のこころになりきって「演じる」、それでこそ「名優」というものだ!」

ちがいます! ぬるい脚本にはぬるい演技、ぬるい演出にはぬるい演技、ぬるいラーメン汁にアチアチ麺をぶちこんだら、そのアチアチ麺はいずれどうなりますか?
『極悪女王』最高!

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その他ほんとうに感動したことと普通の感想☆

美術がすばらしすぎ。私が一番感動したのは登場人物たちの着る服の「質感」です。とくに最終話ちかくで主人公の父親の着ているあのシャツ? 上っ張り? のてろてろした質感……!! あの当時のああいう服の生地の質感ってああいうのだったよねえ!!!!
あと、レイザーラモンRG大先生も(You Tubeで)おっしゃっていたけどライオネス飛鳥の「あの」髪型の再現度の高さね……!!! かっ………こいい……よおお………ちょっとまえに「剛力彩芽って売り方が間違ってただけだよね」的なつい~とを見かけたけど、ほんとそのとおりでしたね。もう……ライオネス”剛力”飛鳥のあのかんじが映像として半永久的にパッケージされたという伝説を、われわれはかみしめて生きるべきです……

俳優の存在感がすごい! 俳優さんみなさんほんとうに素晴らしかった。(言うまでもないことだけど)剛力彩芽さんのキレッキレのダンスもほんとかっこよくて……うううう……私はずっと剛力彩芽さんのほとんどノーメイクでは? なかっこよさにへろへろになってしまいました……最高すぎた…… あと感動したのはデビル雅美役の役者さんの眼力……たまらん……あれは確実に芸術だった。あと唐田えりかさんの相手を煽るときのちょっと張った声。好きだった……

私は全然全女の当時からのファンというわけではなく後追いで、その後出版された各書籍を「紙のプロレス」として楽しみ、当時の映像を昔ちらっと観たり、その結果長与千種にめろめろになって『東京爆発娘!』のEP買ったり(ジャケットの千種の笑顔が宇宙のようにかわいくてかっこよくてせつなくて見るだけでなんか悲しくなってくるくらいかわいいので、見て!!)、クラッシュギャルズの再発物のCD買ったり(ライオネス飛鳥の『…Rain』とゆー曲が名曲なので聴いてください!)した程度のにわかものだったのですが、それでもドラマを観ながらずーー……っと号泣してました。なんかもう一話のオープニングだけで「わーーっ」ってなってしまってオープニングだけで泣いて、それから要所要所でずっと泣いていて泣きつかれた。
あと、RG先生も言っていたけど、「ブック」云々の発言はそれこそ”あの”ヒールとしての製作者があえて仕掛けたひとつのフック(?)なのかもしれない……という解釈には感動いたしました。

主役のゆりやん氏はもう……私なんかが色々言えるアレじゃない。とにかく私はオープニングのゆりやんのあの変化だけで泣けます。役を演じてくれて、「成ってくれて」ありがとうございました。でもあんまり無理はしないで……ほんとうに一時期のあの報道は心配だったので……いちばん大切なのは体の健康なので……
20241003

というわけで、いまふたたび新井素子の話をしてしまうが(大好きなので……)、十代、二十代にして「エンターテインメントの何たるか」を知り、提示してしまえた「天才たち」が、そののち、夢見るときを過ぎても(もちろんご本人たちにとっては現実そのものに違いないが)、創作することを止めなかったら、どんなことが起こるか。というのが、今回の主題。そしてすごかったんですよ、冨樫義博HUNTER×HUNTER』38巻と、新井素子『南海ちゃんの新しいお仕事 階段落ち人生』(2022)が。

少しだけ自分の話をしてしまうが、私は、「AとBの共通点は何か?」という話の進め方が、大好きである。そして、「誰誰は誰誰に似ている」という話が、ものすご~~~…………く、好きなんである。
学生時代、現代国語の女性教員が、GRAYのTERUに似ていた。なので、私は、友人に、その旨を話した。すると友人は云った。「似てる!」
ある日、電車を待っているときに、クラスで一番の可愛い女の子が、唐突に、私に、云った。「竹内結子の鼻の穴の形と、内野聖陽の鼻の穴の形って、似てない?」「……………」
に、似ている…………!!!!

というわけで、私の大好きな新井素子が、誰に似ているかという話なんであるんだけれども、それが今回は橋本治ではなくて、冨樫義博である、と。
別に彼らに特別な共通点があるともおもえないし、無理やり共通点をねじまげて提出してみたりしても意味はない、とおもう。
おもうがしかし、双方の十年来の読者であるこの僕は(つまり、それほど長い間ファンを続けているという意味ではないということだ。彼らの活躍の長さを考えると……)、彼らにひとつの共通点を見てしまう。つまり、彼らはとてつもなく異常に、「エンターテイナー」なのである。

ひとくちにエンターテイナーとしての作家像といってみても、なにも、そのふたりに絞られるということは決してあり得ない。ありえないがしかし、私が、最近になって読んだ彼らの二作品が、どうしても何回考えてみても、「なんでそうなるの?」という「見せ方」をしていて、その「見せ方」が、生粋のエンターテインメントでありつつもどこか「常道」から反れているという仕上がりで、その「常道から外れた場所にいるくせに、滅法面白い」という、彼らの描くエンターテインメントのその先に、私が大変混乱&興奮してしまったというのを、ただ書きたいだけなのである。

さて、それではそれぞれの比較。
冨樫義博というひとの描く世界を、この世でいちばんに上手に表現しているとおもう一行がある。それが、「王道であり、異端

これはただ僕の記憶の中にのみに残る一行で、これは何年か前の、『HUNTER×HUNTER』の単行本の腰巻に書かれていたコピーで、誰の言葉なのかとかいうのは分からない(多分編集の方)。分からないがしかし、当時、ハンターの単行本をあつめていた僕などは、「これこそがハンターハンターを言い表す最も適切なアオリ文だ……!」と、おもっていた。

つまり、「幽白」でいう桑原君いうところの、

「ムカつくまんま暴れるだけなら 奴らと変わんねーぜ
キタネェ奴らにも筋通して勝つからかっこいいんじゃねーか? 大将」

というやつで、Dr.イチガキら「キタネェ」やつらもきちんと(?)住んでいるまさにその世界に、「正義」としての桑原君たち正義の味方が鉄槌を下す、その清濁のなかに、冨樫義博の書かんとするエンターテインメントの神髄、世界観がある…………と。

そして新井素子新井素子のかもしだすエンターテインメントの種類、というか面白さの本質というものを、的確に表現できるほど、私は新井素子のすべてを説明できるわけではない。
僕が新井さんのファンになってから、まだ日が浅いし(それこそ、彼女のデビューから応援してきたファンの方々から比べれば、僕のなかにある「好き」のきもちなど、全く、海にただよう小枝のようにちいさなものだ)、まだ未読、とりこぼしているものも数作ある。

であるからして、「これが正解!」という観念は見つけられない、が、僕だけの個人的意見でいえばそれは、彼女の中の「バランス感覚」、これに尽きるんじゃあないだろうか。

新井さんの書く物語というのは、そして登場人物というのは、地に足がついている。物語の舞台はSFであったり、ファンタジーであったり、荒唐無稽であったり、するが、その世界を生きる登場人物は、そしてそれを見つめ描写する作者の目は、ずっと冷静である。
あの「冷静な目」があるからこそ、新井素子新井素子足ることができるといっても過言ではなく、たとえばのはなし、あの大名作『・・・・・絶句』(1983)などは、あの時期の新井素子にしか書けないものだ。凡百の作家が、あのような内容を書こうものなら、主人公となった「新井素子」は、どんな目に遭うか? もう、メアリー・スーまっしぐらである。しかし、「新井素子」の描く「新井素子」は、不思議にメアリー・スーたることを皮一枚ですり抜けて、平気な顔をしている。ギリギリ「痛くない」のである(もしかしたら「痛い」のかもしれないが。私が新井素子のファンだから、「痛く見えない」だけなのかもしれないが)。

ここからは全くの憶測だけど、新井素子には、「こうなりたい」とおもう、理想の新井素子が存在しない。なぜなら、新井素子にとって、現実の新井素子こそが、「あたし」そのものを十全に表し得ているからだ。
「あたしはあたし。それが何か問題でも?」で作りあがっている現実の新井素子は、だから、フィクションの世界で自分自身と世界をデコレーションする必要がない。新井素子は、空想の世界でお姫さまにならなくても、現実の世界できっちりとお姫様しているからである。(いや、本当に)(素子姫はSF界のお姫様、箱入り娘だったんだからあ)

だから新井素子の書くお話というのは、ファンタジーでありながらも、SFでありながらも、どこか現実的だ。登場人物の行動に飛躍というものがないから、読者は物語の登場人物に素直に寄り添える。ただし、灰汁が強いのは確かだから、「あたし新井素子って、どうしてもだめなのよね」という人には、徹底的に「ダメ」な世界観であろうという想像もつく(しかし、彼女の創作スタンスというものは、「(読者に)面白いとおもってもらえれば、暇つぶしになってもらえれば、それでいい」という、とてもけなげなものだ…………)。

というようなあんばいで(?)、ふたりは、(十代)、二十代、三十代を、それぞれ、エンターテイナーとして駆け抜けた。
そしておふたり、今年になれば作家生活…………何年目?
新井さんは1960年うまれ。
冨樫さんは1966年うまれ。
新井さんは作家生活47年。(47!?)冨樫さんは画業生活37年…………(さんすうができないから、まちがってたらすいません)

彼らはそして、なおも「創作」を続けている。そして、その間、彼らはずっとエンターテイナーだった…………
疲れないのだろうか?

僕は、また自分の話をしてしまうが、つくづくおもうことがある。それは、「ものすごい大作に出た、創った後の俳優や監督というものは、その後、燃え尽き症候群にならないのだろうか?」ということだ。
僕は『アシュラ』(原題:아수라)(2016)という映画がものすごく好きで、主演のチョン・ウソンの大迫力の演技に、その映画をみるたびに度肝を抜かれ続けているが、その後の彼が出演した映画を観た際に、「あのすさまじい映画のあとに、よくこういう作品に出れるなあ」と、余計なお世話なことを考えたことがある。
もちろん俳優といっても「仕事」なのだから、「燃え尽き症候群」などと悠長なこといっているばあいじゃないというのはもちろんだけれども、それでも一般人からしてみると、ものすごいものを作った人々のその後というのはとても不思議で、大作、名作を作ったあとに、またふたたび一から物語を構築していく人々のことを、僕は、すごいなあとおもってみていた。
そして私が新井さんにそれを感じたのは、もちろんあの名作『チグリスとユーフラテス』(1999)を読んでのことであり、冨樫さんにしてみれば「ハンター」内のいわゆる「蟻編」で、両者ともに、「あれだけの物語をつくったのに、“まだ”それ以上のものを作ろうとしているのか?!」というのに、一読者として、ずっとびっくりしていた。
そして、その「びっくり」の先、『アシュラ』の先を、新井さんと冨樫さんはつくってしまった。エンターテインメントあたらしい扉を、新井さんは作家生活を四十年以上続けた末、冨樫さんは画業生活を三十年以上続けた末、ひらいてしまったんである。

ここに、日本の作家が、決して到達し得なかった場所がある!

太宰治だって、三島由紀夫だって、川端康成だって、途中で死ななければ、たどりついていたかもしれない場所なんですよ。「その扉」を、開けていたかもしれないのです。しかし彼らにはそれが出来なかった。なぜなら、途中退場という道をえらんだから。しかし、それらがたどり着けなかった(たどり着く義務なんかないんだから、別にいいんだけど)そこへふたりはたどり着こうとしている。どういう方法かといえば、生きて、書き続けること。それによって。

僕がおふたりの作家性についていつも感動するのは、「自分が書く今現在の物語が、どのようであれば、「自分が一番この物語を面白がれるか」というのを、じっくりと考えているように見える、というところである。
つまりふたりとも、自分自身の中の「面白い」の感情に、とても、忠実なのだ。

たとえば新井素子新井素子は、いい意味で、ほんとうに変わらない。
世の中には、というか、文壇? とかいう場所? には、きみょうな因習、風習があって、それというのが、笑っちゃうんであるが、「一般小説」とか、「少女小説」とかいう、例の分類なんである。またもうひとつ笑っちゃうのが、「大衆小説」と「純文学」とかいうので、これの中間に位置するものを、そのもの「中間小説」とか呼んでいた時代も、あったが、「中間小説」自体がつまらなくなったので(当時、植草甚一が、「(最近中間小説が詰まらなくなったがどうしてしまったんだろう」と云っていた)、しだいになくなった。

そういえば、僕の大好きな大瀧御大がむかし、「音楽のジャンルやラベリングというのは作る側ではなく聴者側にとって便利に使われるもの」という趣旨の発言をしていたが、文壇? でのそういったラベリングは、むしろ作者じしんの方に掛かっていて、「中間小説からの脱皮」だとか、「少女小説からの脱皮」とか、そういった表現をされ、「脱皮」した張本人は、ジャ文学の最高峰とされる「純文学」への仲間入りを果たし、ようやく「男子の本懐を遂げる」のだった。

しかしわれらが新井素子には、そんなことはまったく関係のない話なのである。
別に他人の生活なのだから、これから新井さんが“いわゆる”純文学と呼ばれるようになったとしても、そこに意味を見出そうとしても、全く構わない。それは本人の自由である。自由であるがしかし、今現在の新井さんは、純文学作家でもなければ大衆作家でもない。新井素子新井素子である。それ以上でも以下でもない。
それ以上でもそれ以下でもない場所で、新井素子は、ずーっと新井素子だ。
そして、その四十年以上のキャリアのなかで、新井作品のなかに脈々と流れ続けていたもの。それが、「現実と空想の交差点」。そして、最新作『南海ちゃんの新しいお仕事 階段落ち人生』では、その傾向が如実に、顕著に、これでもかというほど、現れ、読者を圧倒してしまう。つまり、こういうこと、「新井さん、それはいくらなんでも、ミニマル過ぎませんか?」

