かもさんのひそひそ話 (original) (raw)

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連休に入ってからずっと車を走らせ続けて、昨日メーターが1000kmを越えました。寄り道だらけでも、動いていれば目指した場所にたどり着くようです。

海に面したカーテンのない民宿で、地酒で酔ったまま寝入ってしまい、悪い夢を見て目が覚めました。その後しばらくそのイメージに取り憑かれ、際限のない自己否定に苛まれて目が冴えてしまいました。徐々に明るくなる窓に気持ちが焦ります。距離が離れても、問題から逃げる事はできないのかと心は沈むばかりです。

思い切って布団をでて、冷たい空気を感じながら障子窓を開けてみました。そこには太平洋に広がる朝焼けがありました。そういえばここは、昇る朝日が美しいと文筆家たちが書いた場所でした。

目の前に広がる草原に風が吹き、小さな花が強く揺れ、橙色の光の道が海を渡っています。光に透かされた葉は皆立ち上がり、太陽を迎えているようです。眠れないと気に病んでいるときには疎ましかった窓の外の明るさに、こんなにも心が満たされるとは現金なものです。

遠く離れても気持ちを逸らしても問題は解決しません。ただ、外に目をやることで、過大評価していた問題を適切な大きさで見ることができ、そこに立ち向かえるような気分を持てることもあります。

ようやく気持ちの整理がつきました。ここから先は、美しいものをただ美しいと受け入れる時間にしようと思います。f:id:kamotin:20240502045700j:image

問題や課題があればその原因を突き止めて適切な対応をとる、これは私の中で息をするように自然な行動です。でも最近、全てに対してそうする必要はないのだと気付きました。

先週末ころから気持ちが何となく沈んでいて、仕事に対して今ひとつやる気がわかずに悶々とする時間を長く過ごしました。自分の関わるプロジェクトやチーム内の状況を踏まえてもこの後ろ向きの状態にうまく説明がつけられず、打ち手も見えない状況でした。そうなると、当初課題に思っていた自分の精神状況より、問題が特定できず有効な打ち手が見つからないことに焦りを感じはじめました。こうなるとドツボに嵌まったようなものです。どうして、という理由探しで頭がいっぱいでした。

でもある時、「春だから調子が悪い」「天候のせいで落ち着かない」と、周囲の人が自分自身のことを表現しているのに気付きました。そして小さく驚きました。これで自分が納得するなら原因を自分の外に求めても良いし、それで問題が解決しなくても、少なくとも原因探しに頭を悩まさないだけで余裕ができる気がしたのです。

それに、悩んでいる瞬間には大きな課題だと思ったとしても、後から振り返れば意外に些細なことだったりするものです。最近ずっと簡単な日記をつけています。その日に深刻な面持ちで書いていた内容でも、1ヶ月ほど経つとと思い出せない程に記憶が薄れていたりもします。本当に、認識や記憶というのはいい加減なものです。

どんな問題も真面目に捉えて状況を改善しようというのは自分の美徳でもあり、それでうまく回ってきたことも沢山あります。でも時には少し曖昧に濁して、自分ではどうしようもないところに課題を押し付けてもいいのかもしれません。そうしているうちに、時間が解決することもあるのです。

いいタイミングで気づけて良かったです。忘れないでおこうと思います。

2月はもともと日数が少ないうえ、祝日が2日もあるので実働時間は短くなります。ですが、やるべきことはそれに応じて減る訳ではなく、むしろ年度末の締め作業や時期を問わない駆け込み案件のお陰で業務時間は増えていたように思います。特に2月は会議がとても多かったです。

打ち合わせ用のデータを出しつつ資料にまとめ、会議主催者として議論を進めて議事録を作る、までを一日中繰り返していると、どうしても完璧な準備ができないことがあります。ただその中で、意外と完璧じゃなくても回るんじゃないかと、ふと腑に落ちた瞬間がありました。

記載が足りなければ後で補足しても、口頭で追加しても良いのです。また、これまでは会議の場でのストーリー展開を何パターンも予測して、参加者の質問を先回りした回答を作っておくのが常でしたが、全ての会議でそれをやる必要もないのです。心配ごとの9割くらいは実現しないのと同じく、色々な準備も意外に無駄になっていたかもしれません。それに気づいてとても驚きました。

