旅の記憶 (original) (raw)

26歳の時 絵描きを目指し 教師も辞めてひとり籠っていた 今で言えば 「引きこもり」 それも「ゴッホの日記」という本を読み 自分の絵は真似事の偽物だと知り描くことができなくなった 自分に絶望し死のうかと考え 毎日の早朝 首を吊る場所を探してか「原始林」を歩き 鶯の歌を聴いていた それが約1年続き 偶々「笑っていいとも!」番組終了後に「青年海外協力隊募集のCM」が映し出され いきなり母親に向かって「行く!」と言い出した 試験があることも どんなことをするのかも この事業が一体何なのかも知らぬまま 行くと決めた 受けられる職種と国はバングラデシュ 手工芸デザインの1つしかなく 美術教師だけはやりたくなかった こうしてバングラデシュに赴いた

いつの頃だったかも忘れていたが 引っ越ししたせいで どこかへ置き忘れなくなっていた写真が出てきた 私は住処を変える度写真を失くした 学生時代の卒業写真も小学校から高校まで どこにあるのやら 今となっては分からない 写真は私にとって全く大切じゃなかった…

出てきた写真の数々を見て 懐かしいというより滑稽だと思った

ただ 何故青年海外協力隊に募集したか その理由を改めて思い出すことが出来た

「私は知らない国をひとりで旅したかった」 それだけだったと思う

写真を見ると否が応でも思い出す

これは2年の任期を終え 帰国前に寄ったネパールでマウンテンフライトの風景 左に映ってるのがエベレストかもしれない

1989年12月20日 私は店のスタッフ10名程と「ボタニカルガーデン(植物園)」にピクニックに行った 女性スタッフは色とりどり 様々なご馳走を持ってきてくれ 皆で食べた その時こんな少年少女たちがいた 親はいないようで ガーデン周辺に住んでいるのだろうと思った

皆が大体食べ終わった後 突然少年少女たちがやってきて「残飯」を持ち去って行った 女性スタッフはそれが「当り前」のように 食べ残しを渡したが 驚くほど素早く持ち去った 私は動転した。動転しながら背景が流れるブレた写真を撮った 撮ってはいけないと思いながら胸に刻みたかった

彼等は残飯を回収した後 器を洗って返してきた

この写真は私にとって なぜだろう…長く記憶に残る一枚 そのために今記事を書いていると言っていい

さらに心に残る出来事もあった

これはネットで拾った写真だが 隣国インドではシヴァ神の乗り物として 殺すこともできず「野良牛」だらけだが バングラデシュでは牛を食う それも老いさらばえるまで ロクに歩けなくなるまで 田を耕したり荷物を運びつづけ 一生働き続ける だが 最期の時 初めて荷台に載せられ運ばれる

この映像はトラックだが 大体は荷台で夜に運ばれていく

その時牛はわかっている「一生でただ一度荷台に載せられる時は死ぬ時」

だから 牛は涙を流す。と現地の人は言う

夜 私はリキシャに乗りながら 運ばれる牛を見た その目は涙を流しているというより「神様」みたいだと思った。

「人間が一番偉いから 牛を食うことができるのか?」 わからない

ただ牛は優し気な 曇りない目を開いたまま 微動だにせず荷台に座っていた

老牛の肉は固い 脂身もほとんどない けれどカレーとして長く煮込んだとき 日本の和牛とは比べ物にならぬほど 深い味がする 働き続けた牛の肉は 命の味がする

鶏も同様 日本で飼育されるブロイラーは40~50日で出荷される これでは鶏の味などするわけがない 生きている間走り回り「廃鶏」となった鶏は 肉こそブロイラーの3分の1程度しかないが 鶏の匂いが香り立ち 初めて鶏の美味さがわかった

1989年5月当時 私は痩せっぽちの 世間知らずの 弱い人間だった

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