新井さんは作家生活四十年以上を過ぎ、その壮大な世界観を、ミニマルな方向へと「広げて」行った。
その、あらすじ。

あたし、高井南海は超能力者!今までは階段やらアチコチで転ぶために「粗忽姫」と呼ばれていたけど、実は転ぶことでこの世界の各所にある“空間の亀裂”を修復していたのだ! 多くの人々が意図せずひっかかり、事故の原因となっていた見えない“空間の亀裂”。それを靄として感知できる御曹司の超能力者・板橋さんと組んで、あたしは世界を救うために働きだした! 仕事に恋愛、そして世界を良くしたいと願う女性の生き方──人気作家が描く、ちょっと不思議なSF超能力ストーリー。

引用は(http://www.kadokawaharuki.co.jp/book/detail/detail.php?no=7169)からお借りしました。

超能力ものである。超能力といえばサイキックバトル。手に汗握る展開、それぞれの能力の紹介、そのキャラのおいたち、トラウマ、過去、現在未来…………? しかし超能力者であるはずの新入社員「南海ちゃん」とその上司の「板橋さん」たちが繰り広げる物語の中に、超能力バトルは起こらない。そのかわりに彼らが何をするかというと…………
歩くのである。
ひたすら、歩く。
ひたすら歩いて、町中の『靄』を、「板橋さん」が見つけ、「南海ちゃん」が、ひっぱる。ただそれだけ。そしてその『靄』のなかに壊れたものを置くと、なぜかその壊れ物が直る、ってんで、彼ら超能力者ふたりは、ただひたすら会社の「修復課」に寄せられた壊れ物を直し、そして、町中を歩いてただひたすらに靄を「ひっぱって」壊していく…………
あなおそろしや、ただそれだけの(まあ、それだけじゃないんだけど、読んでもらえばわかるけど)話なんである!
SFというのは、とかく物語が壮大になりがちである。宇宙戦争、異星人、人類の危機、暗黒森林理論……そう、あの『三体』の対極にあるSFの北極、それこそが『南海ちゃんの新しいお仕事』なのだ!(???)

新井素子は、どんどんミクロになっていく。
私が『南海ちゃん』を読んでいてびびったのは、「モノ、物体が物理的法則を無視して完璧に直る」というある種ファンタジックな現象が作中内で起こったばあいの、それを現実として受け止めきれない登場人物の反応である。そして、その「なんで完全に壊れたものが完璧に直ってしまうんだ?」という登場人物の疑問のモノローグ、それだけで、小説の一章が終わってしまったとき、私はほとほと、呆れた。呆れたというか、感心してしまったというか、本当のことを云うと、感動してしまったのである。
新井素子ってやっぱりすごい。

私が単純に新井素子の魔法に掛かり続けているだけなのかもしれないが、それにしても、「なんで? どうして?」というちいさな疑問を登場人物が抱き、モノローグとして展開される、というたったそれだけの内容で、どうしてこれほど読者を飽きさせないことが出来るのだろうか。
たとえば、本を読んでいて、その本の中で登場人物が悩みを抱え、それをモノローグとして読者に聞かせているとする。そういうとき、「そんな悩み、どーでもいいよ」と読者がおもえば、そんなシーンは毛ほどの興味も持てない、つまらないものに成り果てるのは当然のことだ。
しかし、新井素子の文章というのは、そうはいかない。それは、登場人物のどんなちいさな悩み事であったとしても、「ああ、そうだよねえ……なんでかなあ……」と、読者自身も気づいたら、その悩みにまきこまれているのである。
こうなるとわれわれは、ページをめくる手が止まらなくなり、ささいなことで登場人物といっしょに悩む「モノローグ」と化してしまう。しかし、いざ読み終わってみると、「なんであんな詰まんないことを熱心に読んでいたんだ、あたしは………」と、ふと我に返ってしまうことも、ふしぎではないのである。
そう、つまり今作での新井さんは、「お家から出て、お家までまた帰って来る」というようなわれわれの普通の「日常」に、ほんのちょっぴりの「すこしふしぎ」を加えて、それをモノローグとともに現在進行形で実況していたのだ!

日常の道中で起こる「すこしふしぎ」ほど、われわれの好奇心を刺激するものはない。
たとえばのはなし、職場での「すこしふしぎ」。「あの人、どうしてこういう、ああいう行動をするんだろう?」というふしぎは、われわれのなかにふと浮かぶ「なぜ?」という感情を、快、あるいは不快をもって刺激する。そして、その「なぜ?」の疑問が、どんなにミクロなことであっても、疑問は疑問である。それが職場内の仲間内に共通する「なぜ?」であれば、なおのことである。われわれは、その「疑問」「なぜ?」について、結構、真剣に考えてしまったりする。それがどんなにつまらないことでも。
そして新井さんは、最新作で、それを「エンターテインメント」にしてしまった。
『南海ちゃん』は、結構分厚めのソフトカバーである。あとがきまでふくめて、459ページ(単行本版)。その分厚い物語の大半は、ミクロミクロミクロ…………なことで埋め尽くされている。そして、そのようなミクロミクロ…………を繋ぎ合わせて、結果として大きなことを語っている。この、語りぶり。大仰な世界観を提示しなくても、大仰な芝居を演出しなくても、大仰な思想を盛り込まなくても、物語というものは、「読者を飽きさせないエンタメ」というものは、創れる、という未知の体験を…………あなたは、これから体験するのですよ!?『南海ちゃんの新しいお仕事 階段落ち人生』を読むことによって!?(……オオゲサですか?)

さて。

そして冨樫さんは、新井さんがそうやって「ミクロ」になっていく中で、「マクロ」になっていく。
冨樫さんは今回の「継承戦編」で、登場人物がものすごく出てくる物語、というのを描きたいそうだ。
そしてその「夥しい」登場人物と、「夥しい」文字の黒集りの山に、多くの読者は、気絶した。
「気絶なんてしない!」という人は、そういう人で、別にいいが、私は気絶した。文字が多すぎる。コマがちいさすぎる。背景描き込みすぎ。ネームだけ読まされている気分。内容が頭に入ってこないよー。物語が複雑すぎて、何が起こってるのかよくわからない。ああ、「旅団編」が、「ハンター試験編」が、そして『レベルE』や『幽遊白書』が懐かしい…………

ぜったいに、こんなのは変だ。こんなに文字ばかり読まされるなら、漫画でなくてもいい。ラジオドラマででもやっていればいいんじゃないか。
冨樫さんはネームの天才だとみんながいうが、本当か? これがネームの天才だとしたら、こんなに読みにくくていいんだろうか。とか。
いろいろおもいながら最新刊を読んでいたが、旅団の過去編に突入したとたん、「よし、分かった」と、等々力警部(映画の方)になった。
「説明」は「説明」なのだ。

説明しよう(なんだか…………)。
むかし、バトルマンガには「場外説明」という風習があった(いまのバトルマンガにもあるのかなー)。
それは、場内(闘技場など)で戦っているふたり以外に、場外に、主人公の仲間(ないし敵)が居て、場内でのバトルの解説をしてくれるのである。つまり、ボクシングとか、プロレスとかを、解説席で観ている解説員の役割を担う係というのがいて、そのキャラクターたちの実況、解説によって、「プロレス」は、「ボクシング」は、生き迫るものとして、僕たち読者のなかに緊張と緩和をもたらしてくれていたのだった。
そして翻って、「継承戦編」におけるあのちいさなコマとちいさな文字は、すべてそれ、「場外からの解説」なんである。(!!!)

古き日に、桑原くんが、酎が、樹が、レオリオが、その他モブ(群衆)が担ってきてくれたそれを、今度は僕たちのまったくしらない「たくさんの人が出てくる群青劇」のなかのひとりひとりが、担っている。そして、そのひとりひとりのなかに、モノローグまでがある。そう、今回の「継承戦」の特徴は、「群衆のひとりひとり」に過ぎない登場人物の「ひとりひとり」に、感情があり、信条があり目的があり意志があるということ。完全なる「モブ」はひとりもいない。ああ、恐ろしいことに…………われわれが「継承戦」を読むということは、それすなわち、日本のなかの、いや、地球上のひとりひとりすべての生き物に対して、「感情移入」を、迫られているということなのだ…………!!!
この強大さとは何だろう? わたしたちは、「継承戦」を読むことによって、すべての生き物に感情移入しないでは、「物語を読むことすらできない」(!)

街中であなたが歩いている、そして、すれ違ったそのすべての人々にたいして、あなたはその心情に寄り添わなくてはいけない。今すれ違ったすべての人…………そしてその人々が、モノローグの吹き出しでもって、心情をあなたに語って来る、そして、読者であるあなたは、そのモノローグの吹き出しにも、いちいち「読む」という動作を行うことによって、”強制的に感情移入しなければならない…………”
こんな疲れることに、どうしてわれわれが協力しなければならないのだろう? われわれは、「エンターテインメント」を読みに来ているのに! こんな状態を「面白い」とおもうのは、なるほど難しいことかもしれない。“自分の好意の持てる登場人物にだけ感情移入できていたころ”が懐かしい。『幽遊白書』がなつかしい。「ハンター試験」が懐かしい。「旅団編」が懐かしい。幽助が、ゴンが、ヒソカがクロロが懐かしい…………

しかし、世界は広い。そして、世界は「あなたのため」だけには出来上がっていない。
世界にはたくさんの「あなた以外の他人」が存在する。そして、「あなた以外の他人」は、「あなた以外」の目的や考え方、スタンスを持っている。そして、“好意だけを持てる登場人物”というのも、世界のほんの少しのものでしかない…………

「継承戦」のぐちゃぐちゃが僕たちに教えてくれるもの、それはやっぱり「世界は広い!」ということだ。そして、「解説員」であるあの黒集りの文字の山々、コマのびっくりするくらいのちいささは、実は、冨樫先生のやさしさであったりするのである(えー――――??)

だって、考えてもみ玉え。(渡辺温……)

38巻収録の旅団の過去編を読めば、冨樫さんの描く「ネーム」が、延々と続く文字説明文字説明文字説明文字説明文字説明…………だけでないというのが分かるだろう。そして、使うべき場所では、きちんと大ゴマをつかう「演出」をしているというのが分かる。つまり、文字説明文字説明文字説明…………の頁というのは、戦闘シーンのない解説席のようなものだ。その解説席で、解説員は、空白のリング、セルリアンブルーのリングを眺めながら、ずっとおしゃべりしている。そして、そんなシーンが面白いわけがない。ので、縮約する。ちぢめる。できるだけ頁を喰わないように。そして、開いたスペースで、ヒソカが大ゴマを取ったり、クロロが大ゴマを取ったりする余裕を確保する。少年ジャンプに載せるためには、ひとつの物語を、19ページ内で納めないといけない。あの文字説明文字説明文字説明…………の「辛さ」は、だから必要な「辛さ」だ。あれは作劇に失敗しているのではない、冨樫先生の、ただの「親切」なのだ。(信者のざれごとのように聞こえますか?)(ウボォーさん…………)(うるせー)

たぶん、「19ページの制約」(制約)!を抜け出すことが出来れば、文字説明文字説明文字説明…………という手段も、また別の表現方法としてわれわれのまえに提示されることになっただろう。しかし、「ハンター」の掲載紙はアフタヌーンではなく少年ジャンプ。制約と誓約によって「少年ジャンプで週間連載を19ページ内で行う」という念能力のもとに、冨樫義博少年マンガを描いている。
「自ら制約(ルール)と誓約(覚悟)を課すことによって、持っている念能力の威力や精度を著しく上昇させることができる」とするのなら、これほど適切な掲載条件というものはないだろう。
冨樫義博は自由詩ではない。俳句なのだ!