昔ならそう思うこと自体が手抜きで、参加者の時間を無駄にすることだと憤っていたでしょう。でも参加者の目的は私の準備した答えを聞くことではなく、議論することそのものかもしれません。参加者だってチームの一員なのだから、私が気を遣いすぎる必要もないはずです。その場で転がっていくストーリー展開が、余白が残っていた結論が、自分が想定していた手堅い結果を軽やかに飛び越えていくことが何度かありました。これがチームで働くことなんだと初めて感じました。

まだ意識して隙を作るまでには至っていませんが、良い気づきだったと思います。発見を偶然で終わらせずに再現させていくためには、完璧という安心をあえて捨ててチームを信じる必要があります。そこに挑戦していくこと、それが許される環境を自分の周りに作っていくことを続けていきたいです。

今週のお題「大発見」

大学院通学に一区切りがつき、資格試験にも無事合格しました。来年度以降に何を目指すかを考えたとき、その一つとして「流暢に英語を話せるようになりたい」という思いが湧いてきました。

海外顧客や共同研究先と議論する時、日本語で話すよりも密度も内容も薄い会話になり悔しい思いをしたことが何度もあります。特に顧客との会話では、こちら側にどれだけ優れた技術があっても、言葉が片言では聞く耳を持ってもらえません。限られた打ち合わせ時間で言いたいことを端的に表すには、高い言語力が必要です。それに、前時代的かもしれないですが、直接の会話以上に熱意を伝える術はなく、メールのやり取りや通訳を介した会話では、ある一定のところから距離を詰めることは難しくなるのです。

言葉をうまく操るようになるには、ある程度の基礎を固めた上で実際に発することが一番です。そこで、先月からオンライン英会話を始めました。今のところ朝の30分を充てることで習慣化に成功していて、このまま大きな負担なく続けることができそうです。

うまく習慣化できているのは、時間を固定したことに加えて、会話自体を楽しめているからということが大きいように思います。概ね仕事に関連する話題が多いですが、それでも業務上で関わりない方と毎日時間を取って話すには心の余裕が必要で、それができるように今のところうまく調整できています。そして、仕事に対してこんなに語れることがあるのかと自分でも驚いています。

会話の上達には、基礎的な語学力と話したいという熱意に加えて、自分の中のコンテンツが揃う必要がある気がします。昔、仕事で全然英語が話せないと思っていた頃は、真に相手と話したいと思っていることも実は少なかったのかもしれません。今は話すべきことが自分の中に蓄積できていて、すこし成長したなと素直に実感することができました。

今の良い流れを大事にして、もっと上手く英語で表現できるようになってゆきたいです。まずは自分が納得するまで、練習を積んでいこうと思います。

今週のお題「習慣にしたいこと・していること」

今日、会社全体の飲み会で、昔の上司に久しぶりに挨拶をしました。その人は私の新人時代の教育担当で、自分にも他人にもとても厳しいことで有名でした。ある一時期は毎日のように泣きながら帰ることになったくらい、接するほどに自分のふがいなさを突きつけられる人でした。でもそれ以上に、その人のことを尊敬していました。

互いの異動があり接することが少なくなってからは、すれ違う時に軽く挨拶を交わす程度の間柄になりました。何か恐れに似た気持ちが、その人に対する態度をぎこちなくさせていました。でも一方で、いつか仕事で認めてもらいたい、頑張っているなと言って欲しいという思いがずっと心の中にありました。その思いが、仕事に対する動機づけとなっていたことは否めません。

そんな人から今日、また一緒に仕事がしたい、同じ部署に来てくれたら嬉しいと言ってもらえました。自分の耳が信じられず、感情が追いつきませんでした。帰りの電車に乗ってようやく、嬉しいという気持ちが湧いてきました。それでも、時間が経ってしまったせいで、実は酔った頭が作りだした妄想なんじゃないかと疑う気持ちが傍らにあります。

頑張ってきて良かった、と心から思います。なにを成し遂げた訳ではないけれど、目標が一つ叶ったような気がします。部署が離れても遠くから少しでも見てくれていたんだと思うと、ありがたい気持ちでいっぱいです。

