気まぐれなページMkⅡ (original) (raw)
あっちこっち足の向くまま未訪問の寺社を探して歩くのだが、どうしても同じエリア内にすき間というか取りこぼしができてしまう。ということで、暑さを我慢して気になっていた奥沢から雪が谷大塚間の自由通り左右を探索しに出かけた2020年8月17日のこと……
緑が丘から住宅街をジグザグしながら最短距離で南下した。方向感覚だけで向かったために最後の詰めが甘く、出なくてもいい環八に出てしまった。すぐ先の中原街道にかかる陸橋手前を左に入ると……
世田谷区から大田区に踏み込んでいた。
T字路の電信柱の左が目的地……先の右側は区立調布大塚小学校
「雪谷大塚稲荷神社」(大田区雪谷大塚町14-13)……歩いたことのないエリアに向かう場合には「何かないかな?」と事前にGoogleマップで探すのだが、実はマップのこの場所に示されていたのは「鵜木大塚古墳」だったので錯覚かと思った私だったが……
確かに都教委の立て看板には……『この旧荏原郡沼部付近には多くの古墳がある。これら古墳群のなかで最大の規模を持つ亀甲山古墳(多摩川台公園内)をはじめ、宝来山古墳(松平邸内)が多摩川縁に群存している。これら古墳群は南武蔵を中心とする古代文化を知る上で貴重な遺跡であり、鵜木大塚古墳もよくその原型を保っている一つである。鵜木大塚古墳は円墳で高さは約6m、直径はおよそ27mあり、現在はその南隅をかき落として稲荷社を講設してある。なお、埴輪や葺石などは今のところ見当たらない。』とあった。
荏原古墳群のうち最も東側にある古墳で、旧鵜の木村の飛び地にあったので「鵜の木大塚古墳」と名付けられたそうだが、そこに稲荷社を建てたということだ。
※ 葺石(ふきいし)=古墳の墳丘の表面に敷きつめた石で、斜面部分に施されることが多い。
誠に蛇足ながら、筒井康隆氏の現代語裏辞典には、こふん【古墳】埴輪の宿。とあった。埴輪も葺石も、公的機関が調査する前に墓泥棒にあったのかもしれない。
云われや年代は不明だが、江戸時代末期には鎮座していたかもしれないし、長い歳月を地元の方々が守って来られたことだろう。写真の右手前は手押しポンプなのだろうか。コロナ禍だったので触らなかった。
参道右側のすみっこに……
左側には手水盤があったが、蓋がないのでボウフラの巣窟になる。
「大塚稲荷大明神」の碑があったが、今日のタイトルは「雪谷」を付けておいた。
ここから先が古墳のようだ。稲荷社が祀られたのはいつなのか定かではないが、江戸時代末期には存在したかもしれない。
天を睨むお狐さまが印象的だったが、撮る時に蜘蛛の巣にからまれた。
子狐が齧りついているのは何か……しかし怖い顔をされたお狐さまだった。
石段を16段上ると雪ヶ谷大塚社殿……
そっと覗くと石造りの祠が祀られていて……
台座には「法龍宇賀神大明神・妙福壽稲荷大善神」と彫られた石板が置かれていた。
「宇賀神大明神」は稲荷大社のご神明・宇迦之御魂神(うかのみたまのおおかみ)と察していたが、「妙福壽稲荷大善神」は知らずにいた。そこで、今調べてみたら横浜市鶴見区にある法華宗本門流のお寺「妙信寺」を開いた上人が感得されて妙信寺の御守護神とした福寿稲荷大善神がおられると。たぶんおそらく、地域住民がご縁のあった妙福寺から勧請したのだろうと想像する。(間違っていたらごめんなさい。)
社殿右側……立ち入り禁止!