世の中には、色々な作家が居る。そして、そのそれぞれが、たぶん、自分の中の、一番に「オモチロイ!」とおもえるようなできごとや、ものごとを、「物語」として、われわれ一般人にお披露目して見せてくれている、とおもう。だけど、ほんとうに時々、「こんなに手を変え品を変え様々な方法でもって僕たちを楽しませようとしてくれているけど、全く面白くない。はたして作者本人は、これが本当に、世の中で今現在、自分自身がもっともおもしろい/興味深い/素晴らしいとおもったからこそ作ったんだろうか?」と、ナゾにおもうような創作物が、たまに、コロコロっと転がっていたりしてしまうようなことが起こる。
それは単純に、その作品が好みじゃないとか信条に合わないとか、あるだろうがしかし、それでも「詰まらない」ものを「極上のエンターテインメント」の貼り紙をつけて提示されると、なにかへきえきとしたものが体内に蓄積するようになる。別にいいんだけど。

でも、僕たちには、新井素子がいる。冨樫義博がいる。
物語作家というものを続けるということは、常に、「ほらふき」でなければならないということだ。しかも、ただのほらふきではなく、「地に足の着いたほらふき」で居続けなければならない。そのバランスを保つこと、そして、そのバランスの角度をどのように変えていくか、それによって、どうやって自分の、「地に足をつけながらもほらを吹き続ける姿」に飽きないかということ。若いうちに、「大勢の人々が納得する」エンターテインメントの答えにたどり着いていた二人は、そこから、自分の見つめるエンターテインメントの形を、「自分を飽きさせないための自分の形」を、まだまだ模索し続けている。そして、その生きざまを、ほかならぬ一般ぴぃぷるであるわれわれに、お示しくださっている…………
ありがとう新井素子、ありがとう冨樫義博、というわけでこれにて講話を終了とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
おわり

というわけで私は、最近またしても時間の「ずれ」というものの認識のあいまいさについてほとほとこまりはてている。
短く書く。ほんとうに短く書く。つまり僕がさいきん、とても悲しがっていること、それは、「過去の僕よりも、僕は“過去”という概念を楽しめていない」という、悲しみについてなんである。

短く書く。

今からさかのぼること十余年、僕はいわゆる「サブカル漬け」の日々を送っていた。
寺山修司とか。渋沢竜彦とか(澁澤はじぶんのおなまえの表記が「竜彦」になるのを嫌っていた。なんでも、「竜」の字が、亀みたいに見えるからだそうである。ハハハ)、鈴木いづみとか、植草甚一とか、なんかそういう周辺のものが「通例通り」にとても好きで、色々と読んでいた。
しかし、悲しいかな貧乏人のせがれである僕には、資金と時間と好奇心いうものが昔も今も、乏しく、それらの作家の書いたものすべてを網羅的に読んだということはなかった。そして、網羅するまえに、僕はそれらの作家像から徐々に離れていき、最近ではほとんど手に取らないようになり、興味は他の場所へと移って行った。
しかし、人の趣味趣向というものは根本的にはあまり変わらない。で、あるからして、僕はそれらの人物像が展開してくれる世界観が今でもずっと好きだし、寺山修司の『田園に死す』なんか、今でも大好きだ。そして今年の夏ごろになって、その昔手に取っていた類の書物が展開してくれた世界をどうも懐かしくおもうようになった。ために、過去、愛読していたいくつかの本を手に取って、眺めた。そして眺めた結果、僕はとてもかなしくなった。
おもしろくない。
過去、僕はたしかに鈴木いづみの文章が好きだったし、露悪的なものをふくんだ渋沢や、『血と薔薇』の世界が好きだった。
でも、今読むと、違うのである。それらの書きぶりを、「若い!」とおもったり、してしまうんである。
実際のところ、私は“彼ら”と出会ってから十年以上を経て当時よりも老人に近づいているし、昔好きだったものを今でも愛読できるということになれば、十年分の成長というものが皆無ということになるのだから、十年経って、昔愛読していたものを、「これが若さか」と、サボテンが花をつけていることに感動して涙をきらきら流したって、別に構わないことなのかもしれないが、そうではなくて、私が悲しいのはこういうことだ。1979年に出版された本を楽しんでいた2010年の私と、1979年に出版された本を楽しめない2024年の私は、「1979年」という年号からすれば、同じように「未来人である」ということ。これが、私には、たまらなく悲しい。

説明します。
いや、単純な話なんです。2010年よりもだいぶ年を取ってしまったこの僕は、外見上はただ老けたというだけで、別になんの人間的成長もみられないが、それでも価値観の変化や、それまでは「分かっていなかったこと」が、目に、耳につきやすくなってしまった。そのおかげで、昔は平気で看過していた露悪的表現や、作者の特権意識、本人からしてみればホンのジョーダン、照れ隠し、仲間内でのなあなあ的表現であるものも、ぜんぶノイズのようになってしまって、どうしても「冷めて」しまうのである。
今よりも若い頃は、僕はそんな表現に行き当たるたびに、いちいち傷ついていた。そして、「この本、実は僕のような人物に向けて書かれているものではなくて、結婚して、お嫁さんが居て、サラリーマンをしている人向けに書かれているものだから、僕のことなんかお呼びじゃないんだな」と、おもって、一人で勝手に落ち込んだりしていたのである。

でも、いまは違う。
僕は、たとえ「そういう人向け」に書かれている本であっても、「もしも僕が“そういう人だったら”」と、自分を他人化して、平気で読んでしまう。しかし根本的にいってみれば、そこまでして「自分に合わないもの」を読むことぁないんじゃないかという話であって、ネクラのくせにネアカ連中の居る場所にわざわざ出て行って恥を搔きに行くようなものではあるが、体力がある場合は、それが出来るのである。
体力気力ともになんとか「変身」して読む場合もあれば、読まない場合もある。つまり、「付き合いきれない」とおもえば、本を閉じて、古本屋に売るなり、図書館に返すなり、読むのを止めるなりすればいい話であって、むりに「合わない作家のスタンス」に合わせる義理なんて、こっちにはさらさらないのであり…………

しかし若い頃の僕は、それでも「サラリーマン向け」のエッセイや小説なんかにかじりついて、おのれをサラリーマン化すべく躍起になっていた。そして、自己サラリーマン化に成功したり、しなかったりして、開高健や、吉行淳之介や、遠藤周作だの山口瞳だのを読んでいたのだった。

しかしやっぱりある日、それが全く読めなくなった。
ひとことで言って、「キモチワルイ」のである。
ある種の価値観の元に描かれたものを肯定的に読むために、私のなかで一生懸命いびつに構築してきたもの、想像上のサラリーマン、薄いミソジニーを内包した何か、黴の根っこのような男権意識は、結局私の中に、幸か不幸か根付かず、徐々に薄れていった。そして、山口瞳が、エッセイや対談集で女を腐したり、「今日は5000円の靴下を履いてきた…………」的な発言をしているところで、「はあ?」とおもって、とうとう本を閉じてしまった。別に、誰がどんな靴下を履いていたってカラスの勝手なんではあるが、そして山口ファンのみなさまには申し訳ないが、私はもう、これ以上「こういう世界」には付き合えないとおもって、読むのを止めてしまった。

でも僕は、昔の僕は、確実に、“そういう世界”に、あこがれていたのだ。
いつの間に、こんなことになってしまったんだろう? これはごかいをまねく発言かもしれないが、山口的世界観を十分に堪能し、その世界観を決して疑うことなく、そのうちにいつか生命のすべてを全うし得た人物像があるとすれば、僕は、そういうものを、心底羨ましいとおもう。そしてこうもおもう、「そういう世界観を、「楽しめる」うちに、そういった類の物を、一生懸命食い尽くすように読んでおくべきだった」と。
誰かが「きもちわるい」と外から眺めてしまう世界というものは、それは「中に居る人」にとっては、とてつもなく心地よい世界であるからだ…………

そして、そういう世界、島宇宙のようなものは、この世にはいくつもいくつもいくつも存在していて、人々は、その島から、出たり、入ったりを繰り返しているに過ぎない。だから、僕が「気持ち良い」とおもう世界も、かならず、ある第三者からすれば「気持ち悪い」ものに、必ず、成り得る。そしてまた、自分自身が「気持ち良い」とおもっていたその世界を、自分自身が「気持ち悪い」と思う日も、いつかは訪れる(かもしれない)ものなのだ。
だから僕は、1979年を、1979年が楽しめるうちに、(まあこれは、この年号に限定した話ではないんだけど、一つの例として)もっと楽しんでおくべきだった。あの頃の僕にとって、山口瞳は、吉行淳之介は、僕に美学を教えてくれる、とても素敵な、たいせつなものだったからだ…………

たとえば僕は、いま、昔読み逃していた田中小実昌なんかを、一生懸命拾って読んでいるが、どうも好奇心のチャンネルが彼と合わない。だがしかし、十何年前の僕のまえに、ぽっと、今、読みさしている田中小実昌の本なんかを、置いておけば、過去の僕はねずみとりに引っかかるあわれなくまねずみのように、喜んで、ねずみのねどこに持って行って、したなめずりしながらそれを読むだろう。

だから今、僕は、過去の自分が羨ましい。そして、過去の僕に、“あの頃の風景”を、もっと見せてあげておけばよかったとおもう。

おそまつ。

朝、まぶしくて目を覚ました。

で、テレビをつけた。すると、アマゾンプライムの宣伝が目に飛び込んできた。「どうせ有料でっしゃろ?」とおもいつつページを開くと、『ボーはおそれている』(2023)が、はじまった。ので、私は、朝っぱらから優雅に(?)その三時間になんなんとする映画を観たというわけだった。

で、その感想。

面白いか面白くなかったかといわれれば、面白かった! ので、感想はそれで終わり。以下、雑感。

ところで、映画や本や漫画というものは、「面白い」ものと、「好き」なものに分かれる。

「この映画、面白かったなあ」という感情が、続いて「この映画、好きだなあ」に必ずしも繋がるわけではない。また、「この映画たいくつだったなあ」という感情が、続いて「この映画好きだなあ」につながる場合もある。そういう意味合いでいくと、私は『ボーは……』を面白く鑑賞したが、決して好きな映画であるとは言わない。だけど、とても楽しかった。そして私は鑑賞しながら、私はこの映画の中に、二つの映画をおもいうかべていた。それが、『東京物語』(1953)と、『ヤン・シュヴァンクマイエルの“アリス”』(1988)である、と。そしてこの物語の根幹にあるものはもちろん、『不思議の国のアリス』。僕たちはたったいま、それだけのものを内包した物語(の・ようなもの)を、三時間になんなんとする時間の中で、たっぷりと濃厚に過ごしたということになる。こんな映画が、オモチロクナイ! はずは、ないんである。

しかし……………

それと同時に、この作品を面白がりながら、この巨大な世界観のまえに立ち尽くしながら、私(たち)は、また同時にこうもおもうのだった。「ああ、またこの話か」と。

僕たちは物語に、その生命を犯されつつある。

これは、普段からフィクション漬けになっている人特有のものかもしれない。現実問題にめをむけず、めのまえの現実をとりあえず保留にして、映画館のくらやみのなかに走る。あるいは、部屋の電気を消して、真っ暗闇の中で、配信サイトから配信されるドラマ、ないし映画を観続ける。しかし彼らにとって、それはひとときのなぐさめだ。画面の中に起こっている様々な“ドラマ”を、最も安全な領域から眺めること。それは、日常のつまらないあれこれに奔走しなくてはならない我々にとって、唯一の、憩いの時間でもある。

もちろん人それぞれに憩いの時間というのは千差万別にある。家族と過ごすことが憩い、ペットと過ごすことが憩い、一人でぼんやりとするのが憩い、一人で絵を描くのが憩い……………なんでも良い。しかしとにかくその時間、“嫌だけどやらなければならないこと”から離れている時間というものは、現代人にとっては、絶対的に、無くてはならない掛け替えのないものである、と。

そして人々は、他人が画面越しに見せてくれるドラマの中に、憩いを見出す。そしてそれは、他人の見ている「悪夢」であればなおのこと、楽しい。僕たちは、画面越しにみつめる、他人の不幸が大好きである。画面越しに他人のみのうえに起こる、殺人、犯罪、猟奇、嫉妬、陰謀、組織、散弾銃、馬の首、人間の首、呪い、悪魔、不倫、炎上……………現代人にとって、「他人の悪夢」は最大の娯楽だ!

というわけで、『ボーはおそれている』(2023)。

「このシーンの意味というのはこういうことなんですね」とか、「この時の撮影裏でのエピソードは……」とか、「このモチーフに隠された意味は……」とか、そういう「しのぎ」になるようなネタをたくさん含んでいる映画だというのは、分かるんですが、そういうのは置いておいて。

「国境の長いトンネルを抜けると……………」的に、「Down, Down, Down―――」とやられてしまえば、私たちは、もうすでに、『不思議の国のアリス』を連想するように、ほとんど躾けられている。そして、「Down, Down, Down―――」してしまえば、もはや私たちは無敵だ。夢の中でなら、われわれは空も飛べるし、スーパーマンにもなれる。そして、「なんでもないこの僕」でも、きちんと主人公になれる。国家組織から命を狙われることがなくても、私立探偵でなくても、一流のスパイでなくても、アンドロイドでなくても、美少女じゃなくても、大金持ちでなくても、マフィアでなくても、「この、何の存在でもない僕」だけで、われわれは、大きな物語の主人公になれる。僕たちは、何ものでもない僕たちは、精神世界の中では、ほかのどんなものにも負けない主人公だ。

著名な実業家を母に持つ中年の男ボー・ワッサーマンは、極度の不安感に苦しみながらも治安の悪い地域で一人暮らしをしている。ボーを妊娠した初夜に腹上死したと聞かされている父の命日に母を訪ねるつもりだったが、目を離したすきに玄関先で荷物と鍵を盗まれて飛行機に乗り遅れてしまう。さらにホームレスに部屋を占拠されてしまい、屋外で一夜を過ごす羽目になる。翌日、母に電話をかけると、電話にはUPSの配達員が応答する。彼は配達に訪れた家で、落下したシャンデリアで頭部の損壊したボーの母親とみられる遺体を発見し、警察に通報したと伝える。うろたえるボーは、部屋にいた侵入者に驚いて路上に飛び出し、警官に助けを求めるも誤解されて銃を向けられ、逃げようとしたがトラックに跳ね飛ばされ、挙句の果てに連続殺人犯に腹部と手を刺されてしまう。

引用は相変わらずWikipediaからお借りしました。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%81%AF%E3%81%8A%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B

「部屋(子宮?)」から出た瞬間、われわれのまえに広がっているものはワンダーランドだ。主人公のまわりにはおかしなことが起こり続け、主人公はその「現実」に翻弄される。そしてやっぱり『不思議の国のアリス』よろしく、最終シーンは裁判の場となって、主人公は自らの罪を咎められ、「ママに愛情を返さなかった罪」とともに自らが乗るモーターボートごと転覆、彼はしかし、アリスのように「目を覚ますことなく」、物語は語りっぱなしのまま、終わってしまう。

すべては夢でした。

たとえばそれは『ゲーム』(1997)、あるいは『タクシードライバー』(1976)、そして『ジョーカー』(2019)……………

主演のホアキン・フェニックスは同じような役ばっかりやってご苦労様であるが、その姿をどんなに「美化」ではなく「醜化」させようとも、彼はれっきとしたハリウッドスター。百万ドル長者の名優がどれだけ痩せようが、太ろうが、奥歯四本を引き抜こうが、スターはスター。彼らは映画の中ではねずみのように逃げまどい、無残な死、あるいは美しい死や滑稽を演じてわれわれの「ミゼラブル」な生活を、「ミゼラブル」の皮をまとって慰めてくれるがしかし、彼らが本来帰る場所には高級車が停まり、セキュリティは万全、お手伝いさんがいつでも、車も、バスルームも、キッチンもベッドもなにもかも、ぴかぴかにしてくれる……………

そして現代のわれわれは、自分自身の、そして自分自身を映し出す鏡としての「醜」に対して、喜んでそれを楽しみ、受け入れ、嫌悪しつつも金銭を払って「それ」を歓迎する。

しかしそれは、今に始まったお話ではない。映画という表現手段において、「醜」であるものがある種の「美」を伴って「大きな物語」になる瞬間を、われわれは、何度も、何度も、目撃している。

スミス都へ行く』(1939)が陽の物語だとすれば、『廿日鼠と人間』(1939)は陰の映画。
『七年目の浮気』(1955)が陽の物語だとすれば、『エデンの東』(1955)は陰の映画。
アパートの鍵貸します』(1960)が陽の物語だとすれば、『太陽がいっぱい』(1960)は陰の映画。
がんばれ!ベアーズ』(1976)が陽の物語だとすれば、『タクシードライバー』(1976)は陰の映画。
だんだん面倒になってきたのでちょっと飛ばして、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)が陽の物語だとすれば、『ジョーカー』(2019)は陰の映画。

……………というように、われわれは、人生の、映画の、陰も陽もみんなひっくるめて、人間の演じるドラマというものを、ずっとずっと眺めて来た。だから、現代人のみが、特有として「悲劇」「悲喜劇」ばかりを望んでいる、作っているというわけではない。

さて……………

というわけでわれわれ「陰のもの」たちは、長い長い歴史の中で、どんなものに虐げられてきたか?