その評価に恥じない自分であれるように、明日からもまた頑張ります。今の気持ちを忘れないために、久しぶりにここに文章を書きました。

ふと勉強したくなって、MBA取得のための講座に通い始めました。日々の業務を少し違う視点で捉え直すことができ、とても楽しいです。大学院入学と卒業を目指すほどの熱量は今のところありませんが、この先のことは分かりません。結論を急がずにぼちぼちと行こうと思います。

環境を変えたことで、自分のキャリアを少し冷静に見られるようにもなってきました。数年前から、マネジメント職としての管理職を目指したくない自分の思いと周りからの視線との差に苦しんでいました。体を壊すほど働いてしまったのも、周囲の期待を裏切っている状況に対して、成果を出すことでなんとか弁解したいという意識が働いてしまったからという気がします。でも世の中を見渡すと、技術者としての(マネジメント職ではない)管理職というポジションを設定する企業もあります。今の会社や役職にこだわる必要もないと思うと、少し気持ちが楽になりました。すぐに転職という訳ではありませんが、自分が今後どのような道を取りうるのか、少しずつ情報収集を始めました。

そんなことで、文章を書く時間も人の文章を読む時間も取れない日々が続いています。でも、前向きに元気に過ごしています。きっと今は文章とは別のインプット、アウトプットを求めている時期なのです。またふと書きたい欲が湧いてきたら、時間など気にせずに書き始めると思います。その時が来たら(意外とすぐかもしれないのですが)、またよろしくお願いします。

大学生のころに住んでいた寮は共同の台所と食事スペースがあり、偶然行き合った人となんとなく話しながら食事をすることが良くありました。寮生はさまざまな地方から出てきた人で構成されていて、互いの食文化の違いに驚かされることもしばしばでした。

なかでもびっくりしたのが、納豆に白砂糖と七味唐辛子をたっぷりとかけて食べる人を見た時です。納豆には付属のタレとカラシを入れる以外の発想が無かった私にとって、それはまさに未知との遭遇でした。味の想像も全くつかなくて、半ば罰ゲームなんじゃないかと思ったほどです。でも、食べている人はごくごく自然体で、うまいともまずいともつかないただの日常のような顔をして納豆トレイからずるずると豆をかきこんでいました。その人とはそこまで親しくなく、互いに目に入らない風を装いながらも、私の頭は興味でいっぱいでした。

翌日、3パック入りの納豆をいそいそ買い込んできて、タレとカラシはみみっちく冷蔵庫のポケットにしまい、納豆の上のビニールを剥がして思い切って砂糖をざぶりとかけて見ました。さらに七味唐辛子をこれまたざばざばとかけました。豆の茶色の上に砂糖の白、唐辛子の赤が乗り、とてもおかしな見た目です。これをぐるぐるとかき回すと、砂糖が思いの外しっとりとした糸になり、いつもの納豆よりもずいぶんふっくらとした泡立ちになりました。ちらちらと散った赤が意外にいいアクセントです。

そのまま口に運んでみると、これがまた思った以上に悪くないのです。豆自身の旨みをベースに、粘りのおかげでマイルドになった甘さがその上に乗り、納豆自体のクセがいい具合に和らいでなんとも上品な味わいです。さらに溶け残った砂糖のジャリっとした食感や、後から追いかけてくる七味唐辛子の辛さが良いアクセントになっています。罰ゲームどころかかなり美味しい、新しい味との出会いでした。

この甘口の納豆は、その後の大学生活での私の定番になりました。研究で疲れた時に口にすると、砂糖の甘みと豆の味わいにほっとしました。当座動くために必要な栄養もある程度摂取できた気がして、心も体も満たされました。

寮を出て一人暮らしを始めると、砂糖を買う習慣が無くなりこの食べ方もいつしかしなくなりました。共同の台所の中の共同購入した砂糖という仕組みがあったからこそ巡り合った味だったのですね。味の記憶というのはすごいもので、今でも何となく舌の上に蘇らせることができます。もう一度作って食べてみたいような、でも記憶と違うことが怖くて試せないような複雑な気持ちです。

今週のお題「納豆」