小屋と社殿の間から見たが、コンクリート塀にブロックされていた。
あきらめきれず、社殿左の小屋の脇にまわってみたら……
後方はさらに盛り上がった小山状態で、どうやらこちらが古墳のようだ。立ち入り禁止と書かれていなくても入る勇気はない。
引き返すと社殿前にも一対のお狐さま……石段下よりも古そうだ。
蚊に刺されたくないので短時間で撤収したが、参道にぶらさがった裸電球が味わい深さを演出していた。夜間は点くのかしら……でも危ないから行かない方が良いでしょう。
今日の「My First JUGEM」は……『椿に侘助……』
世田谷公園界隈から東山貝塚公園、銀杏通りを歩いた2020年8月2日……
世田谷公園を抜けてから、246の三宿と池尻大橋との間を結ぶ脇道に「池尻稲荷神社」参道口がある。(世田谷区池尻 2-34-15)
石標にもあるように、大山街道は江戸赤坂を起点として、渋谷、三軒茶屋、用賀を経て二子の渡しで多摩川を渡り、溝口、厚木、伊勢原(大山)へ至り、先には秦野、松田を経て、矢倉沢関所に続く脇街道で、江戸時代中期から庶民の間で盛んになった大山詣の道だ。街道沿いに鎮座する同社へは、たくさんの江戸庶民が道中の無事を願ったことだろう。
ちなみに、用賀から二子玉川へは、行善寺線と慈眼寺線の二つのルートが存在した。名称が表す通り、それぞれの道筋に「行善寺」「慈眼寺」がある。現在の246の両側を通るルートでどっちを選ぶかは人それぞれ好き好きなのだが、いずれも「行善寺坂」「慈眼寺坂」が待っている。もし私が歩くなら、往きは行善寺、帰りは慈眼寺にするだろう。
「旧大山道」石標の後ろに銅像……江戸後期、近くの商店に奉公に来ていた少女が、奉公先の子どもといっしょに水を汲みに来た際、たぶんついでに「かごめかごめ」の遊びをしたであろう様子を想像してつくったものだと。
ちなみに、明治40年(1907年)に玉川電気鉄道(渋谷~玉川)が開通し、大正14年に二子橋が竣工したことで、二子の渡しは歴史に幕を閉じる。さらに昭和2年(1927年)には小田急電鉄が開通し、大山詣は伊勢原駅が利用されるようになって歩き詣ではなくなる。東京オリンピックに向けて道路は拡張され、自家用車やトラックも急増するなか、庶民の足だった玉電はジャマ電と呼ばれるようになり、昭和44年(1969年)に廃止された。
銅像の後ろには水汲みの手桶……ストーリーどおりだったが、どんなに日照りが続いても涸れることなくいつも豊かな水をたたえている「涸れずの井戸」があり、大山道を往き来する旅人や野菜を運ぶ農民の喉を潤したとのこと。
後で少し戸惑ったが、こちらが紛れもない「表参道」……裏口入社でなくて良かった。
社殿に向かう参道を歩くと……
木の陰に「公孫樹」と書かれた石碑がある。公孫樹とは孫の代に実がなる樹の意味で、イチョウのことを指し、10本奉納されたようだ。
進むと、社殿と左に境内社の鳥居が見える。
池尻稲荷神社社殿……『今から360年前の明暦年間(1655~1658年・江戸時代初期)に旧池尻村・池沢村の両村の産土(うぶすな)神として創建鎮座になったもので、それより村の共同生活と信仰の中心として現在に至りました。俗信仰としては、古くから「火伏の稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられております。当時は、大山街道(現在の旧道)のほとり常光院の片隅に勧請されたものです。』(同社HPより)
※ 残念ながら「常光院」は探したけど見つからない。廃寺になったのだろうか。
御祭神は宇迦之御魂神(倉稲魂神)
社殿前の宝珠と子持ちの一対のお狐さまは大正15年(1926年)の奉納であり、欠損も見られなかったので社殿を含めて戦禍は免れたのだろう。
社殿左の境内社……脇の二つの水盤は、きれいにビニールが被せてあった。溜まった雨水にボウフラが発生するのを予防していたのだろ。
扁額には「きよ姫 稲荷大明神」とあり「清姫稲荷神社」……ご神体が白蛇ではないかと伝えられていると。蛇は知恵の象徴でもあることから「芸事や学業成就の神」ということになるそうだ。