社会そのもの。
家族。(とりわけ、父親)
金持ちの友人。
社会。
社会……………
そして母親。

「虐げられた人々」、つまり「弱者」が「主人公」となるとき、彼らが主人公として物語のいちばんてっぺんに浮上するためには、まずはじめに「虐げられること」が、必要になる。

おおくのばあい、その「マイナス」をばねにして、主人公は物語を動かしていく。犯罪に手を染めてピカレスクを演じたり、「美しい青年であるにもかかわらず」(つまり、本来であるならば祝福された青年像を演じるべき器であるはずにもかかわらず)、父親に顧みられない悲劇の青年としての存在を恣としたり、女にも社会にも顧みられないおれだけど、少女娼婦を救って、まちの英雄になったり、して、彼らは主人公の座を勝ち取る。そして彼らは多くの場合、その主人公になるために、たいへんな犠牲を払って、いる。それが犯罪者になることであり、社会的逸脱行為をすることであり、友人に成り代わることであり、夢の中(?)で人を殺すことであり……………

でも、ボーはなにもしない。彼はただ、悪夢を『観ているだけ』だ。

彼のすべきことは、もうすでにしてすべてが終わっている。彼は過去、「ママ」に関わった。「ママ」に愛してもらった。「ママ」から逃げた。ただそれだけだ。

でも、たったそれだけのことでも、つまり、「母親に関わった」という人生だけで、ボーは、いや、「私たち」は、今や巨大な物語の主人公になってしまったのである。

僕たちは、「虐げられた」僕たちは、もはや、何を犠牲にすることもない。自分のすべてを投げ出して、少女娼婦を救うために鏡の前で” You talkin' to me?“と話しかける必要もなく、友人の筆跡を必死になって練習する必要もない。父親の愛に飢える必要もなければ、精神病院から脱出する夢も観なくていい。「ありのまま」でいいのである。そう、つまり、ボーは、われわれは、悪夢を見続けるだけでいい、ありのままの姿をすべての人に見せる「アナ」であり、「アリス」なのだ!

ぼくたちは、いまや、悪夢の中でまどろんでいるだけで主人公になれる。こんなにも「お気楽」な人生があるだろうか?

ママの子宮のなかで眠っているだけで、そのすべてが勝手に動いていく。ママの温かい呼吸の中で、われわれは、車に轢かれたり、殺人鬼に脚を刺されたり、少女に脅されたり、その少女を殺した殺人鬼だとおもわれたり、演劇を観たり、初恋の人を腹上死させたり、して、最終的に「ママの愛に応えなかった罪」によって、ギルティ―、物語のなかから姿を消してしまう。

僕たちは、生まれさえしなくても構わないのだ。ママの子宮の中にいるだけで、主人公になれるのだから。しかしそれは、「生まれないから」こそ、主人公で居られるということだ。

誰だって始めは、誰かの可愛いベイビーだ。望まない妊娠によって、その出産を祝福されなかったベイビーでさえ、子宮の中にいるかぎり、常に、誰かの心配事の第一番だ。その時、われわれは、誰かの中の唯一の人になる。つまり、自らの母親の……………悪夢の中で主人公を演じる「ボー」は、実は、生まれてすらいない。だからずっと主人公だ。誰かの可愛いベイビーちゃんとして、われわれは、「ありのままの」われわれは、こうして、主人公になれる……………

こうしてわれわれは、「そのままの君」「ありのままの君」であるというだけで、「主人公」になってしまったのだった。

「ありのまま」であるわれわれはそして、醜ければ醜いほど良い。醜悪な僕、を曝け出せば曝け出すほど良い。そしてそれは『ソドムの市』(1975)のような露悪ですらない。露悪を披露するためには、ある程度の無理をしなければならない、逸脱をしなければならない。そのためには、他人を必要以上に加虐したり、荒唐無稽を演じなければならなくなる。われわれが現在、「画面の向こう」に望む「醜怪」とは、そうではなく、「醜怪が、ありのままに存在している」、われわれの生活そのもの、ピーピングそのもの、「監視カメラを覗いたその向こう」なのだ。

そしてそのような物語を安易に愛すということは、「ありのままのあなたを受け入れる」という、いびつな、不思議な凸面鏡でものごとを覗くような、「母親の目」を、物語の「ありのままの僕」である主人公に注ぐことに他ならない。僕たちの覗く、画面に映った『凸面鏡の自画像』。パルミジャニーノの描いた自画像と同じ自己像を、われわれは2019年に続いて、なぜか2023年においても、ホアキン・フェニックスという凸面鏡を覗いてそれを眺めてしまった。なんでこんなことになるんだろうね?

不思議の国のアリス』の登場人物を演じる「演者」が、「役」の感情を完全には理解できないように(彼らはカーニバルの登場人物である)、『ボーはおそれている』の登場人物を演じる演者も、やっぱり脚本の釣り糸に操られているお人形に過ぎない。しかし、そのお人形劇は素晴らしい。釣り糸を切ってしまえば、すべての物語は機能しなくなるがしかし、登場人物も含め「映画のセット」だとするのなら、これほどの芸術世界を展開してくれるアリ・アスターという人は、ほとんど日本の小津安二郎なんじゃないか。(強引ですか?)

安易に、鏡に映る自分自身と、画面に映ったつくりものの自分自身(を演じてくれる他人)を重ね合わせない方が良い。
誰かも云っていたけど、それって、『お仕事でやってるだけかもよ♪』(『林檎もぎれビーム!』)

おわり♪♪(2024.09.15)

つまり、俺はそこでは息ができないが、”彼”はそこでも息ができるということだ。

菊池は沿岸沿いに住んでいる。
俺はその近くの住宅街にある汚いアパートの二階に、両親と一緒に住んでいる。
菊池の家には、小さい頃一度遊びに行ったことがある。小学生の時、数人の友人といっしょに。彼の家はちいさな一軒家で、遊びに行くと、玄関のあたりまで潮の匂いが香ってきていた。
潮で錆びついた引き戸が軋んだ音を立てて開く。「お母さんいるの?」リビングを見回しながら、友人の中のひとりが尋ねた。
菊池は、それぞれ形の違うとうめいなガラスコップに水道から水を入れて、俺たちに振る舞ってくれた。 「いるよ」そして彼は短く答えた。「今はねてるけど」
世間的なルールとしては一応、『大人のいない状態の家に遊びに入ってはいけない』という決まりがあって、それは責任の所在が取れないからではあろうが、当時の俺たちにはそんなことは知ったこっちゃなく、けれど一応確認は取る必要があるとなんとなく感じていたので、友人はそれで彼に、そう尋ねたに違いなかった。
彼はそれに答えた。であるからして、この古びた、ちょっと居心地の悪さすら感じる一軒家には、彼らの責任を預かるはずの大人がいる。何かこっちに問題があれば声を掛けられる。声を掛ければ助けてもらえる。たとえば強盗が急に入ってきたりとか。たとえば割れたガラスで肌を傷つけてしまったりとか。

がちゃん。

「あ」
友人の一人が、菊池から渡されたグラスコップを取り落した。薄いガラスで出来ていたらしいそれは、床に落ちたら簡単に割れた。がちゃん、というよりも、かしゃん、と表現したほうが適当とおもわれるような、薄く、繊細で、はかない音だった。俺たち四人はしばらくそれを見ていた。それから、コップを割った張本人である友人が、「あー」と情けない声を出した。「血ぃ出た」
うつろなこえ、というか。心ここにあらず、しかし意識はそちらに払わなければならない。そのような声だった。 「だいじょうぶ?」
菊池が尋ねる。俺はその横顔を見ていた。菊池の唇は薄い。すごく薄い。はしっことはしっこがきれいに上がっている。ねこみたいな口。「うわ、すげえ」「洗えば?」残りの二人はおもわず席を立ち、怪我をした友人からなぜかキョリを取った。友人の指からはしらしらと鮮血が滴っている。「え、どうしよう」友人の声。その顔が、俺の正面を捉える。「けんじくん。どうしよう」
その友人が俺を見るんだから仕方がない。俺は立ち上がって、割れたガラス片を踏まないように、彼の近くに寄ると、怪我をした人差し指を立てている手を掴んで、キッチンシンクの方へ引っ張っていった。「痛て、痛て、痛て」
水道の蛇口をひねり、その水の流れの中に、彼の人差し指を突っ込む。「痛い! 痛い痛い痛い!」友人がじたばたするので、俺は彼の手首を握る力を強めた。きゅ、と蛇口を締め、振り返る。
「ゆうじくん、ばんそうこう、ない?」
ゆうじくん、菊池遊児くんは、顔を上げて俺を見た。目が合った。俺たちは数秒見つめ合った。彼は皿の上に、欠けたガラス片を集めているところだった。「ばんそうこう?」「知ってる?」「うん、知ってるよ」立ち上がる。一分くらい、彼の姿はリビングから消えた。
戻ってきたとき、彼は包装されていないはだかの絆創膏を俺に差し出した。俺はそれを無言で受け取った。それは端が黒く汚れていて、ちょっと汚かった。だけど、それをマジマジ眺めて、彼に余計な印象を持たれるのがいやだったから、そのまま受け取って、怪我をした友人の傷口に貼った。「え、これ、だいじょぶかあ?」友人が心配そうに言った。「だいじょうぶだよ」「だってなんか、余計ばいきん入りそう」「入らないよ」「……俺、帰る」
友人は俺の手を振り切って、スリッパでまだ床に残っているガラス片を踏んでリビングを出ていった。残っていた二人の友人も、ちょっと迷うように視線を走らせたが、結局その友人について出ていってしまった。

リビングには菊池と俺だけが残された。
菊池は出入り口のドアを見ていた。テーブルの上に載せられた彼の片腕。手のひらが広げられ、その手の甲には薄く青い静脈が見えた。俺はそれを見ていた。すると、その手の甲がきゅうに見えなくなった。俺は視線を揺らした。彼の体が動き、彼は再びガラス片がぶちまけられたそこへと屈み込んだ。俺は、糸を切られた人形のようにその場にしゃがみ込むと、彼と向かい合ってガラス片を拾った。「いいよ」彼は小さく言った。「あぶないから」「でも」「あとは、掃除機を掛ければいいから」「お母さん、呼んだら?」「……………」彼の動きが止まった。彼の指先には、つまみ上げられた中くらいのガラス片。「お母さん、今いないんだ」彼は言った。「仕事だから。いない」「……………」
あ、こいつ、嘘ついたんだ、と俺はおもった。
でも別にどうでもよかった。親が居ようが居まいがどっちだってよかった。俺はそれを意思表示するために何かを話さなければならなかった。「何時に帰ってくるの?」「あ、六時くらい。いつもは」「あ、俺の家のお母さんもそのくらい」「お母さん、どこで働いてるの?」「まるおか商店。知ってる?」「あそこにいるの? へえー」
へえー、じゃねえよ。 「あっ」
きゅうに、彼が、手を引っ込めた。ガラスで指を切ったのだ、と俺はおもって、「あ、だいじょうぶ?」と、ちょっと自分でもびっくりするくらい、鋭く言った。「ちがう」
俯き気味で、彼は少し笑っていた。口角が上がって、きれいだった。引っ込めた手を、もう一方の手でかばうように握り込んでいる。「水が」
「水?」
彼は消え入りそうな声で言った。「だめなんだ」
「何が」
彼は言った。「僕、水にさわれないから」
そういえば、彼は水道からコップに水を注ぐとき、ゴム手袋をしていた。

まあ、そのようなおもいでが、あり。
多分菊池はそんなことは忘れている。それはおもいでとは呼べないような、断片的な出来事に過ぎない。

小学六年生の初夏。
その年は冷夏だった。

菊池遊児は変な男だ。
プールの授業に出ない。
プールの授業のときはいつも見学。見学というよりプールサイドにもいない。だから授業中は別の場所にいるんだろうけどどこにいるか分からない。時々授業中に貧乏ゆすりをしながら、タブレット菓子を隠れて食っている。
飲料を取らないのもおかしかった。給食の牛乳はいつも残していたし、スープ類なんかも飲んでいるのを見たことがない。でもそれで先生に怒られているところも見たことがない。『家庭の事情』? 昨今の児童生徒各種には、人それぞれの理由がある。
一度、教室できみょうな行動を取っていたこともある。

