【開催報告】哲学カフェ大分 10.19 (original) (raw)

10月の哲学カフェ大分を開催しました。

今回は「傷つく」をテーマに、ソクラティク・ダイアローグの手法を使いながら、

みなさんで本質を探求していきました。

最初に「傷つく」に関する、エピソードと問いを話していただきました。

みなさんの問いです。

Q 人との距離感が近すぎると「傷つき」が起こるのか?(じゃあ離れていればそれでいいのか?)

Q 心の傷つきは見える化言語化できるのか?

Q 心の傷も時間とともに傷つきずらくなったり、治りやすくなったりするのだろうか?

Q 傷つくを感情を表す言葉に変換するとしたら何か?

Q 「傷つく」と「ガッカリ」の違いは何?

Q 「時間薬」は治癒させるか?ただの眠り薬か?

Q 私は傷つけてはいないだろうか?それはなんで判明するか?

Q(自分を)傷つけた人を許すのが正しくないことがありますか?

Q「傷つく」を一般化できるのか?(してよいのか)

Q 傷つくとは単なる思い込みでは?

Q なぜ人は傷つくという感情があるのか?そのときの反応は怒り?恐れ?

Q 予想していなかった事やイメージと違うと人は傷つく?

エピソードは写真のとおりです。

ここから対話を開始しました。

大局的な捉え方として、「傷つく」というのは、

それ自体で客観的に存在するというよりも、こちらがそのように受け止めて

初めて成立する何かであるというものでした。

そしてそれはすでに私の中にある既知のもので、それが外からの指摘によって

あらわになることで自尊心などが傷つくという構造です。

「傷つく」の本質に関するまとめの記述を30分かけて絞り出しました。

1. 傷つくとは、外的要因(言語・非言語関わらず)によって自分の心の中にあるネガティブな一面が刺激されること

2. 傷つくとは、時間軸に関係なく、本人の内的要因によって影響を受け、自覚し、初めて成立するものである。

この1と2のまとめの記述が最初のみなさんの問いに応えているかひとつずつ検証しました。もっぱら傷ついたそのときの本質だったので、それ以外のものはカバーできない問いとして残りました。

傷ついた後も、その傷つきとの関係のなかで人は学び成長するという指摘も

興味深いものがありました。時間の中で熟するものがあるかもしれません。

哲学対話において、しばしば「傷つき」は研究の主題となります。

誰かの発言に傷つくということに関してファシリテーターとしてできるだけ感度高く、

場を見守っているつもりです。

一方、語り、それがニュートラルに聴かれるという体験は傷からの人間的な恢復、

治癒をもたらすという話もあり、メタ的に考える機会にもなりました。

ご参加ありがとうございました。

3時間はあっという間で有意義な時間でした。

初参加の方が多かったですが、よく考えよく聴きよく意見を語っていました。

新しい自分、新しい境地に立った方もいるかもしれません。

また対話の場でお会いしましょう♫