痛みを恐れずに (original) (raw)
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最近新聞を取るようになった。
毎朝ポストに新聞が届くなんて貴族になった気分。
私はこれまで毎日新聞を読むためにありとあらゆる方法を駆使してきたが、その労力が必要でなくなったのだ。
朝になれば、ポストに行くだけで新聞が手に取れる。
貴族のような優雅な気分だと思ったのだ。
それでもやっぱりこういうときに貴族という言葉が出てくるのはなんだか悲しい。
新聞配達の仕事はお金に困っている人がやってくれている、というイメージが少なからずどこか自分の脳裏にあることを認識させるから。
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昨日の日経新聞(朝刊)の6面「エコノミスト360°視点」の『財政持続性の「賢い支出」頼みは禁物』(みずほの研究所の人が書いている)という記事で、長期的な視点に基づいたインフラ整備などへの財政支出に対する批判がなされていた。
内容としては、
政府はイノベーション促進やグリーン社会への移行のため、財政支出を伴う長期的な目標を設定しているが、そうしたいわゆる「賢い支出」は必ずしも国の成長に寄与するとは限らないため、歯止めがかけられるシステムの構築なしに巨額の歳出を認めてしまうのは適切でない
というものだ。
インフラ投資を伴う国の政策は、企業の生産性に大いに関わってくる。
そもそも日本では製造業中心から高付加価値の産業への移行において、他の先進国にかなり遅れを取っており、その原因として製造業温存政策と未来のためののインフラ投資の不足が挙げられる。
欧米は、より高付加価値の産業を中心とする経済システムにとっくに移行しつつある。
そうした国々では、2050年に向けての長期計画の策定を行うのがトレンドとなっている。
また、ヨーロッパではコロナからの経済復興のため、グリーンリカバリーを掲げており、ちょっと情報は古いが、昨年6月時点で欧州委員会が89兆円(2027年まで)の復興基金案を提案していた。
あまり広くは認識されていないと思うが、こうした「賢い支出」は日本の未来を左右する大きなトピックであり、国の生産性にかかわる議論は近年活発に行われている。
これまでの金融政策にみられるように、行き当たりばったりの計画では国は滅んでいくばかりである。
ちゃんと生産してちゃんと稼いでちゃんと市民の生活が向上する。
この一見当たり前の経済システムを手に入れるには、長期的なビジョンが欠かせないのだ。
ただ、この記事の主張にあるように、本当に「賢い」支出かどうかはその中身を見てみないとわからない。
政府やメディアが「賢い」という言葉を使って市民の目をくらませていないか。
コロナ対策で必要な財政支出の議論が後回しになっていないか。
国会での議論をチェックする必要があるのは確かだ。
しかし、私がこの記事で注目したのは、未来への投資が行われることのデメリットについて書かれている箇所である。
グリーン社会への移行には、…(中略)既存の技術やビジネスモデルの価値低下というマイナスの面があり、経済全体としての成長率が高まるかどうかは不確実である。
確かに、新たな経済構造への移行は痛みを伴う。
しかし、そのような痛みを伴う移行を躊躇することは、未来に痛手を先送ることになりかねないのではないか。
そうであるとすれば、その移行において、痛みを被る人々を救済し、経済成長過程で活躍できる人材に育てていくことも政府の役割となるのではないか。
思い切った政策転換の必要性については、近年多くの人が提言している。
具体的な政策提言については賛否あると思われるが、その方向性にはかなり説得力がある。
●デービッド・アトキンソン著「日本人の勝算」
●諸富徹「資本主義の新しい形」
●野口悠紀「平成はなぜ失敗したのか」
など…
なぜ痛みを伴ってでも大変革が必要なのか。
もう一回読んで整理したいな。