男子生徒が教室内を走っていた。
その頃、教室では金魚を飼っていた。生徒の一人が、夏祭りの露店で掬ってきたいっぴきの金魚。ちいちゃい金魚鉢にいっぴきだけ、入れられて、それは担任の先生の机の隅に置かれていた。時々女子が水を換えてやっていた。調子乗りの男子生徒が金魚に餌をやりすぎるので、金魚鉢の中は常になんか汚かった。
その日も二人の女子が金魚鉢の水を換えていた。金魚鉢を両手に抱えた女子生徒。それと、男子生徒がぶつかった。「あっ」
当然、金魚鉢は宙に。がしゃーん。のたうつ金魚。
その時だった。菊池は、ガガガッ、ととんでもない音を立てて椅子を引いた。
その時教室内にいた生徒たちは、金魚鉢が割れたこと、女子と男子がぶつかったこと、金魚が空気を求めてのたうっていること、などについて騒ぎたかったのに、それを菊池がじゃました。
彼はちょうど廊下側の一番前の席に座っていた。教室の入口付近で男子生徒と女子生徒はぶつかったから、当然その中身はその付近にぶちまけられたことになる。ガッターン。彼が大げさに身を引いて立ち上がったせいで、椅子は派手な音をたてて後ろへ転がった。頭をぶつけて痛がっていた男子生徒と女子生徒が、何事かと彼を見た。教室中は静まり返って、じょうだんでなく金魚が水たまりをはねるピチピチという音だけしか聞こえなかった。
菊池はゆらりとひとりだけ動いた。で、教室から出ていった。すると、緊張の糸がきゅうに解れたように、教室内の生徒たちは、それぞれが本来するべきであった行動を取り出した。「なんだあいつ」
掃除用具入れからほうきやちりとりを取り出してガラス片を掃除する女子や、ぶつかった男子にちょっと謝りなよーと言っている女子や、そのまわりでわーわー言っている男子を眺めながら、大田が言った。「なんか怖え」
俺は黙っていた。
「なんか怖くね? 挙動不審だよね、いつも」
「挙動不審?」
「なんか変だよ」大田は言った。「へんだよ、あいつ」
彼はそう言いながら、それを特別嫌悪しているわけでも、唾棄すべきものとしているわけでもなさそうだった。ただ、事実がそうだったからそう言った。その程度の関心具合におもわれた。 「主人公感あるよな」俺は言った。
「主人公感!」
大田は笑った。「分かるかも、それ……なんか敵と戦ってるんじゃね? 見えないところで」「守ってくれているんだなあ……実は、俺たちを」「あー、おれら菊池に守られてたんだ……知らなかった……」
俺たちはげひんにげらげらと笑った。
菊池はその日、教室に帰ってこなかった。
そんな、過去があり。

で、現在。そういう中一の夏。
その日、菊池は学校を休んだ。
「プリントを」
だいじな連絡だから。担任は俺に、その日の宿題のプリントと、それから授業参観のお知らせのプリントを寄越した。一番、家が近いから。
潮の匂いのする沿岸沿い。ガードレールのむこうにどんよりとした海が広がっている。穏やかな波に、夕焼けの色がぱりぱりと張り付き、揺蕩っている。どこかからパープーと気の抜けた豆腐屋の高い音。
ジー。壊れかけたチャイム。砂の溜まった引き戸のサン。しばしの間。猫の額ほどの玄関前の庭には、まだ取り込まれていない洗濯物と、雨に濡れて赤い塗装のはげた、壊れかけの犬小屋。出入り口の上に、消えかけの名前が黒い文字で書かれているロ……ロ?

ガロロッロロ。途中で止まり、むりやり引かれた戸の向こうには、女の人。黒い、艶のない髪を一つにくくっている。ところどころに白いものが混じっている。体つきは中肉中背。薄い、肉色としか言えないような、ぴらぴらしたシャツを着ている。不審者を見るような目つきで、確かめるように見つめられる。「…………」

女の人(多分菊池の母親)は何も言ってくれなかった。だから俺の方から口を開かなければならなかった。「あの。菊池くん。今日休んで。それで、プリント」「……ああ」反応がもらえたので俺はちょっと安心して、顔に愛想笑いを作る。「じゃあ、これ」
プリントを渡して、すぐに帰るつもりだった。「わざわざ届けに来てくれたの?」
高い声だった。脳天から突き抜けるような、明るくちょっと金属的な声。
「あの。わざわざというか。近いので」「どこの息子さん?」「飯田です」「飯田、飯田……」おばさんは知り合いの名前を頭の中でさらっているようだった。けれど適当な知り合いはおもいつかなかったらしい。「遊児のおともだち?」「はあ、まあ。そんなふうで」「わざわざ、ありがとうね」「いいえ」「遊児ね……今日はちょっと休んじゃったけど」「はい」「でも、飯田……飯田くんが来てくれたって知ったら、喜ぶよ」「はい」「ちょっと、上がっていかない?」「あ、いいえ」俺は頭を振った。「あんまり遅くなると。遅くなると。その」「ああ、そうだよね」おばさんはいたわりの仕草をした。「それじゃ、また今度。また今度、遊びに来て」「はい。また、今度……」
俺はその場から逃げるように駆け出した。別に逃げる必要はなかったにもかかわらず。

翌日、菊池は普通の顔をして登校してきた。
朝、俺が座っている席の前に、彼が立った。俺は顔を上げた。色素の薄い髪。「昨日」穏やかな声。菊池の声は穏やかな波みたいだ。聞いていると心が落ち着く。その言葉がどんなにくだらなくても、つまらなくても、じっと聞いていたいという気持ちにさせられる。「ありがとう」「え?」「プリント」「あー」俺はなぜか、わざとぶっきらぼうな、なげやりっぽい声で言った。あ? 何その話。どうでもいいんですけど。ま、俺には関係ないね。てゆーか話しかけないでくんない? お友達とおもわれたらいやなので。みたいな。「別に」「寄ってくれたらよかったのに」
穏やかな声。その言葉通りの意味しか含まない声だ。寄ってほしかったのに、とか、なんで寄ってくれなかったのかとか、そういう、願望とか、恨みとか、そんな色が一切付着しない声。
「だって……」俺はうつむいて、彼のそのまっすぐな視線から逃げた。「だって、めいわくだとおもって」「めいわく?」俺は顔を上げた。彼は、不思議そうな顔をしていた。
「めいわくなわけない」彼の言葉は穏やかで優しい。それは俺のみに浴びせられた言葉だ。俺しか聞いていない。俺のための。
「また、むかしみたいにあそぼうよ」
冗談じゃねえぜ! 俺はもう小学生じゃないんだ……そんな、小学生のがきみたいに、そこらへん走り回って、遊ぶなんて、ちゃんちゃらおかしくて……。「小学生じゃ……」
ねえんだからさ。しかし遊ぶと言っても形は様々にある。

まあそのようなことを考えていると菊池は次第に学校に来ないようになる。
その間にも夏は益々夏らしくなっていく。俺の入った部活は剣道部。暑い。防具が蒸れる。
休みがちな彼の家には、彼が休むたび、プリント類を届けた。玄関のベルを鳴らしても家の人が出てこないときは、ドア近くに備えられている赤錆びたポストに入れて帰る。「菊池くんにメッセージを」

二週間、彼が学校に来ないようになったとき、担任の先生が言った。クラスメイトは放課後のホームルームで、各々渡された便箋に彼への手紙を書いた。それをまとめて持っていくのは俺の係。
セミが鳴いている。俺はガードレールに自転車を凭れさせて、クラスメイトがどんな手紙を書いたのかを勝手に読む。「元気だして下さい」「早く良くなって学校来てね。待ってます」「頑張って下さい」「なにか気になることがあったら電話して。俺の電話番号は……」「体調に気をつけて頑張って!!」など……。
変な内容の手紙が一枚あった。「あたしのせい? そんなことないと思うけど……。心配しています。早く元気になってね。」
チャイムを押す。久しぶりに、菊池のお母さんが出てくる。「これ」俺はプリントとクラスメイトの人数分の手紙が入った袋を差し出す。「みんなで。菊池くんに、早く元気になってもらおうと」おばさんが袋を受け取って、その中の手紙を一枚読む。 「菊池くん」俺は言う。「元気そう、ですか?」「ああ」おばさんが手紙から顔を上げる。「そう。ちょっとね。自宅療養というかね。元気なんだけど、ちょっと」「会えない」俺は言う。「です、よね?」
なんでそんなことを言ったんだろう。別に会いたくなんてなかったし、会う必要だって別になかったのに。「あー」その声には、否定の音が混じっている。困っている。俺が余計なことを言ったから。「あ、別に、いいんです」「悪いよねえ。いつも。プリント届けさせて、なんのお礼もしないで」「そんなことは」「上がって、お茶でも飲んでいってと言いたいけど」「いや、あの、じゃあ俺はこれで」「今日はちょっとだめなのね」「はい、失礼します」「ああ、待って」
踵を返えそうとした俺を、おばさんが引き止める。「明日。よかったら寄って。遊児も、いつもあなたの話を」
「…………」
俺は会釈をして、玄関を出る。

次の日、俺は菊池の家に行った。馬鹿正直に。部活は休んだ。ちょっと腹が痛くて……そこまでしてなんで行こうとしたんだろう。多分菊池に会いたかったからだ。
玄関のチャイムを押す。「飯田くん」おばさんは俺の名前を覚えていてくれた。「ありがとう。来てくれたんだね。忙しいだろうに、いろいろと」「いえ、別に」俺は言った。「暇してますから。ほんとに」
用意されたスリッパに足を通す。青磁色の、ちょっとくすんだ子供用の小さいスリッパ。車のイラストが中央に描かれている。廊下を歩くと、スリッパの裏にザラザラした感覚が残る。「遊児? 飯田くんが」
俺はおばさんに席を勧められ、茶の間のちゃぶ台の前に座った。「飯田くんは甘いもの平気?」「あ、はい」「今日、買ってきたの……飯田くんが来てもいいように……遊児はどこ行っちゃったんだろう?」
茶の間続きのキッチンでは、コンロにヤカンが掛けられ、シュンシュンと音を立てている。
「どこにいるの?」
茶の間からいなくなるおばさん。ギシギシと廊下の板が軋む音。
「平気なの?」「…………」「やっぱりやめる?」「…………」
おばさんの声がかすかに聞こえる。話しているのはきっと菊池だろうけど、その声は聞こえない。
「久しぶり」
久しぶりに見る菊池は以前と別に変わったところはない。ただ、髪の先が濡れている。シャワーでも浴びていたんだろうか?
「どこかへ行こうか」菊池は言った。
「ケーキ用意したのに」おばさんが言った。「うん」と、菊池。「じゃあ、食べてから行こう」
食べてから出掛けた。

「部活」
ちゃりちゃりと自転車の車輪が音を立てている。水面に反射する夕日。海へ続く坂道。「よかったの?」
俺は答える。「別に。強制参加じゃないから」「でも、一年だし、抜けるの大変だろう」「別に。毎日じゃないし」「いいのに」菊池の声は乾いている。
「なにが?」
俺は隣を歩いている菊池を見る。潮風が菊池の髪をばらばらと散らす。色素の薄い茶色っぽい髪の向こうから、菊池の目がちらちらと見える。「来なくても」
菊池は言う。「無理して」
「無理なんかしてないよ」
「いつも、悪いなって……おもってるんだ」
「学校、来れば?」
「うん」
「来れば、悪いなって、おもわないで済むだろ」
「うん」
「来る気ないだろ」
「うん」
図星を突かれた、みたいに彼は苦笑する。「でもさ、学校に行かなくても」菊池が歩き出す。襟元がゆるゆるになった、白いTシャツ。縦に白のラインの入った、短いハーフパンツ。はきふるした運動靴。「けんじくんには会える」
「なにそれ気持ち悪」俺はそいつの後ろ姿に向かって吐き捨てる。
「ゲーセン行こうよ。太鼓の達人やりたい。俺、あれ、とくい」
俺は明るい声で言う菊池の後ろ姿を見ている。それから、小走りになって、その後を追う。

学校行かなくてもけんじくんには会える。俺たちは連絡先を交換する。メッセージ機能と電話くらいしか使いみちのないいろいろ規制の掛けられた子供用の携帯電話。でも連絡くらいは取り合える。別にメッセージを送り合ってまで話す話なんて無いんだけど。でも彼はそれから一切、学校に来なくなってしまったから、時々連絡を取り合う分には重宝だ。
プリントの類も、毎日持っていくこともなくなり、一週間に一度、金曜日にまとめて持っていくようになる。だいたい行っても留守なので(彼は居ても玄関先には出てこない)、ポストに投函することが多くなる。おばさんが出てきてくれたときは、菊池を誘って外に遊びに行く。遊ぶって言っても、やっぱり、ゲーセン行ったりとか。ファミレスに行ってドリンクバーだけでどうでもいいことだらだら話したりとか。
でもファミレスでも菊池は変だった。「俺はいいや」
とりあえずファミレスに入ったらドリンクバーを人数分頼むものだとおもっていた俺は、ちょっと戸惑って彼を見た。「でもなんか頼まないと」「じゃあ、チョコレートパフェ」「そんな高いの?」「俺が払うんだからいいだろ」「そんなあまいもん食うんだ」「いいじゃん」「いいけどさ」
菊池は、長い長いスプーンで、チョコレート色のチョコレート味の冷たい冷たいアイスクリームを掬って食べた。俺はそれを見てないふりをして見ていた。ごくん、と彼の白い喉が一度動いた。「なんでドリンクバー頼まないの?」俺は訊いた。菊池は長い長いスプーンをパフェの中に突っ込むと、少し笑った。「分からない?」
分からないから訊いてるんだけど。

