「残酷」という言葉ほどに残酷なものはない (original) (raw)

NHK Wild Lifeを見ていた。 5頭のチーターがチームワークで狩りをしていた 狩りの対象は「イボイノシシ」の家族である チーターは連携を取りながらイボイノシシを追い詰める イボイノシシには3,4頭の子がいて 親の体の10分の1ほどもない赤子である。それでも子イノシシは走る 走るがチーターの脚から逃れることは出来ず その時は2頭の子イノシシが餌食となった。

別の動画ではカバがデカいワニやライオンの胴体を噛みつぶそうとしていた やっぱカバはスゴイ。 しかし幼体であれば逆に肉食動物の餌となるのだろう…なので「アフリカで最強の動物は?」と尋ねる場合 それが成体であるのか 幼体であるのかで逆転する

人はこれを「弱肉強食」と呼ぶ

歳を重ねるにつれ 「宗教」がイヤになり 「言葉」がイヤになってきた 人間があまり好きでなくなったのかも知れない

尽きぬ戦争 伝統・新興問わず宗教団体と政治の癒着 ゴーダマのやイエスの行為や言葉でないことを平然と「正義」と語る仏教、キリスト教もなんだかよくわからない「資本主義のジャイアンアメリカも スネ夫日本も 上っ面で社会主義を標榜するロシア・中国も信用できない

だから動物や昆虫・植物から学ぶしかない 彼等は言葉を用いないから。

「言葉を持たぬ彼等の心理を 言葉で解説したり語ることは 行為自体が誤っている。なので『弱肉強食』の世界 と理解することは間違っている。」

コンラート・ローレンツは優れた「動物行動学者」だが 彼をしても動物の行動を言語で語ることはムリがあると 私は思う

シマリスは食事を摂る時 最も安全な場所で食べる 安全な場所とは他のリスから奪われない場所であり 大型の鳥に襲われない場所 …というのは「かぼちゃの種等を両手に持って食べている時は全く無防備で 私が背中をカプッと噛む振りをしても全く動かずそのまま食べている」これを自然界でやってしまえば命は無いだろう

ところが 「りく」は 土日などの朝は寝ている私の頭の上で食事をし 食べカスを私の頭の上に落としていた 「安定した木や石のように固定され 座り心地もあまり良くないので 時々足の爪先を立て 踏ん張らなければならなかった私の頭の上で なぜポリポリ食事するのか」一番安全でもないだろうし… 何が楽しいのか 私を起こしたいのか 理由は全くわからかった ただ「そうしたかったんだろう」という結論しかない

私たちは 「りく」を一切躾けることをしなかった なので勝手気ままに動き回っていた

大谷選手のデコピンとは大違いだが だからこそ「言葉に変えることのできないりくの心を感じ取ることが出来た」

あの自由さ 正直さ バカさ 情 死の時の潔さ… それらは全て「言葉でない思い」で私の中に刻み込まれている

世界も人間社会も 「平等」(なんだそれ?)であるわけがない かといって「不平等」という言葉も 人間にしか通じない奇妙な概念である

世界は「残酷か?」

幼いイボイノシシが首筋を噛まれ はらわたから食い尽くされる様子は残酷か。

どう判断しようが 人の自由ではあるけれど…

「残酷」という言葉を生み出したのは人間であり 人間以外の世界を そのように見るとは いささか傲慢ではないかと思う

間に合った…これでMLBが観れる

kei