「安珍清姫」……思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女清姫は激怒のあまり蛇に変身する。道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すという伝説か。若き女性の恋心、若き男性の嫉妬心、どっちも危険をはらんでいるから気を付けよう。いつの世も話題になる方がおいでだが、ご用心あれ。触らぬ神に祟りなし。
清姫稲荷から池尻稲荷社殿……
社殿の向かいから北方向に、246に抜ける裏参道がある。右の樹は「クスノキ」だが、御神木かどうかは不明。
左に社務所があり「伏見稲荷大社稲荷講東京池尻扱所」の看板があった。年会費を納めて講員に加入すると「講員証」「一代守」と「撤下神饌(てっかしんせん)」が授与される。
※ 撤下神饌=大前にお供えした神饌(神に供える酒食)の一部を、おさがりとしてみんなにお分かちするもの。連れ合いが出汁に使っているスルメも撤下神饌でしょう。
手水舎があり、境内にある「薬水の井戸」よりのひき水とされていた。
残念ながら薬水の井戸は見つけられなかったが、京都の伏見稲荷大社の稲荷山に御鎮座の薬力明神の神詫により「神の道を信じ勤め、その病気の平癒を心に三度祈念し、神の道の薬として飲みほせば、薬力明神の力により病気立ちどころに快癒す」と伝えられる明泉とのこと。旧大山街道筋のこの辺りには飲用水がなかった往時は、往来の人や農民などみなが頼りにしたそうだ。能登地方の断水は解消されただろうか。
ちなみに、手水舎の奉納扁額は「洗心」だった。
手水舎左の「昇格記念碑」には「皇紀二千六百年陸軍中将伊丹松雄謹書」とあるが、旧池尻・池沢両村の鎮守社が、村社に列格した記念を祝うものだろうか。
皇紀2600年は昭和15年(1940年)のことであり、日中戦争の戦時下で国民の生活は苦しくなり始めていた。翌昭和16年には大東亜戦争が開戦となるが、昇格させても神は救ってくれない。
手水舎の斜め前にも境内社……
「水神社」……右にある手水盤も、やはり蚊の発生防止のためにビニールで覆われていた。毎年たくさん刺される憎き吸血鬼は嫌いだ。
行儀のよいお狐さまが使えておいでだが「水の神様=ヘビ」が祀られているそうで、境内の井戸水が涸れることなく湧き出しているのも「蛇神様」のお蔭だと。白蛇の描かれた「絵馬」が置かれていた。もう一つの境内社清姫稲荷の御神体も白蛇だったので、当社は蛇と水に縁の深い神社のようだ。連れ合いは苦手……
水神社の先に裏参道口……
振り返るとこんな感じで二之鳥居があり、左手は神輿庫だろう。
246に面した所に一之鳥居……
裏参道のはずなのだが、立派な構えだった。徒歩での参拝には、交通事情からしてこちらからの訪問が圧倒的に多いだろう。
奉納提灯がびっしり並ぶ……鳥居は巨大すぎて1ショットでは収まらなかったが、扁額は「内閣総理大臣 佐藤栄作書」だった。
東山貝塚公園を目指して住宅街を歩くと、ゆるい上りの途中にポツリと「赤」が目に入った。
「庚申堂」のある場所だが、玉垣に鳥居もあった。(世田谷区池尻2-23-20)
「池尻庚申堂」……地元の方々が丁寧に管理されている様子がうかがえた。
お堂扁額の左隅に「常圓寺」の文字が見て取れた。世田谷区の常円寺は思い浮かばないが、都立大学駅ちかくの常円寺かもしれない。写真右隅にある少し変わった形の石には髭題目が彫られていた。享和3年(1803年)建立だが、題目塔なのかお墓なのか、はたまた庚申塔なのか不明だ。
区内で確認されている205基の中の2基で、延宝8年(1680年)と元禄5年(1692年)に造立された庚申塔とのこと。入りきらなかったが、右下には赤い頭巾のお猿さんがおられた。
庚申堂の左には、宝永元年(1704年)造立の地蔵菩薩がお立ちだった。
遠くから目に入った「赤」いのが乗っているのは、大正元年(1912年)12月10日建設の「永代常夜灯」だ。
切られてしまった古木は残念だが、左は無縁法界供養の碑。明治41年(1908年)建立で、やはり南無妙法蓮華経と髭題目が彫られていた。日蓮宗の信仰者が多い地域だったのだろう。
常夜灯の上には「御幣(ごへい)」(神祭用具・ひらひらした紙をつけたもの)を持った猿が立っていた。さしずね「御幣猿」とでも呼ぶのかもしれない。
蛇足ながら、そもそも猿は神の使いとされ「神猿(まさる)」と呼ばれたが、「魔が去る」「勝る」に通じるので験のいい動物らしい。
ここで一つ、私の中に矛盾が芽生えたが今日はやめておく。