俺がようやくその理由を知ったのは夏休みが始まる少し前。
ポストの前に立ち、いつもどおりプリント類を投函する。コトン、と短い音。
なんとなく、俺はその錆びた赤いポストを撫でた。ざらざらした感触、指を離すと、その腹に錆び剥げた塗装がくっついた。
鞄の中から振動。俺は携帯電話を引っ張り出して、着信を確認する。「びっくりした」俺は言った。「今、ちょうど、家の前にいる」『知ってる』菊池は短く答えた。『だから電話した』「なんで」『ちょっとね』「なによ」『なんとなく』「はあ?」俺はちょっとうれしかった。でも迷惑そうな声を出した。「なんだよそれ」『入ってよ』彼は言った。『開いているから』「なにが」『鍵』彼の声は、どことなく膨張して、反響しているようだった。『入って』
俺は菊池の家を振り仰ぐ。「電話、切るよ」『待って』「なんで」『でもさ』「切るよ」
鞄に携帯電話を突っ込む。
俺はもう少しためらうべきだったかもしれなかったが、好奇心には勝てず引き戸に手を掛けると、それはするりと動いた。三和土に入り、戸を閉める。すると、磯の香りとともに、なにか生臭いようなにおいが鼻先を掠めた。「菊池?」名前を呼ぶ。誰も何も答えない。家の中はしんと静まり返って、物音一つしない。

その時、ぱしゃん、と水の跳ねるような音がした。玄関から伸びた廊下の向こう。

ルルルルルル。
鞄の振動。俺はびっくりして、鞄を三和土に落としそうになる。ジッパーを開け、放り込んであるはずの携帯電話を引っ張り出す。菊池。俺は携帯電話を耳にあてがう。『どうぞ』「は?」
家の中はとても静かだ。俺の声も発音した何倍も大きく聞こえる。「何、なんで」『ちょっと、出られないんだ』「なにが」『上がって。何のお構いもできませんが』
意味がわからない。俺は呆然と立ち尽くす。誰もいない? おばさんは……きっと仕事に出ているんだろう。俺は三和土を見下ろす。見覚えのある、運動靴。くたくたにへたれたそれは、靴の踵が踏まれてひしゃげている。それがきちんと揃えて置いてある。三和土に出ているのはそのはきくたびれた運動靴と、おばさんが履くらしいくすんだピンク色のつっかけだけ。「あが……上がれってこと?」『うん』電話口にはまだ菊池らしき人がいて、俺の疑問に答えてくれる。「出てこれないくらい具合悪いの?」『まあ、そんなところ』「じゃあ、俺、今日は」『だめ』菊池は、なぜかきっぱり言った。『上がって』
なんで……と俺はおもった。正直、ちょっと怖かったし、面倒くさかった。俺をからかって遊んでいるのか? そうだとすれば、そうとう暇なんだろうな。毎日、学校に行くじゃなし、遊びに行くじゃなし、部屋の中にこもって、それは、退屈しても仕方がないだろうな……と、俺は俺自身の脳にそう騙しつけて、ようやく靴を、脱いだ。
ギシ、足を掛け、体重を掛けると、板敷きが軋んだ音を立てた。俺は自分の履いてきた白い靴下を見下ろした。こういうばあい、勝手にスリッパとか使っていいのかな。使わないほうがいいのかも。でも……。
俺は靴箱の横にあるスリッパ掛けからスリッパを取って、それに足を滑らせる。パタパタと音を立てて、俺は廊下を歩く。「どこに」俺は携帯電話を耳に当てる。「どこに、いる?」『さあ、どこでしょう』
遊び。たいくつな彼の遊びに付き合ってあげなくては。
ギシ。古い家屋の木が軋む音。茶の間。キッチン。庭。二階へ行って菊池の部屋。そのとなりの両親の寝室。誰もいない。一階へ降りる。トイレ。誰もいない。
「……どこ?」
『ここ』
俺はその引き戸を引く。ピチャン、水が落ちる音。
菊池は水のたっぷり張った浴槽の中に座っている。ゆらゆらとおとなしく揺れる水面。俺を見上げる菊池。彼はドアを背にして浴槽に浸かっていたので、首だけ振り向く形に。その白い喉に三本の深い線のようなものが走っている。
「けんじくん」
彼は言った。「おれはもうだめだ」
俺はちょっと笑った。「なんでだよ?」

彼は、手に持っていた携帯電話を風呂釜の縁に置いた。ぶつ、と耳に当てていた携帯電話から、電話を切る音が聞こえた。俺は耳元から携帯電話を離し、それを持ったまま腕をだらんと下ろした。「魚なんだ」俺は言った。「だから水の中にいるのか」
「そう」菊池は歌うように同意した。「お湯に浸かったら煮魚になってしまう」
つまんねーこと言うな、と俺はおもった。

水の音が立って、彼の指が風呂釜の縁に掛かった。その指先は水をたっぷり吸って不健康に青白かった。「びっくりした?」彼が言う。「した」俺は答えた。「してなさそう。予想通りだったんでしょ」「んなわけない」「そうか」ぱしゃん! と大きな音がした。風呂の奥で、魚のしっぽみたいなものが動いていた。グロテスク、と俺はおもった。「ずっとこうしてないと、きつくなった」彼は自在にその尻尾を動かせるのか、水の中でそれを動かしながら言う。「水の中にいないと……動機と息切れが」「魚だから?」「その、さかなっていうの、やめろよ」彼は俺を振り仰ぐと、ちょっとムッとした声で言った。「食いもんじゃないんだからさ」「じゃあなんていうんだよ」「うーん」彼はうつむく。俺はスリッパのまま、洗い場に入っていく。風呂釜の前にかがみ込む。菊池の顔が近くに見える。俯いている彼が、視線を上げて、俺にちょっと笑いかける。「けんじくんはすごいな」俺も、俺のことがすごいと思っていたから、黙っていた。「なんで、怖がったりしないんだろう」「分からない。現実とおもってないからかもね」「そうか」「だから学校を休んでいたの?」「そう……前まではギリギリへいきだったけど、だめになった」「なんで?」「知りたい?」「別に」「知ってほしい」「言えば?」「言うよ、言う」なぜか彼はそこで笑った。カサカサに乾いた唇。口の奥から覗いた八重歯。

「人魚姫って、しつれんしたら泡になって消えるんだ」
俺はそれに続く言葉を待っていた。しかし彼はなにも言ってくれなかった。
意味がわからない、と俺はおもった。

「魚は水がないと生きられない」
「うん」
「でも人間のことを好きになって」
「……………」
「でもその人間はおれのことなんか全然好きじゃなくて」
「……………」
「まあそのようなわけで」
「いや、分かんねえ」俺は言った。「おまえの言ってること、なんにもわからない」
「俺は人間じゃないんだ」彼は言った。
「それは、分かる」
「水に入ってないと、乾燥するんだ」
「なるほど」
「前まではそれがへいきだったけど、へいきにするようにしていたけど、それができなくなった」
「なるほど」
「だからここでこうしている」
「……………」
俺は言った。「俺に、どうしてほしいの?」
「俺が消えるところを見ていて欲しい」
彼は言った。

で、ある日の夜。
なみなみと張られた何百万リットル(?)もの水。塩素が入ってきれいにサッキンされている。こんなところに入ったら、やけどするのでは? と俺は心配になった。「大丈夫大丈夫」彼は答えた。「そんなことになったらやけどする前に溶けちゃうから、大丈夫。俺たちの体は繊細だから」

まあ実際どうなるか知りませんが。
彼はリュックいっぱいに五百ミリリットルの水のボトルを入れて、俺と話しながら常にそれを飲んでいた。「ひどいだろ、俺の肌?」彼は指先で頬を擦った。「ほら、こうやってやると皮膚がぼろぼろ溢れる。こんなふうになるなんて、聞いてないもんな」
誰もいない夏休み前のプール。俺は塀の上を見上げる。「登れるかなあ、これ」「けんじくんが俺の肩に乗って、それで」「セコムとか来たらどうしよう。俺たいほされるかな」「大丈夫、大丈夫」「…………」
人間じゃないやつはのんきでいいよ。これから消える予定なら心配もなくてなおさらだよな。
一番最初に、菊池の背負ってきたリュックサックを石塀の向こうに投げ入れる。一時の静寂。「俺は軽いから平気だよ、きっとけんじくんにも持ち上げられる」
俺はその場で靴を脱ぎ、菊池の薄くて不安定そうな肩に足を掛ける。「ほんとにだいじょうぶ? 倒れないでね、絶対」「大丈夫」ぐ、と腹に力を入れて、俺は石塀に足を掛け、そこからプールサイドに降りる。石塀から顔を出して、菊池の手を引っ張る。ほんとうに、軽石みたいに彼は軽かった。「水分が抜けているから、その分、軽くなるんだねえ」彼はしみじみとした調子で言った。

水面は穏やかな揺れをたたえている……。俺は月夜に照らされている五十メートルプールを見やった。いつも見慣れたその風景なのに、なんだか別世界に来てしまったみたいだ。「あーなんか変だな」俺は言った。「なんかへんだぞ」
変だが、ただ変なだけと言い換えても良かった。そのくらい、すべてのことが自然だった。
変だけどそれは不自然ではない。
なぜ、菊池が変だったのか。なぜ、水が触れないとか、あの時言われたのか。なぜ、学校を休み続けたのか。今ではそれが全部わかる、彼が人間じゃなくて魚だったからだ。魚だから、水を避け(なんでか知らんが)、魚だから学校を休み、魚だから体があんなに軽かった……。
それらによって彼の不自然が不自然でなくなる。俺が夜の(といってもまだ夜の七時頃だったけど)学校のプールサイドにいるのも、夜のプールが空の色を吸って深い青に揺れているのも、それらはみんな「変」ではあるが、不自然ではない……。
「けんじくん」
彼はプールの縁に立っていた。彼の脱いだ服が、足元にぐしゃぐしゃと溜まっている。あれを片付けるのも俺か? と俺はおもった。「見て!」
ぱしゃん、と軽い音を立てて、菊池が水の中に消えた。
俺は濡れていない場所を選んで膝を付き、水の奥を見下ろした。もう消えちゃったのかもしれない? 何も言わずに。やっぱり塩素がキツかったんだ。なめくじみたいに、それで水分を完全に抜かれて、泡に。
「ぎゃっ」
ぬるりと水の奥から飛び出したそれが、俺をプールの中に引きずり込んだ。俺はびっくりして、心臓が止まったかとおもった。けれどそれは心臓の鼓動をちょっぴり速くしただけで、正常に動いていた。俺はプールの底に足をつこうとしたが、それは難しいことだった。俺は、もがき、苦しみ、水の外に絶対に上がろうと、両手で水を掻いた。がぼがぼがと無計画に、口の中から酸素のかたまりが飛び出していく。俺は目を開けた。そこには魚のような、人間のような男がいた。
月のあかりがプールの中にきらきらと降りている。そのなかにその男は、れいせいな微笑みのようなものをたたえて、おもしろそうに俺のことを見ていた。
息ができない。もう死ぬのかも。最後の酸素(?)が、むじひに俺の口から流れていった。
冷たい手だった。それは、冷たい水の中でも、それと分かるくらいに冷たい手だ。顎にそれが当たって、俺はその男を見た。
そして俺はすべてのことが分かった。あ、これが菊池なんだ、とおもった。菊池は俺を見てきれいに笑った。それはとても美しかった。俺はそれをじっと見つめた。息ができない。でも、そんなことは関係がないみたいに、そんなことは俺の現実などではないかのように、俺は彼を見ていた。俺は少し笑った。すると、菊池も笑い返してくれた。菊池の薄い唇の端から、こまかな空気の泡が、ぽろぽろとこぼれた。
菊池はその空気を俺に分けてくれた。そのお陰で俺は水の中でも呼吸をすることが出来る。それは、プールを満たす水よりも、彼の青白くて冷たい指先よりも、もっと、ずっと、冷たかった。

水面に顔を出したとき、俺は新鮮な空気をあえぐように求めなくてもよかった。ただ、ばかのように顔を水面に突き出し、揺れる水面を見下ろすだけ。両手に掬って見ると、それは俺の両手の中で、透明に揺れている。その中にまん丸い満月もいっしょになって揺れていた。
重たい身を上げ、プールサイドに出る。着ていたTシャツとズボンを脱いで、固く絞る。ついでにパンツも。全裸になるとなんとなく万能感がみなぎってきて、誰もいないプールを我が物顔で泳ぎたくなったが、俺は現実至上主義者なので、止めた。泳いでいる途中に万が一人が来ても困るので。
ある程度水を絞った服を、菊池の持ってきたリュックに入れ、中身を全部取り出した。ペットボトルのなかみは大体空になっていた。俺は、そのなかでまだ開封されていないそれを選んで、キャップをひねり、中身を飲んだ。
菊池が脱ぎ散らかしたシャツとズボンを履き、俺は石塀の向こうへ降りた。着地に失敗して向こう脛をぶつけた。痛かった。

夏休み明け、菊池が座っていた席は片付けられ、空席になっていた。「菊池くんはお家の都合で」
俺は机に頬杖をついて、窓の向こうの校庭を眺めながら、あのおばさんも人魚だったのかな、とおもった。

おわり(2021.01.20-01.25)

好きです、喫茶店。(…………)
はじめから矛盾しているが、これはそういう矛盾の記なので仕方がない。喫茶店は好きだけど嫌いだ。理由は、落ち着かないからである。

これは、もう、三島のユッキーいうところの『感受性の過剰』というのですべてが説明できてしまう。わたくしの生活(生活と呼べるほどのものでもないが)というもの、そしてその中で感じているものの全てというものは、もうもう、この一言のみで片付けられてしまうほど、単純で、つまらないものなんである。つまり、複雑なものなどなにもない。わたしの感じているものすべてというのは、「感受性の過剰」に過ぎないのであった。

ところで、私は『ちびまる子ちゃん』が好きである。幼少の砌には宝島社から出ているDVDコレクションを一日中延々と見ているという変態的行為を行い、台詞を覚えているのでそのキャラクターが発言する前に自分でその台詞を言うという最低の行為をして時を過ごしていた。
ちびまる子ちゃん』の初期に、『家庭教師がやってきた』というお話がある。まるちゃんの家に二週間、家庭教師がやってきて、お姉ちゃんに勉強を教えることになった、という話なんであるが、その家庭教師がなかなかの曲者で、その人は、まるちゃんの描いたお姫様の絵を見て、絵の感想を言うでもなく、おもむろに「まるこさん、このお姫様の国籍と年齢と名前、できれば両親の名前も教えて下さい」とか言い始める人なんである。子どもの描いた絵なんだから、「じょうずだねえ」とか言っていればいいのに。
そしてこの人物を称して、キートン山田のこういうナレーションが付く。

この人は、つまんないことでも命の限り真剣に考えるタイプの人であった。こんな人は勝手に一人で苦悩すればいいのだが、考えまくって煮詰まった疑問を、普通に生きている人に浴びせ掛けるので、嫌われる率が高い。

そしてそれを見て(聞いて)私はおもった。「俺じゃん……」と……
流石に私もその家庭教師のように自分の中に生じた疑問をいちいち他人にぶつけるようなことはしないが、それでも頭の中は常に、さまざまなことについての疑問でいっぱいになっていて、たまにその疑問のひとかけら、憤りのひとかけらみたいなものを口に出してしまうと「コイツその程度のことでこんなに怒り狂ってんの?」と、言われないまでも場の雰囲気がそんなかんじになるので、自分のおもっていることをすべて他人に明示するということはしない、が、しかしそのおかげでいつも言いたいことが頭の中に詰まってへんくつなおもいをしている、のではあるが、そういう日常を送り続けていると、次第に、自分の本当に考えていることや、本心というものが分からなくなり、また他人と意見のすり合わせを日常的に行わないために(だってこっちの意見言ったら「はあ?」って顔されんだもん)、しまいには自分の本当に考えていることも分からなくなり、本心も正しさもみんな分からなくなり、このまま行ったらどういうグロテスクな人間が出来上がるかが恐ろしく、進退窮まるようなおもいを続けている、というのが、最近のわたしの『感受性の過剰』の副産物状況なんでありますが。

普通に生きている人に迷惑をかけたくない、ために、私は自分自身の「感受性の過剰」に、普段は蓋をしている。そして、冒頭に話題は戻る。きっちゃてんという環境は、実は、モロに、私の「感受性の過剰」にギチギチに内包してしまう場所なんでありました。(ベンベン)

まず、私の中に、イデアとしての喫茶店がある。某芸人いうところの「イデア界のゴールドジム」である。つまり、理想の喫茶店……おちついたレコードが掛かっていて、(いちいち針の上げ下げをしてレコードを変えるのがより好ましい)室内は少し薄暗く、昼間でも間接照明が点いている。通りに面して大きなはめ込みガラスがついていて、カーテンは少し埃を吸っていて重たげで、コーヒーはブレンド一杯450円、ミルクは生クリームが望ましい。客はまばら、テーブル席とカウンター席があり、カウンター席ではお店のマスターと常連のお客さんが、小さな声で話している。分煙されており、タバコが吸いたい方は、別室が用意されている。11:00~20:00までやっていて、流行っているわけではないが、店主は土地持ちなのでそこまで商売にガツガツしていない。先代の奥さんが趣味で始めたお店の延長で、今は息子さん(次男)が継いでいる。

と、いうような……喫茶店が、あるとして。(ねーーーけど)

しかし現実の喫茶店では、少しずつそのイデアがずれていく。
まず、うるさい。店内BGMも、好みに合った曲が掛かることは滅多に無い。
都会であるのならば、それぞれの店主が趣向を凝らした珠玉の喫茶店が、それこそうなるほど存在するのであろうが、田舎っつーもんは、あなた、こっちのコメダ珈琲なんてね、怖いですよ、店内BGMで地方ラジオ流してんですよ。そんなところで何をどうしてコーヒー飲めというのか。(飲みたい人は飲めばいいです)
近所のきっちゃてんは雰囲気は良いのではあるがコーヒーが非常に薄く、それにちょっと暗すぎて本も読めない。あと、常連のお客さんが大きな声でずっと話しているし、トイレはものすごいサンポール臭がする。

かといってわたし以外に誰もいないきっちゃてん、となるとこれは静かは静かなんだけれどもどうも落ち着かない。店員さんに「こいつ早く出ていけよ」とおもわれているだろうなという自意識過剰でめのまえの本にも集中できないし、そういうときは静かだけど店員さん同士がお話をしたりしている。やっぱり落ち着かない。
このまえ行ったきっちゃてんなんて、若いご夫婦でやっているらしいが、多分奥様の方は旦那さんの情熱に押されて渋々やっているというような接客態度で、終始私達に背を向けて、カウンター席でスマートフォンをいじりながらお昼ごはんを食べていた。
変に意識高い系のきっちゃてんだと、メニューを見せられているときからそのきっちゃてんのコンセプトだのルールだのコーヒーへのこだわりだのを延々と説明されて、はいはいと聞いているとそれだけでもう疲れてしまって、しかも一時間ワンオーダー制とか言われて衝撃(最近はどこもそうなの?)、こだわりを見せられに行っているのだかコーヒーを飲みに行っているのだか分からない。
コーヒーもおいしいしお店の雰囲気もいいしで好きだなあとおもっていたきっちゃてんは口コミで話題が広がり様々な層のお客さんが増え、団体客の凄まじい笑い声がこだまする場所と化し、子連れのお客さんの子供が床にゲロを吐き、それを店員さんが掃除をし、子供のお母様は逃げるようにその喫茶店を出ていき、異常に愛想の良い店員さんはその後姿に明るく「ありがとうございました」と挨拶をしており接客業の凄みを見せつけられる。
名曲喫茶と誉れも高いきっちゃてんに行き、雰囲気も良い、立地も良い、音楽も良い、掛かっている絵画のイキフンも最高だ……となり、いざ会計、となったとき、若い店員さんはレジの向こうの休憩室らしき場所でイヤホンをはめて別の音楽を聴いていた。おれはこの喫茶店に音楽を聴くためにはるばるやってきたのに、この方にとって、この喫茶店の音楽は騒音に過ぎないのか……とカルチャーショックを受ける。

とにかく、他人が気になるのである。これはもう性分だから仕方がないのである。そして、やっぱりそのような人間は家に引きこもって、自分で淹れた自分好みのコーヒーをひとりぼっちで楽しむのが一番よろしいのである。

つまり、私は、おのれの「感受性の過剰」によって喫茶店をうまく楽しめない、と。もちろん二人以上で行けば目的は会話(など)でしょうから、BGMがうるさかろうが客がうるさかろうが二人の世界、三人の世界ができるだろうが、私の目的は会話ではなく、「喫茶店でコーヒーを飲むこと」である、とすればやっぱり、普段空想ばっかりしている孤独な人間は、「うるさい喫茶店」という現実に、耐えられないのである。

昔、ゲオでDVDのレンタルをしていて、その時流れていたBGMがあんまりにも自分の好みの音楽でなかったために気分が悪くなり、「もうこんなのいやだ」と泣いていたくらい、趣味に合わない音楽を強制的に聞かされるというのが苦手で(まあなんかそれは感受性の過剰というかなんらかのなんらかの可能性もあるが……)有線というものをずっと憎んできて、若い頃はイヤホンが手放せず、その頃読んだ東海林さだお赤瀬川原平の対談集で「なんで若い人ってみんなイヤホンしてんの? 意味分かんない」というような趣旨の発言に怒り狂い、「そっちが聞きたくもない音出し続けてるからだろーーーーこっちは静かにしてんのによーーーうるさいんだよーーー」とほとんどビョーキな反応をしていたくらい、とにかくそういう我儘な生き物は家に引きこもって外に出なければいいんであるが、でもやっぱり、「喫茶店」という状態、存在、意義というのが、わたしはものすごーーーー……く、好きなのです。(あーあ)

だから、ついうっかり京都の喫茶店ガイドみたいな本も買ってしまうし、東京の名曲喫茶特集とかしている雑誌を見かけたら買ってしまう。そしてそこに写っている写真を眺めるのが、もしかしたら直接そこへ行くよりも好きかもしれません。直接行けば、もしかしたらコーヒーが苦手な味かもしれない。分煙されてないかもしれない。団体客のみなさまの会話がうるさすぎて耐えられないかもしれない。奇妙な音楽だけを掛けづづける有線が引かれていたら? 店員さんが冷たかったら……など。しかし、写真を見ているだけならば、好きな音楽だって掛けられる。誰の会話も聞こえないから静かで居られる。タバコの煙もやってこない。

寺田寅彦の文章に、こんなのがある。

併し自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲む為にコーヒーを飲むのではないやうに思われる。宅の台所で骨を折つてせいぜいうまく出したコーヒーを、引き散らかした居間の書卓の上で味はうのではどうも何か物足りなくて、コーヒーを飲んだ気になりかねる。矢張り人造でもマーブルか、乳色硝子の卓子の上に銀器が光つてゐて、一輪のカーネーションでも匂つて居て、さうしてビュッフェにも銀とガラスが星空のやうにきらめき、夏なら電扇が頭上に唸り、冬ならストーヴがほのかにほてつて居なければ正常のコーヒーの味は出ないものらしい。コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であつて、それを呼び出す為には矢張り適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。銀とクリスタルガラスとの閃光のアルペジオは確かにさういう管弦楽の一部員の役目をつとめるものであらう。(『珈琲哲学序説』)

こういうきっちゃてん……どこかにありますか? 泣

というわけで今日も私は空想の喫茶店の「カランコロンカラン」のドアベルの音を鳴らして、その喫茶店に入ってコーヒーを飲み、大きな窓から往来を眺めることにします。
金がかからなくていいですね。(貧乏人END)

なぜ、今、石川達三なのか?

しかし、とりあえず、石川達三である。
石川達三といえば?
『金環蝕』。『生きてゐる兵隊』。『蒼氓』。これ以上思いつかない。『青春の蹉跌』……
なぜ、今、石川達三なのか。
この現代において、少し心ある人(?)ならば、伊丹十三なんかの本は手に取る人もあるだろう。
別に心無い人でも、太宰治芥川龍之介くらいは手に取ることもあるだろう。夏目漱石森鴎外はちょっとな……という人でも、『高瀬舟』くらいは、その内容も含めて知っている、かもしれない。
三島由紀夫も手に取られるだろう。それならば谷崎潤一郎も。
彼らに共通することはなんだろう?
つまり、普遍性がある。過去の作品が読み伝えられ版を重ねるということは、少なからずもそういうものを含んでいるからだ。国境や年代を超えて残るものや、自分ごととして腑に落ちる内容を含んでいる。だから漱石の『こころ』も鴎外の『高瀬舟』もずっと新しい。新しいから、「新しい人」が読んでも面白い。これは自明のことであって、わざわざ指摘するようなことでもない。
常に新しいから面白い。つまり、古くならないから面白い。ということは、古いものというのは詰まらないものなのか。
つまらないから版を重ねない、というわけでもない。そういうことになれば、復刊という現象は何なのか。
また、作家自体の普遍性とは別に、作品別の普遍性というものもある。漱石の作品でも、現在においても比較的読まれる作品と、読まれづらい作品が存在するのもまた当然のことではある。その観点で見ていくとするのならば、今回取り上げる石川達三についても、その作品の幾つかの作品は現在においてもその普遍性によって読み応えを得られるものと、得られないものに分かれる可能性がある。前者には『生きてゐる兵隊』『蒼氓』などが挙げられるだろうから(実際に読み直しが図られている。『戦争と検閲 石川達三を読み直す』(2015)など)、氏の作品すべてが古びてしまったというわけではない。

さて、そういった前提があって、石川達三『四十八歳の抵抗』(1955)。この作品は、古い。何が古いかといえば、出版年が古い、というのはもちろんとして、主題が古い。しかしだからといってこの作品のすべてが腐っていてもはや読めたものではないというわけではない。読める。しかも(人にもよるが)、おもしろく読めてしまう。なぜかというと、この作品にもやっぱり、一種の『普遍性』があるからなのだ。

どういうきっかけか一切おもいだせないが、三年前くらいに石川の『悪の愉しさ』(1964)を読んだ。そして、「なんて古いんだ……」とおもった。
そして同じようにまた、『四十八歳の抵抗』も古びている。
どう古いのかと言われるとまた難しいものがあるが、ひとつ言えるとするのならば、それは「大勢の人が通り過ぎ議論し終わったあとを、また眺めている」という感覚に近い。
二作に共通していることは、「小市民の逸脱への願望」、これである。
『四十八才……』の主人公には会社での立場がすでにあり、何十年も連れ添った連れ合いと、二十歳近くの未婚の娘がいて、三人で暮らしている。そして、彼はその生活に倦んでいる。妻を鬱陶しく感じる。自身の社会的位置にもまた、倦んでいる。
しかし、現代に生きるわれわれにとってみれば、そのような彼を取り巻く”フォーマット”、苦悩は、すでに何百回も見てきた道のりなのである。
現代のフィクションにおいてはもはやかんたんな物語の導入としてしか使用されないような(例えばポルノ漫画の導入など)”設定”の中で生きる主人公が、その”フォーマット”からの逸脱を求める。そしてその逸脱として使用されるアイテムが、これもお決まりの「若い女」である、と。

そこからどのような物語が展開されていくのか? 心中、不倫、一家離散、離婚……? しかし、どのような展開がその”フォーマット”に訪れようと、刺激の多すぎる現代人にとって、それらの「変化」「逸脱」は春の微風のように生ぬるい。生ぬるいというより、何も感じない。現代人がこの作品を読んだとしても、彼らはその紙面の中に、なにか真新しいものを感じることはない。新たな発見や快楽、教訓や刺激を得ることもない。そして一つのことを感じる。「この小説の登場人物たちは、皆古い」。

人間というものが、(ある一定の時代の日本人の男性というものが、に変えてもよいが)過去に苦悩して来たこと、悩んできたこと、「もうその話は誰もしていないよ」という、過去に置いてきた、あるいは、いわゆる「アップデートされる以前」のものについて、悩み、懊悩し、しかもその悩みそのものが主題と内容となり、物語を動かしていく……というのに、現代人の目が耐えられるはずがない。自分の犯してきた、あるいは先人が犯してきた「すでにその話は終わっている」懊悩を、どうして物語としてまた「消費」しなければならないのか? そんなことをする意味は、もうどこにもないのに。

つまりこの小説の古さというのは、「もうすでに語り終わった命題」についての話であるから、ということでしかない。だから復刊される必要もないし、現代において読まれる必要もないし、読んだとしても「古い……」としかおもえないし、世の中には、他に読むべきものがたくさんあるにもかかわらず、わざわざ、「もう古くなってしまった人間の懊悩」について書かれている本を、過去の中から引っ張り出してきて言及する必要も、やっぱりあんまり必要じゃない。

それにもかかわらず、なぜこの文章が書かれているのか。
『四十八歳の抵抗』が、面白かったからである。で、この全く普遍性の見当たらない物語に、全くの普遍性があるとおもうからである。

石川達三は生きてゐる。
「戦争文学としての石川達三」は、まだ語るべきものを含んでいる。その証拠に、『生きてゐる兵隊』はまだ新潮文庫で読める。しかし『悪の愉しみ』や『四十八歳の抵抗』を「今」読もうとおもえば、図書館に行くか古本を漁るかしかない。(※)

そしてそのように「役目を終えた小説」は、「役目を終えて」いるのだから、語るべき内容もない。それでは、今更「役目を終えたもの」を死体置き場から引っ張り出してきて、「現在の目」において断罪するなどという悪趣味的見地によってしか、こういった物語は現在に置いては語り得ないのだろうか。

ここまで書いてきてアレではあるが、なんでこんな作品にこんなに拘泥しているのかもあんまりよくわからない。私が小市民だからだろうか?
そうです、この作品の普遍性とは、「小市民の、小市民であるが所以の葛藤とそこからの逸脱」なんであった。
小市民が小市民であるが所以に、そこに倦み疲れるというのは想像できないことではない。世の中に小市民という生き物が絶えて滅んだことなどないのだから、その場所にとどまっている人々が、自身の生活に疑問を感じたり、「俺ってこのままでいいのかな?」と立ち止まることは、やっぱり全く想像できないということもないだろう。
だがしかしここへ来て、ひとつの疑問が生じる。果たして、現代の人々が、自身のことを「小市民だ」と認識し、そこからの逸脱を求めているのだろうか? そして、”逸脱を求めるほどの身の上”にいるのだろうか?

『四十八歳の抵抗』が書かれたのは昭和三十年(1955)。四十八才の主人公の生活は、すでに安定している。そして、老後の心配をするほど人々は「年老いてはいない」。また、日本という国も、10年前に戦争が終わって、新たに歩き始めた、まだよちよちの赤ちゃんのような状態だ。すでにして超高齢社会に肩まで浸かり、衰退へと向かうしかない現代人にしてみれば……、彼のように安定した職業を持ち、結婚して、子宝にもめぐまれ、しかもその子どもも結婚間近……こういった「地位」にたどり着くために、今現在、どれだけの人々が苦悩を重ねているか? しかし、翻って1955年の彼からすれば、そういったすべてのものにがんじがらめにされた現在の生活こそが、窮屈で、やりきれず、であるからこそ、そこからの逸脱を望んでいる。すべてが満ち足りているからこそその場所に倦み、もっと別の甘美なる逃避先を求める。しかし彼は「小市民」なので(「小市民」の「逸脱」を主題として書かれるべくして書かれた人物に過ぎないので)、その逃避先に選ばれるのは、やっぱり安易な「若く無知でかわいい未成年の女」ということになる。なぜそのような人物像が逃避先になるのかというと、それはやっぱり彼が「小市民だから」なんである。

きちんとした倫理観を持っている現代人であるならば、「困ったねえ」と素直におもうだろう。しかし、「小市民」が逃避先としてえらんだ対象が「若く無知でかわいい未成年の女」と設定されることに、「どうしてそんなものが現実からの逃避になるんだろう?」と疑問を持つことはないだろう。(別に疑問を持つ人が居てもいいですけど)。
というわけで問題は、「若く無知でかわいい未成年の女」なのだった。
ここに普遍性がある。「小市民」は、どうしてもそういうものを逃避先として採用してしまう。というより、そういうものしか「想像できない」。それ以外は考えられないと言ったら言い過ぎだが、けれどそういったものに絶対的な価値を見出すことに何の困難も感じない。それは紀元前100年でも西暦1200年でも西暦2023年でも変わらない。小市民である、そしてその小市民である自己というものに薄っすらとした嫌悪を抱き続けている生き物というものは、その停滞している生に、外部からの刺激としての”若さ”を求めてしまう。

何も、外部からの刺激として、”若さ”との接触を試みたとして、自分自身の生命が若返るわけではない。四十八歳はどう転んでも四十八歳である。しかし、若返った気はする。その感覚は、これからの自分の道筋や老いへの恐怖というものを和らげてくれる。若さとは生命そのものである。しかし一刻一刻、こうして年老いて確実に死へと近づいていくおのが体というものは、死そのものではないのか。人は押しなべて自身の死を恐れている。その死から逃れることはできずとも、考えないようにすることは出来るだろう。そして、確実に、自身の体に反応として”現実化”している老化というものを止めることは出来なくとも、その体の内部、つまり精神を若返らせることは出来るだろう。精神的にだけでも、「死」から逃避することができれば……俺の今のこの苦しみは、少しでも和らぐに違いないのに。でも、どうやってその死から逃避すればいいんだろう。そのやり方は、誰も教えてくれない。だから自分で知っていくしかない。そして、「小市民」たる彼がはじめに体験したのが、「若い女との接触」だった。彼はそれによって、己自身を、そして己自身に纏わりつく「死」の恐怖を忘れた。その女の子と話している時は、なにか体の浮つくような、面映いような、しかし確実にほのぼのするものを感じる。そして、それを感じているときだけ、自分は死への恐怖から逃れていることができる、と、”経験”として気づく。そして人々は、「小市民」は、逃避する。「若い女」との単純接触回数を増やすことに血道を上げるようになる。それには確実な効果がある。効果は実績になり、既成事実に。『四十八歳の抵抗』の主人公は、自身の年齢とその女の子との年齢差に『抵抗』を感じつつも、彼女の肉への欲望を断ち切れない。そして旅館の一室で一線を越えようとする。こういった主題のポルノ小説であればことはそこで済んでしまうが、これはあくまでも芥川賞作家の真面目な「文学」なので、彼と少女は一線を越えることはなく一夜を終え、そして少女は他の男とあっさりと婚姻を結び(もっとも作中では示唆に終わるが)、主人公は妻のもとに戻り、また小市民としての生活を続けていくことを選ぶ。つまり、結局の所この小市民は自身の小市民たる権利を決して失うこと無く、小市民である自己というものを全うし、逸脱しないのであった。

1955年の小市民は、小市民というおのれの立ち位置に戻ることでその欲望を鎮めた。翻って、現代の小市民はどこへ行ったのか? そして、現代の四十八歳は、どこへ逃避していくのだろう?

こうした「結局欲望を発散せず終わる」物語を読まされておもうのは、「さすがに沼正三を生むだけの土壌がある国だな」ということでしかないが(もちろん作家先生はこうした主題を”現代の主題”として真面目にお書きになっているのだろうから、それがポルノ的な意味合いを含むものでは決してないのだろうが)、さて現代の「小市民」たる人々は、こんなところで己の欲望を発散せず終われるような”抵抗”を持っているだろうか?
石川達三は生きてゐる。石川達三の描いた、ある種のファルスを持った、憫笑をさそう人々は、現代にも生きてゐる……しかし彼らを操る糸の向こうには、既にして石川達三翁の姿はない。あるのは放埒な、自身の欲望を自身でも制御できなってしまった操り師の手によってつくられた物語を消費する「小市民」たちであり、彼らはどこまでも強欲である。
昨今の若い人の一部(若くない人間も読む?)の読むまんがや小説などのたぐいに、時々出てくる描写というのが、架空の西洋風の世界で、奴隷の立場にある若い少女たちを、主人公である若者が救ってやる、という描写であるそうである。そして、そういうものを好んで読む人々は、そういった描写に満足を覚え、おのれの小市民的な正義感を満足させるのだそうである。
そういった”優しいポルノ”と、石川翁の「文学」とを、一緒くたにしてはいけないというのは勿論のことではある。だがしかし、石川翁が「憫笑」しつつ、「ファルス」として仕上げていた、「終わってしまった主題を持つ人々」の息子たちは、確実に今現在においても存在する。しかし彼らが彼ら自身を「憫笑」する、対象化することはない。彼らは”母性のディストピア”たる、他人が作ってくれたやさしい世界で、安楽な正義感を上辺に貼り付けた性欲でしかないものを、「物語」として消費し、その世界そのものを逃避場所として採用し、そしてそこから出ていくことをしない。かつて石川翁はそういった人々を”抵抗”させ、そして詰まらぬ小市民としての安定と現実の方へと、主人公を帰してやっていたが、現代人である小市民、超高齢社会と低賃金と介護と婚活に倦み疲れた「現代の小市民」に、安心して帰れる現実などないのだった。なぜならぼくたちは『四十八歳の抵抗』の主人公とは違って、社会的地位も、妻も夫も、老後の面倒を見てくれる娘夫婦も、金も将来も、何もかもを持っていないからだ……
こんな現代の小市民から、唯一の逃避先を取り上げようなどと残酷なことが、どうして出来ようか?

小市民、小市民といってもその内容は千差万別であるのは勿論で、現代においても、他人にとってはすべてに恵まれているように見える人間でも、やはり寄る年波には勝てず、この作品の主人公のように、「若さ」に逃避先を求め、更にそれが現実において叶えられてしまう人々も沢山居るのだろう。つまり、この主人公では達成できなかった場所に、現代の倫理観も羞恥心も何もかも失った人々は容易に到達してしまう。逃避=つまり想像像であったものを、他ならぬ現実にしてしまう。そこに抵抗感はない。あるのは死への恐怖と、それを(一時的にでも)拭ってくれるかも知れない、若い女との接触である。
石川達三はそこへ抵抗した。1955年、もう七十年近くも以前のことである。『石川達三作品集』(新潮社、1972-74)版の解説によると、同タイトルは当時、流行語としても機能したそうである。流行に耐えられるほど、このタイトルの意味は多くの人間にとって、「俺とも無関係ではない話だ」と捉えられたということである。そのような大衆性を帯びていたこの作品は、その大衆性ゆえ、時代性を付加されたために古びてしまった。その内容は「さもありなん」で締められ、それ以上のものは何もない。『四十八歳の抵抗』は作品としてはもうすでに死んでいる。しかし、そこへ描かれてしまった「小市民の逃避願望」が、過去にあり、そして現在にあり、また未来において無くなるということは決してない。そういう意味においては、この作品の主題は永遠であり、普遍的であり、読むに値する、のかもしれない。

どんな時代であっても、他人の「逃避先」になった対象というのは気の毒だ。それが”生きてゐない”からである。この作品の主人公の逃避先となった若い女も、そこに人間としての個人は存在しない。ただ若く、かわいらしく、無知であり、中年男性の欲望と理想を掻き立てることさえできればそれで終わり、完成なのである。現代の小市民が安らぐ「異世界」も、やはり「小市民に優しく」なければ、存在すら出来ない。そこにあるのは世界ではなく、「欲望を満たすことの出来る空間」でしかない。そこへ行けばある一定の欲望を満たすことが出来るが、逆に言えば「欲望を満たすことしか出来ない」。そして、その他ならぬ欲望を持たない人間から眺めてみれば、その空間というのは用無しの空間でしかない。ただある一定の人々が持っている欲望だけが漂う空間。勿論そこで一定期遊んでいくのは悪いことじゃない。でも、いつまでもそこで遊んでいるわけにも行かない。だってわたしたちというもの、いきものというものは、いつか死ななければならない生き物であるからだ。誰しも永遠に遊んでいることは出来ない。

というわけで「エバーの人」が、その”楽園”を作った張本人が、「お前らの現実へ帰れ」と言ってその楽園を地獄へと変化させ(いや、地獄を楽園に?)人々を戸惑わせたが、しかしやっぱり帰りたくない現実しか待っていない現代人としてのわれわれは、「帰れ」と言われても帰る場所もないので、別の逃避先を見つけてそこに安住し、そこが不愉快になればまた別の安住先を探し……ということを繰り返すことにしかならないのだった。めのまえの現実、「結婚は? 子供は? 介護は? 将来は? 墓は? 死んだあとは……」と問われ続ける現実なんかに誰が帰りたいんだ。俺たちの現実には、あんたと違って地位も名誉も金もないんだよ!

しかし……

おしまい2023/04/12

※(とおもっていたが2019年に (P+D BOOKS)から復刊本が出ていた。Amazonレビューもおおむね良好なようである。やはりこの”老人文学”には不変の価値があるのか……)